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第六章 空き部屋
十二
しおりを挟む雛子の遺体は、予想外に重かった。
貴明は藍田家の大きな玄関扉を開ける。できる限り音を立てないように。今はまだ午後十時前。使用人…清河あたりは、いる可能性もある。
一階の電気は点いていない。だが、目が慣れてくれば不都合は無さそうだ。左右に延びる廊下の先を、きょろきょろと交互に見る。人がいないことを確認し、雛子を引きずり、エントランスに入れる。それから素早く、玄関扉を閉めた。
彼女の体を背負い、靴のままで家に入った。目の前にある階段を挟んで二股に分かれている一方、向かって左の通路を進む。そうして、倉庫と階段の間の壁を正面にして立った。
そこには、大の大人の背丈程もある大きな絵画が飾られていた。有名画家の油絵。ここに初めて訪れた時、勝治に祖父から譲られたと説明を受けたものだ。絵画に興味の無い彼にとっては、それがどういった作品か、全く頭に残っていなかった。
雛子を背負い直し、その遺物へと貴明は近寄る。目の前にやってきたところで、雛子をその場に下ろした。
このあたりか。絵画の縁に指を這わせると一つ、わずかな突起があることが分かった。
指で強く押すと、がこんっと音が鳴るや否や、絵画が少し横にずれた。仕組みは知らない。しかし押すことで、絵画裏に隠し通路が現れることを、彼は知っていた。
雛子と共に中に入り、絵画裏の把手で元通りに閉める。持ってきていたペンライトをくわえ、暗闇の中を進む。少し歩くと、通路は段々と上に続いていた。貴明は大きく深呼吸する。彼女を持つ手に力を入れ、階段を上っていく。
上った先の扉を開けると、開けた場所にたどり着いた。四畳程度か。全面コンクリート、冷たい雰囲気のあるその場所。隠し部屋。この家には、このような部屋が複数存在し、そこに通ずる通路がいくつかあるようだ。ここはそのうちの一つらしい。
壁面には血やら何やらの痕がこびりつき、凄惨な様子を表していた。部屋の隅には黒いビニール袋がある。中をちらりと見るも、もわりと漂う異臭に顔を歪ませる。中身が気になるが、今はそれどころでは無い。
貴明は、背負っていた雛子の遺体を床に置いた。
彼女の死に顔は、直視に耐えないものだった。口から出た泡は、血が混じり赤に変色している。目は苦しみのあまり、白目を剥いている。美しいものはたちまち滅びるものだ、とはよく言ったものだ。どんな人間も、こうなったら塵同然。実に儚いものである。
ひとまず、貴明は室内に目を配った。部屋の奥には鉄格子が部屋を分断しており、その向こうを、本棚が全面を覆っている。白色光の電球が、明るく辺りを照らしていた。
貴明は鉄格子についた木製の格子扉を開け、本棚をずらした。それから、二階に続く方の木の扉を開ける。階段が上の方まで続いている。登り切ったところにまた扉。どこかの部屋に繋がっているようである。
貴明が今日、家主の真琴に呼ばれていることは確かだった。しかし午前零時まで、彼は所用で外出しているらしい。早く着いてしまったら、使用人の清河に部屋を開けてもらい、一階のリビングでくつろいでいてほしい。彼から受けた連絡は、このとおりだった。
心当たりは無かった。しかもこの夜更けに呼ぶにも関わらず、用件も告げられていない。しかしこの非常識にも思える申し出を、貴明は了承した。
彼には、この藍田家でやるべきことがあった。真琴と会う前に、それをする必要がある。
そのためにはまず、二階へ行きたいと思った。階段を登り切ると、扉の前に一筋の光が漏れていた。見ると壁に小さな穴が開いていて、そこが出所だった。
繋がった先の部屋の灯りがついているのだろうか。貴明は両手をつけ、片目をその穴に押し付ける。ぼんやりとだが、向こう側の情景を広角度で見ることができた。
どうやら寝室のようである。ベッドらしきものが見える。
男がいた。顔は見えないが、背格好に見覚えは無かった。尚人は貴明で、貴明は尚人であるため、ここの人間関係は把握している。しかし目の前の男は知らなかった。
そういえば。志織の紹介で最近若い使用人を雇ったと、雛子が話していた気もする。彼はその使用人かとも思ったが、すぐに否定した。服装がスポーツウェア並みにすっきりしているし、なにより、じろじろと何かを探す不審な所作は、とてもじゃないが使用人のそれとは思えなかった。
侵入者。頭に、その言葉が浮かんだ。唖然とする。どうして、今日に限って。断定はできないが、一度考えるとそうとしか思えなかった。
見知らぬ者の存在に困惑したこともあり、彼はそこで行動を誤った。手が何かの突起に当たったようで、その場で大きな音が響く。気付くと、覗き穴の横の壁…いや扉が開いていた。その先は薄暗い。侵入者のいる部屋に繋がったわけではなさそうだ。
貴明は急ぎ、開いた扉を閉める。がちゃり。またも、響いて欲しくない音が響く。覗き穴を見ると、訝しげにこちらを見る侵入者の姿。焦燥感からか、すぐさま階段を下った。
隠し部屋、本棚の向こう側、檻を抜け、雛子の遺体がある場所まで戻る。あの男は、こちらを見ていた。音は聞こえていた。ということは、隠し部屋を開けるためのスイッチを見つけ、ここにやって来るのかもしれない。
雛子の遺体は、そのままにせざるを得なかった。貴明は、本棚を元通りにした後は、隠し部屋から、一階絵画の入り口につながる扉を開けた。扉には隠し部屋の外側に掛け金がついていた。それをしっかりとかけたところで、彼は安堵の溜息をついた。
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