311 / 368
.第12章 親と子
307 新年会(3)
しおりを挟む
「散歩、か。……だいぶ歳取ったね、おじいちゃんとおばあちゃん」
玄関でのざわめきが消えた後、私の隣に座った朝子ちゃんがぽつりと呟いた。
私もこくりと頷く。
「うん……そうだね」
脳裏をよぎったのは、大晦日の祖父の姿だった。ふらふらと歩く足取りと、ぼんやりした目。子どもの頃の栄太兄と、今の栄太兄がごっちゃになったような言葉。
祖父がどこか、遠い世界に行ってしまうような気配が、私は少し怖くもあった。
けれど、そのことを、私はみんなに言う気はなかった。栄太兄もそのつもりはないだろう。
あえて、みんなにその話をする必要はない気がした――今はまだ。
ふふ、と突然、朝子ちゃんが笑った。
私がちらりと見つめると、朝子ちゃんはちょっといたずらっぽい笑顔を見せた。
「――礼奈ちゃん、覚えてる?」
「え?」
「おじいちゃんが前に言ってたこと。私が大学に入った頃だったかな」
私がまばたきすると、朝子ちゃんはじっと私を見据えた。
優しく細めたその目で、懐かしそうに言う。
「――栄太郎お兄ちゃんのタキシード姿、見られるかな、って」
ずきん、と胸が痛んで、一瞬、呼吸を止めた。
――朝子ちゃんも、覚えてたんだ。
その言葉に誰よりも慌てたのは、朝子ちゃんの斜め横に座っていた香子さんだった。
「ちょっと、朝子。変なこと言わないの」
朝子ちゃんの肩を軽くたたいてたしなめると、ちらりと母を見てから私に微笑む。
「ごめんね、礼奈ちゃん。気にしないでね」
「いえ……大丈夫です」
手を振る私に、朝子ちゃんはあっという顔をした。その台詞がどういう意図に取られるか、思い当たったのだろう。
「えっと、いや、そういうつもりじゃなくて――」
「じゃあ、どういうつもりなのよ……もう」
「ごめんなさい……」
朝子ちゃんは困ったように、私と香子さんを見比べる。私は苦笑しながら、「大丈夫」と首を振る。
若干気まずい雰囲気を笑い飛ばしたのは、香子さんの隣で話を聞いていた母だった。
「それはともかく」と母は言い、私を見やる。
「礼奈はまずは就活をがんばらないとね。――4月からはとうとう4年になるんだから」
私に微笑む母の目は、本人にそのつもりがあるのかどうか、穏やかに見えて無言の圧を感じる。私は「うん……」と曖昧な笑顔で答えたけれど、それをフォローするように香子さんが微笑んだ。
「礼奈ちゃんなら大丈夫よ。よく気づいて動くし、どこでも重宝がられるわ」
「私もそう思う」
何ならうちに来ない? と誘う母子に、私は苦笑を返した。
いつだったか、朝子ちゃんが言っていた公務員試験の科目数に、すっかり怯んでいるからだ。
「業種とかは? 決まってるの?」
「え……と……いや、まだ……」
母からの問いに答えて目を泳がせる。
栄太兄との関係に浮かれて何の準備もしてないと思われるんじゃないか。
そう気になって、取り繕うように続けた。
「で、でも、インターンでちょっと、こういうところはやだなーとか、こういうところがいいなーとかは思ったりしたから。春休みまた、いくつかインターン行って、絞ろうかなーって……」
「うん、それでいいんじゃないかなー。最初からあんまり絞らない方がいいよ」
母が私に向ける無言の圧に気づいているのかいないのか、朝子ちゃんが賛同してくれてほっとする。私が見やると、朝子ちゃんは邪気なく続けた。
「ここ、っていう業種で就職する子もいるけど、そうじゃない子も結構いるよ。たまたま時間が開いてたから立ち寄ったブースの社員さんの雰囲気がよかったとか、面接慣れしとこうと思って受けたところが働きやすそうだったからそこにしたとか、そういう話も聞くし。――そういうのって多分、縁ってやつだよね。逆にそういう子の方がイキイキしてたりして、業種で決めた子たちは、『こんなはずじゃなかった』みたいなとこもあるっていうか……理想と現実のギャップなのかな」
「あるかもね、そういうこと」
娘の意見に、香子さんが同意する。朝子ちゃんも頷いて続けた。
「私も、誰かのために働くなら公益だろうって思いこんでたけど、実際は仕事って誰かのために働くからこそあるんだよね。そうじゃなかったらお金ももらえないし、当然と言えば当然なのに、働いてみるまで気づかなかった。もう少しいろいろ見ればよかったなーと思ってる」
「だからそう言ったのに」
「う……そうだけど」
香子さんに言われて、朝子ちゃんが肩をすくめる。「結局親の意見は聞かないんだから」と苦笑する香子さんに、「そんなことないよ」と朝子ちゃんが唇を尖らせた。
「そういえば、彩乃さんはどうして今の仕事を?」
「あ、そうだそうだ。それ聞きたいです」
問う香子さんと身を乗り出した朝子ちゃんに、母が戸惑ってまばたきする。私もじっと見つめていたら、ちょっと困ったように笑った。
「そうね……私たちのときって、インターンとかもあんまりなかったから……典型的な日本企業、っていうのは合わない気がして、外資中心に見てた気がするわ」
「て言っても、色々ありますよね。ここだ! っていう決め手とか、あったんですか?」
「うーん、どうかな。早く就活終えたかったし、結果が出て、悪くないかなって思ったのが今の会社だったような気がする」
母はそう言うと、懐かしそうな目で微笑んだ。
「でも、今の会社選んでよかったと思ったのは、あれかな。就職前に、同期で飲み会したんだけど……それが結構楽しくて、そのときからずっとつき合いが続いてる子もいるから」
「それ、政人さんもいたんですか?」
「あ、いや――まあ、いたけど……」
ごにょごにょと口ごもる母に、前に聞いたことを思い出す。
カッコいいけど、だからこそ、よくて遊ばれて終わり――
父を見ての最初の印象は、それだったんだろう。
ふと思って、「阿久津さんは?」と問う。母は頷いた。
「そうそう、阿久津も。そもそも、あいつが幹事だったのよ。意外と面倒見いいでしょ」
そう微笑む表情には、信頼している仲間への愛情がこもっている。「そうなんだ」とあいづちを打って、私も息を吐き出した。
「……そうだよねー。人間関係、結構大事だよねー」
インターンでも思ったことをつくづく言うと、「なぁに急に」と母が笑う。
「でも、人間関係って入ってみないと分かんないからね」
「それもありますね」
そう話が進んだところで、玄関先から音がした。
「あ、帰って来たかな」
「そうかも」
「おかえりー」
「健人くん明けましておめでとー」
「おめでとうございます! 遅くなったお詫びに」
健人兄がひょいと持ち上げたのは酒瓶だった。女性陣で顔を見合わせて笑う。
「よーし、じゃ飲みますか」
「飲もう飲もう」
「おじいちゃんたちもお疲れさま」
家はとたんにわいわい賑やかになって、みんなが居間へと向かう。私も向かおうとしたら、隼人さんが後ろに立っていた。
「ゆっくり話せた?」
「あ、はい」
「そっか。よかったよかった」
にこにこと笑顔で言うと、みんなの背を追って居間へ向かう。
健人兄が合流したとたん賑やかになって、栄太兄が「あいつ根っからのお祭り好きやな」と呆れていたけれど、私はちょっとほっとしていた。
これだけ賑やかだったら、母の言葉を聞かなくても済むから。
――それはともかく、礼奈は就活――
はっきりそう言った母の声が、ひときわ強く、耳の中に残っていた。
玄関でのざわめきが消えた後、私の隣に座った朝子ちゃんがぽつりと呟いた。
私もこくりと頷く。
「うん……そうだね」
脳裏をよぎったのは、大晦日の祖父の姿だった。ふらふらと歩く足取りと、ぼんやりした目。子どもの頃の栄太兄と、今の栄太兄がごっちゃになったような言葉。
祖父がどこか、遠い世界に行ってしまうような気配が、私は少し怖くもあった。
けれど、そのことを、私はみんなに言う気はなかった。栄太兄もそのつもりはないだろう。
あえて、みんなにその話をする必要はない気がした――今はまだ。
ふふ、と突然、朝子ちゃんが笑った。
私がちらりと見つめると、朝子ちゃんはちょっといたずらっぽい笑顔を見せた。
「――礼奈ちゃん、覚えてる?」
「え?」
「おじいちゃんが前に言ってたこと。私が大学に入った頃だったかな」
私がまばたきすると、朝子ちゃんはじっと私を見据えた。
優しく細めたその目で、懐かしそうに言う。
「――栄太郎お兄ちゃんのタキシード姿、見られるかな、って」
ずきん、と胸が痛んで、一瞬、呼吸を止めた。
――朝子ちゃんも、覚えてたんだ。
その言葉に誰よりも慌てたのは、朝子ちゃんの斜め横に座っていた香子さんだった。
「ちょっと、朝子。変なこと言わないの」
朝子ちゃんの肩を軽くたたいてたしなめると、ちらりと母を見てから私に微笑む。
「ごめんね、礼奈ちゃん。気にしないでね」
「いえ……大丈夫です」
手を振る私に、朝子ちゃんはあっという顔をした。その台詞がどういう意図に取られるか、思い当たったのだろう。
「えっと、いや、そういうつもりじゃなくて――」
「じゃあ、どういうつもりなのよ……もう」
「ごめんなさい……」
朝子ちゃんは困ったように、私と香子さんを見比べる。私は苦笑しながら、「大丈夫」と首を振る。
若干気まずい雰囲気を笑い飛ばしたのは、香子さんの隣で話を聞いていた母だった。
「それはともかく」と母は言い、私を見やる。
「礼奈はまずは就活をがんばらないとね。――4月からはとうとう4年になるんだから」
私に微笑む母の目は、本人にそのつもりがあるのかどうか、穏やかに見えて無言の圧を感じる。私は「うん……」と曖昧な笑顔で答えたけれど、それをフォローするように香子さんが微笑んだ。
「礼奈ちゃんなら大丈夫よ。よく気づいて動くし、どこでも重宝がられるわ」
「私もそう思う」
何ならうちに来ない? と誘う母子に、私は苦笑を返した。
いつだったか、朝子ちゃんが言っていた公務員試験の科目数に、すっかり怯んでいるからだ。
「業種とかは? 決まってるの?」
「え……と……いや、まだ……」
母からの問いに答えて目を泳がせる。
栄太兄との関係に浮かれて何の準備もしてないと思われるんじゃないか。
そう気になって、取り繕うように続けた。
「で、でも、インターンでちょっと、こういうところはやだなーとか、こういうところがいいなーとかは思ったりしたから。春休みまた、いくつかインターン行って、絞ろうかなーって……」
「うん、それでいいんじゃないかなー。最初からあんまり絞らない方がいいよ」
母が私に向ける無言の圧に気づいているのかいないのか、朝子ちゃんが賛同してくれてほっとする。私が見やると、朝子ちゃんは邪気なく続けた。
「ここ、っていう業種で就職する子もいるけど、そうじゃない子も結構いるよ。たまたま時間が開いてたから立ち寄ったブースの社員さんの雰囲気がよかったとか、面接慣れしとこうと思って受けたところが働きやすそうだったからそこにしたとか、そういう話も聞くし。――そういうのって多分、縁ってやつだよね。逆にそういう子の方がイキイキしてたりして、業種で決めた子たちは、『こんなはずじゃなかった』みたいなとこもあるっていうか……理想と現実のギャップなのかな」
「あるかもね、そういうこと」
娘の意見に、香子さんが同意する。朝子ちゃんも頷いて続けた。
「私も、誰かのために働くなら公益だろうって思いこんでたけど、実際は仕事って誰かのために働くからこそあるんだよね。そうじゃなかったらお金ももらえないし、当然と言えば当然なのに、働いてみるまで気づかなかった。もう少しいろいろ見ればよかったなーと思ってる」
「だからそう言ったのに」
「う……そうだけど」
香子さんに言われて、朝子ちゃんが肩をすくめる。「結局親の意見は聞かないんだから」と苦笑する香子さんに、「そんなことないよ」と朝子ちゃんが唇を尖らせた。
「そういえば、彩乃さんはどうして今の仕事を?」
「あ、そうだそうだ。それ聞きたいです」
問う香子さんと身を乗り出した朝子ちゃんに、母が戸惑ってまばたきする。私もじっと見つめていたら、ちょっと困ったように笑った。
「そうね……私たちのときって、インターンとかもあんまりなかったから……典型的な日本企業、っていうのは合わない気がして、外資中心に見てた気がするわ」
「て言っても、色々ありますよね。ここだ! っていう決め手とか、あったんですか?」
「うーん、どうかな。早く就活終えたかったし、結果が出て、悪くないかなって思ったのが今の会社だったような気がする」
母はそう言うと、懐かしそうな目で微笑んだ。
「でも、今の会社選んでよかったと思ったのは、あれかな。就職前に、同期で飲み会したんだけど……それが結構楽しくて、そのときからずっとつき合いが続いてる子もいるから」
「それ、政人さんもいたんですか?」
「あ、いや――まあ、いたけど……」
ごにょごにょと口ごもる母に、前に聞いたことを思い出す。
カッコいいけど、だからこそ、よくて遊ばれて終わり――
父を見ての最初の印象は、それだったんだろう。
ふと思って、「阿久津さんは?」と問う。母は頷いた。
「そうそう、阿久津も。そもそも、あいつが幹事だったのよ。意外と面倒見いいでしょ」
そう微笑む表情には、信頼している仲間への愛情がこもっている。「そうなんだ」とあいづちを打って、私も息を吐き出した。
「……そうだよねー。人間関係、結構大事だよねー」
インターンでも思ったことをつくづく言うと、「なぁに急に」と母が笑う。
「でも、人間関係って入ってみないと分かんないからね」
「それもありますね」
そう話が進んだところで、玄関先から音がした。
「あ、帰って来たかな」
「そうかも」
「おかえりー」
「健人くん明けましておめでとー」
「おめでとうございます! 遅くなったお詫びに」
健人兄がひょいと持ち上げたのは酒瓶だった。女性陣で顔を見合わせて笑う。
「よーし、じゃ飲みますか」
「飲もう飲もう」
「おじいちゃんたちもお疲れさま」
家はとたんにわいわい賑やかになって、みんなが居間へと向かう。私も向かおうとしたら、隼人さんが後ろに立っていた。
「ゆっくり話せた?」
「あ、はい」
「そっか。よかったよかった」
にこにこと笑顔で言うと、みんなの背を追って居間へ向かう。
健人兄が合流したとたん賑やかになって、栄太兄が「あいつ根っからのお祭り好きやな」と呆れていたけれど、私はちょっとほっとしていた。
これだけ賑やかだったら、母の言葉を聞かなくても済むから。
――それはともかく、礼奈は就活――
はっきりそう言った母の声が、ひときわ強く、耳の中に残っていた。
0
あなたにおすすめの小説
傷痕~想い出に変わるまで~
櫻井音衣
恋愛
あの人との未来を手放したのはもうずっと前。
私たちは確かに愛し合っていたはずなのに
いつの頃からか
視線の先にあるものが違い始めた。
だからさよなら。
私の愛した人。
今もまだ私は
あなたと過ごした幸せだった日々と
あなたを傷付け裏切られた日の
悲しみの狭間でさまよっている。
篠宮 瑞希は32歳バツイチ独身。
勝山 光との
5年間の結婚生活に終止符を打って5年。
同じくバツイチ独身の同期
門倉 凌平 32歳。
3年間の結婚生活に終止符を打って3年。
なぜ離婚したのか。
あの時どうすれば離婚を回避できたのか。
『禊』と称して
後悔と反省を繰り返す二人に
本当の幸せは訪れるのか?
~その傷痕が癒える頃には
すべてが想い出に変わっているだろう~
先生
藤谷 郁
恋愛
薫は28歳の会社員。
町の絵画教室で、穏やかで優しい先生と出会い、恋をした。
ひとまわりも年上の島先生。独身で、恋人もいないと噂されている。
だけど薫は恋愛初心者。
どうすればいいのかわからなくて……
※他サイトに掲載した過去作品を転載(全年齢向けに改稿)
義妹のミルク
笹椰かな
恋愛
※男性向けの内容です。女性が読むと不快になる可能性がありますのでご注意ください。
母乳フェチの男が義妹のミルクを飲むだけの話。
普段から母乳が出て、さらには性的に興奮すると母乳を噴き出す女の子がヒロインです。
本番はありません。両片想い設定です。
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
ハイスぺ幼馴染の執着過剰愛~30までに相手がいなかったら、結婚しようと言ったから~
cheeery
恋愛
パイロットのエリート幼馴染とワケあって同棲することになった私。
同棲はかれこれもう7年目。
お互いにいい人がいたら解消しようと約束しているのだけど……。
合コンは撃沈。連絡さえ来ない始末。
焦るものの、幼なじみ隼人との生活は、なんの不満もなく……っというよりも、至極の生活だった。
何かあったら話も聞いてくれるし、なぐさめてくれる。
美味しい料理に、髪を乾かしてくれたり、買い物に連れ出してくれたり……しかも家賃はいらないと受け取ってもくれない。
私……こんなに甘えっぱなしでいいのかな?
そしてわたしの30歳の誕生日。
「美羽、お誕生日おめでとう。結婚しようか」
「なに言ってるの?」
優しかったはずの隼人が豹変。
「30になってお互いに相手がいなかったら、結婚しようって美羽が言ったんだよね?」
彼の秘密を知ったら、もう逃げることは出来ない。
「絶対に逃がさないよ?」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる