49 / 81
6.sei
sei 〈井上side〉-2
しおりを挟む
富や名誉、地位を持っている相手に取り入ろうとするもの、足を掬おうとするもの。持つものが大きければ大きいほどそういう輩は増えていく。そんな気がするのは、薫さんを身近で見ていたからだろうか。
「そろそろ……会長の耳にも入っているのかも知れませんね」
「だろうね。御大、何か言ってくると思う?」
「どうでしょう……」
もしかするともう調べなどついているのかも知れない。そう考えると、今日亜夜さんの姿を会長に見せないようにしたのは正解だった。
「けどさ……」
安藤は急に言い辛そうに口籠る。不思議に思い顔を上げると安藤は頭を掻いた。
「乃々花が言ってたんだけど……」
自分の妻の名を出すと戸惑い気味に切り出した。
「いや、ほら。薫さんと正式に婚約を解消したときさ。乃々花、市倉の親父さんと穂積の本家に謝りに行ったじゃん?」
ほぼ会うことのなかった、薫さんの元婚約者、乃々花さんが単身ここを訪れたのは一年と少し前のこと。
そのとき薫さんと私は、何度目かのローマ訪問中だった。安藤だけこちらに残っていて、そして婚約解消の申し出を受けたのだ。
無論、お嬢様の気まぐれと最初は相手にしなかったらしい。がのちに、市倉家の名前でなく一人の力で生きたいと言う乃々花さんを手助けするうちに絆された、なんてことを照れ隠しのように言っていた。
「そうでしたね。会長はやけにあっさりしていたとか?」
「そうなんだよなぁ。親父さんもさ、今後の取引きに影響することも覚悟してたらしいんだけど」
「しなかった、というわけですね?」
あの婚約は、家同士の繋がりだったはずだ。それをほぼ一方的に解消するということは、それ相応のペナルティがあって当然だ。
「でさ。乃々花、言ってたんだよ。薫さんは、御大のことを――」
久しぶりに見る薄紅色の暖簾。そこには白い文字で控えめに【小料理屋 恵】と書いてある。それを潜ると現れるのは木枠の引き戸。記憶よりずいぶんと色褪せていて、その流れた歳月を思い知った。
その戸をカラカラと開け中に入る。こじんまりとした店内に入ると、すぐに見える白木のカウンターの向こうには、割烹着姿の女将の姿があった。
「あら。……いらっしゃいませ。お久しぶりね」
「……ええ」
時間はまもなく22時。それなりに遅いからかテーブル席に人はいない。カウンターに二人ほど並んで男性客が座っているだけだ。その客から離れたカウンターの一番隅に向かうと腰掛けた。
「お飲み物は何になさいますか?」
おしぼりを差し出しながら微笑む女将の顔は、時が止まったように昔と変わっていない。もう五十と少しの年齢になっているが、まだ四十代前半と言っても通用するだろう。
「ビール……いや、冷酒を。食べるものはお任せします」
女将は私の注文に少し瞳を開く。珍しく私が酒を頼んだからだろう。
「はい。お待ちください」
しばらくすると女将がやってきて、目の前に小鉢を置く。野菜の炊き合わせ、冷奴、造り。元々私がそう食べないことを知っているからかどれも少量ずつ。最後にガラス製の猪口を置くと、「おつぎしましょうか?」と尋ねられた。
「お願いします」
猪口を持ち上げると女将は微笑みを浮かべ冷酒を注いだ。
「ごゆっくり」
静かに言うと女将はまた戻っていく。彼女が先客の後ろを通ると「女将、若い兄ちゃんにはサービスいいな」と、酒に酔っている下品な声が聞こえた。
「何をおっしゃっているんですか。いつもおつぎしてるじゃないですか」
女将は気にする様子もなく穏やかな口調で答えていた。
「それもそうか!」
連れ同士なのか、女将よりかなり年上の男性たちは騒々しい笑い声を上げていた。
(変わらないな……)
それを見て思わず眉を顰める。
女将の人柄もあり、この店の客層は良いほうだ。それでもこれくらいの客は日常茶飯事だった。そして年を重ねようが、やはり不快な気分になる自分がいた。
しばらくすると、先客は足元をふらつかせながら帰って行く。女将は外まで見送りに出て、戻るとその手には暖簾を携えていた。
「まだ客がいるのに店じまいですか?」
「あら。お客様のつもりだったんですか?」
猪口に残る冷酒をあおり尋ねると、背を向けて戸締りする女将は笑った。
「代金を支払うなら客でしょう?」
「いただくつもりなんて端からないですよ」
少しだけ声を弾ませながら女将はカウンターの中に戻って行く。向こう側からは器がカチャカチャと音を立てていた。その音がしなくなると、盆を持った女将がカウンターにやってきた。
「まだ大丈夫でしょう? よかったら食べて?」
「残りものの処理係ですか?」
女将は少しずつ料理の入った小鉢を並べると隣に座った。
「いいじゃない。実家に帰ったときくらい、貢献してちょうだい?」
女将の顔から母の顔になると、そう言って笑っていた。
「そろそろ……会長の耳にも入っているのかも知れませんね」
「だろうね。御大、何か言ってくると思う?」
「どうでしょう……」
もしかするともう調べなどついているのかも知れない。そう考えると、今日亜夜さんの姿を会長に見せないようにしたのは正解だった。
「けどさ……」
安藤は急に言い辛そうに口籠る。不思議に思い顔を上げると安藤は頭を掻いた。
「乃々花が言ってたんだけど……」
自分の妻の名を出すと戸惑い気味に切り出した。
「いや、ほら。薫さんと正式に婚約を解消したときさ。乃々花、市倉の親父さんと穂積の本家に謝りに行ったじゃん?」
ほぼ会うことのなかった、薫さんの元婚約者、乃々花さんが単身ここを訪れたのは一年と少し前のこと。
そのとき薫さんと私は、何度目かのローマ訪問中だった。安藤だけこちらに残っていて、そして婚約解消の申し出を受けたのだ。
無論、お嬢様の気まぐれと最初は相手にしなかったらしい。がのちに、市倉家の名前でなく一人の力で生きたいと言う乃々花さんを手助けするうちに絆された、なんてことを照れ隠しのように言っていた。
「そうでしたね。会長はやけにあっさりしていたとか?」
「そうなんだよなぁ。親父さんもさ、今後の取引きに影響することも覚悟してたらしいんだけど」
「しなかった、というわけですね?」
あの婚約は、家同士の繋がりだったはずだ。それをほぼ一方的に解消するということは、それ相応のペナルティがあって当然だ。
「でさ。乃々花、言ってたんだよ。薫さんは、御大のことを――」
久しぶりに見る薄紅色の暖簾。そこには白い文字で控えめに【小料理屋 恵】と書いてある。それを潜ると現れるのは木枠の引き戸。記憶よりずいぶんと色褪せていて、その流れた歳月を思い知った。
その戸をカラカラと開け中に入る。こじんまりとした店内に入ると、すぐに見える白木のカウンターの向こうには、割烹着姿の女将の姿があった。
「あら。……いらっしゃいませ。お久しぶりね」
「……ええ」
時間はまもなく22時。それなりに遅いからかテーブル席に人はいない。カウンターに二人ほど並んで男性客が座っているだけだ。その客から離れたカウンターの一番隅に向かうと腰掛けた。
「お飲み物は何になさいますか?」
おしぼりを差し出しながら微笑む女将の顔は、時が止まったように昔と変わっていない。もう五十と少しの年齢になっているが、まだ四十代前半と言っても通用するだろう。
「ビール……いや、冷酒を。食べるものはお任せします」
女将は私の注文に少し瞳を開く。珍しく私が酒を頼んだからだろう。
「はい。お待ちください」
しばらくすると女将がやってきて、目の前に小鉢を置く。野菜の炊き合わせ、冷奴、造り。元々私がそう食べないことを知っているからかどれも少量ずつ。最後にガラス製の猪口を置くと、「おつぎしましょうか?」と尋ねられた。
「お願いします」
猪口を持ち上げると女将は微笑みを浮かべ冷酒を注いだ。
「ごゆっくり」
静かに言うと女将はまた戻っていく。彼女が先客の後ろを通ると「女将、若い兄ちゃんにはサービスいいな」と、酒に酔っている下品な声が聞こえた。
「何をおっしゃっているんですか。いつもおつぎしてるじゃないですか」
女将は気にする様子もなく穏やかな口調で答えていた。
「それもそうか!」
連れ同士なのか、女将よりかなり年上の男性たちは騒々しい笑い声を上げていた。
(変わらないな……)
それを見て思わず眉を顰める。
女将の人柄もあり、この店の客層は良いほうだ。それでもこれくらいの客は日常茶飯事だった。そして年を重ねようが、やはり不快な気分になる自分がいた。
しばらくすると、先客は足元をふらつかせながら帰って行く。女将は外まで見送りに出て、戻るとその手には暖簾を携えていた。
「まだ客がいるのに店じまいですか?」
「あら。お客様のつもりだったんですか?」
猪口に残る冷酒をあおり尋ねると、背を向けて戸締りする女将は笑った。
「代金を支払うなら客でしょう?」
「いただくつもりなんて端からないですよ」
少しだけ声を弾ませながら女将はカウンターの中に戻って行く。向こう側からは器がカチャカチャと音を立てていた。その音がしなくなると、盆を持った女将がカウンターにやってきた。
「まだ大丈夫でしょう? よかったら食べて?」
「残りものの処理係ですか?」
女将は少しずつ料理の入った小鉢を並べると隣に座った。
「いいじゃない。実家に帰ったときくらい、貢献してちょうだい?」
女将の顔から母の顔になると、そう言って笑っていた。
16
あなたにおすすめの小説
潮に閉じ込めたきみの後悔を拭いたい
葉方萌生
ライト文芸
淡路島で暮らす28歳の城島朝香は、友人からの情報で元恋人で俳優の天ヶ瀬翔が島に戻ってきたことを知る。
絶妙にすれ違いながら、再び近づいていく二人だったが、翔はとある秘密を抱えていた。
過去の後悔を拭いたい。
誰しもが抱える悩みにそっと寄り添える恋愛ファンタジーです。
紙の上の空
中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。
容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。
欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。
血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。
公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。
青春リフレクション
羽月咲羅
青春
16歳までしか生きられない――。
命の期限がある一条蒼月は未来も希望もなく、生きることを諦め、死ぬことを受け入れるしかできずにいた。
そんなある日、一人の少女に出会う。
彼女はいつも当たり前のように側にいて、次第に蒼月の心にも変化が現れる。
でも、その出会いは偶然じゃなく、必然だった…!?
胸きゅんありの切ない恋愛作品、の予定です!
結婚する事に決めたから
KONAN
恋愛
私は既婚者です。
新たな職場で出会った彼女と結婚する為に、私がその時どう考え、どう行動したのかを書き記していきます。
まずは、離婚してから行動を起こします。
主な登場人物
東條なお
似ている芸能人
○原隼人さん
32歳既婚。
中学、高校はテニス部
電気工事の資格と実務経験あり。
車、バイク、船の免許を持っている。
現在、新聞販売店所長代理。
趣味はイカ釣り。
竹田みさき
似ている芸能人
○野芽衣さん
32歳未婚、シングルマザー
医療事務
息子1人
親分(大島)
似ている芸能人
○田新太さん
70代
施設の送迎運転手
板金屋(大倉)
似ている芸能人
○藤大樹さん
23歳
介護助手
理学療法士になる為、勉強中
よっしー課長(吉本)
似ている芸能人
○倉涼子さん
施設医療事務課長
登山が趣味
o谷事務長
○重豊さん
施設医療事務事務長
腰痛持ち
池さん
似ている芸能人
○田あき子さん
居宅部門管理者
看護師
下山さん(ともさん)
似ている芸能人
○地真央さん
医療事務
息子と娘はテニス選手
t助
似ている芸能人
○ツオくん(アニメ)
施設医療事務事務長
o谷事務長異動後の事務長
雄一郎 ゆういちろう
似ている芸能人
○鹿央士さん
弟の同級生
中学テニス部
高校陸上部
大学帰宅部
髪の赤い看護師(川木えみ)
似ている芸能人
○田來未さん
准看護師
ヤンキー
怖い
時間を止めて ~忘れられない元カレは完璧な容姿と天性の才能を持つ世界一残酷な人でした 【完結】
remo
恋愛
どんなに好きになっても、彼は絶対に私を愛さない。
佐倉ここ。
玩具メーカーで働く24歳のOL。
鬼上司・高野雅(がく)に叱責されながら仕事に奔走する中、忘れられない元カレ・常盤千晃(ちあき)に再会。
完璧な容姿と天性の才能を持つ世界一残酷な彼には、悲しい秘密があった。
【完結】ありがとうございました‼
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
白椿の咲く日~ひそかな恋、遠い日の思いは
紫さゆり
恋愛
結婚を控えた真由子は、久しぶりに異母姉の稚子(わかこ)と会う。
真由子の母、雪江は大学教授であり、著名な歌人の水上実之(みなかみさねゆき)の後添いとして水上家に嫁いだ。
婚約者の諒人(りょうと)のことなど、真由子は稚子と色々語り合ううち、庭の白椿の木は真由子がなついていた異母兄、靖之が植えたものだと知る。
白椿の木をめぐっての、ひそかな大人の恋物語です。
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる