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第三章 隠し部屋
二
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「お嬢様。ご昼食、ここに置いておきますね」
ありがとうと、扉越しで微かに声が聞こえた。彼女の声を聞いた使用人の塩原芳美は、今回も返事があったことに安心しつつも、小さく溜息をついた。
食事を乗せたトレイを扉の横に置き、ゆっくりと立ち上がった。彼女の目の前には扉。銀色に輝くドアノブには、精巧な鷹の装飾がされている。
この扉は開かずの扉だった。真琴と志織が結婚したあたりから、瑛子は完全な引きこもりになった。芳美ら使用人のみならず、家族とも話すことなく、自宅にいる時は基本、自分の部屋で一日を過ごしている。今では食事の際の、扉一枚を隔てたやりとりが、彼女とコミュニケーションをとることができる唯一の方法だった。
やりとりができている分、まだましだろうか。他の住人達、使用人がここを訪れたとしても、反応は無いと言っていたのだから。
彼女の祖母の雛子は、彼女を部屋から連れ出そうとしたが、手酷く噛み付かれ諦めたようだ。それからというもの、藍田家の住人は皆、彼女を空気のように扱っていた。
芳美は極力彼女と接するように努めたが、それでも彼女と面と向かって会話をしたのは、覚えていない程昔に思えた。まだ二年弱という歳月しか経過していないのに。
…まだ、二年。いや、もう二年か。
使用人頭の清河には到底及ばないが、芳美はこの家、住人のことをよく知っていた。
瑛子がここにきたのは四年前。その頃は人懐っこい性格で、使用人皆、彼女を娘のように思えていたし、彼女の実母の人柄が良かったこともあり、親子共々日々接していた。
冬子様。心の中で一言、呟く。三年半前に亡くなった彼女は、優しい心の持ち主だった。勝治や雛子みたく横柄でもなく、かといって真琴のように無関心でもない。
この藍田家の住人と芳美とでは、天地程に立場が違う。しかし冬子は優しく、芳美達と対等の立場に立って話すことを、日頃から意識しているようにも思えた。
「冬子様は何故、そんなにお優しいのですか」
冬子の柔和な態度が気になり、芳美は生前の彼女に尋ねたことがある。冬子はきょとんとした表情の後、微笑みを浮かべた。
「私、優しいかしら」
「ええ、まあ。旦那様方よりは…」それだけ言って、ハッと口を抑える。しまった。藍田家に勤める者として、今のは流石に失礼だった。
しかし冬子は意にも介していないようだった。女神のような笑みを崩さぬままに、首を横に傾げる。
「優しくされるの、迷惑?」
「え、そんな。滅相もない」
芳美が慌てふためく姿に、冬子は口に手を当てて小さく笑う。小柄な体、肩ほどまでに切り揃えた黒髪、幸薄ながらも整った顔貌は、現代版日本人形の様。彼女に見つめられると、少なからず緊張するものだった。
「『人に施したる利益を記憶するなかれ 人より受けたる恩恵は忘るるなかれ』」
「えっ?」
「この言葉、知ってる?」
「い、いえ」
冬子の、呪文のような発言に、またも首を横に振ると、彼女は人差し指を立てた。
「イギリスの詩人、バイロンの詩よ。他人へ向けた恩恵は気にせず忘れよ、ただし他人からの恩恵は、いつまでも忘れることなく、覚えていろっていうね。父が、好きな言葉だったの。他人からの施しには、必ず感謝を以て接しなさいだなんて。子どもの頃、私達は耳にタコができるくらい聞いたわ」
「それはまた…」
「笑っちゃうでしょ。昔っぽくって」
「そんなことは!教養のあるお父様だったんだなと。私とは大違いです、大違い」
下手な世辞に冬子は小さく「ありがとう」と述べる。そのまま儚げに、微笑んだ。
「私、『普通のところ』の出なのよ」
普通のところ。藍田家みたく、まさに上流階級の家柄という訳ではなく、一般的な家庭を指しているのだろう。つまり自分と一緒ということになる。
「私の父は、しがない零細企業のサラリーマンだったわ。平凡で、ここの人達みたいに偉いことが当たり前、やってもらえることが当たり前の世界に生きてなかった。だからかな。恩恵とか善意とか、抽象的なものだけど、他人からの信頼、信用って大事だなって思うのよ。何が言いたいかっていうとね、取り立ててあなた達に、優しくしている訳じゃないってこと。普段頑張ってくれている方々には感謝しないと、っていう私の性分なだけ」
「性分、ですか」
「だから、そんな気にする程のことじゃ無いわ」
芳美は言葉を返せなかった。冬子の考えに感銘を受けたのか、他の住人との考え方の違いに驚いたのか。自分でも分からなかった。
そこで、芳美の頭に一つの疑問が浮かんだ。彼女は自分のことを一般家庭の出と呼んだ。しかし今は、まさに提灯に釣鐘ともいえる真琴と結婚し、社長夫人の座についている。一体二人はどのようにして出会い、夫婦を営むまでに至ったのだろうか。
「芳美ちゃんに、話してなかったっけ?」
「ええと。実は以前、清河さんに聞いてみたことはあったんですけど」
「彼、なんて?」
「『使用人がそれを知る必要は無い』なんて、怒られちゃいました」
「清河さん、お堅いものね」
ふふっと笑うと、冬子は「まあ隠すことでもないし」と真琴との馴れ初めを話し出した。しかしそれは、恋愛ドラマでよくあるようなロマンチックなものでは無かった。
「自殺?」
「ええ。真琴君との出会いは、私が今、まさに死のうとする、最中のことだったのです」
ナレーションめいた冬子の言葉に、開いた口が塞がらなかった。こんな、今では社長夫人である女性が、自殺なんて。
「私ね、十歳の時に事故で父を亡くしているの。知ってるわよね」
「ええ、まあ」
「それから母が、おかしくなってね。なんだろう、色ぼけしたっていうのかな。男を取っ替え引っ替え。そりゃ、若いうちに独り身になったら寂しくなるものね。それに、母は地味な外見の割に、女の色気があったの。だから、知らない男と自宅ではじめましてなんて、よくある話だったわ」
「それはまた、なんとも」
「それである時、あれはそう。父が亡くなって数年、私が十四になった頃かな。そいつが家にやってきた」
母は、連れてきた男を再婚相手だと冬子に紹介した。再婚する気はないと思っていただけに、冬子には寝耳に水の話だったが、その男は外見から既に、母の相手には不釣り合いだった。母より一回り以上歳下の彼は、色黒に大柄、粗暴な口ぶりに態度をとる野蛮な性格をしていた。
「怖かったわ。だって、大好きだった父とは似ても似つかないんだもの。だけど母が選んだ相手なら、そんな人がお父さんでも、我慢するしか無いと決めていたの。でも」
「でも?」
「そいつは、母よりも私を求めてきた」
信じられる?と言いながらも、物憂げな表情をした冬子。芳美が二の句を告げずにいると、彼女は肯いた。
「初めて会った時、私はまだ中学生よ。そんな私を、あいつは女とみていたわ」
それからの彼女の話は、聞くに耐えない内容だった。義父からの、幾度も強いられたというその行為の数々。悲しくも、屈強な体躯の男に、十代前半の少女が立ち向かえる訳が無いのだ。
「母は知っていたの。嫌われたくなかったのか、脅されていたのか。今となってはもう分からないけど、とにかく知っていて、あの人のやることを、見て見ぬ振りをしたわ」
「警察には…警察は、頼れなかったんですか」
「うん」冬子は弱々しく応える。「私、妹が一人いたんだけどね。もしも警察に行ったりするなら、妹をお前の代わりにする。そう、私に言ったの。当時、妹は小学生よ。こんなこと、耐えられるわけがないじゃない」
冬子自身の問題であれば、当初から抵抗していたところだった。その点、男は悪知恵が働いていたのだろう。
それからしばらくの間、彼女は男の慰み者になっていた。男が飽きた時には、男が連れてきた知らない男の相手をすることもあった。
抵抗しようが、状況が良くなる訳でもない。絶望。そうして誰にも言えないまま、時だけが過ぎ、冬子は高校生になった。そのタイミングで、再婚相手は冬子に更なる要求をしてきた。
「ビデオ、ですか」
「ええ、そう」
「それって、その…」
「芳美ちゃんの想像どおりよ。そういう、ビデオ」
芳美は息が詰まった。しかし冬子は、けろりとした表情だ。「ロリコンって沢山いるものなのね。需要がある、お前なら高く売れる、って。妹のためってそれまで耐えていたけど、さすがに限界だったみたい」
冬子は家を飛び出した。持ち物は財布だけ。靴を履いていないことに気がついたのは、家を出てから一、二時間は経過した頃だった。
男は追ってきていなかった。
それからのことは覚えていないという。ただ、着いた先は東京だった。慣れない土地に戸惑うも、戻れば悲惨な目に遭わされる。居場所も、幸せも。自分には用意されていない。何も無い。日が暮れ、民家の窓に明かりが灯ると、無性に悲しくなった。大声で、自分の不幸を叫びにして声に出していた。
——この先報われぬ人生なら、もう。
「それで、自殺を…」
冬子は肯く。「知らないうちに私、マンションの屋上にいたわ。どうやって屋上まで来たのかも覚えていなかったし、もちろんそのマンションのことも知らなかった。でも、どうでもよかったの。父の声。優しかった、大好きだった、柔らかな声。また会えるという喜びしかなかった」
十階建のマンションの屋上から見る眼下の風景は、闇夜に店々のネオンが瞬いて、煌びやかだったという。
今にも落下しそうな、屋上の縁に立つ。そのような輝く世界に、自分はこれから飛び込む。冬子は、綺麗な湖に汚れた石がぽちゃんと入るような想像をして、一人悦に浸った。
「そんな私を止めたのが、真琴君だったの」
冬子が入り込んだのは、偶然にも藍田家の所有していたマンションの屋上だった。彼は、夜更けに入っていく見知らぬ女子高生を不審に思い、後ろからつけていたらしい。
「やめろ!って。彼の大声で我に返ったわ。急に、なんていうのかな。現実に引き戻されたように、目の前が鮮明になったの。でも、私ドジでね。一瞬、自分の現状を忘れちゃって。そのせいか、足を踏み外して」
「落ちたんですかっ」はらはらしつつ尋ねた芳美に、「あの、ふわっとした感覚。二度と体験したくないわ」と冬子は苦笑した。
間一髪、冬子は真琴の手で引き上げられた。彼の伸ばす手が躊躇でもして、遅かったとしたら自分はここにいない。冬子は笑ってそう話した。
「衝撃的な出会いだったのですね」
「でしょ?」冬子はぎこちない笑みを浮かべる。「それがきっかけで、彼と仲良くなって。長くなるから省くけど、それでここまできちゃった。以上、彼との馴れ初めでした」
「そ、そうですか…」
深く考えずに尋ねたことではあるが、想像以上に冬子は辛い過去を持っていた。今はそんな過去があったことなどおくびにも出さず、こうして自分達に優しくしてくれていると思うと、胸が熱くなった。
「でも、真琴様が藍田製薬トップの御子息とは、冬子様も知られた時は驚いたでしょう」
「そうね。まさかって思ったわ。ほら彼、良くも悪くも私と雰囲気似てるでしょ。だからそんな、実家がお金持ちと言われても、実感湧かなくて」
彼女とあの無口な真琴が似ている?芳美は少しも思えなかったが、とりあえず肯く。
「数年後、真琴様は社長なんですよね。そうなると、冬子様は社長夫人ということになりますね!」
芳美が嬉々としてそう言うと、冬子は何とも気難しい表情をした。
「冬子様?」
「うーん、どうなのかしら」冬子は考え込むように首を傾げると、「彼、興味無いのよ」
「え。というと…」
「社長のポジション。むしろ嫌みたいでね」
「ええっ、そんなもったいない」芳美は目を見張る。人によってはなりたくて仕方がない者もいるだろうに。
そう思うも、芳美は半ば納得もしていた。半年前に使用人の間で話題になった噂。真琴は遠方で暮らしていたが、後継ぎのために勝治が強引にここへ連れてきたというもの。その過程で何があったかなんて、推し量ることはできない。しかし冬子の口ぶりからも、もしかするとそれは、本人の意思を考慮したものでは無かったのだろう。
「だから、彼が社長になることも、私が社長夫人になることも、未定ってことになるわね」
「私、冬子様になって欲しいです」
思わず本音が出た。そうして、今の社長夫人の顔を思い浮かべては、手を振り回してはかき消した。雛子から冬子になったら、どれだけ良いか。
冬子は目を丸くしたが、ふふっと軽く笑い、うんうんと肯いた。
「うん。きっとね」
心優しい彼女。それは打算的な想いではなく、裏の無い本心によるものに思えた。それだけに芳美は、藍田家のためというよりも、今後は彼女のために働いていくのも悪くは無いなと、そう思っていた。
しかしそれだけに、冬子の死は芳美にとって衝撃的な出来事だった。
ありがとうと、扉越しで微かに声が聞こえた。彼女の声を聞いた使用人の塩原芳美は、今回も返事があったことに安心しつつも、小さく溜息をついた。
食事を乗せたトレイを扉の横に置き、ゆっくりと立ち上がった。彼女の目の前には扉。銀色に輝くドアノブには、精巧な鷹の装飾がされている。
この扉は開かずの扉だった。真琴と志織が結婚したあたりから、瑛子は完全な引きこもりになった。芳美ら使用人のみならず、家族とも話すことなく、自宅にいる時は基本、自分の部屋で一日を過ごしている。今では食事の際の、扉一枚を隔てたやりとりが、彼女とコミュニケーションをとることができる唯一の方法だった。
やりとりができている分、まだましだろうか。他の住人達、使用人がここを訪れたとしても、反応は無いと言っていたのだから。
彼女の祖母の雛子は、彼女を部屋から連れ出そうとしたが、手酷く噛み付かれ諦めたようだ。それからというもの、藍田家の住人は皆、彼女を空気のように扱っていた。
芳美は極力彼女と接するように努めたが、それでも彼女と面と向かって会話をしたのは、覚えていない程昔に思えた。まだ二年弱という歳月しか経過していないのに。
…まだ、二年。いや、もう二年か。
使用人頭の清河には到底及ばないが、芳美はこの家、住人のことをよく知っていた。
瑛子がここにきたのは四年前。その頃は人懐っこい性格で、使用人皆、彼女を娘のように思えていたし、彼女の実母の人柄が良かったこともあり、親子共々日々接していた。
冬子様。心の中で一言、呟く。三年半前に亡くなった彼女は、優しい心の持ち主だった。勝治や雛子みたく横柄でもなく、かといって真琴のように無関心でもない。
この藍田家の住人と芳美とでは、天地程に立場が違う。しかし冬子は優しく、芳美達と対等の立場に立って話すことを、日頃から意識しているようにも思えた。
「冬子様は何故、そんなにお優しいのですか」
冬子の柔和な態度が気になり、芳美は生前の彼女に尋ねたことがある。冬子はきょとんとした表情の後、微笑みを浮かべた。
「私、優しいかしら」
「ええ、まあ。旦那様方よりは…」それだけ言って、ハッと口を抑える。しまった。藍田家に勤める者として、今のは流石に失礼だった。
しかし冬子は意にも介していないようだった。女神のような笑みを崩さぬままに、首を横に傾げる。
「優しくされるの、迷惑?」
「え、そんな。滅相もない」
芳美が慌てふためく姿に、冬子は口に手を当てて小さく笑う。小柄な体、肩ほどまでに切り揃えた黒髪、幸薄ながらも整った顔貌は、現代版日本人形の様。彼女に見つめられると、少なからず緊張するものだった。
「『人に施したる利益を記憶するなかれ 人より受けたる恩恵は忘るるなかれ』」
「えっ?」
「この言葉、知ってる?」
「い、いえ」
冬子の、呪文のような発言に、またも首を横に振ると、彼女は人差し指を立てた。
「イギリスの詩人、バイロンの詩よ。他人へ向けた恩恵は気にせず忘れよ、ただし他人からの恩恵は、いつまでも忘れることなく、覚えていろっていうね。父が、好きな言葉だったの。他人からの施しには、必ず感謝を以て接しなさいだなんて。子どもの頃、私達は耳にタコができるくらい聞いたわ」
「それはまた…」
「笑っちゃうでしょ。昔っぽくって」
「そんなことは!教養のあるお父様だったんだなと。私とは大違いです、大違い」
下手な世辞に冬子は小さく「ありがとう」と述べる。そのまま儚げに、微笑んだ。
「私、『普通のところ』の出なのよ」
普通のところ。藍田家みたく、まさに上流階級の家柄という訳ではなく、一般的な家庭を指しているのだろう。つまり自分と一緒ということになる。
「私の父は、しがない零細企業のサラリーマンだったわ。平凡で、ここの人達みたいに偉いことが当たり前、やってもらえることが当たり前の世界に生きてなかった。だからかな。恩恵とか善意とか、抽象的なものだけど、他人からの信頼、信用って大事だなって思うのよ。何が言いたいかっていうとね、取り立ててあなた達に、優しくしている訳じゃないってこと。普段頑張ってくれている方々には感謝しないと、っていう私の性分なだけ」
「性分、ですか」
「だから、そんな気にする程のことじゃ無いわ」
芳美は言葉を返せなかった。冬子の考えに感銘を受けたのか、他の住人との考え方の違いに驚いたのか。自分でも分からなかった。
そこで、芳美の頭に一つの疑問が浮かんだ。彼女は自分のことを一般家庭の出と呼んだ。しかし今は、まさに提灯に釣鐘ともいえる真琴と結婚し、社長夫人の座についている。一体二人はどのようにして出会い、夫婦を営むまでに至ったのだろうか。
「芳美ちゃんに、話してなかったっけ?」
「ええと。実は以前、清河さんに聞いてみたことはあったんですけど」
「彼、なんて?」
「『使用人がそれを知る必要は無い』なんて、怒られちゃいました」
「清河さん、お堅いものね」
ふふっと笑うと、冬子は「まあ隠すことでもないし」と真琴との馴れ初めを話し出した。しかしそれは、恋愛ドラマでよくあるようなロマンチックなものでは無かった。
「自殺?」
「ええ。真琴君との出会いは、私が今、まさに死のうとする、最中のことだったのです」
ナレーションめいた冬子の言葉に、開いた口が塞がらなかった。こんな、今では社長夫人である女性が、自殺なんて。
「私ね、十歳の時に事故で父を亡くしているの。知ってるわよね」
「ええ、まあ」
「それから母が、おかしくなってね。なんだろう、色ぼけしたっていうのかな。男を取っ替え引っ替え。そりゃ、若いうちに独り身になったら寂しくなるものね。それに、母は地味な外見の割に、女の色気があったの。だから、知らない男と自宅ではじめましてなんて、よくある話だったわ」
「それはまた、なんとも」
「それである時、あれはそう。父が亡くなって数年、私が十四になった頃かな。そいつが家にやってきた」
母は、連れてきた男を再婚相手だと冬子に紹介した。再婚する気はないと思っていただけに、冬子には寝耳に水の話だったが、その男は外見から既に、母の相手には不釣り合いだった。母より一回り以上歳下の彼は、色黒に大柄、粗暴な口ぶりに態度をとる野蛮な性格をしていた。
「怖かったわ。だって、大好きだった父とは似ても似つかないんだもの。だけど母が選んだ相手なら、そんな人がお父さんでも、我慢するしか無いと決めていたの。でも」
「でも?」
「そいつは、母よりも私を求めてきた」
信じられる?と言いながらも、物憂げな表情をした冬子。芳美が二の句を告げずにいると、彼女は肯いた。
「初めて会った時、私はまだ中学生よ。そんな私を、あいつは女とみていたわ」
それからの彼女の話は、聞くに耐えない内容だった。義父からの、幾度も強いられたというその行為の数々。悲しくも、屈強な体躯の男に、十代前半の少女が立ち向かえる訳が無いのだ。
「母は知っていたの。嫌われたくなかったのか、脅されていたのか。今となってはもう分からないけど、とにかく知っていて、あの人のやることを、見て見ぬ振りをしたわ」
「警察には…警察は、頼れなかったんですか」
「うん」冬子は弱々しく応える。「私、妹が一人いたんだけどね。もしも警察に行ったりするなら、妹をお前の代わりにする。そう、私に言ったの。当時、妹は小学生よ。こんなこと、耐えられるわけがないじゃない」
冬子自身の問題であれば、当初から抵抗していたところだった。その点、男は悪知恵が働いていたのだろう。
それからしばらくの間、彼女は男の慰み者になっていた。男が飽きた時には、男が連れてきた知らない男の相手をすることもあった。
抵抗しようが、状況が良くなる訳でもない。絶望。そうして誰にも言えないまま、時だけが過ぎ、冬子は高校生になった。そのタイミングで、再婚相手は冬子に更なる要求をしてきた。
「ビデオ、ですか」
「ええ、そう」
「それって、その…」
「芳美ちゃんの想像どおりよ。そういう、ビデオ」
芳美は息が詰まった。しかし冬子は、けろりとした表情だ。「ロリコンって沢山いるものなのね。需要がある、お前なら高く売れる、って。妹のためってそれまで耐えていたけど、さすがに限界だったみたい」
冬子は家を飛び出した。持ち物は財布だけ。靴を履いていないことに気がついたのは、家を出てから一、二時間は経過した頃だった。
男は追ってきていなかった。
それからのことは覚えていないという。ただ、着いた先は東京だった。慣れない土地に戸惑うも、戻れば悲惨な目に遭わされる。居場所も、幸せも。自分には用意されていない。何も無い。日が暮れ、民家の窓に明かりが灯ると、無性に悲しくなった。大声で、自分の不幸を叫びにして声に出していた。
——この先報われぬ人生なら、もう。
「それで、自殺を…」
冬子は肯く。「知らないうちに私、マンションの屋上にいたわ。どうやって屋上まで来たのかも覚えていなかったし、もちろんそのマンションのことも知らなかった。でも、どうでもよかったの。父の声。優しかった、大好きだった、柔らかな声。また会えるという喜びしかなかった」
十階建のマンションの屋上から見る眼下の風景は、闇夜に店々のネオンが瞬いて、煌びやかだったという。
今にも落下しそうな、屋上の縁に立つ。そのような輝く世界に、自分はこれから飛び込む。冬子は、綺麗な湖に汚れた石がぽちゃんと入るような想像をして、一人悦に浸った。
「そんな私を止めたのが、真琴君だったの」
冬子が入り込んだのは、偶然にも藍田家の所有していたマンションの屋上だった。彼は、夜更けに入っていく見知らぬ女子高生を不審に思い、後ろからつけていたらしい。
「やめろ!って。彼の大声で我に返ったわ。急に、なんていうのかな。現実に引き戻されたように、目の前が鮮明になったの。でも、私ドジでね。一瞬、自分の現状を忘れちゃって。そのせいか、足を踏み外して」
「落ちたんですかっ」はらはらしつつ尋ねた芳美に、「あの、ふわっとした感覚。二度と体験したくないわ」と冬子は苦笑した。
間一髪、冬子は真琴の手で引き上げられた。彼の伸ばす手が躊躇でもして、遅かったとしたら自分はここにいない。冬子は笑ってそう話した。
「衝撃的な出会いだったのですね」
「でしょ?」冬子はぎこちない笑みを浮かべる。「それがきっかけで、彼と仲良くなって。長くなるから省くけど、それでここまできちゃった。以上、彼との馴れ初めでした」
「そ、そうですか…」
深く考えずに尋ねたことではあるが、想像以上に冬子は辛い過去を持っていた。今はそんな過去があったことなどおくびにも出さず、こうして自分達に優しくしてくれていると思うと、胸が熱くなった。
「でも、真琴様が藍田製薬トップの御子息とは、冬子様も知られた時は驚いたでしょう」
「そうね。まさかって思ったわ。ほら彼、良くも悪くも私と雰囲気似てるでしょ。だからそんな、実家がお金持ちと言われても、実感湧かなくて」
彼女とあの無口な真琴が似ている?芳美は少しも思えなかったが、とりあえず肯く。
「数年後、真琴様は社長なんですよね。そうなると、冬子様は社長夫人ということになりますね!」
芳美が嬉々としてそう言うと、冬子は何とも気難しい表情をした。
「冬子様?」
「うーん、どうなのかしら」冬子は考え込むように首を傾げると、「彼、興味無いのよ」
「え。というと…」
「社長のポジション。むしろ嫌みたいでね」
「ええっ、そんなもったいない」芳美は目を見張る。人によってはなりたくて仕方がない者もいるだろうに。
そう思うも、芳美は半ば納得もしていた。半年前に使用人の間で話題になった噂。真琴は遠方で暮らしていたが、後継ぎのために勝治が強引にここへ連れてきたというもの。その過程で何があったかなんて、推し量ることはできない。しかし冬子の口ぶりからも、もしかするとそれは、本人の意思を考慮したものでは無かったのだろう。
「だから、彼が社長になることも、私が社長夫人になることも、未定ってことになるわね」
「私、冬子様になって欲しいです」
思わず本音が出た。そうして、今の社長夫人の顔を思い浮かべては、手を振り回してはかき消した。雛子から冬子になったら、どれだけ良いか。
冬子は目を丸くしたが、ふふっと軽く笑い、うんうんと肯いた。
「うん。きっとね」
心優しい彼女。それは打算的な想いではなく、裏の無い本心によるものに思えた。それだけに芳美は、藍田家のためというよりも、今後は彼女のために働いていくのも悪くは無いなと、そう思っていた。
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