明日のために、昨日にサヨナラ(goodbye,hello)

松丹子

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.第12章 親と子

307 新年会(3)

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「散歩、か。……だいぶ歳取ったね、おじいちゃんとおばあちゃん」

 玄関でのざわめきが消えた後、私の隣に座った朝子ちゃんがぽつりと呟いた。
 私もこくりと頷く。

「うん……そうだね」

 脳裏をよぎったのは、大晦日の祖父の姿だった。ふらふらと歩く足取りと、ぼんやりした目。子どもの頃の栄太兄と、今の栄太兄がごっちゃになったような言葉。
 祖父がどこか、遠い世界に行ってしまうような気配が、私は少し怖くもあった。
 けれど、そのことを、私はみんなに言う気はなかった。栄太兄もそのつもりはないだろう。
 あえて、みんなにその話をする必要はない気がした――今はまだ。
 ふふ、と突然、朝子ちゃんが笑った。
 私がちらりと見つめると、朝子ちゃんはちょっといたずらっぽい笑顔を見せた。

「――礼奈ちゃん、覚えてる?」
「え?」
「おじいちゃんが前に言ってたこと。私が大学に入った頃だったかな」

 私がまばたきすると、朝子ちゃんはじっと私を見据えた。
 優しく細めたその目で、懐かしそうに言う。

「――栄太郎お兄ちゃんのタキシード姿、見られるかな、って」

 ずきん、と胸が痛んで、一瞬、呼吸を止めた。

 ――朝子ちゃんも、覚えてたんだ。

 その言葉に誰よりも慌てたのは、朝子ちゃんの斜め横に座っていた香子さんだった。

「ちょっと、朝子。変なこと言わないの」

 朝子ちゃんの肩を軽くたたいてたしなめると、ちらりと母を見てから私に微笑む。

「ごめんね、礼奈ちゃん。気にしないでね」
「いえ……大丈夫です」

 手を振る私に、朝子ちゃんはあっという顔をした。その台詞がどういう意図に取られるか、思い当たったのだろう。

「えっと、いや、そういうつもりじゃなくて――」
「じゃあ、どういうつもりなのよ……もう」
「ごめんなさい……」

 朝子ちゃんは困ったように、私と香子さんを見比べる。私は苦笑しながら、「大丈夫」と首を振る。
 若干気まずい雰囲気を笑い飛ばしたのは、香子さんの隣で話を聞いていた母だった。
 「それはともかく」と母は言い、私を見やる。

「礼奈はまずは就活をがんばらないとね。――4月からはとうとう4年になるんだから」

 私に微笑む母の目は、本人にそのつもりがあるのかどうか、穏やかに見えて無言の圧を感じる。私は「うん……」と曖昧な笑顔で答えたけれど、それをフォローするように香子さんが微笑んだ。

「礼奈ちゃんなら大丈夫よ。よく気づいて動くし、どこでも重宝がられるわ」
「私もそう思う」

 何ならうちに来ない? と誘う母子に、私は苦笑を返した。
 いつだったか、朝子ちゃんが言っていた公務員試験の科目数に、すっかり怯んでいるからだ。

「業種とかは? 決まってるの?」
「え……と……いや、まだ……」

 母からの問いに答えて目を泳がせる。
 栄太兄との関係に浮かれて何の準備もしてないと思われるんじゃないか。
 そう気になって、取り繕うように続けた。

「で、でも、インターンでちょっと、こういうところはやだなーとか、こういうところがいいなーとかは思ったりしたから。春休みまた、いくつかインターン行って、絞ろうかなーって……」
「うん、それでいいんじゃないかなー。最初からあんまり絞らない方がいいよ」

 母が私に向ける無言の圧に気づいているのかいないのか、朝子ちゃんが賛同してくれてほっとする。私が見やると、朝子ちゃんは邪気なく続けた。

「ここ、っていう業種で就職する子もいるけど、そうじゃない子も結構いるよ。たまたま時間が開いてたから立ち寄ったブースの社員さんの雰囲気がよかったとか、面接慣れしとこうと思って受けたところが働きやすそうだったからそこにしたとか、そういう話も聞くし。――そういうのって多分、縁ってやつだよね。逆にそういう子の方がイキイキしてたりして、業種で決めた子たちは、『こんなはずじゃなかった』みたいなとこもあるっていうか……理想と現実のギャップなのかな」
「あるかもね、そういうこと」

 娘の意見に、香子さんが同意する。朝子ちゃんも頷いて続けた。

「私も、誰かのために働くなら公益だろうって思いこんでたけど、実際は仕事って誰かのために働くからこそあるんだよね。そうじゃなかったらお金ももらえないし、当然と言えば当然なのに、働いてみるまで気づかなかった。もう少しいろいろ見ればよかったなーと思ってる」
「だからそう言ったのに」
「う……そうだけど」

 香子さんに言われて、朝子ちゃんが肩をすくめる。「結局親の意見は聞かないんだから」と苦笑する香子さんに、「そんなことないよ」と朝子ちゃんが唇を尖らせた。

「そういえば、彩乃さんはどうして今の仕事を?」
「あ、そうだそうだ。それ聞きたいです」

 問う香子さんと身を乗り出した朝子ちゃんに、母が戸惑ってまばたきする。私もじっと見つめていたら、ちょっと困ったように笑った。

「そうね……私たちのときって、インターンとかもあんまりなかったから……典型的な日本企業、っていうのは合わない気がして、外資中心に見てた気がするわ」
「て言っても、色々ありますよね。ここだ! っていう決め手とか、あったんですか?」
「うーん、どうかな。早く就活終えたかったし、結果が出て、悪くないかなって思ったのが今の会社だったような気がする」

 母はそう言うと、懐かしそうな目で微笑んだ。

「でも、今の会社選んでよかったと思ったのは、あれかな。就職前に、同期で飲み会したんだけど……それが結構楽しくて、そのときからずっとつき合いが続いてる子もいるから」
「それ、政人さんもいたんですか?」
「あ、いや――まあ、いたけど……」

 ごにょごにょと口ごもる母に、前に聞いたことを思い出す。
 カッコいいけど、だからこそ、よくて遊ばれて終わり――
 父を見ての最初の印象は、それだったんだろう。
 ふと思って、「阿久津さんは?」と問う。母は頷いた。

「そうそう、阿久津も。そもそも、あいつが幹事だったのよ。意外と面倒見いいでしょ」

 そう微笑む表情には、信頼している仲間への愛情がこもっている。「そうなんだ」とあいづちを打って、私も息を吐き出した。

「……そうだよねー。人間関係、結構大事だよねー」

 インターンでも思ったことをつくづく言うと、「なぁに急に」と母が笑う。

「でも、人間関係って入ってみないと分かんないからね」
「それもありますね」

 そう話が進んだところで、玄関先から音がした。

「あ、帰って来たかな」
「そうかも」
「おかえりー」
「健人くん明けましておめでとー」
「おめでとうございます! 遅くなったお詫びに」

 健人兄がひょいと持ち上げたのは酒瓶だった。女性陣で顔を見合わせて笑う。

「よーし、じゃ飲みますか」
「飲もう飲もう」
「おじいちゃんたちもお疲れさま」

 家はとたんにわいわい賑やかになって、みんなが居間へと向かう。私も向かおうとしたら、隼人さんが後ろに立っていた。

「ゆっくり話せた?」
「あ、はい」
「そっか。よかったよかった」

 にこにこと笑顔で言うと、みんなの背を追って居間へ向かう。
 健人兄が合流したとたん賑やかになって、栄太兄が「あいつ根っからのお祭り好きやな」と呆れていたけれど、私はちょっとほっとしていた。
 これだけ賑やかだったら、母の言葉を聞かなくても済むから。

 ――それはともかく、礼奈は就活――

 はっきりそう言った母の声が、ひときわ強く、耳の中に残っていた。
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