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.第1章 煩悩まみれの願望
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「いろいろ食べたね」
「ふふ、はい! お腹いっぱいです!」
レストランから出て、駅へと歩きながら、嵐志が手を差し出した。
菜摘は軽くうなずいて、その手を取る。
食事で口にした一杯ずつのワインが、二人の間に漂っていた緊張感をやわらげてくれている。
「レストラン、どうだった? 気に入ってくれた?」
「もっちろん!」
ご飯が大好きな菜摘は、話題を振られて大きくうなずいた。
頭の後ろでポニーテールが揺れるのも気にせず、うなずきながら指折り答える。
「料理も美味しかったし、お酒も美味しかったなぁ。前菜で出てきた創作料理、アンチョビの塩気が絶妙でしたよね! 雰囲気もとっても素敵だったし……インテリアもBGMも、とっても素敵で……!」
熱く語り過ぎではと我に返ったが、嵐志は嬉しそうに笑っていた。「そっか、よかった」と細められた目にまた胸を貫かれる。
今日も彼氏がイケメンすぎて辛い。
ときめきに胸を押さえる菜摘の横で、嵐志は照れ臭そうに続ける。
「そんなに喜んでくれるなら、次も色々調べておくよ」
また君に喜んで欲しいから。そう甘い視線を向けられて、ときめかない女がいるなら会ってみたいものだ。
菜摘は浅くなった呼吸に気づかれないよう、笑顔でごまかしてうなずいた。
地下鉄駅の改札前に着いたとき、ちらと目を向けた菜摘に、嵐志はすぐさま微笑みを返した。
「家まで送るよ。もう外も暗いし、心配だから」
「あ、ありがとうございます」
今までなら、「もうここまでで……」と遠慮していた菜摘だが、今日は違う。むしろ家にどうですかと言うつもりだったので、先手を打たれた気分だ。
気まずくてうつむいた菜摘に、勘違いしたらしい嵐志が笑う。
「大丈夫、送り狼にはならないよ。安心して」
軽やかな笑い声と、爽やかな笑顔。
菜摘はうっと呻きそうになって、胸を押さえた。
――むしろ、なって欲しいんですが。
――なってもらおうと、思ってるんですが。
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、曖昧な笑顔を返した。
ひとまず、家の前までは一緒に来てくれる。
けれど。
問題は、そこから先だ。
――さて、どうやって家に誘い入れたらいいんだろう。
電車に乗り、最寄り駅に着き、改札を出て、歩いて行きながら、菜摘は背中に嫌な汗をかきはじめた。
穏やかに語りかけてくる嵐志にあいづちを返しつつも、段々と焦りが膨らんでいく。
菜摘の家――タイムリミットが近づく中、決定的なやりとりに欠けていた。
このままでは、嵐志はいつも通り、エントランスで「おやすみ」――つまり菜摘を無事、送り届けたところで役目を終えたと帰ってしまうに違いないのだ。
――それは、それだけは、断じて避けなければ。
どうしたものか。気持ちばかりが焦る。
菜摘に、男女の経験がないわけではない。けれど、男というのは誘うより先に誘ってくるもので、自分からベッドへ誘ったことなど今までない。
だから――方法が分からない。
駅から家まで歩きながらも、嵐志はあくまで紳士的だ。
菜摘が車道側を歩かないよう、さりげなく右側を歩いてくれる。自転車が走ってくればそっと庇うように手を伸ばすし、菜摘が見上げれば微笑み返してくれる。菜摘の鞄が大きいことに気づいて、「俺が持とうか?」とも聞いてくれる。
思いやりにあふれた挙動にぬくぬくと浸りながら、もう今日はこれでいいんじゃないかと、頭の半分で思い始めている自分に気づいた。
――いや、それじゃ駄目だ。
今はそれで満足しても、別れるや否や悶々とするに決まっている。いつもそうなのだ。いつもそれで、自分の熱を持て余して苦労する。嵐志はどんな風に女の身体に触れるのか、どんな風に囁くのか――そんなことを悶々と一晩中、ひとりで考えることになる。
それは、避けたかった。決意して迎えた今日だけは。絶対に、避けたかった。
――そう、今日こそは。
気合を入れて新調した下着を思い出し、決意を新たにする。
――そうだ。絶対に、抱いてもらうんだ!
心に誓ったとき、家の前についた。
「話しながら歩いていると、あっという間だね」
菜摘のマンションを見上げて、嵐志が穏やかに微笑む。
ときめく胸をなだめながらうなずくと、嵐志は菜摘を促すようにエントランスへ向かった。
いつもは、このエントランスで別れる。
――でも、今日は。
心臓がばくばく音を立てる。嵐志に告白したときと同じくらい緊張している。
カバンを持つ手が震えて、ともすれば脚も震えそうな自分を叱咤する。
言わなくては。今日こそは引き止めて、部屋までどうですかと誘わなくては――
「……それじゃ、おやすみ」
「あ、あのっ……」
嵐志のあいさつを遮って、菜摘はうわずった声をかけた。
きょとんとした嵐志の顔と、みっともない自分の声に怯んで、一瞬呼吸が詰まる。
けれど、そんなことには構っていられないのだ。
今日を逃したら、次のチャンスがいつになるか分からないのだから。
――勇気を出すのよ! 菜摘!!
自分に自分で気合いを入れて、菜摘は息を吸い直した。
「あのっ……!」
――で、何て言えばいいの?
言葉に困って、頭が真っ白になった。
家に上がって行きませんか。お茶でもいかがですか。うちに泊まって行きませんか。
どう言うのが正解? どう言えば伝わる?
直接的過ぎると引かれるかもしれない。けど、間接的過ぎると伝わらない。
お茶をどうですかと誘えば、嵐志のことだ、本当にお茶を飲んだらさようなら、という展開もあり得る。
――ど、どうしよう?
イメトレが足りなかった。後悔するが、後の祭りだ。
けれど、ここにきてやり直しも効かない。
嵐志はじっと菜摘の言葉を待っている。菜摘は情けなさで泣きたくなった。
こんなとき、どう声をかけるのがスマートな大人の女なんだろう。
それこそ、翠だったら、どう言うだろう。あれほど色気の備わった人なら、言葉なんて無くても上手に男を誘えるのかもしれない。そっと男の頬を撫でて、ウインクひとつでもすれば、それだけで相手はその気になるのかもしれない。
けれど、菜摘はそうではない。
「……ええと……」
覚悟を決めたはずの気持ちが、一気にしぼんでいった。
光治を馬鹿にするくらい、大人なつき合いを、自分はできるつもりでいた。けれど、本当にそうだろうか。
憧れていた嵐志と並んで歩くことができるようになっただけで、浮き足立っていた。けれど、自分は本当に、彼に釣り合う女なんだろうか。
突然、冷静になって、とたんに恥ずかしさがこみ上げた。
嵐志が好きだ。ずっと、好きだった。だから、恋人になれたことが幸せで、自分のことなんて考えていなかった。
菜摘自身だって、デートするまでずっと、嵐志と釣り合うのはきっと、すごく素敵な大人の女性だと思い込んでいたのだ。それこそ、翠のような。
だからこそ二年ちょっと、ただ憧れているばかりで、光治の助け無くしては話しかけることすらできなかったのに。
そんな自分が、彼を家の中に誘い入れるなんてこと、できるわけが――
思考は温もりに遮られた。
抱きしめられている、と気づいたのは、鼻先にコロンの香りがくすぐったからだ。
「……もう少し、一緒にいたい?」
耳元で囁く、優しい声。それだけで、菜摘の膝から力が抜けそうになる。
「……っ、はいっ……」
察してくれた安心感と、抱きしめられている緊張で、うまく出て来ない言葉の代わりに、こくこくこくこく、赤べこのようにうなずいた。
――「もう少し」どころか、一晩でも二晩でも一週間でも、一緒にいたいです!
そう言いたいのはやまやまだけれど、引かれたらと思うと口にできない。こればかりはもう少し嵐志が察してくれることを祈って、潤んだ目でじっと嵐志を見上げた。
嵐志は菜摘の視線を受け止め、くすりと笑う。
整った顔が間近に近づいて、あっと思う間に、柔らかな温もりが唇に触れた。
「……俺もだよ。けど……」
ためらうように視線を泳がせた嵐志が、困ったように微笑む。
その笑顔がいつもより幼く見えて、菜摘の胸はうずいた。
「本当に……いいの?」
耳をくすぐる甘い声。顔中をぽうっと火照らせて見上げている菜摘に、嵐志は言葉を継いだ。
「俺……恋人の部屋に入って、何もしないでいられるほど、紳士じゃないよ?」
いつもよりいたずらっぽい目と、語尾の上がった問いかけが、菜摘の胸をずんと刺す。
どっどっどっ……自分の心臓が跳ねる音が聞こえる。浅い呼吸を繰り返しながら、どうにかこうにか、ぷるぷるとうなずき返した。
嵐志は「ほんとに分かってるのかな」と笑う。分かってます、大歓迎です、とは言いたくても言えずに、菜摘はおぼつかない手つきでエントランスの鍵を開けた。
こうして、恋人同士の甘い夜は更けていった――
はず、なのだが。
「ふふ、はい! お腹いっぱいです!」
レストランから出て、駅へと歩きながら、嵐志が手を差し出した。
菜摘は軽くうなずいて、その手を取る。
食事で口にした一杯ずつのワインが、二人の間に漂っていた緊張感をやわらげてくれている。
「レストラン、どうだった? 気に入ってくれた?」
「もっちろん!」
ご飯が大好きな菜摘は、話題を振られて大きくうなずいた。
頭の後ろでポニーテールが揺れるのも気にせず、うなずきながら指折り答える。
「料理も美味しかったし、お酒も美味しかったなぁ。前菜で出てきた創作料理、アンチョビの塩気が絶妙でしたよね! 雰囲気もとっても素敵だったし……インテリアもBGMも、とっても素敵で……!」
熱く語り過ぎではと我に返ったが、嵐志は嬉しそうに笑っていた。「そっか、よかった」と細められた目にまた胸を貫かれる。
今日も彼氏がイケメンすぎて辛い。
ときめきに胸を押さえる菜摘の横で、嵐志は照れ臭そうに続ける。
「そんなに喜んでくれるなら、次も色々調べておくよ」
また君に喜んで欲しいから。そう甘い視線を向けられて、ときめかない女がいるなら会ってみたいものだ。
菜摘は浅くなった呼吸に気づかれないよう、笑顔でごまかしてうなずいた。
地下鉄駅の改札前に着いたとき、ちらと目を向けた菜摘に、嵐志はすぐさま微笑みを返した。
「家まで送るよ。もう外も暗いし、心配だから」
「あ、ありがとうございます」
今までなら、「もうここまでで……」と遠慮していた菜摘だが、今日は違う。むしろ家にどうですかと言うつもりだったので、先手を打たれた気分だ。
気まずくてうつむいた菜摘に、勘違いしたらしい嵐志が笑う。
「大丈夫、送り狼にはならないよ。安心して」
軽やかな笑い声と、爽やかな笑顔。
菜摘はうっと呻きそうになって、胸を押さえた。
――むしろ、なって欲しいんですが。
――なってもらおうと、思ってるんですが。
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、曖昧な笑顔を返した。
ひとまず、家の前までは一緒に来てくれる。
けれど。
問題は、そこから先だ。
――さて、どうやって家に誘い入れたらいいんだろう。
電車に乗り、最寄り駅に着き、改札を出て、歩いて行きながら、菜摘は背中に嫌な汗をかきはじめた。
穏やかに語りかけてくる嵐志にあいづちを返しつつも、段々と焦りが膨らんでいく。
菜摘の家――タイムリミットが近づく中、決定的なやりとりに欠けていた。
このままでは、嵐志はいつも通り、エントランスで「おやすみ」――つまり菜摘を無事、送り届けたところで役目を終えたと帰ってしまうに違いないのだ。
――それは、それだけは、断じて避けなければ。
どうしたものか。気持ちばかりが焦る。
菜摘に、男女の経験がないわけではない。けれど、男というのは誘うより先に誘ってくるもので、自分からベッドへ誘ったことなど今までない。
だから――方法が分からない。
駅から家まで歩きながらも、嵐志はあくまで紳士的だ。
菜摘が車道側を歩かないよう、さりげなく右側を歩いてくれる。自転車が走ってくればそっと庇うように手を伸ばすし、菜摘が見上げれば微笑み返してくれる。菜摘の鞄が大きいことに気づいて、「俺が持とうか?」とも聞いてくれる。
思いやりにあふれた挙動にぬくぬくと浸りながら、もう今日はこれでいいんじゃないかと、頭の半分で思い始めている自分に気づいた。
――いや、それじゃ駄目だ。
今はそれで満足しても、別れるや否や悶々とするに決まっている。いつもそうなのだ。いつもそれで、自分の熱を持て余して苦労する。嵐志はどんな風に女の身体に触れるのか、どんな風に囁くのか――そんなことを悶々と一晩中、ひとりで考えることになる。
それは、避けたかった。決意して迎えた今日だけは。絶対に、避けたかった。
――そう、今日こそは。
気合を入れて新調した下着を思い出し、決意を新たにする。
――そうだ。絶対に、抱いてもらうんだ!
心に誓ったとき、家の前についた。
「話しながら歩いていると、あっという間だね」
菜摘のマンションを見上げて、嵐志が穏やかに微笑む。
ときめく胸をなだめながらうなずくと、嵐志は菜摘を促すようにエントランスへ向かった。
いつもは、このエントランスで別れる。
――でも、今日は。
心臓がばくばく音を立てる。嵐志に告白したときと同じくらい緊張している。
カバンを持つ手が震えて、ともすれば脚も震えそうな自分を叱咤する。
言わなくては。今日こそは引き止めて、部屋までどうですかと誘わなくては――
「……それじゃ、おやすみ」
「あ、あのっ……」
嵐志のあいさつを遮って、菜摘はうわずった声をかけた。
きょとんとした嵐志の顔と、みっともない自分の声に怯んで、一瞬呼吸が詰まる。
けれど、そんなことには構っていられないのだ。
今日を逃したら、次のチャンスがいつになるか分からないのだから。
――勇気を出すのよ! 菜摘!!
自分に自分で気合いを入れて、菜摘は息を吸い直した。
「あのっ……!」
――で、何て言えばいいの?
言葉に困って、頭が真っ白になった。
家に上がって行きませんか。お茶でもいかがですか。うちに泊まって行きませんか。
どう言うのが正解? どう言えば伝わる?
直接的過ぎると引かれるかもしれない。けど、間接的過ぎると伝わらない。
お茶をどうですかと誘えば、嵐志のことだ、本当にお茶を飲んだらさようなら、という展開もあり得る。
――ど、どうしよう?
イメトレが足りなかった。後悔するが、後の祭りだ。
けれど、ここにきてやり直しも効かない。
嵐志はじっと菜摘の言葉を待っている。菜摘は情けなさで泣きたくなった。
こんなとき、どう声をかけるのがスマートな大人の女なんだろう。
それこそ、翠だったら、どう言うだろう。あれほど色気の備わった人なら、言葉なんて無くても上手に男を誘えるのかもしれない。そっと男の頬を撫でて、ウインクひとつでもすれば、それだけで相手はその気になるのかもしれない。
けれど、菜摘はそうではない。
「……ええと……」
覚悟を決めたはずの気持ちが、一気にしぼんでいった。
光治を馬鹿にするくらい、大人なつき合いを、自分はできるつもりでいた。けれど、本当にそうだろうか。
憧れていた嵐志と並んで歩くことができるようになっただけで、浮き足立っていた。けれど、自分は本当に、彼に釣り合う女なんだろうか。
突然、冷静になって、とたんに恥ずかしさがこみ上げた。
嵐志が好きだ。ずっと、好きだった。だから、恋人になれたことが幸せで、自分のことなんて考えていなかった。
菜摘自身だって、デートするまでずっと、嵐志と釣り合うのはきっと、すごく素敵な大人の女性だと思い込んでいたのだ。それこそ、翠のような。
だからこそ二年ちょっと、ただ憧れているばかりで、光治の助け無くしては話しかけることすらできなかったのに。
そんな自分が、彼を家の中に誘い入れるなんてこと、できるわけが――
思考は温もりに遮られた。
抱きしめられている、と気づいたのは、鼻先にコロンの香りがくすぐったからだ。
「……もう少し、一緒にいたい?」
耳元で囁く、優しい声。それだけで、菜摘の膝から力が抜けそうになる。
「……っ、はいっ……」
察してくれた安心感と、抱きしめられている緊張で、うまく出て来ない言葉の代わりに、こくこくこくこく、赤べこのようにうなずいた。
――「もう少し」どころか、一晩でも二晩でも一週間でも、一緒にいたいです!
そう言いたいのはやまやまだけれど、引かれたらと思うと口にできない。こればかりはもう少し嵐志が察してくれることを祈って、潤んだ目でじっと嵐志を見上げた。
嵐志は菜摘の視線を受け止め、くすりと笑う。
整った顔が間近に近づいて、あっと思う間に、柔らかな温もりが唇に触れた。
「……俺もだよ。けど……」
ためらうように視線を泳がせた嵐志が、困ったように微笑む。
その笑顔がいつもより幼く見えて、菜摘の胸はうずいた。
「本当に……いいの?」
耳をくすぐる甘い声。顔中をぽうっと火照らせて見上げている菜摘に、嵐志は言葉を継いだ。
「俺……恋人の部屋に入って、何もしないでいられるほど、紳士じゃないよ?」
いつもよりいたずらっぽい目と、語尾の上がった問いかけが、菜摘の胸をずんと刺す。
どっどっどっ……自分の心臓が跳ねる音が聞こえる。浅い呼吸を繰り返しながら、どうにかこうにか、ぷるぷるとうなずき返した。
嵐志は「ほんとに分かってるのかな」と笑う。分かってます、大歓迎です、とは言いたくても言えずに、菜摘はおぼつかない手つきでエントランスの鍵を開けた。
こうして、恋人同士の甘い夜は更けていった――
はず、なのだが。
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