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第二章 雨と傘
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しおりを挟む七月二十五日。カラッと晴れた、暑い日だった。
しかし中津の心は曇り空である。朝から呼び出しをくらうとは、ついていない。今日は久しぶりの非番だったというのになぁ。
中津は心内で文句を垂れ流しながらも、連絡を受けて十分も経たないうちに自宅を飛び出していた。
「休みのところ悪かったな」
現場に到着してすぐに、上司の 太田原が、のしのしとやってきた。百九十センチは超える大柄な体躯。岩石のような顔面。一回りは背が低い中津の存在は、彼を目の前にするとまるで子どもだ。
かぶりを振りつつ、中津は「イチキューキューですか」と彼に尋ねる。
イチキューキュー。刑法百九十九条、人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する——つまりは、殺人事件が起きたことを意味していた。
「そりゃ死語だ死語」
「そうですかね」
「まったく。とにかく事後連絡だとお前、キレるだろ」
「そりゃもう、もちろん」
「だろ」
太田原は苦笑する。昔気質ではあるが、自分のような若者が生意気を言っても笑って受け入れてくれるところ。それが彼の良いところだと中津は思った。
「行ってこい。あそこだよ」
太田原が指差す先。中津は、現場を一度俯瞰して見た。
場所は公園だった。東京都内、住宅街の中にある公園としては比較的大きめ…フットサルコート二つ分程度はあるだろうか。脇にはブランコ、滑り台、揺れる動物のスプリング遊具が二、三個設置されている。広いこと以外は、変哲もない公園である。
昨夜は雨が降っていたせいか、歩くと泥が靴にベタつく。溜息をつきつつも、中津は歩いて行く。滑り台の降りたところのそばに、ブルーシートが広げられていた。中津は近寄ると、先にいた数名の鑑識課の連中に「すみません」と言いつつ、シートをそっと外す。
遺体は女だった。髪は長くて細身で色白、雨にやられて皮膚はぐちゃぐちゃにふやけてしまっているも、体の感じから、だいぶ若いと思われる。衣服は身につけていない。目や口は閉じていて、鼻筋が通った中々の整った容姿である。生前は異性から思いを寄せられることが多かったのだろう。そのような雰囲気があった。
しかしその遺体は、両手の指が全てなくなっていた。第一関節の前後あたりから先が、どれも無くなっている。血は既に固まっていて、切り口は黒に近い色になっていた。切断面付近の千切れた皮膚の色は青白く、生々しさを際立たせていた。
「かわいそうにな」
両掌を合わせていると、近くにしゃがみ込んでいた鑑識課の男が溜息をつく。三十前の中津よりも二回りは上の歳で、ベテラン鑑識の榎森だ。
「怨恨ですか」
「さあな」
「死因はなんなんです」
「しっかりと検死したわけじゃないが」
彼は白髪混じりの短髪、頭をぼりぼりと搔いた。
「首のところ、まばらに痣みたいな痕が広がっとるだろう。これは扼殺痕って言ってな。両手で強く絞められた時にできる痕だ」
榎森は遺体の首元を指差す。中津は被害者の首の部分を覗き込む。見ると確かに鎖骨の上あたり、色むらはあるが濃い赤紫色の筋がついている。
「殺してから、これをしたってことになりますか」
遺体の両手を指差す中津に、榎森は頷いた。
「指の蒐集家ってか。猟奇的な通り魔の可能性もあるかもな。若い女の指が好きで、今回目に留まったのがこの子だった、とか」
「でもそれだと、コロシに扼殺は選ばないでしょうね」
「ほう」榎森はじろりと中津を睨め付けた。「何故かな」
「見てください、首の後ろは扼殺痕が薄い。つまりは前から首を絞められて、殺されたってことになりますよね。前からこられたら、被害者の抵抗もあったでしょう。失敗する可能性もありますし、一悶着の最中、誰かに見られる可能性もある。通り魔とかなら、そうですね。例えば瞬間的に意識を飛ばせるような…それこそ、ハンマーとか。無ければ素手でも構わない。後方から一発、ノックアウトさせる方が無難じゃないでしょうか。その方が効率も良い」
「効率って考え方はともかく、良い読みだな」にやりと、榎森は口角を持ち上げた。「俺も同じ考えだ。それに、この痕のつき方から見るに、犯人は素手じゃなくて何か、手袋みたいなもんをつけていたように思える。少なくともゆきずりの犯行ではないだろうな」
「そうなると犯人は被害者の知り合い、でしょうか。でも、どうして指まで…」
「さあな。殺してから目や口を閉じさせているのも、不気味なところだ」
「どういうことです?」
「死ぬ程の苦しみなんだぞ。こういう時の被害者は、だいたい顔が苦痛に歪むもんさ」
彼の言うことはもっともだった。女性は首を絞められたにも関わらず、表情は安らかだ。殺害した後に犯人が整えた…ということになるのか。しかしそれは一体何故。
「まあ、異常者の考えは俺にはわからん」榎森は渋い表情をして、溜息をついた。「とにかく、身元がわからんとな」
身元がわかれば、捜査が一気に進む。しかし現状それがわからない。わかるのは若い女性であること。それだけだった。
「制服なんかを着てくれていれば分かりやすいんだが。いずれにせよ、まだ時間はかかりそうだ」
近寄ってきた太田原が溜息をつく。「検分はエノさん達に任せるよ」
「俺達はどうしますか」
そうだな、と太田原は頭を掻いた。「署じゃ、捜査本部を開く準備の最中だ。そろそろ戻るがお前はどうする」
「行きます」
中津は立ち上がると、榎森に礼を言ってから太田原に向き直った。太田原は軽く顎を引き、ヨレヨレのハンカチで額の汗を拭う。
「今年も、暑い夏になりそうだな」
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