上 下
26 / 37
.第4章 可愛い彼女の愛し方

..03

しおりを挟む
 菜摘は週が明けると、翠からランチに誘われた。
 集合場所は、前回ばったり会った会社近くのレストランだ。
 ちょっと早めに抜けられたという翠は、菜摘が着いたときにはもう席に座っていた。

「こないだはお疲れ。あの後、少しはゆっくりできた?」
「えっと……まあ……」

 会社からの連絡で中断されはしたものの、まあ、それなりに恋人らしい時間を過ごすことはできたと思う。
 あいまいにうなずくと、翠は満足げに「それはよかった」とうなずいた。

「ね、ね。それで、嵐志くんから受け取った?」
「受け取るって……何を?」

 「わくわく」という擬音が背中に見えそうな翠に、菜摘は首を傾げ返す。
 翠は「ああ、まだなの? それなら、いいのいいの」と笑って手を振った。
 菜摘は不思議に思ったものの、今までの翠とのやりとりでも謎が多いのは感じている。
 あえてそれ以上つっこまず、軽く頭を下げた。

「あの。あの日は、ありがとうございました」
「え?」

 翠が驚いたような顔をする。菜摘は顔を上げて微笑んだ。

「あの日……私が、会いたいって思ってたの察して、神南さんを呼んでくれたんですよね?」

 翠は何も言わず、菜摘の言葉を待っている。
 菜摘は気恥ずかしさをごまかすように、耳の上の髪を指先で撫で上げた。

「あの後、ちょっと反省しました。私……今まですごくワガママだったなって、今さら気づいて」
「ワガママ?」
「はい」

 翠の問いに、菜摘はうなずく。
 あの日――嵐志とわずかながら、濃密な時間を過ごしたあと。
 ひとり、部屋に残された菜摘は、冷静に自分を振り返って気づいたのだ。
 会えない時間が積み重なるたび、不安ばかりが大きくなって、嵐志に愛想を尽かされたくないと、嵐志のことばかりを考えていた。
 ――けれど、そんな関係は、自分も嵐志も望んでいないんじゃないか、と。
 行ってらっしゃい――あのとき、励ましを込めて声をかけた菜摘に、嵐志は心底嬉しそうな笑顔を返してくれた。
 それが、菜摘にとっても嬉しかった。今までの、どこか他人行儀な距離感ではなく、ちゃんと対等に、人として向き合えた気がしたのだ。
 嵐志の仕事が忙しいのは知っている。
 だからこそ、それを支えられるパートナーでありたい。
 そのためには――ただ待っているばかりではいけないのだと、改めて気づいた。

「神南さんのこと、待っていよう、とばかり思ってたんですけど……そうじゃないですね。なんていうか……ただ待ってるだけじゃなくて、もっと、私は私にできることを、一つ一つやっていこうって思います。――やっていきたいなって、思います」

 嵐志に会えない日が続いて、翠との噂を耳にしたとき。
 入社以後何度も聞いた、ただのミーハーな噂と分かっていながら、菜摘は何も言えなかった。
 嵐志の彼女は自分だ、と、言う勇気がなかった。
 自分に自信がなかったから――ということもある。
 けれど……あの噂が気になったのは、それだけが理由ではないのかもしれない。
 菜摘の人生は、菜摘のもの。
 それは嵐志がいてもいなくても、関係ないのだ。
 菜摘は菜摘で、自分の理想の姿を目指して、努力をしたい。
 入社前、翠に憧れたとおり、芯のある女性に少しでも近づきたい。
 ――嵐志と会えないとか、自分に自信がないとか、嘆いている場合じゃないのだ。
 菜摘は軽く顎を引いて、小さく拳を握った。

「私……いつか、胸を張って神南さんの彼女だって言えるようになりたいです」

 きちんと、自分の足で立って。
 その上で、嵐志の横に並んでいたい。
 翠の方が似合っている、だなんて、自分でも思わなくていいくらいに。
 ひとりのパートナーとして、嵐志と向き合いたい。
 菜摘の言葉に、翠はきょとんとした後、「そっか」と頬を緩めた。

「うん、いいね。私も応援するよ」
「ありがとうございます」

 翠のウインクに頭を下げて答える。
 ふたりは笑い合って、和やかな時間を過ごした。

 ***

 翠とのランチは、週一ペースで半ば定番化された。
 菜摘は宣言通り、前向きに仕事に向かっている。
 面倒臭がられる仕事を率先してやったり、他部署への連絡やお使いを引き受けたり。
 だからだろうか、ここ最近、色んな社員から挨拶されるようになった。挨拶を交わせる人が増えるたび、菜摘の自信も少しずつ増えていく――そんな感覚がある。
 翠もそんな菜摘の様子を気にかけてくれているらしい。いい噂を聞けば「がんばってるみたいだね」と姉のように喜んでくれていた。

「でもさー、あれから一ヶ月になるよね。いい加減、嵐志くんとのデートの日取りは決まった?」

 翠からランチのたびにそう確認されるのもいつもの流れだ。
 菜摘があいまいな苦笑を返すと、翠は眉を寄せた。

「えー? おっかしーなぁ。そろそろ落ち着くはずなんだけど」

 何やってんだか、と頬杖をつく翠に、菜摘の方が申し訳なくなって肩をすくめる。
 嵐志からは、相変わらず、二、三日に一度メッセージをやりとりする程度だ。他部署への「お使い」の行き来があるときには、こっそり部屋の前を歩いて様子を見てみたりもするが、嵐志はだいたい出張でいないか、いても生き生きと働いていて声をかけられずにいる。
 恐縮した菜摘に気づいて、翠は慌てて手を振った。

「あ、違うの、別に責めてるわけじゃなくて。だってほら――嵐志くんの許可が下りたら、一緒に行こうって言ってたじゃない?」
「一緒に……?」
「あら。忘れちゃった? バーのこと」

 ああ、と菜摘はうなずいた。
 そういえば、そんな約束もしていた。
 翠がふふっと笑う。

「私、楽しみにしてるんだから。早く行きたいのになぁ。肝心の嵐志くんに聞く機会がないんじゃねぇ……」

 後半、少し考えるような顔をした翠は、不意ににやりと唇の端を引き上げた。

「――ね。それじゃあさ」

 翠は楽しげに菜摘に顔を近づけた。
 どこか悪巧みしているような笑顔だが、この表情が一番、彼女を魅力的に見せるらしい――と、最近つき合いの増えた菜摘は発見した。

「この際、もう行っちゃう? 会社近くのバー」

 一瞬、菜摘は答えに迷った。嵐志が反対するだろう、と翠が言ったのが気になったのだ。
 嵐志が駄目だと言うのなら、あまり気乗りはしない――けれど。

「別に嵐志くんが保護者ってわけでもないんだし、菜摘ちゃんだってオトナだし~」

 ね、行こうよ。
 そう肩をつつかれれば、気持ちが揺らがないはずもない。
 だいたい、嵐志が反対するかもしれない、というのも、翠の推測でしかないのだ。
 行っていいかと聞いたら、むしろ「なんでそんなこと、いちいち俺に聞くんだ。自分で考えろ」と呆れられてしまう可能性だってある。
 ここ最近、仕事で頼られることが増えてきているのも、菜摘の背中を後押していた。
 そう、菜摘だって立派なオトナなのだ。自分で判断したことは、自分で責任を取れる。
 ――それが自立した女性というものなのだから。
 翠は「どう?」とウインクを投げてきた。
 こくこくと小刻みにうなずいたのは、ほとんど無意識だった。

「よし、決まり!」

 翠は手を打つと、晴れやかな笑顔で菜摘の肩をたたく。

「それじゃ、今週の金曜にね。――たっのしみぃ!」

 心底楽しげな翠の口調に、菜摘の口元も思わず弛む。
 嵐志の顔が浮かんだが、浮き立つ気持ちがそれを打ち消した。
 別に、何の問題もないはずだ。
 だって、ただバーに行くだけなのだし。
 翠と一緒に飲みに行くだけだ――
 思えば思うほど、だんだんわくわくしてきた。
 翠とバー。エステに続き、また新しい世界が広がりそうだ。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

ベッドの上の花嫁

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:16

早朝の教室、あの人が待ってる

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:2

ろくでもない初恋を捨てて

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:205pt お気に入り:31

同期の姫は、あなどれない

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:775pt お気に入り:18

【R18】優しい嘘と甘い枷~もう一度あなたと~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:56pt お気に入り:932

飯がうまそうなミステリ

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

青いトマト

児童書・童話 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

或る神社

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

祭囃子と森の動物たち

ライト文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

処理中です...