6 / 68
第一章 勝治と雛子の寝室
四
しおりを挟むそれは、何の前触れも無かった。
突然、彼女から連絡が来なくなった。メッセージを送るも返信は無い。仕事が忙しいのだろうと軽く考えていたが、数日音沙汰が無ければ、不審に思うものである。
もしかしたら体調不良で動けなくなっているのかもしれない。仕事を午前で切り上げ、ありさの家に向かった。
若月の自宅から数駅隣の駅で下車し、歩いて数分。セントラルハイムという名の、二階建ての木造アパートの二階、三部屋あるうちの真ん中。そこが彼女の自宅だった。合鍵を使い、若月は入室する。
中は、何も無かった。荷物も、家具すらも。
部屋から出て、改めてアパート全体に目をやる。間違いない。二階、真ん中の部屋。間違いようがない。ここは、有紗が住んでいた部屋。どういうことだ。自分は何度もここに来て、彼女と共に過ごした記憶がある。
二階一番奥の部屋、インターホンを押した。数秒経過した後、扉が開く。チェーン付き。部屋の中には、黒Tシャツを着たがりがりに痩せた中年の男がいた。
「隣?」
「ええ。住んでいた方について、何か知っていることはありますか」
痩せ男は若月の質問に、手を顎に当てて首を捻る。
「知っているも何も、隣ってずっと空き家ですよ。誰も、住んでいないと思いますけど」
開いた口が塞がらない若月を、痩せ男は怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
信じられなかった。そんなはずはない。つい最近まで、俺は隣の部屋で彼女と…
そのままの足で、アパートの隣家の呼び鈴を鳴らしてみた。大家が隣に住んでいると、以前彼女から聞いたことがあったのだ。
アパートの大家は、見た目七十代後半の老婆だった。身なりは小綺麗であることからも、実年齢よりも大分若く見られることだろう。
そんな大家の老婆も、嗄れた声で若月の希望を打ち砕いた。
「本当に、二階真ん中の部屋は空き家だったんですか」
「へえ、そうですねえ。ここ半年は誰も入っていないとは思いますよ」
「…女性が、住んでいませんでした?」
老婆は考えこむように俯くも、首を横に振った。
目眩がした。そうなると、あの部屋で過ごした時間は、何だったというのだ。ありさとやりとりをした、これまでのメッセージを見返す。きちんとある。ここに彼女が実際には住んでいなかったのだとしたら、一体彼女は何者だったのだろう。
——もし私が突然消えたり、たとえ死んでしまっても、決して立ち止まらないで。
彼女の言葉が頭に浮かんでは消える。こめかみから汗が垂れる。何も、何も本当に消えなくても良いではないか。
大家の老婆に簡素な礼を言った後、何となく名残惜しくなった若月は、帰るふりをしてまたもアパートに戻った。二階真ん中の部屋には、やはり誰もいない。そのまま室内に入り、窓を開けた。九月の昼過ぎ。残暑の生温い風が、全身にふんわりとまとわりついた。
ありさは何か事件に巻き込まれたのでは、とも考えた。しかしそうであっても、隣人や大家が彼女のことを知らないというのはおかしい。彼女はここに住んでいなかった。そう考える方が、正しいように思えてならなかった。
生活感の無い室内の真ん中で、若月は大の字で仰向けになった。視界いっぱいに広がるは天井。何も無い。ただの白い壁である。
そのまま数十分、何もせずに呆けていた。有紗がいたかもしれない部屋で、彼女と過ごした生活の余韻に浸っていた。その時だ。
「帰ったかい?」
「ああ。帰った帰った」
窓の外から、微かに声が聞こえた。むくりと体を起こし、若月は開いた窓に、恐る恐る近寄っていく。聞き覚えのある声だった。隣に住む痩せ男と、大家の老婆だった。
「しかしまあ、本当に来るとは思わんかったねえ」
「とりあえずこれで良いんだよな。えっと…」
「藍田製薬の社長さんだった人よ」
「そうそう、その人」
藍田製薬。耳をそば立てていた若月も知っている。ありさが働く会社は、藍田製薬の子会社なのだから。
「まったく、ぼろ儲けだよ。こんなお願いなら、いくらでもやるんだけど」
「でもあの子、どうなったのかしらねえ。あんた隣やし、心配じゃないのかい」
「ばあちゃん、一年かそこらで変わる隣人なんて他人も他人よ。そんなん知らねえし、興味もねえな。でも、そんな大企業の社長レベルの人間の依頼ってんだから、人には言えない、やましい何かに関わってんだろうよ。俺達は俺達で、やれって言われたことをやるだけで、それ以上首は突っ込まないほうがいい。そうだろ?」
「まあ、そうだねえ」
会話の内容に具体性は無かった。しかしそれでも、何を話しているか…誰のことを話しているのか。それは理解できた。
部屋を出て、外にいる彼らに駆け寄り、今の会話について若月は詰問した。老婆と痩せ男は両名共に最初は否定したが、若月が自分たちの会話を聞いていたことを考えると、意味がないと察したようだ。観念したように、訥々と話し出した。
「藍田製薬の元社長、ですか」
「う、はい。そうなんです」老婆は体を萎縮させる。
詳しく聞けば、やはりありさは先週の末までここに住んでいたようだった。彼女や、彼女との生活が幻等では無いことに安堵しつつも、話はそう一筋縄ではいきそうになかった。
彼女の引越しは突然のことだったという。ちょうど若月が彼女と連絡を取ることができなくなった頃だ。老婆のもとに、電話があった。男の声だった。
「急で申し訳ないが、二階真ん中に住む女性は、本日引っ越すことになった。管理会社の了承はとっている」
男は藍田勝治、藍田製薬の元社長と名乗った。
午後にはお宅に使いの者を向かわせる、との一方的な内容に、大家の老婆は不審に思ったが、午後にはその考えも吹っ飛んだ。
「札束?その男が差し出してきたんですか」
老婆と男は各々肯く。
電話口の話のとおり、昼過ぎにはアパート前に高級な車が停まった。中から出てきたのは、皺一つないスーツを着こなした、屈強な男達数人だった。
うち一名が老婆に一礼すると、電話で聞いたものと同じ話を述べる。その後すぐに札束を渡してきたのだという。
「しかも現金で!そりゃあ、驚きましたよ。それに、大家さんだけじゃなくて、自分ら住人にも同じようにですから。隣人の引越しは他言無用でお願いしたいって。その口止め料なのか、なんなのか知りませんが」
両手を上げて舌を出す痩せ男。彼を尻目に、若月はまたも老婆に目を向ける。
「代わりに要求されたのが、俺を騙すことですか」
老婆は刻々と頷く。
「近いうちにあんたが来る。そう言われたんです。それで…」
「『ありさなんて女は、このアパートに住んでいなかった』。あなたに聞かれたら、そう言えって」
彼らが若月を騙したこと、それは仕方が無いとも思えた。他人からしてみれば、たったそれだけのこと。人殺しや盗みなどの犯罪を依頼された訳ではない。それで大金が手に入るのであれば、誰だって、他ならぬ若月でさえも、同じように行動するに違いない。が、彼らの行動で危うく騙されかけた側からしてみれば、たまったものじゃなかった。
しかし、彼らから話を聞くことができたことは不幸中の幸いだった。彼女の存在を自分から隠そうとした者がいること、それが分かったのだから。
藍田勝治。
ありさの会社の、親会社にあたる藍田製薬の元代表。
彼女の行方は、彼が知っているに違いない。わざわざ大金を払ってまで、若月の中で「彼女の存在を無かったこと」にしようとしたこと。実際に本人に会って話す必要があった。
0
あなたにおすすめの小説
彼の巨大な体に覆われ、満たされ、貪られた——一晩中
桜井ベアトリクス
恋愛
妹を救出するため、一ヶ月かけて死の山脈を越え、影の沼地を泳ぎ、マンティコアとポーカー勝負までした私、ローズ。
やっと辿り着いた先で見たのは——フェイ王の膝の上で甘える妹の姿。
「助けなんていらないわよ?」
は?
しかも運命の光が私と巨漢戦士マキシマスの間で光って、「お前は俺のものだ」宣言。
「片手だけなら……」そう妥協したのに、ワイン一杯で理性が飛んだ。
彼の心臓の音を聞いた瞬間、私から飛びついて、その夜、彼のベッドで戦士のものになった。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
タダで済むと思うな
美凪ましろ
ライト文芸
フルタイムで働きながらワンオペで子育てをし、夫のケアもしていた井口虹子は、結婚十六年目のある夜、限界を迎える。
――よし、決めた。
我慢するのは止めだ止め。
家族のために粉骨砕身頑張っていた自分。これからは自分のために生きる!
そう決めた虹子が企てた夫への復讐とは。
■十八歳以下の男女の性行為があります。
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる