羽子板星

まみはらまさゆき

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第3章

(2)ひとごろしの孫

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ある冬の日、彰子を巡ってこんなことがあった。
彰子は、病気で1週間ほど休んでからの登校だった。

体育の時間のことだった。
彰子は見学を申し出た・・・それは連絡帳にも祖父により書かれてあったことで、彼女は祖父から言われたとおりにしただけのことだった。

バカラはそこで怒りを露わにした。
クラスの子供たちが並ぶ目の前で、彰子を平手で打った。

彰子は横ざまに飛ばされた。
飛ばされた先で転がったまま、立ち上がれなかった。

いくら牧雄でも、バカラに立ち向かって止めようということなどできなかった。
整列していた子供たちは恐怖で、身を寄せ合っておしくらまんじゅうのように固まった。

「日頃から体を鍛えないから、病気なんかするんじゃぁ!」

バカラは怒鳴りながら彰子を立たせ、今度は反対方向へ平手で打った。
また彰子は飛ばされた。

「立つんだ、こらぁ! なんだこの弱虫!」

なんとか立ちあがった彰子だったが、バカラは体育の授業に参加するように命じた。
体操服は持ってきていなかったから、通常の服装で。

牧雄はバカラに対して、何もできない自分が悔しくてならなかった。
どういうわけか知らないけれど彰子は日頃バカラから目の敵にされていて、いじめっ子から彼女を守っていた牧雄のことも良く思っていないだろうとは彼自身感じていた。

相手が同年輩の子供だったら、彰子に代わって反抗できたかもしれない。
しかし相手は背丈も力も勝る上に、担任教師という神様以上に絶対的な存在だ。

少しでも刃向かえばただでは済まず、ひょっとしたらさらにまた彰子に累が及ぶかもしれない。
泣きたくても泣けないまま、牧雄も体育の授業として校庭をむやみに走らされた。

そして彰子は体調を崩してしまい、放課後は牧雄が肩を貸すようにして帰った。
ただでさえランドセルは重いのに、彰子の体重もあってふらふらとよろめきながらの帰宅。

それなのに山田の取り巻きたちがふたりの周囲につきまとい、牧雄を小突いたり蹴ったりする。
山田は背後から従いてきて楽しそうにそれを眺めるだけ・・・彼は自分では手を下さず、取り巻きたちにやらせて見物するのが常だった。

団地の入り口からは彼らもふたりから離れ、そこからは長い道のり。
冬の陽はだいぶ傾き、もつれ合うふたりの影を雑木林の木々の影の間に映し出す。

誰か大人が通れば助けてもらえたかもしれないが、生憎と人も車も通りかからない。
それでも公社住宅に着き、部屋まで階段を登るのが最後の関門。

ようやく牧雄のうちに彰子を収容し、押し入れから布団を引っ張り出して彰子を寝かせた。
彰子に布団を被せると牧雄も疲れ切ってしまい、何も被らず寝てしまった。

寝ている間に夕方となり母親が仕事から帰ってきて、そこからがまた一騒動だった。
仕事中のところを母親から電話で呼び出された彰子の祖父は、車を飛ばして帰ってきた。

事情を牧雄から聞くと祖父は、まだバカラが学校にいるかもしれないと怒鳴り込みに行ってしまった。
牧雄は泣きながら母親に悔しさを打ち明け、母親は「悔しいけど、よく我慢した」と牧雄を抱きしめながら頭を撫でてくれた。

結局、バカラはすでに帰宅したあとで、彰子の祖父の怒鳴り込みは不発に終わったようだ。
しかし祖父が学校を訪ねて来たことはバカラの耳にも入り、それがさらなる事件を呼ぶこととなった。

・・・

彰子が休んでいる間に、道徳の授業があった。
しかしバカラは教科書を開かせずに、独自の進め方をした。

「皆さん、誰とは言いませんが、このクラスの中の誰かのおじいさんは、むかし人を殺しました」

いつもと違って丁寧な口調・・・そう、馬鹿丁寧な。
教室の中に、不安を孕んだ不思議な不穏な空気が流れた。

そもそも小学1年生にとっては、死とはどのようなものだろうかという感覚すら未熟だった。
通っていた小学校は核家族の新住民も多く、肉親が衰え死んでゆく姿を間近に接した子は少なかった。

せいぜい、捕まえた虫が死んでしまった、道端で猫か狸が車に轢かれて死んでいた、程度の経験しかなかっただろう。
・・・クロちゃんが死んでしまったときの、彰子のように。

いや、あのときの彰子は確かに悲しんでいたし、心を痛めていたと思う。
しかし虫や金魚と違って人が死ぬって、どういうことだろう・・・何が違うのだろう・・・?

教室の中には、怯えたような子もいたかもしれない。
バカラは何やら満足そうに笑顔を浮かべ、教室を眺め渡した。

「人を殺すことについてどう思うのか、そして人を殺した人の子供がこのクラスにいることについてどう思うのか、これから原稿用紙を配ります。どんな考えでも構いません。先生は何も言いません。自由に書いてください」

そこで牧雄ははっとした。
そして混乱した。

いくらバカラでも、出席している子とその親についてそんなこと言うわけはない。
欠席しているのは、その日は彰子一人ではないか。

つまり、彰子の祖父は「ひとごろし」だったのか?
そんなはずはないと思いたかった。

彰子の祖父が「ひとごろし」なのが問題ではない。
彰子が「ひとごろし」の孫でないことが、何より重要だった。

配られた196字詰め原稿用紙を前に、牧雄は何もできないでいた。
生まれて初めて「冷や汗」というものを意識した。

そして、気づいた。
これはバカラなりの「しかえし」だと。

こないだ、彰子の祖父が学校に殴り込んだことはバカラも知っているだろう。
反抗してくる相手に対する、これは「しかえし」だと。

それに気づいたからには、もう何も書くわけにはいかなかった。
そう、書けないのではなく書かないのだ、と。

テーマが1年生には難解だったためか、大半の子は作文を完成できないまま時間切れとなった。
牧雄も含め書ききれなかった子たちは、放課後居残りとなった。

バカラは机に向かったひとりひとりに拳骨を落としながら、教室を回った。
廊下の窓から、要領よく作文を時間内に書き上げた山田が、「やーい、やーい、バカバカバカ~」と囃し立てた。

「山田君を見てみろ! 君らと違って、きちんと時間を守って書き上げた。それもとても良いのを! 山田君の作文は、今度皆んなの前で発表してもらう。そしてここに残った君らは、秀才の山田君にバカと言われてもしょうがない・・・本当のことだぞ!」

そして、バカラは牧雄の机のそばで立ち止まった。
牧雄の前には全く空白の原稿用紙が置かれ、そして牧雄は両手を机の下に隠していた。

それは、彼なりの反抗だった・・・覚悟の度合いで言えば、自分の命を賭していると言って良いくらいの。
バカラは牧雄の反抗を、そのまま反抗として受け取ってくれた。

「貴様ぁ・・・このぉ・・・」

バカラは両手で作った拳をわなわなと震わせた。
牧雄は見せつけるように、鉛筆で原稿用紙にぐしゃぐしゃとでたらめに書き殴った。

次の瞬間、牧雄はバカラの鉄拳が降りかかる前に身をかわして机から離れた。
教室後ろのロッカーからランドセルと手提げがわりの巾着袋を引っ掴むと、猛烈に走って教室の外に出た。

なぜか、愉快だった。
仇を取ったような気がして、高笑いしながら校庭を突っ切って道路に出た。

そのまま、家まで走った。
家に入ると死にそうなくらい息が切れ、真冬なのに水道の水をがぶ飲みした。

とにかく、楽しくて仕方がなく、この喜びを鉄工所の休憩室で寝かせられているだろう彰子に伝えたい思いだった。
いい気になって有頂天で炬燵テーブルの上に足を投げ出して、用意されていたポテトチップをバリバリ食べた。

しかし、バカラは家までやってきた。
ちょうど、牧雄の母親が仕事から帰ってきたのと同じだった。

玄関先でバカラは、牧雄が残した答案用紙を示しながら母親に牧雄を出せと迫っているようだった。
牧雄は、いつ母親が彼を裏切ってバカラに引き渡すかとドキドキしながら部屋の奥でやり取りを聞いていた。

しかし最後まで母親は牧雄をバカラに差し出さず、結局バカラは悪態をつきながら階段を降りていった。
これでやっと一安心、と思ったがすぐにそうならず、牧雄は母親の前に正座させられた。

二人の間には、鉛筆の線が乱雑に踊る原稿用紙。
母親は怒っていた。

「これはどういうことなの? お母さんに分かるように説明してちょうだい」

牧雄は仕方なくというわけでもないが、事情を話した。
「ひとごろし」の件も含めて。

話を聞き終わった母親は、泣いていた。
それは決して牧雄に対する怒りや悲しみの涙でないのは、すぐに分かった。

母親は彼を抱きしめた。
そして労わるように、頭を撫でた。

「マキちゃん、あなたは強い子・・・そして、優しい子」

褒められているようで心がくすぐったく、そして行動が肯定された嬉しさで牧雄は笑顔になった。
けれどもなんだか、聞けなかった。

「アキコのおじいさんって、本当に『ひとごろし』だったの?」と。
・・・いや、もう彼にはそんなことなどどうでも良かった。

彰子の祖父がどんな人であろうと、牧雄にとって彰子は彰子だった。
そしてその彰子は牧雄にとって、かけがえのない存在であって守るべき存在でもあった。

夕食後、牧雄はテレビも観ずに冷たい風の吹きさらすベランダに出た。
左側・・・東の空にみっつの明るい星が上っていて、その上に青くて小さい星の群れがあった。

「昴」という名を知るのは、ずっと後のことだった。
彰子の祖父が過失で人を死なせてしまいそれを十字架のように背負って苦しんできたのを知るのは、さらに後のことだった。
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