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十二章
一
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辺りに静けさが戻り、どこからか鈴虫の鳴き声が聞こえ出した頃になって、ようやくすずめ、夢一、そして”風戌”と”光兎”も体を起こした。
氷の川面にへばり付いていたわけだから、体は冷え切っているはずなのに、不思議と寒くはなかった。
夏の暑さが戻ってきていた。立ち込めていた異常な冷気は消え、このぶんなら、じきに大川の氷も溶けるだろう。そんな安心感に包まれるすずめの傍らで、夢一は傷ついた青龍、”虚空の覇幻”を扇子に戻した。
霊扇虚空の覇幻の地紙はあちこちが破れ、痛々しい様相を見せている。
「ゆっくりと休ませてやらねえとな」
夢一はそっと扇子を閉じると、袂に入れた。
「今度ばかりは、傷ついたもんや喪ったもんが多すぎるぜ」
沈痛な面持ちで夢一は呟いた。
「まったくだ。俺も命を喪うかと思ったぞ」
「そう、叔父上の命も――て、なんで生きてやがる叔父上!?」
「なんだ夢坊、その言いぐさ! 生きてちゃわりいのか!?」
我聞の拳が、ごいん、と夢一の頭に落とされた。
いつからいたのか、我聞はその背中に屋形船の船頭を乗せ、全身ずぶぬれで、しかし見たところ怪我はない様子で立っていた。
「親分さん、なんでびしょびしょ?」
我聞の様子に驚くすずめに、頭の痛みに悶えながら夢一が言う。
「そうか、すずめは知らねえのか。この叔父上はな屋形船もろともぺしゃんこになって死んだはずだったんだ、ちくしょう」
「ちくしょうってなんだよ!?」
もう一度夢一の頭に我聞の拳が振り下ろされた。
「いってえ」
「夢坊、おめえ、俺が死んだほうがよかったってえ口ぶりだな」
「ま、まさか。俺が叔父上の安否をどれだけ心配していたか」
青息吐息の夢一を睨みつける我聞であったが「まあ、いい」と、疲れた顔を見せた。
「たしかに今度ばかりは俺も駄目かと思ったんだ」
「でも我聞親分さん、どうやって助かったんですか?」
「いや、それがなんてことはねえ。船が押し潰された瞬間、俺はもう川の中よ。たぶん運よく底が抜けたんだろ。命拾いしたと思ったが、それからが地獄。氷が分厚くて上がれやしねえ。水の中でもがいていたら、こいつが目の前を流れていく」
我聞が背中で気を失っている船頭を視線で指す。
「こっちも余裕がねえから、見捨てようかとも思ったが、さすがにそれでは寝覚めが悪い。しょうがねえからこいつを腕に抱えて、ずいぶん下流まで泳いで行ってようやく川から上がれたってわけだ」
いやあ、まいったぜ、と言って苦笑を浮かべる我聞。
いや、親分さん、普通死んでるよ。
親分さんなら”氷申”に素手で勝てたかもしれないと、すずめはだいぶ真剣に思った。
「で、俺がいねえ間にいったい全体なにが起きた? まあ、みんなが無事のところを見れば首尾よく事が運んだってのはわかるが。どうけりをつけたんだ夢坊? そこんところ聞かせてもらうぜ」
しかしそこで、からたちが冷静に口を挟んだ。
「まずは帰りませんか、親分。いくら夏とはいえ、船頭さんも親分も、そんな格好じゃ風邪を引きかねません。話を聞くのは番屋に戻ってからでも遅くはないでしょう」
からたちの至極真っ当な意見に、我聞も唸るしかない。
「そうだな。帰ろうぜ、みんなで」
我聞の言葉に従い、その場にいた全員が踵を返し、安堵と達成感に満ちたまま家路につくかと思われた、まさにそのときだった。
「え?」
真紅の光が辺りを疾走した。
氷の川面にへばり付いていたわけだから、体は冷え切っているはずなのに、不思議と寒くはなかった。
夏の暑さが戻ってきていた。立ち込めていた異常な冷気は消え、このぶんなら、じきに大川の氷も溶けるだろう。そんな安心感に包まれるすずめの傍らで、夢一は傷ついた青龍、”虚空の覇幻”を扇子に戻した。
霊扇虚空の覇幻の地紙はあちこちが破れ、痛々しい様相を見せている。
「ゆっくりと休ませてやらねえとな」
夢一はそっと扇子を閉じると、袂に入れた。
「今度ばかりは、傷ついたもんや喪ったもんが多すぎるぜ」
沈痛な面持ちで夢一は呟いた。
「まったくだ。俺も命を喪うかと思ったぞ」
「そう、叔父上の命も――て、なんで生きてやがる叔父上!?」
「なんだ夢坊、その言いぐさ! 生きてちゃわりいのか!?」
我聞の拳が、ごいん、と夢一の頭に落とされた。
いつからいたのか、我聞はその背中に屋形船の船頭を乗せ、全身ずぶぬれで、しかし見たところ怪我はない様子で立っていた。
「親分さん、なんでびしょびしょ?」
我聞の様子に驚くすずめに、頭の痛みに悶えながら夢一が言う。
「そうか、すずめは知らねえのか。この叔父上はな屋形船もろともぺしゃんこになって死んだはずだったんだ、ちくしょう」
「ちくしょうってなんだよ!?」
もう一度夢一の頭に我聞の拳が振り下ろされた。
「いってえ」
「夢坊、おめえ、俺が死んだほうがよかったってえ口ぶりだな」
「ま、まさか。俺が叔父上の安否をどれだけ心配していたか」
青息吐息の夢一を睨みつける我聞であったが「まあ、いい」と、疲れた顔を見せた。
「たしかに今度ばかりは俺も駄目かと思ったんだ」
「でも我聞親分さん、どうやって助かったんですか?」
「いや、それがなんてことはねえ。船が押し潰された瞬間、俺はもう川の中よ。たぶん運よく底が抜けたんだろ。命拾いしたと思ったが、それからが地獄。氷が分厚くて上がれやしねえ。水の中でもがいていたら、こいつが目の前を流れていく」
我聞が背中で気を失っている船頭を視線で指す。
「こっちも余裕がねえから、見捨てようかとも思ったが、さすがにそれでは寝覚めが悪い。しょうがねえからこいつを腕に抱えて、ずいぶん下流まで泳いで行ってようやく川から上がれたってわけだ」
いやあ、まいったぜ、と言って苦笑を浮かべる我聞。
いや、親分さん、普通死んでるよ。
親分さんなら”氷申”に素手で勝てたかもしれないと、すずめはだいぶ真剣に思った。
「で、俺がいねえ間にいったい全体なにが起きた? まあ、みんなが無事のところを見れば首尾よく事が運んだってのはわかるが。どうけりをつけたんだ夢坊? そこんところ聞かせてもらうぜ」
しかしそこで、からたちが冷静に口を挟んだ。
「まずは帰りませんか、親分。いくら夏とはいえ、船頭さんも親分も、そんな格好じゃ風邪を引きかねません。話を聞くのは番屋に戻ってからでも遅くはないでしょう」
からたちの至極真っ当な意見に、我聞も唸るしかない。
「そうだな。帰ろうぜ、みんなで」
我聞の言葉に従い、その場にいた全員が踵を返し、安堵と達成感に満ちたまま家路につくかと思われた、まさにそのときだった。
「え?」
真紅の光が辺りを疾走した。
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