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.第2章 ゆめ・うつつ

28 現実

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「……お客さん?」

 突然動きを止めた私に気づいて、橘くんが私と玄関を見比べた。
 私は強ばった笑顔を貼り付け、内心の動揺を押し隠しながら、下ろしかけた腰を上げる。
 その重い動きに、橘くんが心配そうに首をかしげた。

「俺、出ようか? 宗教勧誘とかだったら……」
「ううん、大丈夫」

 はっきりと答えて、玄関へ向かう。
 頭の端に、メッセージを受信したスマホ画面がちらついていた。

 あと、五分。いや、一分、時間があれば――

 今になって、見なかったことを後悔したけれど、後の祭りだ。
 ドアの前に立ち、息を吐き出した。
 人の都合なんて気にせず、気ままに連絡をよこし、ふらりと現れる。

 どうして、いつも、彼はこう――

 腹をくくって手を伸ばした。触れたドアは、今まで感じたことがないほど冷たい。がちゃりと開いた鍵の音が、緩んだ部屋の空気に亀裂を入れた。

「――なんだ。いるなら返事してよ。いなかったら無駄足になるじゃん」

 私の顔を見たヤスくんは、開口一番そう言った。
 私はひきつった笑顔を向け、到底笑いきれていない目で彼を見る。
 彼の細い目は口と同じくつり下がっていて、私をモノか何かのように見ていた。
 そこに、温もりや思いやりは感じられない。
 今まではそれを腹立たしく思っていた。悲しくも思っていた。でも今、初めて自覚した。
 その目はそのまま、私が彼を見るそれと同じなのだ。
 何も言わない私をいぶかしんだのか、彼は私の肩越しに部屋の中を見やった。
 その目が奥に立つ長身を捉えるや、動揺に揺らぐ。

「……誰」

 掠れた声が問うた。
 私が他の男を家に連れ込んでいるだなんて、想像していなかったのだろう。当然だ、私だってそんなこと、考えたことはなかったんだから。
 ――橘くんと再会するまでは。

 私だって、男友達の一人や二人いるよ。
 そう鼻で笑ってやれればよかったのに、あまりに彼が呆然としているので何も言う気にはならなかった。
 取り繕うこともなく、私はただ静かに、橘くんを手で示す。

「小学校の同級生。橘くん」
「タチバナ……?」

 戸惑う彼に、私は笑った。それがすごく優しい笑顔になったことを自覚する。
 泣きたいような気持ちで、優しく微笑んだ。

「そう。……漢字が違うの」
 
 大切な思い出を、そう口にする。小学生の頃の橘くんが、困惑した顔で言った言葉を。
 懐かしさと切なさが身体中を巡った。耳の奥で、何かがガラガラと崩れていく音がする。
 橘くんは、身動きせずに私を見つめている。
 私は顔に微笑みを貼り付けたまま、黙っている。
 ヤスくんはそれを、化け物を見たかのような顔で、見比べている。

 ――馬鹿だなぁ、私は。

 ちゃんと、自分で伝えたかった。橘くんに。私はもう、小学生のときの立花響子じゃないんだよって。一人の女なんだよ、って。わがままで自分勝手で、やましいことを隠すような、利己的なところもあるんだよって。
 自分で。自分の言葉で、伝えたかった。
 ――こんな形なんかじゃなく。

 動きを止めていたヤスくんが、ははっ、と乾いた笑い声をたてた。

「……彼氏いんのに、男、部屋に上げるとか……無くね?」

 馬鹿にしているような口調。目に浮かんだあからさまな苛立ち。嫌悪。
 ――裏切り者。
 視線が、そう詰問してくる。
 私は言い訳する気もない。何か言えば弁解と思われてしまうだろう。ただ、黙って微笑んでいた。

「ふざけんなよ」

 ヤスくんは低く吐き捨てた。
 粗雑な動きで、わざとらしい音を立てながら玄関を後にする。
 ばたん、とドアが閉まった。
 固く重たく響いたその音が、夢の終わりを告げる。
 私はうつむき、ゆっくりと、息を吐き出した。
 困惑した橘くんが、私に一歩、近づく。

「あの……ごめん、俺知らなくて……」

 ドアと私を見比べて、橘くんが小さく声を漏らす。
 橘くんは、なにも悪くないのに。
 私の胸を、針がちくりと刺す。

「俺、もう帰るから……追いかけてあげなよ。彼、きっと待ってるよ」

 玄関に来た橘くんは、足を靴に滑り入れた。
 気が急いているのか、動揺しているのか、ほどけた靴紐もそのままに、立ち上がる。

「あの……いろいろ、ありがとう、立花さん。ほんと……ごめんね。彼に、謝っておいて」

 アーモンド型の目は、いつも通り優しく弓なりに細められていた。引き上がった口端。きれいな笑顔。
 だけどその頬に、うっすら浮かんぶはずの片えくぼはない。
 私は笑えず、泣くこともできず、橘くんの口元だけを見て、乾いた喉からどうにか、声をしぼり出した。

「うん……伝えておくね」

 橘くんは頷いて、じゃあ、と部屋を出ていった。
 部屋に一人取り残されて、震える息を吐き出す。

 最低だ。

 ぐるぐると頭を回るのは、なんとも言えない腹立たしさだった。

 今日、言うつもりだったのに。橘くんに、私は彼氏がいるんだって。でも、近々別れるつもりなんだって。そう言って、橘くんの様子次第では――なんて、そんな打算をしていたのに。
 どうしてヤスくんは、今日に限って訪ねて来たのだろう。私が呼んでも来ない人が、どうしてこんなタイミングで。
 まるで私のずるさに勘づいたみたいに――なんて、間の悪い人なんだろう。

 反省するよりも先に、そんなことを思う自分を嫌悪する。喉元に何かが込み上げた。吐き気がする。気分が悪い。私はいつの間にこんな嫌な女になっていたんだろう。

 痛い。
 胸が痛い。
 私は、傷つけた。
 二人を――橘くんを……傷つけた。

 部屋を立ち去る前の、複雑な笑顔の橘くんの顔が目に焼き付いて離れない。
 打ち解けた朴訥な口調、ほころぶような笑顔――その終わりが、あんな形だなんて。
 せっかく得た信頼を――私は、自分で壊してしまった。
 足は床に張り付いたように動かなかった。震える息を吐き出した。込み上げる嗚咽を手でおさえる。
 馬鹿みたいだ。今さら悲劇のヒロインを気取ったって、何にもならないのに。
 口元に添えた手が小さく震えている。手の先に、座卓が見えた。そこにはマグカップが二つ、並んでいる。
 橘くんが私に淹れてくれたコーヒーと、私が橘くんに淹れた紅茶。
 二つのマグカップからは、白い湯気が揺らいでいた。
 互いを思い合い、微笑みを交わしながらお湯を注いだ、柔らかな時間。数分前のできごと。戻ってこないひととき。
 不意に涙でコップが歪み、無理矢理視線を引き剥がした。デスクにあったスマホを手にして、わざと音を立てて玄関へ向かう。

 橘くんの声が、耳に残っていた。

 ごめんね。――彼に、謝っておいて。

 悲しみを孕んだその言葉に、頷いたのは私だ。
 橘くんへの答えを、裏切る自分ではいたくない。
 喉の奥で涙を飲み込み、ヤスくんを探しに、靴を履いて外へ出た。
 十二月の空は悲しいほど青く澄んでいて、私の醜さを嘲笑っている。
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