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10章 この世界への溶性
アレックス=サマルアリアの独白
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私はアレックス=サマルアリア。そうだ。私はアレックス。サマルアリア国の継承権第一位の王子。
何度そう唱えていることだろう。けれど、何度唱えてもそれは日常の中であっという間に埋没し、薄らいでいく。すべてが容易に何かの隙間に紛れ込んでいく。だから日に数回鏡を眺め、自身の失われた右目を直視する。その傷跡の奥深くを覗き込んでようやく、本来の自分というものを見付けることができるのだ。自分がアルバートではないという認識と同時に湧き上がる『にわかには信じがたい』という感情こそが作り出された偽物であるということも。
そうして私はアレックスを取り戻す。
この領域に降り掛かったこの特殊な呪いは、人の認識をそのように歪めていくものらしい。
私が私であることを忘れ去る。考えれば恐ろしい。そうしてこの降り積もる繰り返しにじわじわと精神が疲弊していき、いつしか慣れ果てる、のだそうだ。それは自分がアレックスであると振り返った時、確かな実感として、感じられた。
いっそこの顔の皮を全て剥ぎ取ってしまいたい。
けれども剥ぎ取る行為に意味はない、らしい。そうすればただ、アルバートの顔に見えるようになるだけらしい。
この傷というものが絶妙なのだそうだ。ダンジョンに潜るのだから怪我をしうる。だからこの怪我は呪いに許容されている。四肢を欠損した私の部下も、それが生えてきたりはしない。だから認識に齟齬がない程度のありうる負傷や死は、この呪いに許容される。
「どうしました、アレックス」
「いえ、お祖母様、大丈夫です」
「この場ではエルトリュールとお呼びなさい。流石に妹と呼ばれるのは抵抗がありますが」
ふふ、とお祖母様が笑う。私が妹だと思っていた存在は祖母だった。魔法部を預かっていたサマルアリアの長老的存在。確かにかすかに覗く古い記憶では、その容姿は極めて若かったとは思う。けれどもそれももはや全ては霧の中。
ここは王宮の奥深く、魔法部の管轄するシークレットルームだ。一見何もない簡素な部屋。
しばらく前、かき集めた城内の資料と外国からの外交等文書から、この国がエスターライヒではなくサマルアリアであることが判明した。そして国の上層部は混乱の極みに陥った。事態の解明にやっきになり、一段落ついた時、忘却が全てを彼方に流し去ろうとした。一部の大臣がそれら集積された記録を無意識に破棄しようとしたのだ。いや、一部は実際に破棄された。そのため残りは全て集められ、この国の魔法部、つまりエルトリュールが預かっている。
魔法部には魔法影響を阻害する特殊な部屋がある。この『バグ』というものは魔力とは無関係のようだが、その部屋は魔力だけではなく様々な効果を阻害する。だからこの『バグ』も阻害できるのかもしれない。それにそもそもその部屋を開けるためには、魔法部の長、つまり現在の魔法卿エリザベートであるエルトリュールの許可が必要だ。
だからこの内部の資料を破壊することはエルトリュールでなければ難しい。
「それじゃ会議を始めようか。改めての説明が必要な者はいるか」
「願う。この国の現状はどうなっているのだ」
ウォルターの声に新しく加わったヤークが反応した。ヤークは37階層でバグに囚われていたそうだ。
この場はウォルターが取り仕切っている。
本来ウォルターはこの国の王子ではない。もとよりそんなものは存在しなかった。けれどもこの場では、ウォルターが最もふさわしい。この中で正気を保ち、おそらく最も苦もなく、というか忘却に襲われずに記憶を保持し、とりあえずはこの国の者といえる存在がウォルターだからだ。他に正気を保っているのは賢者ソルタン・デ・リーデルと異国から訪れた踊り子ヘイグリット・パッサージオ、アレグリットの代理だけだ。
それに次ぐのがソルタンの肩にのる神鳥ヤーク、エルトリュール、最後に私と続く。
異国から訪れた死霊術師だというダルギスオンだけは立場が少し異なる。ダルギスオンもアレグリットに紹介された者だが、現在もバグの影響下にある。つまりダルギスオンはその本来の姿を思い出せない。けれどもそもそも、ダルギスオンは本来の自己というものに全く興味がなく、バグに侵されながらもそれを気にせず、世界真理の探究という確固たる自己目的を保持してこの現象の解明に協力している。
この中では私が最も揺らいでいる。この目の傷によって何とか忘却を防げている程度だ。この国の王子だというのに情けない。
そして私たちはこの6人で継続的に会議を行っている。
「ふむ。私は空を調べたが、確かにお前のいうように一定距離以上は飛べなくなっていた。ある地点まで登ると方向がわからなくなり、気づけば落下しているのだ」
「私もこの国の四方をぐるっとまわってみたけれど、やっぱりずうっと透明な壁が続いているのよねぇ」
その声に、ヤークは驚きの声を上げた。
「ヘイグリットとやら。お前は境界際までいけるのか?」
「えぇ。私には認識を狂わせる系統の魔法は効かないもの。あら? 魔法じゃないんだっけ。あなたは端っこまでいけないの?」
「ああ。何故だ、何が違うのだ」
「可能性にすぎないが、バグから名を守りきれているかどうかだと思う」
何度そう唱えていることだろう。けれど、何度唱えてもそれは日常の中であっという間に埋没し、薄らいでいく。すべてが容易に何かの隙間に紛れ込んでいく。だから日に数回鏡を眺め、自身の失われた右目を直視する。その傷跡の奥深くを覗き込んでようやく、本来の自分というものを見付けることができるのだ。自分がアルバートではないという認識と同時に湧き上がる『にわかには信じがたい』という感情こそが作り出された偽物であるということも。
そうして私はアレックスを取り戻す。
この領域に降り掛かったこの特殊な呪いは、人の認識をそのように歪めていくものらしい。
私が私であることを忘れ去る。考えれば恐ろしい。そうしてこの降り積もる繰り返しにじわじわと精神が疲弊していき、いつしか慣れ果てる、のだそうだ。それは自分がアレックスであると振り返った時、確かな実感として、感じられた。
いっそこの顔の皮を全て剥ぎ取ってしまいたい。
けれども剥ぎ取る行為に意味はない、らしい。そうすればただ、アルバートの顔に見えるようになるだけらしい。
この傷というものが絶妙なのだそうだ。ダンジョンに潜るのだから怪我をしうる。だからこの怪我は呪いに許容されている。四肢を欠損した私の部下も、それが生えてきたりはしない。だから認識に齟齬がない程度のありうる負傷や死は、この呪いに許容される。
「どうしました、アレックス」
「いえ、お祖母様、大丈夫です」
「この場ではエルトリュールとお呼びなさい。流石に妹と呼ばれるのは抵抗がありますが」
ふふ、とお祖母様が笑う。私が妹だと思っていた存在は祖母だった。魔法部を預かっていたサマルアリアの長老的存在。確かにかすかに覗く古い記憶では、その容姿は極めて若かったとは思う。けれどもそれももはや全ては霧の中。
ここは王宮の奥深く、魔法部の管轄するシークレットルームだ。一見何もない簡素な部屋。
しばらく前、かき集めた城内の資料と外国からの外交等文書から、この国がエスターライヒではなくサマルアリアであることが判明した。そして国の上層部は混乱の極みに陥った。事態の解明にやっきになり、一段落ついた時、忘却が全てを彼方に流し去ろうとした。一部の大臣がそれら集積された記録を無意識に破棄しようとしたのだ。いや、一部は実際に破棄された。そのため残りは全て集められ、この国の魔法部、つまりエルトリュールが預かっている。
魔法部には魔法影響を阻害する特殊な部屋がある。この『バグ』というものは魔力とは無関係のようだが、その部屋は魔力だけではなく様々な効果を阻害する。だからこの『バグ』も阻害できるのかもしれない。それにそもそもその部屋を開けるためには、魔法部の長、つまり現在の魔法卿エリザベートであるエルトリュールの許可が必要だ。
だからこの内部の資料を破壊することはエルトリュールでなければ難しい。
「それじゃ会議を始めようか。改めての説明が必要な者はいるか」
「願う。この国の現状はどうなっているのだ」
ウォルターの声に新しく加わったヤークが反応した。ヤークは37階層でバグに囚われていたそうだ。
この場はウォルターが取り仕切っている。
本来ウォルターはこの国の王子ではない。もとよりそんなものは存在しなかった。けれどもこの場では、ウォルターが最もふさわしい。この中で正気を保ち、おそらく最も苦もなく、というか忘却に襲われずに記憶を保持し、とりあえずはこの国の者といえる存在がウォルターだからだ。他に正気を保っているのは賢者ソルタン・デ・リーデルと異国から訪れた踊り子ヘイグリット・パッサージオ、アレグリットの代理だけだ。
それに次ぐのがソルタンの肩にのる神鳥ヤーク、エルトリュール、最後に私と続く。
異国から訪れた死霊術師だというダルギスオンだけは立場が少し異なる。ダルギスオンもアレグリットに紹介された者だが、現在もバグの影響下にある。つまりダルギスオンはその本来の姿を思い出せない。けれどもそもそも、ダルギスオンは本来の自己というものに全く興味がなく、バグに侵されながらもそれを気にせず、世界真理の探究という確固たる自己目的を保持してこの現象の解明に協力している。
この中では私が最も揺らいでいる。この目の傷によって何とか忘却を防げている程度だ。この国の王子だというのに情けない。
そして私たちはこの6人で継続的に会議を行っている。
「ふむ。私は空を調べたが、確かにお前のいうように一定距離以上は飛べなくなっていた。ある地点まで登ると方向がわからなくなり、気づけば落下しているのだ」
「私もこの国の四方をぐるっとまわってみたけれど、やっぱりずうっと透明な壁が続いているのよねぇ」
その声に、ヤークは驚きの声を上げた。
「ヘイグリットとやら。お前は境界際までいけるのか?」
「えぇ。私には認識を狂わせる系統の魔法は効かないもの。あら? 魔法じゃないんだっけ。あなたは端っこまでいけないの?」
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