侵入者 誰が彼らを殺したのか?

夜暇

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第一章 勝治と雛子の寝室

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 それは、何の前触れも無かった。
 突然、彼女から連絡が来なくなった。メッセージを送るも返信は無い。仕事が忙しいのだろうと軽く考えていたが、数日音沙汰が無ければ、不審に思うものである。
 もしかしたら体調不良で動けなくなっているのかもしれない。仕事を午前で切り上げ、ありさの家に向かった。
 若月の自宅から数駅隣の駅で下車し、歩いて数分。セントラルハイムという名の、二階建ての木造アパートの二階、三部屋あるうちの真ん中。そこが彼女の自宅だった。合鍵を使い、若月は入室する。
 中は、何も無かった。荷物も、家具すらも。
 部屋から出て、改めてアパート全体に目をやる。間違いない。二階、真ん中の部屋。間違いようがない。ここは、有紗が住んでいた部屋。どういうことだ。自分は何度もここに来て、彼女と共に過ごした記憶がある。
 二階一番奥の部屋、インターホンを押した。数秒経過した後、扉が開く。チェーン付き。部屋の中には、黒Tシャツを着たがりがりに痩せた中年の男がいた。
「隣?」
「ええ。住んでいた方について、何か知っていることはありますか」
 痩せ男は若月の質問に、手を顎に当てて首を捻る。
「知っているも何も、隣ってずっと空き家ですよ。誰も、住んでいないと思いますけど」
 開いた口が塞がらない若月を、痩せ男は怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
 信じられなかった。そんなはずはない。つい最近まで、俺は隣の部屋で彼女と…
 そのままの足で、アパートの隣家の呼び鈴を鳴らしてみた。大家が隣に住んでいると、以前彼女から聞いたことがあったのだ。
 アパートの大家は、見た目七十代後半の老婆だった。身なりは小綺麗であることからも、実年齢よりも大分若く見られることだろう。
 そんな大家の老婆も、嗄れた声で若月の希望を打ち砕いた。
「本当に、二階真ん中の部屋は空き家だったんですか」
「へえ、そうですねえ。ここ半年は誰も入っていないとは思いますよ」
「…女性が、住んでいませんでした?」
 老婆は考えこむように俯くも、首を横に振った。
 目眩がした。そうなると、あの部屋で過ごした時間は、何だったというのだ。ありさとやりとりをした、これまでのメッセージを見返す。きちんとある。ここに彼女が実際には住んでいなかったのだとしたら、一体彼女は何者だったのだろう。
 ——もし私が突然消えたり、たとえ死んでしまっても、決して立ち止まらないで。
 彼女の言葉が頭に浮かんでは消える。こめかみから汗が垂れる。何も、何も本当に消えなくても良いではないか。
 大家の老婆に簡素な礼を言った後、何となく名残惜しくなった若月は、帰るふりをしてまたもアパートに戻った。二階真ん中の部屋には、やはり誰もいない。そのまま室内に入り、窓を開けた。九月の昼過ぎ。残暑の生温い風が、全身にふんわりとまとわりついた。
 ありさは何か事件に巻き込まれたのでは、とも考えた。しかしそうであっても、隣人や大家が彼女のことを知らないというのはおかしい。彼女はここに住んでいなかった。そう考える方が、正しいように思えてならなかった。
 生活感の無い室内の真ん中で、若月は大の字で仰向けになった。視界いっぱいに広がるは天井。何も無い。ただの白い壁である。
 そのまま数十分、何もせずに呆けていた。有紗がいたかもしれない部屋で、彼女と過ごした生活の余韻に浸っていた。その時だ。
「帰ったかい?」
「ああ。帰った帰った」
 窓の外から、微かに声が聞こえた。むくりと体を起こし、若月は開いた窓に、恐る恐る近寄っていく。聞き覚えのある声だった。隣に住む痩せ男と、大家の老婆だった。
「しかしまあ、本当に来るとは思わんかったねえ」
「とりあえずこれで良いんだよな。えっと…」
「藍田製薬の社長さんだった人よ」
「そうそう、その人」
 藍田製薬。耳をそば立てていた若月も知っている。ありさが働く会社は、藍田製薬の子会社なのだから。
「まったく、ぼろ儲けだよ。こんなお願いなら、いくらでもやるんだけど」
「でもあの子、どうなったのかしらねえ。あんた隣やし、心配じゃないのかい」
「ばあちゃん、一年かそこらで変わる隣人なんて他人も他人よ。そんなん知らねえし、興味もねえな。でも、そんな大企業の社長レベルの人間の依頼ってんだから、人には言えない、やましい何かに関わってんだろうよ。俺達は俺達で、やれって言われたことをやるだけで、それ以上首は突っ込まないほうがいい。そうだろ?」
「まあ、そうだねえ」
 会話の内容に具体性は無かった。しかしそれでも、何を話しているか…誰のことを話しているのか。それは理解できた。
 部屋を出て、外にいる彼らに駆け寄り、今の会話について若月は詰問した。老婆と痩せ男は両名共に最初は否定したが、若月が自分たちの会話を聞いていたことを考えると、意味がないと察したようだ。観念したように、訥々と話し出した。
「藍田製薬の元社長、ですか」
「う、はい。そうなんです」老婆は体を萎縮させる。
 詳しく聞けば、やはりありさは先週の末までここに住んでいたようだった。彼女や、彼女との生活が幻等では無いことに安堵しつつも、話はそう一筋縄ではいきそうになかった。
 彼女の引越しは突然のことだったという。ちょうど若月が彼女と連絡を取ることができなくなった頃だ。老婆のもとに、電話があった。男の声だった。
「急で申し訳ないが、二階真ん中に住む女性は、本日引っ越すことになった。管理会社の了承はとっている」
 男は藍田勝治、藍田製薬の元社長と名乗った。
 午後にはお宅に使いの者を向かわせる、との一方的な内容に、大家の老婆は不審に思ったが、午後にはその考えも吹っ飛んだ。
「札束?その男が差し出してきたんですか」
 老婆と男は各々肯く。
 電話口の話のとおり、昼過ぎにはアパート前に高級な車が停まった。中から出てきたのは、皺一つないスーツを着こなした、屈強な男達数人だった。
 うち一名が老婆に一礼すると、電話で聞いたものと同じ話を述べる。その後すぐに札束を渡してきたのだという。
「しかも現金で!そりゃあ、驚きましたよ。それに、大家さんだけじゃなくて、自分ら住人にも同じようにですから。隣人の引越しは他言無用でお願いしたいって。その口止め料なのか、なんなのか知りませんが」
 両手を上げて舌を出す痩せ男。彼を尻目に、若月はまたも老婆に目を向ける。
「代わりに要求されたのが、俺を騙すことですか」
 老婆は刻々と頷く。
「近いうちにあんたが来る。そう言われたんです。それで…」
「『ありさなんて女は、このアパートに住んでいなかった』。あなたに聞かれたら、そう言えって」

 彼らが若月を騙したこと、それは仕方が無いとも思えた。他人からしてみれば、たったそれだけのこと。人殺しや盗みなどの犯罪を依頼された訳ではない。それで大金が手に入るのであれば、誰だって、他ならぬ若月でさえも、同じように行動するに違いない。が、彼らの行動で危うく騙されかけた側からしてみれば、たまったものじゃなかった。
 しかし、彼らから話を聞くことができたことは不幸中の幸いだった。彼女の存在を自分から隠そうとした者がいること、それが分かったのだから。
 藍田勝治。
 ありさの会社の、親会社にあたる藍田製薬の元代表。
 彼女の行方は、彼が知っているに違いない。わざわざ大金を払ってまで、若月の中で「彼女の存在を無かったこと」にしようとしたこと。実際に本人に会って話す必要があった。
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