蜃気楼に彼女を見たか

夜暇

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第二章 雨と傘

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「熱帯夜ですねぇ」
 隣の少女は、片手を団扇のようにパタパタと仰ぐ。それから、フロントパネルに目を向けた。
「おじさん、クーラー強めて良いですか」
 俺の返答を待たずに、少女はフロントパネルのつまみをくりくりと回す。途端に雑音が激しくなり、冷風が肌の上を撫で上げた。突然の冷気に、思わず鳥肌が立つ。
「おい、強いって」
 俺は彼女が強めたクーラーを少しだけ弱めた。暑かったのは俺も同じだったが、急にここまでは求めていない。
 俺達は今、東京を出てまっすぐ北へ、高速道路の上を走っていた。時刻は午前二時過ぎ。夜は車も少なく、遮るものは何も無い。無意識のうちに速度は上がる。反対走行車線のトラックのヘッドライトの眩しさで目を細めながらも、俺は「なあ」と少女に声をかけた。
「今更だけど。お前、もう戻れないからな」
 ほんと今更とけらけら笑いつつ、「むしろこのまま遠くまで…もっと、もっともっと遠くまで行きたいくらいですよ」
「ふうん」
 俺は適当な相槌を打って、またも運転に集中する。
 彼女には、まだ詳しく話を聞いていなかった。あの涙を見てからというもの、俺の中で何かがおかしくなっていた。少女に対する遠慮というのか、何か直接心に、脳に指令が下っているかのような。そんな感覚だった。
「というか」
「ん?」
「その『お前』って、やめてもらえます?私、お前って呼ばれるの嫌いなんです」
「そうなのか?」
 横目に少女を見る。彼女は深く肯いた。「女の子にお前呼びって。やっちゃダメなことベスト10に入りますからね。おじさんそれで彼女にフラれたこととか、あるんじゃないんですか」
「彼女になるような人に、お前呼びはしないよ」
「そうですか…いや待って。ということは、良いイメージじゃないって知ってるんじゃないですか」
 少女の言葉に返すことなく、俺は「でもなぁ」と片手で頭を掻いた。
「他に呼び方なんて」
深青みお
「へっ」
「名前です。私の、な、ま、え」
 思わずスピードを緩めた。90、80…70キロぐらいまで落ちたところで、「なんて?」と掠れた声を出す。
「だから、深青って名前なんです。私」ふんと息をつくと、少女は、「次から呼んでくださいよ」
「それは、違うだろ」
「なんでですか」
「いや、まあ。その」
「何を恥ずかしがってるんです。ほら」
 有無を言わさない様子の彼女に、俺は顔が熱くなった。
「機会があったらな」
「は?」
「だから、今は呼ぶ必要がないだろ」
 俺がそう言うと同時に、彼女…深青は大きく肩を落とした。「おじさん、先が思いやられます」
「勝手に言っててくれ」
 捨て台詞を吐きつつも、深青の顔は見れなかった。視界にも入れられない程に、顔が熱くなる。たかが中高生の言葉に、三十路間際の自分がここまでしてやられていることが恥ずかしくなった。
 俺の心情なんてつゆ知らず、深青は両手を合わせた。「そうだ。おじさんのことも名前で呼びますよ」
「俺?俺は良いよ」
「良いじゃないですか。それに」深青は運転する俺に顔を寄せた。「私みたいな若い子が、おじさんおじさんって。それを聞いた周りはどう思うでしょ。怪しく思うのでは?」
 それには一理あった。叔父さん、伯父さんと頭の中で変換…というのは、自分の都合の良い推測であると気付く。何しろ顔も似ていないし、歳もそのレベルで離れているわけでもない。俺はこほこほと、わざと咳をする。
「まあ、確かに」
「決まりですね」深青の嬉々とした声色。「それじゃ、龍介さん。よろしくお願いします」
「う、うむ」
「何ですその返事。ウケる」
 くそ、ずっと彼女のペースだ。恥ずかしさも相まって、少しだけ彼女を乗せたことを後悔した。
「というか、なんで俺の名前知ってんだ」
「え?」
「俺、まだ教えてなかっただろ」
 ああ、と深青は肯く。
「すみません。さっき龍介さんの車検証、見ちゃいました」
「え」
「ここにあるやつです」
 視界の端に、彼女の白い人差し指が入る。彼女の指の先には、助手席前の収納、グローブボックスがあった。そういや、そこに車検証やら点検の領収書を適当に入れていた気もした。
「お前、いつの間に…」
 呆然と声を出す俺の横で、すみませんと申し訳なさそうな声。
「出発してすぐに、龍介さん自動販売機でそれを買ったじゃないですか」
「ああ」今度は運転席のドリンクホルダーに入っている缶コーヒーを見る。
「その時、足があたっちゃって」
「なるほどな」
 俺の納得した様子を見て、深青はにこりと笑顔を作った。
 …確かにそれには納得したが、そもそも俺は完全に彼女を信用できないでいた。
 彼女には、不審な点がいくつもあった。
 まず、俺が死ぬための旅に出ることを知っていたのかということ。言わずもがな、それを知っていたからこそ、俺のアパートの駐車場にいたのである。しかしそれを実行しようと考えたのは、突然なことだった。
 また、彼女の死のうとしている理由である。車に乗る前、誤魔化されたままであった。しかしどうしてか、もう一度聞くには忍びなく思えた。
 他にも分からないことばかり。素性不明な少女、深青…しかし、彼女の下の名前は知っている。俺は今、自分の置かれた状況がおかしく思えてきた。
「何を笑っているんです」
「いや、なんだかな。おかしくってさ」
「おかしい?よくわからないですけど。一つだけ」
「ん?」
「龍介さん、またお前って言いましたね」
「言ったか?」
「言いましたよ。もうっ」
 ぶうぶうと文句を言う深青のことを無視して、俺は目の前を見た。暗闇の中、びゅんびゅんと過ぎていく道路灯。これから向かう先、俺は…俺達はどうなるのか。分からないまま、アクセルを踏む力は強くなる。車は、猛スピードで走り続けた。
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