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.第2章 猫かぶり紳士の苦悩

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 店を出て、二軒目に行こうという翠の誘いをいなしていた嵐志は、ふと視線を感じて立ち止まった。
 振り向いた先に立つ姿にあっと息を呑む。
 ――菜摘だ。
 反射的に口元を弛めかけたとき、隣に光治が立っていることに気づいた。
 肩が触れるほどの距離で並んでいる。
 嵐志と歩くとき、手を握るのも躊躇う菜摘が、自然とあの距離に立つことはない。
 光治とは幼なじみと聞いていたし、気の置けない間柄なのだろうとは分かっていた。
 それでも、こうして二人の距離感を目にしてみると、胸にチリっと焦げるような感情が走る。
 けれどそれは、向こうから見たこちらも同じだったらしい。
 菜摘は揺れる目で嵐志と翠を見つめていた。
 翠が口にした「自信なさそうだった」という言葉が脳裏をよぎる。
 飲みに行こう、という翠の誘いを断って、菜摘は一目散に走り出した。

「あら残念。四人で飲めるかと思ったのに」
「馬鹿言え、二人で勝手にやってろ!」

 翠にそう言い捨てて走り出すと、「えっ」とうろたえる光治の声がした。

「仕方ないなー、コージくん、行こ」
「いや待て! 仕方なくない! な、なんでお前とふたりで……ってちょっ、人の話を聞け! 勝手に腕を組むな胸を押し付けるな!」

 後ろでそんなやりとりが聞こえる。
 聞くだに、光治の動揺が甚だしい。
 ――うっすらそんな気はしてたが童貞なのだろうか。
 いや、そんなことは今どうでもいい。
 とにかく、菜摘の背中を追った。
 小柄な菜摘の姿はすぐに人混みに紛れそうになるが、揺れるポニーテールが目印だ。
 その揺れ方すらふわんふわんしていてかわいい。
 つい、その動きを観察してしまう。
 ああ、あの中に鼻を埋めて顔を埋めてスンスンしたい。そういえば菜摘は匂いも嵐志の好みだった。甘いバラのようなベリーのような匂い――
 ふわんふわんを愛でるあまり、つい、追いつくのをためらってしまった。が、我に返る。
 今は彼女の髪を愛でている場合じゃない。とにかく引き止めて誤解を解かなくては。

「待って」

 手を引くと、菜摘はうつむいて立ち止まった。目を合わせようとしないことに胸が痛む。
 「翠に強引に連れ出されて」と嵐志が口を開くより先に、菜摘はひと息に言った。

「べ、別に、何でもないので! き、気にしないでください! 神南さんの仕事が私より忙しいのはほんとだし、それなのに私じゃなくて百合岡さんとご飯食べるんだーとかそんなこと思ってないし、むしろ私より親しげだなとか、そんなことも、思ってないし!」

 めちゃくちゃ思ってる台詞だ。
 中高生か? ツンデレか?
 ヤキモチを妬かれたことは数あれど、こんなに素直で分かりやすくごまかそうとしているヤキモチが今まであっただろうか。
 抱き寄せて抱きしめて窒息しそうなくらいむぎゅむぎゅしてかわいいと好きだよを連呼したい。けど、それはダメだ。そんなことをしたら最後、歯止めが効かなくなるに決まっている。
 掴んだ腕から震えが伝わってきた。
 うつむいた菜摘は耳まで真っ赤だ。小さな耳を舐めて齧ってしゃぶってむりたい。
 ――いや待て落ち着け。落ち着け、俺。今はそういう場合じゃない。
 自分を諌めるべく息を吸うと、菜摘が顔を上げた。
 潤んだ目のまま、見るからに取り繕った笑顔を浮かべる。
 またしても、その健気な笑顔に息が止まった。

「おやすみなさい。また会社で」

 ――かわいい。
 呼吸困難になった一瞬、力が緩んだ。その隙に手を振り払われて、リスのしっぽは駅へと駆け込んでいく。
 追いかけたい。追いかけないと。でも。
 追いかけたら、そこまでだ。何もしないでいられる自信がない。
 明日はお互い仕事がある。忙しくてろくに休めなかった嵐志は、案件が落ち着いたのだからと権利を主張して休んでも文句はなかろうが、菜摘は違うだろう。
 じゃあ手加減ができるかといえば、仕事で消耗しきったこの神経で自制が効くとも思えない。
 そんな状態で菜摘に触れて、触れすぎて、嫌われでもしたら――
 伸ばした手を電柱に手をついた。
 柱に寄りかかりながら、ゆっくりと息を吐き出す。目を閉じると、菜摘の潤んだ目がはっきりまぶたの裏に焼き付いている。
 丸くてキラキラした目。
 思い出しても嵐志の呼吸を浅くする。
 直接心臓を殴りつけてくる、凶暴なかわいさだ。
 かわいすぎて、つらい。
 耐えかねてずるずる座り込んだところで、後ろから聞き慣れた足音が近づいてきた。
 光治を引っ張って歩いてくるのは、もちろん翠だ。

「あれ? 原田さんは? なんであんただけこんなとこいるのよ」
「いや……それはその」

 ごにょごにょと言葉を濁すと、翠は事情を察したらしい。
 はぁー、とあからさまに馬鹿にしたため息をついた。

「あのねぇ。あんた、いい加減腹くくりなさいよ。好きなようにしてみて、駄目なら諦める。どこまで許容できるかも、相性ってやつでしょ」
「ああ……そう……だな」

 そうだ。そうなのだ。
 それは……分かっている、のだが。

「……なんの話ですか?」

 光治が無邪気な目でまばたきすると、翠は人差し指を振ってウインクした。

「オトナの話。コージくんにはナ・イ・ショ」
「ばっ、ば、馬鹿にすんなよな! 俺だってもう立派なオトナだっての!」

 うん、やっぱり童貞なんだろうな。
 しかしそんなことはどうでもいい。
 翠の高笑いと光治の不満げな声を聞きながら、嵐志は菜摘が去った駅の方を眺めた。
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