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第一章 織姫前線上昇中!(ヒメ視点)

02 彼との出会い その弐

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 だから、翌週再び彼を見かけたとき、運命以外の何物でもないと思った。
 だって、あのとき声をかけそびれたーーいや、お礼を言いそびれたその人が、目の前にいたのだから。
 しかしながら、その人はほとんど満員の通勤電車の中で、ドア横の手すりにもたれ、ビジネス書を広げている。
 エッチな本とかじゃなくてよかった、なんてほっとしたのは内緒だけれど、集中しているようなので話しかけるのも申し訳ない。
 でも、でもーーせめてどこで働いているのかくらい、聞いておかないと、もう次があるかどうかーー
 私は椅子席の端から二番目の吊り革を持って立っていたので、声をかけられない距離ではない。
 声をかけようと息を飲み込んで吐き出し、飲み込んで吐き出すことをしばらく繰り返した私が、よし、と気合いを入れ直したときーー
 さわ、っと、スカートの中に何かが触れた。
 ぞくっと身体がすくむ。
 ーーもしかして、痴漢?
 私は咄嗟に、触れられた方向を見た。ビジネス書を読むその人の斜め前あたりだ。
 また触れられたらどうしよう。叫んだ方がいいんだろうか。でも勘違いかもしれない。そう思ってうつむいたとき、また何かが動く気配を感じた。
「ーーあの」
 聞こえた声は、その人だ。とても愛想がいいとは言えない声音に、車内が一瞬ぴりりと緊張する。
「鞄、脚にぶつかってるんですけど。抱えてもらえませんか」
 ああ、すみません、と声がして、一人の男がビジネスバッグを両手で抱えた。
 それからーー痴漢の気配は途絶えた。

 一度ならず二度までも救われた。
 ちょっと私、嬉しすぎて泣きそう。
 やっぱりちゃんとお礼を言わなくちゃ。
 思いながらも、やっぱりいざ声を出そうとすると緊張してしまう。
 動悸だけがどくどくとうるさく耳に響いた。
 今日の運勢はどうだったっけ。朝のニュースの終わりにある占いでは、今日のラッキーカラーは青、遅刻に注意、って言ってた。
 だから、青いカーディガンを羽織って出てきた私なのだけどーー
 停車駅について、ドアが開いた。その人が降りてーーそれはドア脇に立っていたから一度降りたのかと思ったけれど、そうではないことに気づいて慌てる。
 ちょ、ちょっと待って! ここ目的地!?
 私の職場の最寄り駅から二駅離れている。
 満員電車の車内で、一瞬のためらいは命取り。
 私が戸惑っている間に、降車する人ではなく、乗車する人が動き出した。
 ーーで、でも、これを逃したら!
 私は小さい身体を精一杯ドアへ進めながら、降ります! と叫んだ。
 どうにかこうにか、くしゃくしゃになりながらドア外まで進み出てーー
 そして、ドアを閉めて走り去る電車を見送る横で、気づいたのだった。
 もう、彼はとっくに行ってしまっていることに。

 駅のホームに一人取り残され、放心状態になった私は、すぐに電車に乗る気も湧かず、遅刻直前で職場に駆け込むはめになった。
「おはよう。どうかしたの? 今日の運勢、イマイチだった?」
 話しかけてくれるのはベテランのアラフィフ、小阪さんだ。子育てを一段落してここに勤めている。
「ハッピーがアンハッピーになりましたぁ」
 私は答えて顔を手で覆う。
「シュークリーム買ってうきうきして帰ったらクリームが入ってなかった感じ」
 小阪さんは苦笑して首を傾げる。
「よくわかんないけど、がっかりすることがあったのね」
 私は顔を上げて拳を握った。
「わかんないですか?ええと、じゃあ、アイスティーだと思って砂糖とミルクを入れたら麦茶だった感じ」
 小阪さんは嫌そうな顔をした。味を想像したらしく、口元を曲げる。
「それはちょっと……嫌ね」
 何となく分かってもらったような気になって、私は満足げに頷いた。
 ーーが。
 小阪さんに気持ちを分かってもらったからとて、私がまた彼に会える確率が上がる訳でもない。
 こうなったら、恋する乙女の底力、お見せしましょう諦めず!
 諦めたらそこで試合終了だってどこかの偉い人も言ってたしね!
 というわけで、その日のうちにそう決意を固めた私は、小阪さんに真剣な面持ちで頭を下げた。
「これからしばらく、私はギリギリの出勤になります。すみませんがよろしくお願いします!」
 小阪さんは戸惑いながらも、あまりに真摯な私の眼差しに、了解してくれたのだった。
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