氷の王と自由な小鳥

野良猫のらん

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第十九話 手の温かさ

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 一段、また一段と下がっていく。白い石段をひたすらに下りていく。王宮を目指していた時のように。
 
 ただし、今日は一人ではない。隣にはアロイスがいる。
 
 正確に言えばアロイスだけでなく、一歩後ろにはコートを手に持ったエリクがついてきているし、前と後ろに護衛の兵士たちが何人もいる。
 一行は王宮から下へと降りる螺旋階段を下っているところだ。
 
「久方ぶりだ」
 
 ぽつりと、隣のアロイスが呟いた。
 
「え?」
 
「父上が生きておられた頃には、上層にならば足へ運ぶこともあった。この螺旋階段を目にするのも、踏みしめるのも久方ぶりのことだ」
 
 蒼い瞳は、懐かしさに揺れているように見えた。
 
「オレも久しぶりだよ。螺旋階段を下りる時に、誰かが隣にいるのは」
 
 親方が生きていた頃以来だ、とシリルは零した。
 
 完成した作品を売りに行く時、親方はよくシリルを連れて行ってくれた。依頼人への礼儀を叩き込まれ、製材所での買い付けや交渉の仕方も教えてくれた。それから帰りに、屋台で温かいスープを買ってくれた。二人で飲むスープは美味しかった。スープを飲んでぽかぽかになった身体で螺旋階段を下りるひと時は、この上なく幸せだった。
 
 アロイスも、同じように父親との幸せな思い出があるのだろう。
 螺旋階段を下りている間は共に言葉少なだったが、それでもこのひと時に暖かさを感じた。
 
「本当に国王陛下だ……」
「ああ、何年ぶりでしょうね」
「陛下の御姿、初めて拝見します!」
 
 上層のフロアが近づいてくると、ざわざわと声が聞こえてきた。上層の住人たちが集まってきて、螺旋階段を見上げているのだ。
 
 親方やエミールを殺した、横暴な上層民たち。薄汚い下層民がどうして王の隣にいるんだ、などと怒鳴られたらどうしよう。
 無意識のうちに、ぎゅっと手を握り締めた。
 
「シリル」
 
 その手に、温かいものが触れた。アロイスの手だった。手を、力強く握り締められる。
 
「案ずるな、お前は私が守る」
「え……」
 
 表情に出していないつもりだったのに、些細な変化から自分の恐怖を見破ったというのか。それに、守るだなんて。予期せぬ言葉に、心臓が大きく跳ねた。
 いけない。どんどん好きになってしまう。
 
「陛下のお隣にいらっしゃるのが、楽士様?」
「凛としていらっしゃる方ね」
「ため息が出るほど、美しい御髪ですわ。どのような楽器を演奏されるのでしょうね」
 
 聞こえてくる言葉の数々に、自分が下層民だとバレていないことを知った。勇気を持ってチラリと下を見ると、敵意の籠もった視線など一つもなかった。身なりのよさは下層民とは違うが、それ以外はごくごく普通の人たちだった。
 
 アロイスに手を握られながら螺旋階段を降り続け、上層のフロアをいくつも通り過ぎた。
 螺旋階段に突撃してきて、進路を塞ぐような上層民はいない。皆、遠巻きに一行を眺めている。むしろ先に螺旋階段を使っていた人たちまで、一行の存在に気がついて慌てて退いていった。
 
「ほら、案ずるようなことなど何もなかっただろう?」
 
 上層が終わり中層に足を踏み入れると、アロイスが微笑みかけてきた。
 
「ああ」
 
 恐ろしいことなど、何もなかった。ほっと安堵に息を吐く。
 
「身なりを立派にしておいてよかった。おかげで、下層民だってバレなかった。……服、プレゼントしてくれてありがとな」
 
 改めて感謝の念が湧いてくる。
 
 こんなに立派な服が何のために必要なのか、こんなにたくさん必要なのかと思っていたが、その必要性がよく実感できた。人間とは、存外に見た目に騙されるものらしい。上層民の人々は自分の姿を見て、すっかり字義通りの楽器を演奏する楽士だと思っていた。すべて、彼が贈ってくれた服のおかげだ。
 
「お前の安心を買えたのならば、安いものだ」
 
 アロイスはさらりと答えた。
 
 こんなによくしてもらって、自分は彼に何を返せるだろう。「務め」に励むだけで、充分なお礼になるのだろうか。何も持っていない自分には、それくらいしかできることがない。それがシリルには悔しかった。
 
 中層のフロアを通り過ぎる際も、同じように人々に遠巻きに眺められながら下層へと向かった。
 
 ここから先はよく知っている道のりだ。
 
 中層から下層へと、一歩一歩下るごとに寒くなっていく。自分の知っている螺旋階段はそうだった。
 だが、寒くはならない。いくら下りていっても、快適な温度のままだ。後ろからついてくるエリクが持ち歩いているコートの出番は、どうやらなさそうだ。
 
「本当に、下層が暖かくなっているんだな」
「そうだとも」
 
 未だにシリルの手を握りしめ続けている彼の手に、ぎゅっと力がこめられた。
 その時、ふっと思い出した。
 
「そういえば前にオレが『上層民を上層から追い出せ』って言ったら、お前『必要性がない』って言ってたよな。それって、下層も暖かくなっているから必要ないって意味だったのか」
 
「まだ理解していなかったのか?」
 
 アロイスが驚いたように返した。
 
「どこでも住み心地に大した差がないのであれば、住む場所を変える必要もないだろう。暖かくなったおかげか、下層でも植物の生えてくるフロアができたという報告も上がっている」
 
「下層で植物が⁉ っていうか、そういう意味なら最初からそう言えよ! アロイスって言葉下手なんじゃねーの?」
 
「ふん」
 
 また一つ彼に関する誤解が解消された。アロイスはまったく仕方のない男だということが判明した。
 
 やがて下層のフロアに人々がいるのが見えてきた。
 身近さを覚える身なりの人々が、老若男女問わず唖然と螺旋階段を見上げている。
 
「ママ、ママ! 見て!」
「ありゃ王様じゃあないかい⁉ どうして下層なんかに⁉」
「王様の隣にいる人は一体誰だ? 召使いにしては、立派な格好だぞ」
 
 下層民の騒めきは、随分とうるさかった。皆一様に目を丸くさせている。口をポカンと開けている子供の姿が何人も見える。
 
 下層には知り合いもいるから、自分がシリルだとバレるのではないかと思ったが、そんなことはなかった。皆格好に騙されて気づかないのだろうか。
 
「意外に小綺麗だな。下層民は全員、初対面時のお前のようにやせ細っているのかと思っていた」
 
 アロイスの呟きに、頬が熱くなる。初対面の時の自分は、どれほどぼろぼろの格好をしていたのだろう。
 
「ここら辺は下層でも上の方だから、腕のいい職人とか結構稼いでいる人間がいるんだよ。それなりの生活を送っているはずさ」
 
 下層民たちにじっと眺められながら、下層のフロアを下っていく。
 兵士やエリクたちも、物珍しげに周囲を見回している。これで少しは下層に対する悪いイメージが払拭されてくれるといいのだが。
 
「そういえば、下層でお前がどのような仕事をしていたのか聞いたことがあかったな」
 
「オレ? オレなんて大したことないよ」
 
「いいから、聞かせろ」
 
 アロイスはシリルを促す。
 
 なぜこんなにも聞きたがるのだろう。まるで彼が、自分に興味を抱いているかのようだ。
 
「彫刻職人の工房長をやってた。工房長と言っても、二人きりの工房の親方が死んだから、継がざるを得なくなっただけだけれど」
 
「彫刻職人か。意外だな」
 
「意外ってどういう意味だよ」
 
 お前に彫刻なんて繊細なことは無理だと思っていたと言われたようで、むっとアロイスを睨む。
 
「お前の工房に足を運びたい」

「なっ、え……⁉」
 
「お前の工房に行ってみたいんだ。いいだろう?」
 
 彼はくすりと微笑む。下層に足を運ぶだけでなく、工房にまで行ってみたいとはどういう風の吹き回しだ。まるで、自分に興味を抱いてくれているかのようだ。
 
「わかったよ。誰もいないから、埃だらけになってると思うけど。それでもいいなら、連れていってやるよ」
 
「頼む」
 
 彼の返事は、嬉しそうな声音だった。自分の工房だなんてそんなものを見に行って、何が面白いのだろう。訝りながら、工房があるフロアまで足を進めた。
 
 途中、彼の言ったように植物がにょきにょきと生えているフロアがあった。中層だけでなく下層でも植物を育てられるようになれば、格差は縮まることだろう。感慨深い思いになりながら、フロアを通り過ぎた。
 
 工房のあるフロアまで辿り着いても、快適な暖かさは続いていた。流石に上層と同じくらいの暖かさとはいかないが、少し涼しさを感じられるこの階層の室温の方がむしろ好ましく感じられた。
 下層の環境が改善されたことを肌で感じ取り、鼻の頭がつんと痛くなった。アロイスにバレないよう、片手でそっと目元を拭った。
 
 目的のフロアで螺旋階段から下り、工房まで歩いた。道中、国王一行が歩いているのを見かけた下層民は、目をまん丸にして驚いていた。驚きのあまり、尻餅をついてしまう人までいた。
 
「あそこがオレの工房だ」
 
 工房が見えるところまできて、指で指し示した。
 その時、下層民の女性が一人、一行に近づいてきた。
 
「も、もしかしてあんた、シリルくんじゃないかい?」
 
 それはエミールの母親だった。
 
「何者だ!」
「やめてください、オレの知り合いです!」
 
 近づいてきた彼女に対して、警戒心を露わにする兵士たちを制止した。
 
 シリルは彼女の前に進み出る。
 
「ああ、やっぱりシリルくんなんだね。すっかり見違えたけど、もしかしてと思ったんだ」
 
 特に顔を隠しているわけでもないのに、シリルだと声をかけてくれたのは彼女が初めてだった。
 
「みんなで心配してたんだよ、いなくなってたもんだから。何があったか知らないけれど、生きていてよかった……」
 
「おばさん……」
 
 ある日姿を消したかと思ったら、立派な身なりで現れた自分のことをどう思っているのだろう。そんな心配をよそに、彼女は「生きていてよかった」と言ってくれた。
 
「エミールのことで、なにか無茶をしに行ったんじゃないかと思ってたんだよ。そうじゃなくてよかった。これからは、また工房に戻ってくるのかい?」
 
「いえ、あの、オレはもうその、引っ越しというか……」
 
 王宮にずっといる、とアロイスに対して宣言してしまった。今さら覆すことはできない。
 
「シリルには、王宮で住み込みで働いてもらっている」
 
 アロイスが横合いから口を挟みながら、シリルの腰に手を回した。いきなり抱き寄せられ、心臓が飛び跳ねる。
 
「お、お、王様⁉」
 
 エミールの母親は、アロイスの姿に腰を抜かしている。どうやら、シリルのことしか視界に入っていなかったようだ。
 
「急に働いてもらうことになったから、下層に残してきた荷があるようでな。今からそれを取りに行くところだ」
「は、ははあ」
 
 彼女はすっかり恐縮して、固まっている。
 
「えっとあの、そういう事情なんです」
 
「よくわからないけれど、新しい働き口を見つけていたのね。よかったわ」
 
 エミールの母親はシリルに視線を移すと、祝ってくれた。
 
「シリル、行くぞ」
 
 アロイスに声をかけられ、シリルはエミールの母親に別れを告げて工房の中へと入った。
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