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3.tre ー薫sideー
tre-6
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父の経営する会社は同じ商社だが、どちらかと言えば総合商社に近い。その規模は、私の会社など遠く足元にも及ばない。
そびえ立つその自社ビルを見上げ、自分は次男でよかった、なんて思う。自虐ではなく本心だ。これだけの重いものを背負う自信などない。自分は与えられたものをただ淡々とこなすだけで、強請ったわけでも勝ち取ったわけでもない。今まで生きてきて、自分の力だけで手に入れたものなどなかったはずだ。
(我ながら……つまらない生き方だ……)
視線を下ろすと軽く息を漏らし、ビルのエントランスに向かう。井上から事前に連絡を入れておくと聞いていた。今日父は不在で挨拶は不要、経理部にだけ顔を出せばいいと。
「初めまして。穂積薫です」
「山下です。お噂はかねがね伺っております」
握手を交わした相手は現在の経理部長。私がこの会社を去ったあと兄がヘッドハンティングしてきたらしい。私より年上で経験も豊富。なかなかのやり手だと耳にしていた。そんな挨拶をしていると、向こうから大きく手を振る女性の姿が見えた。
「わぁっ。社長! 本当に来てくれたんだ!」
変わらないその態度に安らぎを覚えるが、私と彼女の仲を知らない山下部長はその軽々しさにギョッとしているようだ。
「久しぶりだな、唐橋。これ。良かったら。経理部の人数ほどしかないが」
「アルテミスのドリップバッグじゃない! さすが社長。これ、なかなかに品薄でしょ?」
「ありがたいことにそのようだな」
「ありがとうございます。いただきます!」
手土産を受け取り、ニコニコと私を見るその姿は以前となんら変わらない。
「積もる話もあるし……、場所変えません? 部長。社長、お借りしますね?」
悪気のない押しの強さに圧倒され頷く部長とのやりとりに、ほんの少し笑みが溢れた。
「――にしても……変わらないね。穂積君は」
人前では役職で呼ぶが、二人きりになると昔のように私をそう呼ぶ。この会社にいる頃からそうだった。最初に机を並べて一緒に仕事をしていた相手が部長になり、『部長』と呼びながらも変わらずとして接してくれた。それに眉を顰めるものもいたが、それが嫌ではなかった。
「そう言う唐橋も変わらない。昔を思い出す」
この会社にある休憩スペースの隅。唐橋は「こんなのでごめん」と言いながら自動販売機で買った缶コーヒーを差し出した。
「それにしても。井上さん、さすが! 仕事早いわぁ。たった二週間で穂積君が現れるとは思ってなかった」
景色の良い窓際に面したカウンターに並んで座り、彼女は同じ缶コーヒーを開けながら明るい笑い声を上げる。
「偶然会ったと聞いたが……」
「そうなのよ。保育園帰りの公園で。ふうちゃんママと歩いてたから、ふうちゃんのパパだったんですか! なんて言っちゃって」
「ふうちゃんママ? 井上は子ども連れの女性といたのか?」
見え隠れするその女性の影。保育園から帰る時間帯に一緒に歩くほど親しいようだ。
「そう。でもあとで考えたら、私も馬鹿なこと言っちゃったなって」
唐橋は笑いながら缶を口に持って行く。そして、黙ったままの私に構うことなく続けた。
「ふうちゃんの名前、ますだふうか、なのに」
心臓がドクンと音を立てたような気がした。缶を握ったままの手は、自分の意に反して震えていた。
「その子の……母親の名は?」
視線を落とし、震えた右手を押さえるように左手を重ねて尋ねる。
「ママの名前知るほど、まだ仲良くないのよねえ……」
窓に向かったまま唐橋は言うと、缶コーヒーを傾ける。そして、不意に「あっ」と声を出した。
「そういえば、うちの息子が前言ってたな。ふうちゃんママ、僕に名前似てるんだよって」
「君の子は確か……」
遠い記憶を手繰り寄せる。
昔出産祝いを渡し、その時にその名前を聞いたはずだ。名前は、『あやと』だと。
何故、という思いだけが頭の中を渦巻いていた。
どう歩いたか記憶にないほど動揺していたのだろう。いつのまにか駐車場に辿り着き、車に乗り込むとシートに身を預けていた。
(何故……井上は何も言わない……)
恨みがましく醜いことを考えてしまう自分がいる。だが頭が冷えてくると、その理由がわかる気がした。自分が亜夜を探さなかったのと同じだ。
ローマから帰り、連絡を取ろうと思えばすぐ取れた。だが、そうしなかったのは、彼女を穂積の家に近づけたくなかったからだ。
ただ交際するだけなら祖父も目を瞑っただろう。けれど、それ以上となるとそうはいかない。周囲の反対を押し切ったところで、幸せな未来が待ち受けているとは思えなかった。
(だから……。求めなかった。……探さなかったんだ)
それは自分勝手な言い訳に過ぎない。その選択が今、亜夜を苦しめているとも知らず、のうのうと過ごしていた自分が腹立たしい。
二人で撮った、たった一枚の写真を未練がましく見ていたことに、井上はおそらく気づいている。それでも、井上は何も言わなかった。
スマートフォンを取り出すと、地図アプリを起動する。元々部下だった唐橋がどの辺りに家を構えたかは覚えている。家の近くには大きな公園があると言っていた。そして……。
「ここ、か……」
私はその場所を頭に入れスマートフォンをしまった。
(……求めてもいいのだろうか)
いや、彼女に拒絶されようともう諦めたりしない。諦められるわけはない。
子どもの名前は『ふうか』。
漢字などわからない。だが、自分には浮かぶ字がある。
薫風。そして私と同じ、かおる。
彼女の想いを知るのは、それだけで充分だった。
そびえ立つその自社ビルを見上げ、自分は次男でよかった、なんて思う。自虐ではなく本心だ。これだけの重いものを背負う自信などない。自分は与えられたものをただ淡々とこなすだけで、強請ったわけでも勝ち取ったわけでもない。今まで生きてきて、自分の力だけで手に入れたものなどなかったはずだ。
(我ながら……つまらない生き方だ……)
視線を下ろすと軽く息を漏らし、ビルのエントランスに向かう。井上から事前に連絡を入れておくと聞いていた。今日父は不在で挨拶は不要、経理部にだけ顔を出せばいいと。
「初めまして。穂積薫です」
「山下です。お噂はかねがね伺っております」
握手を交わした相手は現在の経理部長。私がこの会社を去ったあと兄がヘッドハンティングしてきたらしい。私より年上で経験も豊富。なかなかのやり手だと耳にしていた。そんな挨拶をしていると、向こうから大きく手を振る女性の姿が見えた。
「わぁっ。社長! 本当に来てくれたんだ!」
変わらないその態度に安らぎを覚えるが、私と彼女の仲を知らない山下部長はその軽々しさにギョッとしているようだ。
「久しぶりだな、唐橋。これ。良かったら。経理部の人数ほどしかないが」
「アルテミスのドリップバッグじゃない! さすが社長。これ、なかなかに品薄でしょ?」
「ありがたいことにそのようだな」
「ありがとうございます。いただきます!」
手土産を受け取り、ニコニコと私を見るその姿は以前となんら変わらない。
「積もる話もあるし……、場所変えません? 部長。社長、お借りしますね?」
悪気のない押しの強さに圧倒され頷く部長とのやりとりに、ほんの少し笑みが溢れた。
「――にしても……変わらないね。穂積君は」
人前では役職で呼ぶが、二人きりになると昔のように私をそう呼ぶ。この会社にいる頃からそうだった。最初に机を並べて一緒に仕事をしていた相手が部長になり、『部長』と呼びながらも変わらずとして接してくれた。それに眉を顰めるものもいたが、それが嫌ではなかった。
「そう言う唐橋も変わらない。昔を思い出す」
この会社にある休憩スペースの隅。唐橋は「こんなのでごめん」と言いながら自動販売機で買った缶コーヒーを差し出した。
「それにしても。井上さん、さすが! 仕事早いわぁ。たった二週間で穂積君が現れるとは思ってなかった」
景色の良い窓際に面したカウンターに並んで座り、彼女は同じ缶コーヒーを開けながら明るい笑い声を上げる。
「偶然会ったと聞いたが……」
「そうなのよ。保育園帰りの公園で。ふうちゃんママと歩いてたから、ふうちゃんのパパだったんですか! なんて言っちゃって」
「ふうちゃんママ? 井上は子ども連れの女性といたのか?」
見え隠れするその女性の影。保育園から帰る時間帯に一緒に歩くほど親しいようだ。
「そう。でもあとで考えたら、私も馬鹿なこと言っちゃったなって」
唐橋は笑いながら缶を口に持って行く。そして、黙ったままの私に構うことなく続けた。
「ふうちゃんの名前、ますだふうか、なのに」
心臓がドクンと音を立てたような気がした。缶を握ったままの手は、自分の意に反して震えていた。
「その子の……母親の名は?」
視線を落とし、震えた右手を押さえるように左手を重ねて尋ねる。
「ママの名前知るほど、まだ仲良くないのよねえ……」
窓に向かったまま唐橋は言うと、缶コーヒーを傾ける。そして、不意に「あっ」と声を出した。
「そういえば、うちの息子が前言ってたな。ふうちゃんママ、僕に名前似てるんだよって」
「君の子は確か……」
遠い記憶を手繰り寄せる。
昔出産祝いを渡し、その時にその名前を聞いたはずだ。名前は、『あやと』だと。
何故、という思いだけが頭の中を渦巻いていた。
どう歩いたか記憶にないほど動揺していたのだろう。いつのまにか駐車場に辿り着き、車に乗り込むとシートに身を預けていた。
(何故……井上は何も言わない……)
恨みがましく醜いことを考えてしまう自分がいる。だが頭が冷えてくると、その理由がわかる気がした。自分が亜夜を探さなかったのと同じだ。
ローマから帰り、連絡を取ろうと思えばすぐ取れた。だが、そうしなかったのは、彼女を穂積の家に近づけたくなかったからだ。
ただ交際するだけなら祖父も目を瞑っただろう。けれど、それ以上となるとそうはいかない。周囲の反対を押し切ったところで、幸せな未来が待ち受けているとは思えなかった。
(だから……。求めなかった。……探さなかったんだ)
それは自分勝手な言い訳に過ぎない。その選択が今、亜夜を苦しめているとも知らず、のうのうと過ごしていた自分が腹立たしい。
二人で撮った、たった一枚の写真を未練がましく見ていたことに、井上はおそらく気づいている。それでも、井上は何も言わなかった。
スマートフォンを取り出すと、地図アプリを起動する。元々部下だった唐橋がどの辺りに家を構えたかは覚えている。家の近くには大きな公園があると言っていた。そして……。
「ここ、か……」
私はその場所を頭に入れスマートフォンをしまった。
(……求めてもいいのだろうか)
いや、彼女に拒絶されようともう諦めたりしない。諦められるわけはない。
子どもの名前は『ふうか』。
漢字などわからない。だが、自分には浮かぶ字がある。
薫風。そして私と同じ、かおる。
彼女の想いを知るのは、それだけで充分だった。
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