森のエルフと養い子

マン太

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4.別れ

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 それから一月ひとつき二月ふたつきと経ち、日に日にタイドは血色がよくなり、身体つきも赤子のそれとなった。今では腕も脚もふくふくと太り、その辺りの子どもらと何ら変わりない。

「そろそろ、か…」

 スウェルは籠の中で、こちらに向かって手を伸ばしてくるタイドの顔を見つめながらそう口にした。どこぞの魔女なら、丁度、食べ頃と言う所だろうか。
 傍らに控えていたニテンスが首を傾げ。

「何が、でしょうか?」

「何がって、タイドの里親探しさ。そろそろ頃合いだろう? ちゃんと人の親を見つけてやらないとな。もともとその予定だった」

「…左様ですか」

 ニテンスの声音に幾分、覇気がなくなる。

「なんだ? 不満か?」

「いえ…。ただ、タイドはスウェル様によく懐いておいでです。お寂しい思いをするのではないかと」

「はは! こんな子どもが寂しいなどと思うものか。ミルクでも与えれば、すぐに機嫌など良くなる」

「いえ…。スウェル様が、です」

「お、俺が?!」

 慌てて聞き返す。ニテンスはすました顔で。

「ここ、数か月、片時もお側からタイドをお離しになりませんでした。以前ならどんなに忙しくとも、時間を作っては足繫く通われていた女性の方たちとも、一度もお会いにならず…。そんなタイドを手放すのは、お寂しいのではないですか?」

「そ、そんなわけあるかっ! いなくなって清々するぞ? おむつが濡れていないか、いつも気にしなくていいし、ミルクだっていちいち適温にして、数時間置きに与えなくてもいい。やっと、自分の時間を取り戻せるんだ。これでぐっすり眠れる…。寂しいなど、思うわけがない!」

 スウェルは大いに取り乱すが。

「そうでしょうか?」

 珍しくニテンスが反論してみせた。

「そうだ! だいたい、ここにずっと置いておける訳がない。これは人の子だ。いつか老いて死ぬ。私とは時間の流れが違う。人の時間の流れの中で、人として暮らすのが幸せなんだっ」

 鼻息も荒くそう口にすれば。

「──分かりました。それではいい頃合いの村人を探しましょう。いくつか私のほうで目星をつけましょうか?」

 ニテンスは少し視線を床に落としたあと、すぐにそれをタイドへ向けそう口にした。

「いい、俺がやる。拾ったのは俺だ。最後も俺が見る」

「…わかりました。それでは準備だけ整えさせていただきます。かわいいさかりです。きっとすぐ気に入られるでしょう」

 そう言うと、ニテンスは下がって行った。

 可愛い盛り。

 確かに今がそうだろう。
 あうあうと口にして、その辺を転がっているだけだ。生意気な口も聞かないし、駄々をこねたりもしない。今が一番かわいいのだろう。

「ふん…。どうせ、お前は俺のことなど、すぐに忘れてしまうのだろう?」

 そう言って人差し指を顔の傍まで近づけると、タイドはその指を握りしめ、嬉しそうにキャッキャッと声を上げた。
 日々世話をしているおかげか、ニテンスとスウェルはちゃんと認識しているらしい。
 ずっと面倒をみていたのだ。それがいなくなれば寂しくなることなど分かっている。

 だが、それも一時の事。

 タイドがいないことに、すぐに慣れてしまうだろう。それが今までだったのだ。
 たった数か月いただけの赤子の事など、長い月日にかき消されてしまうはず。
 タイドが声を上げるのをやめて、ジッと見つめて来た。

「どうした? もう、指は飽きたか?」

 握りしめられたままの指を揺らせば、タイドは再び笑い出す。
 この赤毛と深い緑の瞳を、自分はきっと忘れないだろうと思った。

✢✢✢

 それからスウェルは、タイドを託すのにちょうどいい夫婦を見つけた。
 というか、以前から目をつけてはいたのだ。何時だったか、子どもが欲しいと大樹に祈りにきた夫婦で。
 スウェルが居を構えるエルフの里からそう遠くない農村オルビスに住む、中年に差し掛かる手前の夫婦だった。
 過去に子どもがいた様だが、流行り病で亡くしたらしい。それから、ずっと子どもを欲しがっていたが一向に恵まれず。僅かな希望をこの大樹に託したらしい。
 だが、この樹はただの樹。

 何かできるわけじゃないんだがな。

 人々に安らかなエナジーを与えることはできても、子どもまでは与えられない。その時はそう思ったが。

 あの時の必死の祈りが通じたと言う事か。

 彼らの必死な祈りが、スウェルの記憶には残っていたのだ。結果、子どもを得ることができるのだから、願いは聞き届けられたのだろう。
 夫婦はよそから流れてきた者で、村の外れで農業を営んでいた。生活は質素ながらも安定していて、周囲の環境も平穏で申し分ない。安心して預けられるだろう。
 ニテンスにその話をすれば、

「いいのではないでしょうか。ここからも近いですし…」

「は? 何を言っている? 俺は別に会うつもりがある訳じゃないぞ? 託したらそれでお終いだ。──まあ、森に入ってくるようなことがあれば、顔を見ないでもないが…」

 この村の子どもたちは、スウェルの住まう森の麓でよく遊ぶ。
 時折、探検と称して、幾人かの子供たちが途中まで入り込んでくることがあった。その際は、危険な動物や魔物に会わないよう、様子を見守ることもある。
 どの種族だろうと、こどもは守るべき存在だ。そう指示もされていたし、なくともそうするのが当たり前だった。
 それをニテンスは指しているのだろう。偶然入ってきたなら、顔を見る事もある。

「ニテンス。今、笑ったろ?」

「…いいえ。ただ、素直に顔を見たいから近くの村人にしたと、そうおっしゃっても私は笑ったりは致しませんのに」

「ニテンス。口が過ぎるぞ。俺はただ──」

 と、タイドが大きな声を上げて泣き出した。そろそろミルクの時間だった事を思い出す。

「ったく。こいつは時計のようだな? 必ず時間になると訴えてくる。毎日、そんなにミルクばかり飲んでいると、身体が全部ミルクになってしまうぞ?」

 既に用意してあったミルクを哺乳瓶で与えるため、その身体を抱き上げた。
 はじめて腕に抱えた頃とは大違いで、かなりずしりとした重みを感じられる。良かったと心から思った。久しぶりに善行をした気がする。

 この子はきっと幸せになる。

 子どもから大人になって、恋をして家族を設け、子を成して。そして老いて死んでいく。
 それをせめて傍らで見守っていようと思った。これも何かの縁なのだ。
 彼が不幸な目に遭わないよう、少しばかり肩入れしても、罰は当たらないだろう。
 なんせ、エルフの王族の血を引くものに拾われたのだ。その幸運をタイドが受けても可笑しくはない。

「タイドの名前は、お残しになるのですか?」

「…いや。これは借りの名だ。きっと彼らがいい名前を与えてくれるだろう」

 ここで過ごした僅かな間の、秘密の名。真の名だ。

 君への私からの贈り物だ──。

 スウェルは懸命にミルクを飲むタイドに、そっと心の中で告げた。

✢✢✢

 すでに下見は済ませていた。
 その日、とうとうタイドを手放す為、オルビスの村外れへやって来ていたのだ。
 タイドが入った籠を抱きかかえ、夫婦の家をそっと木陰から伺う。
 エルフの特徴か、こうして佇んでいても人の目に止まることはまずない。目に入ったとしても、それは木の一部か、草花のさざめき位にしか映らないだろう。
 腕の中のタイドはいつもと違う空気に幾分興奮している様だった。こちらの世界は良くも悪くも、気が荒いのだ。

「…いよいよか」

 館を出る際、ニテンスは最後にもう一度引き止めた。

「もう少し置いてもいいのでは? 預ける予定の夫婦の住む村はまだ安全ですが、ここの所またオークやゴブリンの動きが活発なようですし…」

「大丈夫だ。ちゃんと調べてある。あの村の周辺は暗い森や山からは離れている。夫婦が越してきてからも、それ以前も不穏な話は聞いた試しがない。安全だ」

「それならいいのですが…。タイド、お前は寂しいだろう? これでスウェル様には二度とお会い出来ないのだろうから」

 その通りだった。
 木陰から覗き見ることはあっても、面と向かって会うことはまずないだろう。人との接点は極力持たないのが決まりで。
 それ以前に、住む世界が違うのだ。互いに境界線を守りつつ、平穏な生活を送るのが一番だと心得ている。
 タイドは訳も分からず、ただ、頬に触れたニテンスの指先に、くすぐったそうに笑って見せただけだった。
 寂しいのは認める。
 その日の朝、これで最後のミルクあげになると思ったとたん、寂しさがどっと胸にこみ上げてきた。
 たった数か月、エルフの生きてきた年月にくらべれば瞬きほどの時間を過ごしただけだというのに、だ。
 過ごした日々は、ただ育児に明け暮れた。
 ミルクを与えおむつを替え、入浴させ、たまには日光浴をさせ、添い寝する。
 子守唄も切らすことはなかった。どんなに大泣きしても、歌えばすぐに治まって。どうやら声が心地いいらしい。
 リュウール程ではないが、タイドにはそれでも美声に聞こえたのだろうか。

「タイドは幸せになるだけだ。悲しむことは何もない」

 それは自分に言い聞かせた言葉でもあった。強がりだとは分かっている。ニテンスは小さなため息を漏らすと。

「こんなところで几帳面さを発揮しなくてもよろしいのでは。前言を撤回したところで、ルフレ様もシリオ様も何も申されませんのに…」

「う、うるさい! 最近のお前は一言余計だぞ。だいたい、ここに残してどうする? エルフの中に馴染めるはずがない。友だちだって恋人だって欲しいだろう。人の世界に行けばそれが手に入る。ここでは友人も恋人も望めまい。子どもだって得ることは出来ないだろう…」

 いや。過去に人との間に子をもうけたものもいた。
 人間の女性と恋に落ち、彼女の生活を壊したくなかったため、エルフの生を捨て、人として生きることを選んだのだ。
 望めばその逆もあり得る。もし、このままエルフとして生きたいのなら、条件はあるが手がない訳ではないのだ。
 だが、勝手にエルフと生きる道を決められはしなかった。そこには、当人の同意が必要になる。
 タイドの場合、その意思を確認出来るようになるには、もう少し大人にならなければ無理だろう。そこまで待つため、ここに彼を置いておくのは、やはりタイドの人としての人生を狂わせる事になる。
 しかし、ニテンスは引かない。

「この子は放っておけば命を落としたでしょう。救ったのはあなたです。落とすはずだった命を生かした。それなら、その先の未来もあなたが選択しても良いのではないでしょうか?」

「……」

 エルフと生きる未来。

 だが、タイドがそれを望むかは分からない。
 腕の中のタイドを見下ろす。
 真新しい、エルフの機織りが織った、見事な刺繍の入った産着を身に着け、タイドはすっかりご機嫌だった。
 これから自分が見も知らぬ人のもとへ預けられるとも知らずに。きっと、このままここでの生活が続くものと思っているだろう。
 だが、所詮赤子だ。初めのうちは馴染めずとも、愛情を注がれればきっと元通り、元気になるはず。

「せめて、もう少し、大きくなるまで待たれては? 判断がつくようになってから、人の世界に戻しても──」

「だめだめだ! 初めから人の世界に馴染んでおかねば。途中で帰ればきっと馴染めずに困惑する。この子の為だ」

 そうして、引き留めるニテンスを振り切って、屋敷を後にしたのだった。

✢✢✢

 しかし、いざ、手放すとなると──。

 気が重い。
 この手を離せば二度と会うことはないのだ。こんな赤子だ。自分たちのことなど、記憶にも残らないだろう。
 それでも共にいた間、こちらに向けられた笑顔は自分だけのもの。あの時間は誰にも奪えない。
 けれど、切なさが心を覆う。
 こんな風に気持ちを揺さぶられたのは、リュウールの一件以来だろう。
 タイドとの日々は、恋愛のそれではないにしろ、楽しいことであれ、苛立たしいことであれ、感情を動かされ。そうなるのは久々だった。

 過ごしたこの時間ときを、私はきっと忘れない。

 畑から帰る夫婦を先ほど目にしていた。あと、少しでここへ到着するだろう。
 先回りし、戸口へ籠ごとそっとタイドを下ろした。ずしりと重くなった籠を手放した途端、激しい後悔が襲ったが。

 だめだ。ここで連れ帰ることは出来ない。タイドのために──。

 籠の柄から手をゆっくりと離す。

 ああ、これでもう。

 何も知らぬタイドはこちらに向けてあうあうと声を上げ笑った。
 思わず目の端に涙が浮かび、慌てて手の甲でそれを拭う。それからそっとタイドの額に人差し指を押しあて。

「汝に幸多からんことを──。スウェル・エスプランドルの名において。タイド。真の名を持つ汝に、光の民の恩恵が授からんことを──」

 ポウッと、柔らかな光が額に一塊現れると、それはタイドの額に吸い込まれるように消えていった。
 王族のエルフの力はさらに強力だ。これで、生涯を全うするまで、タイドはよほどの大きな災厄以外、平穏に生き抜くことができるだろう。
 深い緑の瞳がキラキラと輝き、スウェルを見上げてくる。

「さようなら。タイド。どうか──幸せに─…」

 スウェルがいつか大樹の上で耳にした言葉を、今はタイドに向けて使う。

 タイド──。

 あとはもう見て居られず、顔を逸らしその場を去った。
 と、同時に坂になった道の下から、畑仕事を終えた夫婦が仲良く談笑しながらやってきた。先に気づいたのは妻の方。

「あ…あれは?」

「なんだ、隣の家のおばさんが何か持ってきたのかな?」

 妻は戸口に向かって駆けだすと、籠の中をみて口を覆った。

「違うわ! ねぇ、赤ちゃんよっ! 見て、ここに手紙が」

 妻は籠の脇に刺してあった白い小さな紙片に目を落とした後、それを夫へ渡し、すぐに赤子を抱き上げる。

「ああ、なんていい薫り…。それに、見事な織物に包まれて…。あなた、どうしてここへ来たの? 私たちの子になるの?」

 夫は手紙に目を通した後。

「そうだ! そうして欲しいと書いてある! この子は今日からうちの子だ! やはり、あの噂は本当だったんだ! 森の奥まで行った甲斐があった…。ありがとう! 神様!」

 夫は赤子を抱く妻ごと腕に抱きしめた。
 スウェルはそんな様子を遠目に眺める。

 なんと幸せに満ちた絵だろう。

 やはり、手放したことは正解だった。これでタイドは人として幸せに生きることができる。
 きっとあのまま手元に置いておけば、手放しがたくなったことだろう。ニテンスはそれを狙ったのかもしれないが。
 ニテンスが、どうしてタイドを手元に置くように勧めたのか、その理由をスウェルは分かっていなかった。
 それを、そのすぐあと気付くことになるのだが。
 今はまだ、幸せに包まれた家族を木陰から見守るスウェルだった。

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