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第一章 鷺沼崇の場合
一 ◯鷺沼 崇【 12月30日 午後9時30分 】
しおりを挟むその日は、凍える程に寒かった。
年末、都内某所の繁華街、西街。夜も更けたこの時間であっても、この場所で生活する人々は意気揚々としており、街はあらゆる店のネオンを着飾っている。
そのような煌びやかな光がわずかに差し込む程度、薄暗い路地裏で、俺は暗い眼差しをそれに向けていた。
「しまった」
小刻みに震えるその手には、ナイフが握られている。量販店で購入した、切れ味はそこまで良いとは言えない安物のナイフだ。折り畳めば片手に収まる程に小型なため、護身用にいつも身につけているものだった。そのナイフの刃には、赤黒い血がべっとりと付着していた。
「やっちまった」
そう呟くと、低く唸る。今、目の前には、一人の男が冷たい地面にうつ伏せに横たわっている。男は、すでに絶命していた。背中の胸部辺りの衣服には穴が開いており、赤色の染みがじんわりとできている。俺の持つこのナイフが、その場所を貫いたのである。
男の名前は小林賢一。この西街の端にある、消費者金融会社の社員であった。
― 事の経緯は、数十分程前に遡る ―
西街近辺に住んでいる鷺沼は、夕刻に日雇いの仕事を終え、行きつけの居酒屋で一人、酒を飲んでいた。
特段これといった理由はないが、今日は何だか沢山飲みたい気分だった。一日働いて稼いだ金を、その数時間で使い切ってしまっても良い。そう思える程に、体が、心が、脳が、アルコールを求めていたのであった。
彼は体こそ痩せ細ってはいるが、金色の明るい髪に派手な真紅のシャツ、また日頃の癖で始終眉間に皺を寄せているという、峻険な容姿をしている。齢こそ二十八という若者だが、極度のヘビースモーカーであり、酒とつまみの合間には必ず煙草の煙を肺に入れ、店内の他の客など御構い無しに煙を吐き出す。
そんな男が店の真ん中の席にどっかりと居座り、安い酒を大量に飲み、安いつまみを頬張っている。 その姿を見れば、誰もが彼と関わりたくないと思うに違いない。げんに、店内の他の客は彼を避けている様子だった。
しかし、当の本人はそんな店内の雰囲気などまるで何処吹く風。「今日、この時間のために俺は働いたんだ。周りになんて気を遣っていられるか」と本気でそう思い、彼は彼自身の小さな贅沢を堪能していた。
…と、そんな彼に声をかける男がいた。
「ちょっとお兄さん、良いか?」
その声が自分にかけられたものと気付くのに、鷺沼は数秒かかった。声のした方向、自分の頭上に顔を向ける。そこには髪をオールバックにし、仕立てのいい濃紺のスーツを着た端正な顔立ちの男が、自分をじっと見つめて立っていた。歳は…三十代前半といったところか。
この男が小林賢一であった。
「…あ?」
鷺沼は椅子に座ったまま、小林を睨む。彼はその眼光に怯むことなく、逆に睨み返す。
「あ?じゃないよ。あんたは誰にでも、そんな威圧的な態度をとるのか?」
ふぅと嘆息し、小林は続ける。
「まあ、ともかく。気持ち良く酒を飲んでいるところ、こんなことを言いたくはないんだが。周囲にそう、思い切り煙草の煙を吹き出すのは止めてくれないか。直接つまみにかかっちまうと、食欲が失せるんでさ」
どうやら、小林は自分に対して注意をするために声をかけてきたようだ。要するに煙草の煙が迷惑だ。そう言いたいらしい。
当然鷺沼は良い気がしなかった。初対面だというのに、なんて嫌味な言い方をする奴だ。折角気持ちの良い至福な時間を過ごしていたというのに、この男の登場で、その時が冷めてしまった。
鷺沼は立ち上がる。その勢いで座っていた椅子が倒れ、店内に大きな音を響かせた。
「てめえ、なんて言った?」
思い切り眼に力を入れ、睨みを利かせる鷺沼に対し、小林は何度か首を横に振る。
「だからさ。煙草を吸うにしても、もう少し周囲に気を遣って吸ってくれと。そう言っているんだよ。俺も昔喫煙者だったんだけれども、あんたみたいに迷惑をかけないよう配慮していたんだけどねえ」彼は更にこうも続けた。「これは喫煙者の誰もが守る、常識みたいなものじゃないのかな」
「俺に言ってんのか、それ」
迷惑。常識。その小馬鹿にしたような言葉を聞き、一気に頭に血が上った鷺沼は、目の前のテーブルの脚を強く蹴った。その衝撃で、酒やつまみの入ったグラスや陶器製の皿が床に落ち、派手な音を立てて割れる。
「お、お客さん方。面倒ごとは困ります」
二人のやり取りを不安な心境で見ていた男性店員が、おずおずと間に割って入る。
「うるせえ、黙ってろ」
鷺沼が恫喝する。ビクッと大きく後退りする店員に軽く頭を下げながら、小林は鷺沼の方を見る。
「まあまあ、落ち着いて。もう少し穏やかにいきたかったけど…ここじゃあお店に迷惑かけることになっちゃうか。お兄さん、外に行こうか。そこで話つけようよ」
そう言いつつ親指を店の入口に向け、颯爽と外へ出て行ってしまった。
「…上等じゃねえか」
そっちがその気なら、やってやろうではないか。鷺沼はそのまま小林の後に続き、同じように店の外へ出たのであった。
(それから…どうしてこうなってしまったんだ?)
俺はナイフを握っていない方の手で髪をがしゃがしゃと掻きながら、改めて目の前に倒れている男を見る。
あの後、こいつに連れられてこの路地裏に来た。こいつはここに来た途端「店の続きの話だが」と、端的に言えば説教を俺に食らわしてきやがった。
働いて疲れているというのに、どうしてこんな初対面の奴から説教されなくてはいけないのか。そもそも、俺が煙草を吸うことなんて俺の勝手だ。周囲に気を遣え、だって?冗談じゃない。気を遣うのは仕事中だけで十分だ。
そう考えた瞬間、俺の怒りは最高潮に達した。
…それからは良く覚えてはいない。気が付くと自分の目の前にこいつが倒れており、俺の手には血のついたナイフが握られていた。
このナイフは紛れも無く俺の所有物であった。故にこの場所に来てから何が起こったのか、頭の悪い俺であっても理解することができた。
「くそ、くそ…」
ナイフを衣服のポケットに仕舞う。
その時、誰かに見られている気配を感じた。辺りを見回す。
気のせいか。誰も見ている者はいない。運が良いのが悪いのか、今の時間帯が夜中であることも手伝って、目を凝らさなければその場の状況が分からない程、両名は路地裏の暗闇に同化していた。
「…よし」
とりあえず、今やるべきことと言えば…そう、そうだ。この状況を無かったことにすること。それしかない。
そのためにはまず、この男の体をどうにかしなければならない。きょろきょろと視線を泳がせると、今いる位置から更に奥の方に、黒いごみ袋が置いてあることに気がついた。急いでその場に駆け寄り、袋の結びを解いていく。中には少ないが生ごみが入れられている。一体いつからここに置かれているのだろうか、腐った生ごみには沢山の蠅が湧いており、強烈な異臭を放っていた。
反射的に顔を背けたくなったが、背に腹は代えられなかった。入っていた生ごみをその場に全てぶちまけた。異臭に顔を歪ませながらも、空となったごみ袋を持ち、小林の元へ駆け戻る。
(急げ…!)
男の両手を持ち、袋の中に彼の体を入れ込む。生気を失った人間の体は予想以上に重く、袋の中に入れるのに少々時間がかかったが、何とか上手く収めることができた。
そのまま袋の口を固結びで縛る。これで、今の状況を誰かに見られたとしても数秒は大丈夫だ。彼の体そのものが無くなった訳ではないが、この現状を見た瞬間では、何があったのかなんて判断はつかないだろう。
その場で脱力し、地面にへたり込んだ。しかしこれで終わりではない。次はこれをどうにかして処理しなければ。あるいは、ほとぼりが冷めるまで隠しておかなくては。
しかし現状、この袋を路地裏の奥に置いておくしかなかった。夜に開く店が多いこの西街にとって、この時間の人通りは多い。そんな場所にここまで大きな黒い袋を引き擦り持って帰るなど、通りすがりの群衆の記憶に嫌でも残る。それはどうしても避けたかった。
そうはいっても、もちろんずっとそのままにするつもりはない。一番人が少ない時間帯というと…明け方以降か。その頃になったらこれを持って帰る。その後の処理はその後だ。改めて考えることにしよう。
その時ふと、地面に何か身分証のようなものが落ちていることに気がついた。これは…名刺か。俺が刺し殺した男の物のようだった。拾い上げ、表面を確認する。
『株式会社 コモレビ 小林賢一』
「えっ?」
株式会社コモレビ…だと。俺はその場に、拾った名刺を落とした。先程の男が入ったごみ袋に目を向ける。その袋は何事もないかのように、黙然とその場に鎮座している。
コモレビは、この西街の一角にある街金である。この界隈では、随分と幅を利かせた仕事ぶりを見せている会社の一つであった。
そして俺は、この会社の社員の一人である檜山武臣に、訳あって多額の借金をしており、頭が上がらない状態なのである。
(こいつは、コモレビの社員だったのか…!)
「う、嘘だ。どど、どうすれば」
万が一、この小林を殺したことが公になれば、俺は警察に捕まるだけでは済まされないだろう。もしかすると、それよりも酷い仕打ちが待っているかもしれない。
なおさら数十分前の俺の行動が悔やまれる。このことは絶対に知られてはいけない。もし誰かに…それこそコモレビの連中に知られることがあれば、俺は破滅だ。
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