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.第1章 煩悩まみれの願望

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「――おかしい。絶対おかしい」
「何がだよ」

 ダンッ、と勢いよくグラスを机に置いた菜摘に、光治はツッコんでから、後悔したように顔を歪めた。
 Xデーの翌日。休日にもかかわらず光治を呼び出しての昼食は、カントリー風レストランだ。
 会社ではセットしてある光治の髪も、今日は大人しく下を向いている。
 ついでにとても気乗りしない顔で、手にしたフォークでポテトをつついているのだが、菜摘は知らない顔で拳を握った。

「だって、あの神南さんだよ? あの顔にあの身長にあの仕事っぷりにあの立ち振る舞い、何をしてても醸し出るあの色気!」

 鉄板の上でポテトと並んで湯気をたてているソーセージに、菜摘はぶすりとフォークを刺す。
 光治はまた嫌そうに菜摘を見やる。

「……だから何だよ」
「分っかんないかなー!」

 ソーセージにかぶりつきながら、菜摘は激した調子で言い放った。

「あんな、色気の塊みたいな人とのえっちが、いたってフツーってありえる!?」
「馬鹿お前だから声デカいッッ!!」

 すっぱーんと頭をはたかれて、さすがの菜摘もうずくまった。

「痛い……」
「すまん、力が入りすぎた」

 とっさだったので力の加減ができなかったらしい。珍しく素直に謝る光治に、菜摘も自分の非を認めざるをえない。
 確かに、お天道様ぴっかぴかの真っ昼間、休日に、子どもも出入りするレストランで口にすべき言葉ではなかった。
 さすがに反省した菜摘は、不満を唇を尖らせて、ソーセージを咀嚼した。
 光治は菜摘の表情を気にしながら、うつむきがちに口を開く。

「……別に、あり得ないってことないだろ。いくらスペック高くたって、その……と、トコジョウズ、とは限らないわけだし……」

 小さな声でちゃんと話題は拾ってくれるところが、彼の優しさと育ちの良さを感じる。
 とはいえそんな光治の頬は、明らかに赤く染まっていた。気まずそうに猥語を口にするあたり、童貞みたい、と笑いそうになり、本当に童貞なのだったと思い出して堪えた。
 本当のことを言って相手を傷つけるほど子どもではない。
 菜摘はふぅとため息をついた。

「そうかなー。そうも思えないんだけどなぁ……」

 男の光治には分からないだろうけど、神南は、女の気を惹く色気を持ち合わせている。
 それは容姿だけでなくて、ふとしたときの視線の動かし方や、歩き方、ペンや箸を持つ手つきに至るまで。
 ぷんぷん漂う、オトナの何かがあるのだ。
 こうして食事をしているだけでも、光治のそれとは全然、ぜんっっぜん、違う。
 それは、たぶん年齢の差のせいではないだろう。誰かが教えるようなものでも、意識して身につくようなものでもなさそうだから。
 ――そんな男が、型どおりの手順でセックスをするだろうか。
 違和感を言葉にしようとする菜摘の顔を、光治が気遣わしげに覗き込んできた。

「……つまり、よくなかったの?」
「ううん、よくなかったわけじゃないんだけど」
「……じゃあ、いいじゃん、別に」

 そう。相性、という意味では、悪くなかったのだと、思う。
 唇を重ねてから、しばらく身体に触れ合い、抱き合った。目的を果たした後もしばらくはベッドの中で、互いの身体に触れながら話していた。
 計、約一時間半。その時間は幸せで、満たされた気持ちになった――のだが。
 なんと、嵐志は当然のように、終電ギリギリの時間に帰って行ってしまったのだ。トイレに立ったのだろうと思っている間に身繕いを済ませ、「それじゃあ、おやすみ」と。
 あまりにスマートだったから、菜摘は泊まって行ってと言うタイミングを逃してしまった。
 初めて夜を共にして、甘く照れ臭い恋人の朝……
 というシチュエーションを期待していた菜摘はがっかりである。
 そのおかげで、不完全燃焼のまま悶々と夜を明かし、夜明けを待って光治を呼びつけ、やや寝不足気味でこのランチに至っているわけだ。

「うーん……」

 頬杖をつき、納得した様子のない菜摘に、光治が呆れたような半眼を向けた。

「こないだ言ってた目的は達成したんでしょ。それなのに何が不満なの」
「不満……というか」

 期待しすぎたのだろうか。
 見るからにスペックの高い相手だから、もっと自分を悦ばせてくれるはずだと。
 けれど、感じているのはそういう不満ではないような気がする。
 下手だとか上手いとか、そういう不満ではないのだ。そもそも、どちらかと言えば上手かったのだし。
 それなのに、なぜか残る違和感――
 しっくり来る言葉を探して、「もっと、こう……」とソーセージをしゃぶる菜摘に、「なんか生々しいから、とりあえずそれは皿に置け」と光治の注意が入る。
 お母さんみたいだなと思いながらも、菜摘は指示に従って手を降ろした。
 そう。思い返してみても、確かに、悪くはなかった。
 悪くはなかった、のだけれど――あまりにも、きれいすぎるセックスだったのだ。部屋からの去り方も含めて。
 好きな人を前にして、本能のままに触れ合いたい、と思ったのなら、少なからずその人の性癖、みたいなものが垣間見えるはずだ。
 やたらと髪を撫でたり。キスをしたり。脇フェチや胸フェチや脚フェチだったり。
 けれど、あの夜、嵐志にそんな様子は少しもなかった。
 まんべんなく、菜摘の身体に触れはした。髪を撫でてキスをして、指先を絡めて太ももを撫でて。どこも、過不足無く、あいさつでもするような律儀さで。
 けれど、それだけだ。
 気持ち良くなかったわけでもない。けれど、「彼に」抱かれた気がしなかった。
 人形に抱かれたようだった――とでも言おうか。
 そもそも、恋人と愛し合ったあと、当然のように帰っていくだろうか。止まって行くね、となるのが流れではないのか?
 とはいえ、そんな話しをしても、経験のない光治を困らせるだけだろう。
 うーんと頬杖をつく菜摘の顔を、光治は困ったように見ている。
 思えば、幼なじみと上司の情事を聞かされて、困らない人もいないだろう。彼には経験もないのだからなおさらだ。
 冷静に考えれば、相談する相手を間違えているような気がする。
 それでも、健気な光治は一緒になって考えてくれたらしく、

「じ、じゃあ……初めてだから気ぃ使ったとか、は……?」
「あー……」

 探るような提案に、菜摘は軽く顎を引いた。
 確かに、それなら多少は納得がいく。
 初めてだから遠慮した。――だとしたら、回数を重ねるうちに嵐志の本性は分かるだろう。
 となれば、まずは二回目にこぎつけなければ。

「なるほど……遠慮ね」

 ふむ、と菜摘は新たな決意を胸にして、炭酸飲料の入ったグラスをかき混ぜる。
 微妙な表情をしている光治の前で、小さな氷がシャランと音を立てた。
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