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第三章 隠し部屋
三
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三年半前に、冬子は亡くなった。
事故だという。藍田家が所有するマンションの駐車場で、彼女が発見されたのは午後八時過ぎ。即死だったらしい。
どのような事故だったのか。使用人である芳美には、詳細は知らされていない。しかし冬子が亡くなったこと、それは間違えようのない事実であった。
藍田製薬もとい藍田家も、慌ただしくなるものと思えたが、彼らは驚く程に冷静だった。
何故そんな遅い時間に彼女はその場所にいたのか?
遺族も警察も事故として処理した以上、その疑問の答えを探す者は誰もいない。芳美自身も、おかしいとは思いつつも、独自で動こうとは思わなかった。彼女は、そう落ち込んでばかりもいられなかったのである。それは、遺された瑛子の存在が関係していた。
実母を失い、悲しみに暮れていた瑛子。彼女を慰める者は、芳美が見る限り、藍田家にいなかった。冬子がいなくなり、寡黙な態度に拍車がかかった真琴。祖父母は真琴の様子から、後継問題を日々心配するばかり。誰も、彼女を顧みる者はいなかった。
そんな瑛子の世話は、使用人の…いや、芳美の日課となっていた。今では、冬子が存命の時の使用人は、清河と芳美の二人しかいない。芳美は、瑛子が立派になるまで、彼女に尽くそうと決めていた。
そうだというのに、引きこもる瑛子を見ていることしかできていないこの現状。自分が情けないと思う反面、仕方ないと思うこともあった。瑛子が引きこもる要因。それを取り除くことが、自分にできないことを芳美はよく知っていたからである。
芳美は一階奥の食堂に戻った。使われているのを見たことがない、食卓テーブルを二つ過ぎ、厨房に入った。そこに配膳用のトレイを置いておく。そうしてから必要な荷物を持ち、再び芳美は二階、彼女の寝室の前まで来た。
扉を軽くノックする。いないことは分かっている。しかしノックは礼儀だ。使用人としての感覚が、体に染み付いているからかもしれない。
「若奥様。いらっしゃいますか」
反応が無くても、声をかける。強盗など、緊急事態の場合を想定してのことである。
返答は無い。ドアノブを一瞥すると、そこには「ベッド」のプレートがかけられている。芳美はドアノブに手をかけた。なんのこともなく、簡単に扉が開いた。
昼間だったが、薄暗い。芳美は恐る恐る、室内を縦断していき、カーテンを開けた。途端に部屋の様子が鮮明となった。
ベッドに本棚、ドレッサーと窓際には木の机、他の部屋と変わらない、綺麗で高級な寝室。後妻の志織は、今朝から出かけていると、清河が話していたことを思い出した。
芳美は室内中央に位置しているベッドに近寄った。しわくちゃなシーツを剥ぎ取り、持ってきていた洗濯後の綺麗なものを新たにつける。掛け布団を両手で持ち、埃を叩いて落としながら、彼女は溜息をついた。
憂鬱。芳美は、志織が嫌いだった。彼女は冬子以上に、美しい容姿を持った女である。しかし本質は冬子と百八十度異なり、勝手気ままな性格の持ち主だった。
冬子が死に、真琴と結婚するまでの半年間。志織は頻繁に訪れるようになっていた。真琴に会いに来ているらしかったが、真琴がいようがいまいが、彼女は来た。来て、家中を散策する。その姿はまるで、これから家を購入するために内見する客のようだった。
志織は「良いところ」出身である。冬子が亡くなった時から…いや、その前から既に、藍田家と芳川家の関係は太い線で繋がっていたのかもしれない。
特に芳美が嫌だったのが、使用人達にうるさく小言を言うところだった。使用人達の中には、彼女が原因で辞めた者もいるくらいである。今では清河と芳美、最近雇われた遠藤、月に数回程度しか仕事を任されていない数名のアルバイトしかいなくなってしまった。
——芳美さんも、早く辞めるべきですよ。働き口なんて沢山あるんですから。
共に仕事をしてきた者達は、辞める際こぞって芳美にそう投げかけた。
我慢してまでやるような仕事では無い。分かっている、そんなことは。ただ——。芳美は、瑛子のことがどうしても気がかりだった。
これまで尽くしてきて、瑛子から何かしてもらったことはない。しかし、あの子はこの大きな家で、一人ぼっちなのだ。それを考えると、心がきゅうっと苦しくなった。
だから、せめて私だけでもあの子を想ってあげたい。亡き冬子への恩返しのためにも。
ベッドを整えたところで、芳美は腕時計を見た。午後一時過ぎ。ドアノブのプレートは、ベッドのみだった。志織から提案された「ドアプレート方式」による清掃方法、ビジネスホテルのようで僅かに抵抗があったが、その分毎日の掃除で部屋の主から言伝を受ける必要が無い。悔しくも、役に立っていると言える。
プレート以外の場所の清掃は不要である。ここでの仕事は終わりだ。時間も時間だし、昼休憩に入っても良い頃だろう。
最後に換気のため、がらりと窓を開けた。途端に生温い風が吹き込んでくる。南中していた光がわずかに傾き、まっすぐ真っ白な日の光が差し込んできた。九月中旬。蒸し暑い夏は、まだ終わりそうにない。
数分後に窓の鍵を閉め、芳美は振り返ったところで、床に封筒が落ちていることに気がついた。ベッドシーツを整えていた時には無かったはずである。窓を開けた時に入ってきた風の勢いで、志織の机上から落ちたのだろうか。
芳美はそれを拾いあげた。少し古めの封筒だ。経年劣化で黄ばみ始めている。
自然と目が、封筒表面と裏面に記載された宛先、差出人の名前に向いた。そこで彼女は思わず、目を大きく見開いた。
東京都N区東町五丁目二番地三号 芳川 貴明 様
東京都S区中町一丁目三番地一号 藍田 雛子
事故だという。藍田家が所有するマンションの駐車場で、彼女が発見されたのは午後八時過ぎ。即死だったらしい。
どのような事故だったのか。使用人である芳美には、詳細は知らされていない。しかし冬子が亡くなったこと、それは間違えようのない事実であった。
藍田製薬もとい藍田家も、慌ただしくなるものと思えたが、彼らは驚く程に冷静だった。
何故そんな遅い時間に彼女はその場所にいたのか?
遺族も警察も事故として処理した以上、その疑問の答えを探す者は誰もいない。芳美自身も、おかしいとは思いつつも、独自で動こうとは思わなかった。彼女は、そう落ち込んでばかりもいられなかったのである。それは、遺された瑛子の存在が関係していた。
実母を失い、悲しみに暮れていた瑛子。彼女を慰める者は、芳美が見る限り、藍田家にいなかった。冬子がいなくなり、寡黙な態度に拍車がかかった真琴。祖父母は真琴の様子から、後継問題を日々心配するばかり。誰も、彼女を顧みる者はいなかった。
そんな瑛子の世話は、使用人の…いや、芳美の日課となっていた。今では、冬子が存命の時の使用人は、清河と芳美の二人しかいない。芳美は、瑛子が立派になるまで、彼女に尽くそうと決めていた。
そうだというのに、引きこもる瑛子を見ていることしかできていないこの現状。自分が情けないと思う反面、仕方ないと思うこともあった。瑛子が引きこもる要因。それを取り除くことが、自分にできないことを芳美はよく知っていたからである。
芳美は一階奥の食堂に戻った。使われているのを見たことがない、食卓テーブルを二つ過ぎ、厨房に入った。そこに配膳用のトレイを置いておく。そうしてから必要な荷物を持ち、再び芳美は二階、彼女の寝室の前まで来た。
扉を軽くノックする。いないことは分かっている。しかしノックは礼儀だ。使用人としての感覚が、体に染み付いているからかもしれない。
「若奥様。いらっしゃいますか」
反応が無くても、声をかける。強盗など、緊急事態の場合を想定してのことである。
返答は無い。ドアノブを一瞥すると、そこには「ベッド」のプレートがかけられている。芳美はドアノブに手をかけた。なんのこともなく、簡単に扉が開いた。
昼間だったが、薄暗い。芳美は恐る恐る、室内を縦断していき、カーテンを開けた。途端に部屋の様子が鮮明となった。
ベッドに本棚、ドレッサーと窓際には木の机、他の部屋と変わらない、綺麗で高級な寝室。後妻の志織は、今朝から出かけていると、清河が話していたことを思い出した。
芳美は室内中央に位置しているベッドに近寄った。しわくちゃなシーツを剥ぎ取り、持ってきていた洗濯後の綺麗なものを新たにつける。掛け布団を両手で持ち、埃を叩いて落としながら、彼女は溜息をついた。
憂鬱。芳美は、志織が嫌いだった。彼女は冬子以上に、美しい容姿を持った女である。しかし本質は冬子と百八十度異なり、勝手気ままな性格の持ち主だった。
冬子が死に、真琴と結婚するまでの半年間。志織は頻繁に訪れるようになっていた。真琴に会いに来ているらしかったが、真琴がいようがいまいが、彼女は来た。来て、家中を散策する。その姿はまるで、これから家を購入するために内見する客のようだった。
志織は「良いところ」出身である。冬子が亡くなった時から…いや、その前から既に、藍田家と芳川家の関係は太い線で繋がっていたのかもしれない。
特に芳美が嫌だったのが、使用人達にうるさく小言を言うところだった。使用人達の中には、彼女が原因で辞めた者もいるくらいである。今では清河と芳美、最近雇われた遠藤、月に数回程度しか仕事を任されていない数名のアルバイトしかいなくなってしまった。
——芳美さんも、早く辞めるべきですよ。働き口なんて沢山あるんですから。
共に仕事をしてきた者達は、辞める際こぞって芳美にそう投げかけた。
我慢してまでやるような仕事では無い。分かっている、そんなことは。ただ——。芳美は、瑛子のことがどうしても気がかりだった。
これまで尽くしてきて、瑛子から何かしてもらったことはない。しかし、あの子はこの大きな家で、一人ぼっちなのだ。それを考えると、心がきゅうっと苦しくなった。
だから、せめて私だけでもあの子を想ってあげたい。亡き冬子への恩返しのためにも。
ベッドを整えたところで、芳美は腕時計を見た。午後一時過ぎ。ドアノブのプレートは、ベッドのみだった。志織から提案された「ドアプレート方式」による清掃方法、ビジネスホテルのようで僅かに抵抗があったが、その分毎日の掃除で部屋の主から言伝を受ける必要が無い。悔しくも、役に立っていると言える。
プレート以外の場所の清掃は不要である。ここでの仕事は終わりだ。時間も時間だし、昼休憩に入っても良い頃だろう。
最後に換気のため、がらりと窓を開けた。途端に生温い風が吹き込んでくる。南中していた光がわずかに傾き、まっすぐ真っ白な日の光が差し込んできた。九月中旬。蒸し暑い夏は、まだ終わりそうにない。
数分後に窓の鍵を閉め、芳美は振り返ったところで、床に封筒が落ちていることに気がついた。ベッドシーツを整えていた時には無かったはずである。窓を開けた時に入ってきた風の勢いで、志織の机上から落ちたのだろうか。
芳美はそれを拾いあげた。少し古めの封筒だ。経年劣化で黄ばみ始めている。
自然と目が、封筒表面と裏面に記載された宛先、差出人の名前に向いた。そこで彼女は思わず、目を大きく見開いた。
東京都N区東町五丁目二番地三号 芳川 貴明 様
東京都S区中町一丁目三番地一号 藍田 雛子
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