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第六章 空き部屋
十五
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若月は焦っていた。
五分というカウントダウンが始まり、既に一分が経過しようとしている。しかし彼は、その場から何もできないままでいた。
志織は何も言わない。微笑みを浮かべながら、若月を見ている。尚哉は目をつぶり、首を垂れている。有紗、芳美は、二人の様子を、固唾を飲んで見守っている。
「あと、四分しか無いわ。早くしないと」
あなたが死ぬわよ。志織は拳銃の銃口を若月に合わせて、バンッと言いながら少し上にあげた。冗談じゃない。じんわりと感じる手汗。若月は、鋸を握り直す。
どうする。尚哉を見た。
彼には言いたいことが山程あった。当時は確かに、殺したいと思うこともあった。しかし実際に人殺しなんて、できる訳がない。というより、それをすること自体、非現実的な事だと思っていた。
しかし尚哉を殺さなければ、自分が志織に殺される。鋸が震える。血に濡れた、赤の真鱈模様の刃が、室内の灯りに照らされた。無意識のうちに唾を飲み込む。若月の心の中は今、葛藤と焦燥感に支配されていた。
「若月」そこでふと、自分の名前を呼ぶ声。尚哉だ。何を言うかと思えば、彼は「俺を、殺すな」と言い放った。
「何を…」言い返そうとするも、言葉が出なかった。
「俺を恨んでいるのは分かる。でも、駄目だ」
彼は「あいつらの思う壺だ」と志織を見て続ける。
「俺をやってみろ。もう、取り返しがつかないぞ」
「必死ね。でも命乞いにしては上から目線じゃないの。そんなんじゃ、ねえ?」
口の端に笑みを浮かべ、志織は若月に目配せをする。そんな彼女を横目に、若月は尚哉に尋ねてみた。
「取り返しが、つかないって?」
「今の状況が…お前が復讐を成し遂げることが、彼女達の慈善事業だと思うか。何か、裏があるに決まっている」
「でも。有紗が俺と恋人だっていうのは本当だぞ。それに、俺があんたに恨みを持っていることも、本当のことで…」
「それなら有紗ちゃんは、向こう側にいるべきだろう。俺と同じように拘束されていること、これはそもそも、根本から違っているんだよ」
「…根本から?」
「ああ」尚哉は肯く。「考えてみろ。五分経ってもあんたが、俺を殺さなかったとする。そうしたら、志織さんは本当にあんたを殺すかな」
「ふうん。それ、どういうことかしら」
「目的が目的なんじゃない。多分、手段が目的なんだろ」
「はぁ?」
「若月に俺を殺させること。その行為自体が、あんた達にとっての目的。そう、言っているんだよ」
志織は反論しない。表情も変わらない。胸騒ぎがしつつも、尚哉は続ける。
「だから若月、あんたが殺されることは無い…」
その時、室内にドンッと重低音が響いた。その音が拳銃の発砲音だと理解したのは、隣に座る芳美の口から、血が盛大に吐き出たのを見たからだ。
「お…っ」
「ごめんね、芳美ちゃん」志織は拳銃を持ちながら、両手を合わせた。「二人が、ああだこうだとうるさいから、撃っちゃった。でも許してくれるよね。あなた、うちの使用人だもんね。私達のやること、いつもみたいに仕方ないって許してくれるよね」
あまりにも自己中心的。だが、志織の懺悔は、芳美に聞こえてはいなかった。首がかっくりと前に垂れ、生気は感じられない。銃弾の当たった箇所は喉だった。ほぼ、即死だったのだろう。
志織はふぅと息をついた。
「あと三分よ」
硬直する二人に志織が言った言葉は、それだけだった。
拳銃が本物で、彼女がそれをきちんと扱えること。躊躇いなく、芳美を撃ったこと。「無駄なお喋りはやめろ」。彼女が言いたいのは、そういうことだった。
尚哉も若月も、ただ黙るしかなかった。しかし今の志織の行動は、尚哉の中の疑念を確信に変えた。やはりこの「メインイベント」、何かしらの意図がある。このまま若月に、自分を殺させてはまずい。
焦る尚哉の心内など露知らず、若月はそこで、尚哉の名をぽつりと呼んだ。それから、手にした鋸の刃を一直線、彼に向ける。
息を飲む尚哉を前に、若月は言葉を連ねる。
「有紗やあの女の言うことは、確かに怪しいよ。けど、この場で、こうしてあんたと、腰据えて話ができる機会を設けてくれたこと。それには感謝しているんだよ」
「あら。素直ね、嬉しいわ」
目尻を下げる志織。若月のこめかみから、汗が流れ伝う。刃についた血はぽたり、ぽたりと床に垂れる。
「俺が。俺が、これまでどれ程強いられてきたか。あんた、分かるか」
「…」
「分からないよな。分かるわけがない」尚哉はかぶりを振る。「俺は万引きなんてしていない。あんただよな。あんたが、俺の鞄に入れたんだろ」
「…ああ、そうだ。そのとおりだ。ストレス発散のために、お前を陥れた。紛れもない事実だよ。認める」
しらを切る場面でも無い。尚哉は素直に述べた。若月は小さく肯く。
「あんたのせいで、俺の人生はまるっきり別物になった。それまでは、この先何事も起こり得ない人生だろうって、馬鹿みたいに思っていたよ。卒業して、仕事して。結婚なんか、できたらだけど、して。うん」そこで若月は溜息をついた。「でも、叶わなかった。家からは勘当された。学校も、行けなくなった。漫画やドラマでしか見たことのないような、ひもじい生活。何度もあんたを恨んだよ。それこそ、殺したい程に」
「全て俺の責任だ」尚哉は自分の声の大きさが、幾分か小さくなった気がした。「俺の、責任だ」
「ねえ。あと二分」既に笑顔を崩した志織の口調がきつくなった。「五十四、五十三…時間は有限よ」
早くやれ。口には出していないが、物言う視線を、志織は若月に向けた。そんな若月を、尚哉は見た。
「さっきも言ったが、やってからひどく後悔した。嘘じゃないんだ」
それは、尚哉の本心から出た言葉だった。若月は無言のまま。尚哉は続ける。今度ははっきりと、つよく。
「本当に。本当に、すまないことをした」
そこで二人の会話は終わった。若月は持ち上げていた鋸をそのままに、尚哉を睨め付けたままだ。
「一分を切るわ」
うんざりするように、志織は顔をしかめた。
そこで若月は、彼女の予想だにしない行動をとる。尚哉を背にして、檻を挟んだ向こう側にいる志織の真正面に立ったのだ。
「何を、してるの」
「殺さない」
「は?」
「俺は、殺さない」
「…はあ?」
「俺は芳川尚哉を殺さない。そう言ったんだ」
若月は持っていた鋸を、カーペットの敷かれた床に落とす。くぐもった、低い音が短く響いた。
「そうなるとあなた、一分後には死ぬのよ。賢い選択とは言えないわね」
志織は眉根を寄せる。若月はちらりと、尚哉を見た。
「俺はあんたみたいに、人殺しになりたくない。それに、なにより」
「なにより?」
「他人の人生を奪うだけの権利も度胸も。俺には、ないから」
「…そう。それは、残念ね」
志織は拳銃の照準を、若月の額に合わせる。若月はまるで意を決したように、その場でゆっくりと正座する。唇を噛み、そのまま目を瞑った。
「ちょっと待って!」
若月が目を瞑るのと、ほぼ同時だった。それまで沈黙していた有紗が、声を張り上げたのだ。
「大声なんか出して。何?」
冷淡な声色で、志織は有紗を睨む。眼光に負けじと、有紗は彼女をじっと見る。
「もう、やめましょう」
「やめるですって?」志織は頬を引きつらせながら、視線のみ若月へ向ける。「もとはと言えば、あなたが選んだ彼が、悪いんでしょうが」
選んだ。先程は「何でもよかった」だったか。察するに、若月がこうして死の瀬戸際にあることは、必然ではなく偶然だった。そういうことなのだろうか。
「孝司君じゃなくて、悪いのは私。私なの」
「それなら」そこで、志織は銃口の先を有紗に向けた。「代わりに、あんたが死ぬ?」
志織は撃鉄を親指で引き上げた。がちりと、室内に金属的な音が反響する。若月や、今は蚊帳の外である尚哉でさえ息を飲む。が、有紗は臆することなく、志織を見る。
「私を殺しても、一時満足するだけ。でもそれ以上に、今それをしても意味が無いって分かるでしょ」
有紗はそこで一度、息を切った。
「そうよね、姉さん」
五分というカウントダウンが始まり、既に一分が経過しようとしている。しかし彼は、その場から何もできないままでいた。
志織は何も言わない。微笑みを浮かべながら、若月を見ている。尚哉は目をつぶり、首を垂れている。有紗、芳美は、二人の様子を、固唾を飲んで見守っている。
「あと、四分しか無いわ。早くしないと」
あなたが死ぬわよ。志織は拳銃の銃口を若月に合わせて、バンッと言いながら少し上にあげた。冗談じゃない。じんわりと感じる手汗。若月は、鋸を握り直す。
どうする。尚哉を見た。
彼には言いたいことが山程あった。当時は確かに、殺したいと思うこともあった。しかし実際に人殺しなんて、できる訳がない。というより、それをすること自体、非現実的な事だと思っていた。
しかし尚哉を殺さなければ、自分が志織に殺される。鋸が震える。血に濡れた、赤の真鱈模様の刃が、室内の灯りに照らされた。無意識のうちに唾を飲み込む。若月の心の中は今、葛藤と焦燥感に支配されていた。
「若月」そこでふと、自分の名前を呼ぶ声。尚哉だ。何を言うかと思えば、彼は「俺を、殺すな」と言い放った。
「何を…」言い返そうとするも、言葉が出なかった。
「俺を恨んでいるのは分かる。でも、駄目だ」
彼は「あいつらの思う壺だ」と志織を見て続ける。
「俺をやってみろ。もう、取り返しがつかないぞ」
「必死ね。でも命乞いにしては上から目線じゃないの。そんなんじゃ、ねえ?」
口の端に笑みを浮かべ、志織は若月に目配せをする。そんな彼女を横目に、若月は尚哉に尋ねてみた。
「取り返しが、つかないって?」
「今の状況が…お前が復讐を成し遂げることが、彼女達の慈善事業だと思うか。何か、裏があるに決まっている」
「でも。有紗が俺と恋人だっていうのは本当だぞ。それに、俺があんたに恨みを持っていることも、本当のことで…」
「それなら有紗ちゃんは、向こう側にいるべきだろう。俺と同じように拘束されていること、これはそもそも、根本から違っているんだよ」
「…根本から?」
「ああ」尚哉は肯く。「考えてみろ。五分経ってもあんたが、俺を殺さなかったとする。そうしたら、志織さんは本当にあんたを殺すかな」
「ふうん。それ、どういうことかしら」
「目的が目的なんじゃない。多分、手段が目的なんだろ」
「はぁ?」
「若月に俺を殺させること。その行為自体が、あんた達にとっての目的。そう、言っているんだよ」
志織は反論しない。表情も変わらない。胸騒ぎがしつつも、尚哉は続ける。
「だから若月、あんたが殺されることは無い…」
その時、室内にドンッと重低音が響いた。その音が拳銃の発砲音だと理解したのは、隣に座る芳美の口から、血が盛大に吐き出たのを見たからだ。
「お…っ」
「ごめんね、芳美ちゃん」志織は拳銃を持ちながら、両手を合わせた。「二人が、ああだこうだとうるさいから、撃っちゃった。でも許してくれるよね。あなた、うちの使用人だもんね。私達のやること、いつもみたいに仕方ないって許してくれるよね」
あまりにも自己中心的。だが、志織の懺悔は、芳美に聞こえてはいなかった。首がかっくりと前に垂れ、生気は感じられない。銃弾の当たった箇所は喉だった。ほぼ、即死だったのだろう。
志織はふぅと息をついた。
「あと三分よ」
硬直する二人に志織が言った言葉は、それだけだった。
拳銃が本物で、彼女がそれをきちんと扱えること。躊躇いなく、芳美を撃ったこと。「無駄なお喋りはやめろ」。彼女が言いたいのは、そういうことだった。
尚哉も若月も、ただ黙るしかなかった。しかし今の志織の行動は、尚哉の中の疑念を確信に変えた。やはりこの「メインイベント」、何かしらの意図がある。このまま若月に、自分を殺させてはまずい。
焦る尚哉の心内など露知らず、若月はそこで、尚哉の名をぽつりと呼んだ。それから、手にした鋸の刃を一直線、彼に向ける。
息を飲む尚哉を前に、若月は言葉を連ねる。
「有紗やあの女の言うことは、確かに怪しいよ。けど、この場で、こうしてあんたと、腰据えて話ができる機会を設けてくれたこと。それには感謝しているんだよ」
「あら。素直ね、嬉しいわ」
目尻を下げる志織。若月のこめかみから、汗が流れ伝う。刃についた血はぽたり、ぽたりと床に垂れる。
「俺が。俺が、これまでどれ程強いられてきたか。あんた、分かるか」
「…」
「分からないよな。分かるわけがない」尚哉はかぶりを振る。「俺は万引きなんてしていない。あんただよな。あんたが、俺の鞄に入れたんだろ」
「…ああ、そうだ。そのとおりだ。ストレス発散のために、お前を陥れた。紛れもない事実だよ。認める」
しらを切る場面でも無い。尚哉は素直に述べた。若月は小さく肯く。
「あんたのせいで、俺の人生はまるっきり別物になった。それまでは、この先何事も起こり得ない人生だろうって、馬鹿みたいに思っていたよ。卒業して、仕事して。結婚なんか、できたらだけど、して。うん」そこで若月は溜息をついた。「でも、叶わなかった。家からは勘当された。学校も、行けなくなった。漫画やドラマでしか見たことのないような、ひもじい生活。何度もあんたを恨んだよ。それこそ、殺したい程に」
「全て俺の責任だ」尚哉は自分の声の大きさが、幾分か小さくなった気がした。「俺の、責任だ」
「ねえ。あと二分」既に笑顔を崩した志織の口調がきつくなった。「五十四、五十三…時間は有限よ」
早くやれ。口には出していないが、物言う視線を、志織は若月に向けた。そんな若月を、尚哉は見た。
「さっきも言ったが、やってからひどく後悔した。嘘じゃないんだ」
それは、尚哉の本心から出た言葉だった。若月は無言のまま。尚哉は続ける。今度ははっきりと、つよく。
「本当に。本当に、すまないことをした」
そこで二人の会話は終わった。若月は持ち上げていた鋸をそのままに、尚哉を睨め付けたままだ。
「一分を切るわ」
うんざりするように、志織は顔をしかめた。
そこで若月は、彼女の予想だにしない行動をとる。尚哉を背にして、檻を挟んだ向こう側にいる志織の真正面に立ったのだ。
「何を、してるの」
「殺さない」
「は?」
「俺は、殺さない」
「…はあ?」
「俺は芳川尚哉を殺さない。そう言ったんだ」
若月は持っていた鋸を、カーペットの敷かれた床に落とす。くぐもった、低い音が短く響いた。
「そうなるとあなた、一分後には死ぬのよ。賢い選択とは言えないわね」
志織は眉根を寄せる。若月はちらりと、尚哉を見た。
「俺はあんたみたいに、人殺しになりたくない。それに、なにより」
「なにより?」
「他人の人生を奪うだけの権利も度胸も。俺には、ないから」
「…そう。それは、残念ね」
志織は拳銃の照準を、若月の額に合わせる。若月はまるで意を決したように、その場でゆっくりと正座する。唇を噛み、そのまま目を瞑った。
「ちょっと待って!」
若月が目を瞑るのと、ほぼ同時だった。それまで沈黙していた有紗が、声を張り上げたのだ。
「大声なんか出して。何?」
冷淡な声色で、志織は有紗を睨む。眼光に負けじと、有紗は彼女をじっと見る。
「もう、やめましょう」
「やめるですって?」志織は頬を引きつらせながら、視線のみ若月へ向ける。「もとはと言えば、あなたが選んだ彼が、悪いんでしょうが」
選んだ。先程は「何でもよかった」だったか。察するに、若月がこうして死の瀬戸際にあることは、必然ではなく偶然だった。そういうことなのだろうか。
「孝司君じゃなくて、悪いのは私。私なの」
「それなら」そこで、志織は銃口の先を有紗に向けた。「代わりに、あんたが死ぬ?」
志織は撃鉄を親指で引き上げた。がちりと、室内に金属的な音が反響する。若月や、今は蚊帳の外である尚哉でさえ息を飲む。が、有紗は臆することなく、志織を見る。
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