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■11/むーこ先輩、告白する。(下)

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 絆。
 方邊家の墓石の正面には、その一文字だけが刻まれていた。側面に「方邊家先祖代々之墓」と彫ってあり、ここが目的地だと確認する。
 墓誌と呼ばれる、ここで眠る人達の名前が書かれた石に、方邊毅さんの名前もあった。
「つきました、ね」
「……そうだね」
「いませんね、毅さん」
 墓の周りには、誰もいない。幽霊すらもいない。ここにいるのは、僕とむーこ先輩だけだった。
 十方院さんに「毅さんが成仏している可能性」を聞かされてから、嫌な予感はしていた。もしかしたら本当に目的の人物はいないかもしれないと。でも、まだ彼がいなくなったと決めつけるのは早計だ。
「……どこかに、出かけてるんですかね」
 ここにいないだけで、別の場所で散歩でもしているのかも知れない。
 でも、その可能性をむーこ先輩は首を振って否定する。
「もう、いいよ」
 そして一言だけ、か細く呟いた。彼女の頬を雫が伝っている。
 涙、だった。
「先輩?」
 彼女はもう一度首を横に振る。
「——同じ幽霊だから、私にはなんとなくわかる。先生は、もう去ったんだって」
「え……?」
 先生? いま、先生って言ったよな。それって、方邊毅さんのこと……だよな。
「ねぇ、先輩。もしかして、何か——」
「おやおや」
 その時だった。誰かが背後から、僕の言葉を遮った。
 振り返ると、そこには初老の男性が立っている。身長は僕と同じくらい。よれよれのトレンチコートを着たその男は目つきが鋭く、顎に無精ひげを生やしている。白の交じった頭髪はボサボサだ。しかしそのたたずまいからは、その見た目とは違った精悍さが滲み出ている。
 そして特筆すべきは、彼が半透明だということだ。幽霊だった。
「他所の幽霊が墓参りなんて珍しいこともあるもんだ」
「——え、っと」
「ああ、すまない。ボクは方邊さんの隣人だよ。ああ、お墓のって意味ね」
「はぁ」
「キミ達はどこから来たのかな」
「……横浜です」
 男性の問いに答えたのはむーこ先輩だ。訝しむような視線を男性に送っていた。
「そりゃ遠くから。ようこそようこそ」
 僕らは黙って会釈する。なんなんだこの人。
「へぇー、それにしても珍しい。幽霊のカップルね」
 男性は顎髭を撫でながら、まじまじと僕らを見る。僕は幽霊じゃない。
「あの」
 その興味津々な視線に黙っているのがどうしても耐えられなくて、僕は手を挙げて質問していた。
「方邊さんのお知り合い、なんですか」
「うん、そうだよ。方邊家の方々とは懇意にして貰っていたよ。生前はまったく知らない仲だったけどね。ハッハッハ」
「ちょっと、尚理くん」
 むーこ先輩が僕の袖を引く。でも、ここで退くわけにはいかなかった。
「……それなら、毅さんがどうなったか知りませんか?」
 この人が毅さんのことを知っていれば、もしかしたら居場所が分かるかもしれない。少しでも先輩に近付くために、出来ることはやっておきたかった。
「毅さん——毅さん——ああ、あの気の良い爺さんか。彼なら少し前に成仏したよ。いい顔だった」
「————そう、でしたか」
 やっぱり、と僕は内心肩を落とす。むーこ先輩の言っていたとおり、そして十方院さんが指摘していたとおり、毅さんは既にこの世にいなかったのだ。
 せっかくもう少しで先輩の記憶に辿り着けたはずなのに。多分、彼女はこのお墓を見て何かを悟ったはずなのに。これ以上先に進む道が、目の前からなくなってしまった。
「なに、キミ達はあの爺さんに会いに来たってことかい」
 突きつけられた現実に落胆した矢先だった。男性が口元に笑みを浮かべながら、僕の瞳をのぞき込んでくる。
「それならいい所がある。もしかしたら、そこで毅さんと話せるかもしれないよ」
「っ、本当ですか!?」
 知らず声が大きくなっていた。男性が爽やかに笑って続ける。
「この霊園にはね、特別な場所が存在するんだ。霊的な力が溜まってる、っていうのかな。ボクたちのような幽霊の思念が集まるんだよ」
「でも毅さんは成仏したんです……よね」
「ああ。だけど、いくら成仏しようと想いは遺る。まだ生きている人間や、ボクらのようなまだ成仏していない幽霊の心の中にね」
「……」いまいち要領が掴めない。
 つまり誰かがその人のことを覚えていれば、その特別な場所とやらに行くことで、成仏した幽霊に会えるということ——なのだろうか。
「ハッハ、難しい話だったかな」
「す、すみません」
「いやなに、謝ることではないよ。とにかく行ってみれば分かるさ、案内してあげよう」
「……っ、ありがとうございます!」
「うんうん。元気が良くてなによりだね。ああそうそう、ボクのことは導善どうぜんと呼んでくれよ。俗名はもう忘れたからさ、戒名で申し訳ないけど。キミ達の名前は?」
「あ……すいません、僕は空見尚理。こちらがむー……いえ、芙葉夢子さんです」
「タカミチくんに、ユメコちゃんね。よろしくよろしく」
「はい、こちらこそ」
 僕が軽く頭を下げると、男性はニコニコしながら出発した。追従するように僕も踏み出す。
 むーこ先輩は、僕の少し後ろを歩いていた。

     ○

 導善さんについていくと、霊園の端まで来た。しかし彼の脚は止まることなく、奥にある森へと進んでいく。
 まだ陽は傾いてすらいないのに、茂る草木の影で視界が薄暗い。そこに道なんてなかった。
「足下悪いから気を付けてね。まぁ幽霊は転んでも怪我はしないか」
 ハッハッハ。導善さんが笑う。
「あの……導善さんが知ってる方邊さんて、どんな人だったんですか」
「うーん、そうだね。さっきも言ったけど気の良い爺さんだったよ。それに、毅さんに限らず、方邊家の人々はいつも良くしてくれるよ」
「良く……ですか」
「あそこのお墓に刻まれた文字はキミたちも見ただろ。文字通り絆を重んじる一家なんだ」
 絆か。どうしてか、あの後輩のことを思い出す。彼もまた、絆という文字に思うところはあるのだろうか。
「誰かと繋がることこそが、彼らの願いなんだろうね。周りの幽霊を気遣って、時に成仏の手伝いなんかをしたりして」
「はぁ」
「だからかな。絆を大切にする方邊さんたちは、誰かのために働くとすぐに成仏されるから寂しいよ。ボクは幽霊歴、永いから」
「……」
 絆を大切にするからこそ、真っ先に絆を断ち切る側になる。それはなんだか矛盾しているような気がして、ひどく滑稽なようにも思えた。
 ……それにしても。
 森に入ってからどれくらい歩いただろう。三十分は経ったか。いよいよ陽の光はほとんど届かなくなり、辺りは暗くなる一方だ。
「——さぁ、着いたよ。あそこだ」
 闇への本能的な恐怖が少しずつ顔を出してきた、そんな時だった。導善さんが立ち止まって、僕らの方に振り向く。見てごらん。彼が言う。
 じっと奥に目を凝らすと、小さな池があった。中央に所々痛んだ木製の橋がかかっていて、向こう岸には木造のお堂が建っている。人間が入れるようなサイズではなく、お地蔵さんが安置されていそうな大きさだ。神聖な感じがした。
 しかし、ところどころ削れていたり苔生していたりで、長い間ここには人が訪れていなかったのだと分かる。
 恐怖。安心。この光景を見ていると、そのどちらとも取れない複雑な想いが膨れあがるのと同時に、身体の感覚がなくなっていく気がした。
 そんな僕を見て、導善さんはそのお堂を指で示して言う。
「あのお堂の周りなら、きっと方邊さんの想いも見つかると思うよ」
「——」
 その言葉に促されるように、そしてお堂に吸い込まれていくように。僕の足はゆっくりと橋へと向かって行く。
「なぁ」「タカミチくん」
 背中からかけられる導善さんの声が遠くなる。
 薄い粘着質の膜が耳にかかっているみたいだった。
「想いというのはね」「ときに人を」「奇跡に導くんだ」
 一歩、また一歩と橋に近付いていく。
「その奇跡は」「きっと」「キミの」「願いを」「叶えて」「くれる」
 いや。気が付けば、僕はもう橋へと踏み入っていた。
「なぁ」「タカミチくん」
 お堂の周りに、白い霧がかかる。薄ぼんやりと。
 徐々に、徐々に。ゆっくりと、確実に。僕が足を進める度に霧は人の形へ姿を変えていく。
 橋の中央まで来た時、ふと「あの霧は誰だろう」なんて当たり前の疑問が生まれた。
 刹那。
 聴覚を鈍らせていた膜が取れるみたいに、はっきりと導善さんの声が耳に届いた。

「——キミ、半分生きてるんだろ」

「尚理くん、行っちゃダメッ!」
「え」
 導善さんの声に振り返ると、むーこ先輩がいままで聞いたこともない悲痛な声で叫ぶ。
「それ以上は行っちゃダメなの! どうして!? どうしてこんなことするの!」
「どうしてとは心外だな。これはキミの願いでもあるはずだろう? ユメコちゃん」
「そんな……そんなはずない!」
「いやはや、幽霊だけに往生際が悪いね……しかし本当に珍しい。まさか自分からボクら幽霊に干渉できる人間がいるとは思わなかった。実に興味深いよ、うん」
 どうしたんだ、急に。二人の声が混沌として僕の耳を支配していく。世界に存在する音が、導善さんと先輩の声だけになったような。あれ? 導善さん、僕が幽霊ではないことを分かっているのか? そりゃそうか。僕は半透明じゃない。生きている。
「半分生きた人間は多分、俗世の常識で苦しむことになるとは思わないかい」
「そ、それは……だけど!」
 また言った。導善さんが言う半分生きてるってどういう意味だろう?
「尚理くん、もういいの! 私のために、これ以上頑張る必要なんてない!」
「で、でも……」
 先輩は先輩で、なにを慌てているんだろう。そこにいけば、毅さんが見つかるかもしれないのに。ここで諦める理由なんか特にないはずだ。
 手がかりがあるならば、それは検証すべきじゃないのか。
「さぁ進むんだタカミチくん、キミの求める魂の残滓は確かにそこに在る」
 導善さんが言う。僕はそれに頷いた。
 そうだ、そこに先輩を知る人がいる。
「この人の言葉を聞いちゃダメ、まさかこんな処に連れてくるなんて——ねぇ、帰ろうよ!」
 いいや、行こう。先輩のために、僕が行って確かめなきゃ。
 橋の向こうにあるお堂を見据える。
 霧は完全に人の形を成していた。きっとあれが毅さんなんだ。
「……?」
 でも、どうしてだろう。
 霧の人が、何人も見える。
 橋を進むにつれて、どんどん人が増えていく。
「タカミチくん。今日は天気が良い」
 太陽なんか見えない。見えるのは、暗闇と霧の人とお堂だけ。
「——死ぬには良い日だとボクは思うよ。だからおいで、幽霊こっちの世界へ」
「…………死ぬって……?」
 導善さんの言葉の意味を考えながら、橋の中央からもう一歩だけ踏み出す。
 群れになっていた霧を、僕の眼がはっきりと認識する。
「————ッ!?」
 言葉を失った。
 霧はもう人の形をした霧ではなくなっていた。あれは人だ。人間だ。多分幽霊じゃない。はっきりとした輪郭があって、顔があって、色がついて、手足があって。
 どう見ても、生きている人間だった。
 お堂を取り囲むように、その人達は立っている。怪我を負っていたり、顔が紫色だったりするが、自分で立つ力はあるらしい。一様に苦しみ、呻き、何かを求めるような虚ろな瞳で僕を見ている。でも、向こうからこちらへ来るようなことはない。どうやら橋には入れないようだ。その代わり身を乗り出すようにこちらに近付いて手を伸ばしていた。
 これじゃあまるで、あの時と同じだ。央泉寺の墓地を見たときとそっくりの光景が、いつの間にか出来上がっている。一つ違うのは、呻いているのが幽霊ではないこと。
 なんなんだ。なんなんだ、これ。
 僕はあそこへ行ったらどうなるんだ? どうにか、なってしまう?
 どうにかって、もしかして、本当に死——、
「た、尚理くんッ!」
「——あ」
 その地獄を前に立ち竦んでいると、後ろから無理矢理むーこ先輩が僕の手を引っ張る。
 先輩は僕の手をとったまま、お堂とは逆方向に駆けだした。訳も分からず、ただついていくだけで精一杯だった。導善さんの横をすり抜ける。
 すれ違う瞬間、彼は眼を細めて嘲笑を浮かべていた。

「うーん、残念。けど、人間どうせいつかは死ぬんだ。そこんとこ、よろしくね」

 あとは、ひたすら先輩と一緒に真っ直ぐ走る。
 森を抜けて霊園に戻った頃には、もう太陽は沈んでいた。
 藍色の空に、星の海が広がっていた。

     ○

「せ、先輩……どうして……」
 上がった息を整えながら、僕は聞く。もう少しで方邊さんに会えたかも知れないのに。
「どうしてって……あそこに、飛び込むつもりだったの……尚理くん……」
「……」あそこ、か。あの光景を思い出すだけで背筋が凍る。
 確かに、と僕は頷いた。もしも、あのまま橋を渡りきっていたら——。
「それに、もういいって、私言ったよ」
「もういいって、なにがですか」
「…………」
 問いに詰まった先輩の顔が歪む。
「……あの、ね」
 声も震えていた。全力疾走した影響ではないだろう。彼女は、今にも泣き出しそうだった。

「全部、私の嘘なの」

「……、は」
 僕のいつもの生返事には、勢いがない。
 なにが、嘘なんだ。
「私、記憶喪失なんかじゃないの……いままで、黙ってて、ごめんな……さ……」
 いままで我慢していた感情が決壊するように。
 彼女は大声で泣いていた。
「だから、もう」
 僕は空を見た。満天の星空だ。飛成霊園は山の中だし、道や墓地を照らす街灯もない。こんなに澄んだ星の輝きは、横浜じゃ見られない。
「私のために、頑張らないで……尚理くん……」
 先輩の泣き声を背景に、僕はまったく関係のないことを考えている。そういえば、先輩がもう半透明じゃなくなってることとか。導善さんは僕になにをしようとしていたのかとか。
 あの場所から逃げ出す時には分からなかった、先輩の感触とか。

 幽霊せんぱいの手は、暖かかった。
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