虚弱なヤクザの駆け込み寺

菅井群青

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第三部

腱鞘炎

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「じゃ、行ってくる」

 組長は靴べらを舎弟に手渡すと玄関を出ようとする。町田も靴を履き引き戸に手をかけた。

「待て──司……」

 背後から爺の声が聞こえた。
 振り返るといつもの腹巻スタイルで爺が屋久杉の置物の前で仁王立ちしている。珍しく見送ってくれるようだ。

「あぁ、爺、悪いな……行ってくる」

「一つ聞きたい、手首の痛みに鍼は効くか?」

「……手首? 爺がか?」

 組長が爺の手首を押さえると痛みで顔をしかめた。どこか熱っぽい感じもする。

「俺、事務所に行くから院に車で送ってもらってくれ。先生には連絡しておくから」

「すまない……」

 いつになく爺がしおらしいのが気になるが、もう時間がない。組長は後ろ髪引かれる思いで屋敷をあとにした。


 事務所である程度仕事をすませるとそのまま院へと向かった。

 院に着くと爺がご機嫌で待合のソファーに腰掛け濃い紫の箱を撫でている。箱には熨斗紙が貼られ御中元と書かれている。紫まむし極楽一発ドリンクを御中元に送る輩は爺ぐらいだ。

「おう、早かったな」

「随分と元気そうだな……朝は元気なかったのに」

「ああ、あの時はちょっとスタミナ切れでな、もう問題ない」

スタミナ? 朝から?


 幸がカルテを持ち爺の前に座る。その視線は手首に注がれている。 

「万代さん、手首はどうしたんですか? 何か運動でも?」

「ああ、実は朝からサツキちゃ──」
「あーっと、あ、先生……そのドリンク冷蔵庫でキンキンに冷やした方がいいんじゃないか?」

 幸は「いけない、うっかりしてた」といそいそと箱ごと奥の部屋へと持っていく。ドアが閉まったのを確認すると組長は爺を睨みつける。

「おい、サツキって……例のAV女優だろうが……まさかその手首……」

「お、サツキちゃんも有名になったもんじゃ……朝からきたんじゃが激痛が走ってしまってな」

「チッ……有料チャンネル登録しやがったな……」

 どうやら爺は我慢できずに試行錯誤の末有料チャンネルに登録したらしい。まさに性欲の力を熱意に変え乗り切ったのだろう。まさに老人の星だ。
 朝の仁王立ちのタイミングで何発か抜いていたんだろうか……どうりであの時元気が無く、手首も熱っぽいはずだ──祖父の自慰行為の直後に会うだなんて涙なしでは語れない……。


「いいか、先生に治療をしてもらうがってことは秘密にしろ……いいな? ここを出禁になっちまうぞ」

「なぬ? 先生は自慰反対派か──分かった……」 

 いい年した高齢者がエロビデオ有料チャンネルを朝から見まくって自慰行為しすぎて手首を傷める──傷害保険の申請用紙には書けない負傷原因だ。


 いいタイミングで幸が待合へと戻ってきた。

「ごめんなさい、お待たせしました──えっと、その手首何をして痛めたんでしたっけ?」

「あ──運動をしてたんじゃが……」

「手首? どういう動きか出来ますか? あ──逆の手で」

「こうじゃ──」
「いや、こうだろう……」

 爺がクソ真面目に軽く拳を握り上下に動かしたところで組長が手首を握り腕を上げさせる。すんでのところで太鼓を叩くような動作へとシフトチェンジする。

 危ないところだ、エアー自慰行為世界選手権出場するところだった。

 幸が真面目な顔をして爺の手を見つめ同じように動きを確認する。その真剣な眼差しと動かされる幸の手の動きに組長は顔を赤らめ、爺は嬉しそうに微笑む。

「むふぉ……たまらんの──あぁ! 冗談じゃ」

 組長が爺を握る力を強めると爺が危険を察知して即座に謝る。なかなか危機管理が行き届いているようだ。

 幸はカルテに何かを書き込む。手首に触れ炎症の具合を確かめる。

「ドアをノックするような動きですね……」

「ちがう! テンポはもっと早いぞ、ノックよりももっと高速じゃ! 見えないぐらい──」

「何ムキになって訂正してんだ! そのままでいいだろうが!」

 つい変な大人のプライドが出てしまったようだ。「そんなもんじゃない」と拗ねている。
 幸は大きく頷くとカルテに何かを書き込んだ。気のせいだろうか、カルテの端に〈高速〉と書かれた気がした。
 幸はそのまま鍼の準備を始めた。爺をベッドに仰向けにさせるとその手首や前腕部分に鍼を打つ。さすがに痛むのか爺の顔が歪む……。

「万代さん、運動で傷めてしまいましたが、は長生きの秘訣です。ぜひ続けてください」

「少し金を注ぎ込んでしまったので、回収するまではヤるつもりですじゃ。初期投資は掛かるが、あとは体だけがあれば……」

「逆の手でも出来るかしら? 痛むようであれば左手でも……」

「いや、何十年もやり方は決まってるから逆の手じゃ上手く出来んかもしらんのう……司もそうじゃろ?」

「俺に振るな。孫だからこそ踏み込んじゃダメなテリトリーだから」

 悪友ですら踏み込めない部分にいとも簡単に足を踏み入れる爺に組長は溜息が止まらない……。

 治療が終わると爺は喜んで帰って行った。

 あくる日の朝……爺は満面の笑みで俺の寝室へとやって来た。老人の朝は早い。

「司、絶妙な角度もバッチリじゃ! 先生に伝えておいてくれるか? 最後の追い込みもノンストッ──」

「言えるか!」

 最悪な朝の目覚めを迎えた組長は二度寝をする事にした。
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