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.第2章 猫かぶり紳士の苦悩

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「……翠。笑い過ぎだぞ」

 にがりきった顔で嵐志が言うと、翠は「ごめん、ごめん」と涙を拭った。
 笑いすぎて息も絶え絶え、ひぃひぃ言っているのが大変耳障りだ。
 嵐志は舌打ちしてハイボールを口に運ぶ。
 会社から徒歩五分。地下二階にある、翠行きつけのバーだ。
 店内にはしゃれたジャズナンバーをBGMに、ぽつぽつと座った客が、酒と密やかな会話を楽しんでいる。
 いかにも落ち着いたその空間に、嵐志と翠も風景の一部として、カウンター席に溶け込んでいた。
 ――翠の馬鹿笑いを除けば。
 ったく、なんでこんなことに。
 嵐志は内心毒づかざるを得ない。
 ランチで会ったばかりだというのに、残業していた嵐志は終わるや否や、拉致されるように翠に連行されてきた。
 それも仕事についてはぬかりなく「終わったよね?」の念押し付き。有無を言わさぬ強引さは、かわいげもなにもあったもんじゃない。
 最近どうなの、から始まった「事情聴取」は、引き出し上手な翠によって、嵐志の恥部――彼女との夜のことにまで及び、そして冒頭のバカ笑いに至る。
 しばらく笑い転げていた翠は、ようやく息を整えたらしい。
 ふぅと晴れやかな吐息をついて、嵐志を見やった。

「でもさぁ、それ、原田さんはどうなの。初めて寝て、ベッドにひとり残されて帰られちゃうっていうのは」
「……」
「その上、ここんとこ忙しくてフォローもできてないんでしょ?」
「……」

 どれもこれもその通り過ぎて反論できない。
 嵐志はまた舌打ちを飲み込んで、つまみのチーズを口に運んだ。
 食い気より飲み気、を地でいく翠が選ぶ飲食店は、だいたい食事らしい食事を置いていない。いや、頼めば作ってくれるのかもしれないが、翠が嫌がるので頼みづらいのだ。
 だんまりのままの嵐志に、翠が憐れむような目を向ける。

「元カノに言われたこと、そんなにショックだったのねぇ」

 さも同情している風に言うが、まだ目は笑っている。
 嵐志はそれを睨みつけて酒をあおった。
 気にせずいられるわけがない。
 ――愛撫が長くてつき合い切れない、なんて。
 嵐志は別に、しつこくしているつもりはなかった。ただ思うまま愛でていただけだ。愛情表現であって嫌がられることなど考えていなかった。
 だからその言葉は、青天の霹靂、というやつで。
 翠には、元カノと別れたばかりの頃、自棄気味にその話をしたのだった。
 思えばそのときにも、翠は今のように大笑いしていた。
 それから、四年。
 恋人がいない間は気にしないでいられたけれど、できた今となってはどうしたって脳裏をよぎる。
 同じ轍を踏むわけにはいかない。彼女が嫌がることはしない。したくない、のだけれど――

「仕方がないだろ……あのまま一緒にいたら、絶対我慢できなかったんだ」

 初めて菜摘を抱いた夜のことを思い出して、嵐志は額を押さえた。
 白くて柔らかな肌。潤んだ丸い目。恥ずかしそうな声。
 そのいずれもが嵐志の脳裏にこびりついて離れない。
 疼く胸を誤魔化すように、グラスの酒を飲み干した。
 嵐志は、かわいいものが好きだ。
 昔から、ふわふわなものと丸いもの、小さいものに弱かった。
 タオル地のクマのぬいぐるみは汚いからと捨てられるまで一緒に寝起きし、兄が飼い始めたハムスターは触り過ぎてノイローゼ気味になった。
 かわいがりたい気持ちは分かる、けどやりすぎはよくない。人に言われてそう理解はしたものの、それで満足できるかと言われれば話は別だ。
 それも、心が平静なときならまだしも、ストレスフルなときだとなおさら。
 かわいいものを思う存分かわいがりたい――そんな欲求が抑えられなくなる。

「元カノさんがいた頃も、仕事、忙しかったもんねぇ。相当無理させられたんじゃないの」
「……声は出なくなってたかも」
「うわぁ。次の日?」
「……と……その次の日……」

 唖然とした翠が、額を押さえる。

「……そりゃフラれるわ」
「うるせーな」

 嵐志はむっとして唇を歪めた。

「わかってるよ。だから我慢してるんだろ。そんな風に扱ったらいけないって……分かってるけど」

 けど、でも。
 かわいいものがあったら、愛でたくなるのが人情ではあるまいか。
 モフモフがあれば思う存分モフり、小さいものがあればナデナデし、まるいものがあれば心ゆくまで見つめたい。
 それが、人情というものではないのか。
 ――そんな趣旨のことを熱く語り始めた嵐志に、翠は「あーはいはい」とあからさまにテキトーなあいづちを打った。
 嵐志はまた憎々しげな目を向ける。

「人が本気で悩んでるってのに」
「原田さんは違う意味で悩んでるかもよー」

 取り残されて、とニヤニヤ言われて、噛みつきたい気分になった。
 さらに嵐志は苛立つ。

「じゃああのまま夜を明かした方がよかったっていうのか? 翌日声も出ず動けず俺が全介助するような身体になっても?」
「だからあんた極端すぎだっての!」

 そう言われても、性癖なのだから仕方ない。
 あの夜、エントランスで菜摘に引き止められ、潤んだ目でみつめられたとき、嵐志は決心したのだ。
 自分を抑えながら彼女を抱く、と。
 けれど、肌に触れるや心底後悔した。

「いや、最初からそんな気はしてたんだ……彼女、ほっぺたもつるんつるんでふわっふわだから……だから今まで、誘う勇気が出なかったんだ……理性崩壊しそうで」

 翠がカウンターの中に声をかける。すみませーんスクリュードライバーひとつ~。

「いざ触れたらどこもかしこもびっくりするくらい触り心地よくて……何なんだろうあれ何食べたらあんなになんの? もちっもちのふわっふわで頭とろけそうなんだよ……理性総動員なんてもんじゃない拷問だ……叶うことなら撫で回して舐め回してとろっとろのぐずっぐずにしたいのにできないなんて」
「ねえねえお兄さんこれなぁに? へぇー、そんなお酒あるんだー。次それにしよっかなー」
「肌だけじゃない、髪もふわふわなんだ……リスっぽいとか思ってたけど訂正する、あれはポメラニアンだな……これがまた触り心地最高で顔埋めて匂い嗅ぎたいのを堪えるのに必死でさ……丸い目とあいまってほんっっっとかわいいんだよ……それでウルウルしながら見つめてくるんだぞ、分かるか? こんな神コンボに俺の理性が耐えられると思うかいや世の中の男で耐えられる奴がいるならお目にかかりたいぞ俺は」
「え、ナッツ、サービス? ありがとー嬉しー!」
「おい聞けよ! 訊いてきたのお前だろ!!」

 まったく聞く気のない翠に詰め寄ると、翠は悪びれずに唇を尖らせた。

「だぁーってそれ、ただの惚気じゃん。そんだけかわいいって思ってるんなら、ちゃんと伝えてあげたら? なーんか彼女、自信なさげだったよ」
「そ、そうか……?」

 伝えているつもりだったが、足りないんだろうか。
 いや、でも理性的に伝えられる範囲ではめいっぱい伝えているのだ。これ以上曝け出してはいろいろと曝け出すことになってしまう。
 そう、いろいろと。
 いろいろと……引かれそうな部分まで。
 嵐志はため息をついた。

「……とにかく、仕事が落ち着くまでは……ストレスが溜まってる時に会うと何をしてしまうか分からないから……」
「触り尽くして舐め回して声出なくなるまで喘がせるんだっけ?」
「なんだその言い方、まるで俺が変態みたいだろうが」
「え、違うつもり?」

 思わず黙って見つめ合う。ふたりの姿ははたから見れば絵になるが、当人たちにはまったくそういうつもりがない。
 ちっと舌打ちして顔を逸らしたのはどちらが先か、ともあれ翠は出てきた酒を口に運んだ。

「まあでもいいじゃーん。そんなときめきがあるうちが花よ。私なんてとーんと、ときめきもなくなっちゃったしー」
「ふーん」
「うわ、どうでもよさそ」
「どうでもいいからな」

 言ってから、ちらと翠の横顔を見る。
 女性にしてはシャープなラインは嵐志のタイプでは決っっっしてないが、社内外でそれなりに人気があるのは知っている。
 昔も今も。

「うちの青柳くんなんかどうだ、なかなか将来有望でオススメだぞ」

 社長息子なのだからという揶揄込みで言ってみる。光治が片思いを自覚しているかどうかは分からないが、翠を意識しているのは間違いない。
 嵐志と菜摘の距離を近づけてくれたささやかなお礼として、翠の仲を取り持ってやるのもいいかもしれない。
 そう思ってのジャブだったが、翠は呆れたように笑った。

「あはは、コージくん? 歳離れすぎでしょ」
「そうだったか。何歳差だ?」
「十かな……いや九? 八? 分かんない」

 翠は適当に答えて笑う。

「分かんないけど、私が社長のお世話になり始めた頃は中学生だったかなぁ。かわいかったよ、ヤンチャな目して。何かといえばこっちを見てくるんだけど、目が合うと慌てて睨みつけてきたりして」

 くすくす笑う翠に、嵐志も笑いそうになる。
 今の光治の姿から考えても安易に想像がつく。その点はあまり成長がないらしい。

「それ、めちゃくちゃ意識してるやつだろ」
「ふふ、だからかわいいって言ったの。それに、そんなもんでしょ、思春期の男の子って」

 あっさり言う口調にはとっかかりも何もない。希望薄だなと光治を憐れみながら、嵐志はそうかもなとあいづちを打った。

「優良物件については若い子たちに譲って、私はもうちょっと、枯れた物件を探そうかなー」
「H社の社長の後妻とか?」
「あはは、いいかも」
「N社の社長のセカンドとか。専務の愛人とか」
「あのねぇ、あんた私をなんだと思ってるのよ」

 翠が苛立たしげに嵐志の肩をこづく。
 気の置けない仲間と飲むといつもこんなノリだ。
 笑っているうち、ふと嵐志の頭をよぎった。
 菜摘ともいつか、こんな気取らない時間が過ごせるだろうか。
 それには多分、自分のアレコレを曝け出す必要があるだろう。
 菜摘はそのとき、受け止めてくれるだろうか。
 それとも――。
 不意に味気なくなった酒を、舌で叩くようにして喉に流し込んだ。
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