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第二章 雨と傘
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しおりを挟む俺の会社は、電子機器端末の内蔵部品の開発、製造、それらの営業を主に行なっている。
今の会社のことを好んで入社はしていない。機械工学を専攻していただけあって、こんな会社への就職はもはや既定路線だった。いや、そもそも複数社受けて唯一引っかかったのが、そこだった。それだけの話だった。
株式会社テクノロジーネットワークサービス。通称TNS。大手企業の下請け。それ以外の何者でもない。開発なんて偉そうにいえども、主体的で建設的な仕事はできそうにない。就職案内サイトに寄せられたコメントにあったそれに、俺はひどく納得したものだった。
そういうものなのだ。会社で働くなんて。
主体的に働く?建設的な仕事?それができる人間は、そもそもこんな会社で働きなんてしていない。ここでは上から示された、決められた仕事を上手にこなすこと。それが求められているのである。
「辻さん、納期遅延したんだって」
いつだったか、昼休憩の時間だった。トイレに用を足しに行った帰り、給湯室近くから聞こえた会話に、俺は思わず足を止めた。
「決められた仕事くらい、終わらせてほしいよね」
「それで吉田くんにストレスぶつけんでしょ。ヤダヤダ」
「ああいう人、恥ずかしくないのかって」
「恥ずかしかったらここにいないでしょ。恥知らずって、ああいう人を言うんだよ」
きゃっきゃっと、笑い声が響く。
俺の陰口を叩いている二人…四月に採用されたばかりの、美沙と杏奈だ。はたからみても、彼女らは大して仕事も任されていないのだが、若さとお得意の愛嬌で、社内中の——特に男性社員達の心を掴んでいた。
俺は拳を強く握る。
担当業務の采配は、課長の師崎の権限で決まっている。新人はまだ他の社員同様の業務実績を上げられないが故に、通常の業務負担分の一部を、他の社員で振り分けしているそうだ。
しかしその分の俺の割り当ては他の社員よりも多く、内容も面倒な調整を要するものばかり。明らかに他と違っていた。
加えて、新人の吉田は無能を絵で描いたような男だった。俺が提示した期限までに仕事は終わらせないし、新人とはいえ、明らかに手を抜いているとしか思えない程にミスが多い。再チェック、ミスの尻拭い、彼に仕事を任せると、余計に俺の仕事も増えていた。
それでいて他の社員と同じ納期が求められる。定時に仕事が終わるわけがない。その規模の業務量なのだ。
そんな日々の中で、俺は更に時間を割かなければならないことがあった。
「辻ぃ!」
怒気を含んだ声で師崎が自分を呼ぶ時は、数十分の説教が始まる時だった。仕事の報告が遅い、態度が悪い、お前が無能だから俺も上から目をつけられる、エトセトラ。フロアに響く程の大きな声で、罵詈雑言を俺に投げつけてくる。
しかしフロアの誰もが平然と仕事をしている。無関係、無関心。皆、巻き込まれたくないし、仕方ないことなのかもしれない。俺が逆の立場なら、極力関わらないように身を縮こませるだろう。
——師崎のストレス発散の道具に使われていることは、俺も…俺以外の社員全員も、分かっていた。
師崎は俗に言えばパワハラ上司で、昨年度は石垣千紗という女性社員を追いつめていた。彼女は二月に辞めてしまったのだが、自主退職扱いのためにお咎めなしである。なまじ権力を持っていること、これまでの実績もあって、奴はやりたい放題だった。
そこで次のターゲットは、俺だった。
割と早く、それに気づいた。師崎が怒鳴るのは俺だけになっていると。まさかとは思えど、事実今に至るまで、奴の俺に対する態度には既視感を覚えていた。
正論が通じない相手には、何を言っても火に油だということを実感する。いつしか、彼と面と向かって話す時に手が震えるようになった。彼のことを、体が拒絶するようになっていた。
「辞めるしかねぇよ」
旧友の西尾は、電話でそう口にした。酔った勢いで電話したにもかかわらず、彼は俺の愚痴、悩みを真摯に聞いてくれた。
「パワハラする奴ってさ。相手がどう思うかなんてなんて何も考えちゃいないんだよ。しかもそいつ、管理職で力があるんだろ。歯向かうと、しっぺ返し喰らって終了だぞ。
それでも会社にいたいなら、今は我慢して、他のターゲットが現れるのを待つしかないんじゃねえの」
つまりは、劣悪な環境から今すぐに逃れる方法は無い。だからこその「辞める」の選択肢を彼は提示した。しかしその時の俺は冷静な彼の態度に頭に来たようで、ぶっきらぼうに電話を切った。
だが、酔いが冷めたところで、絶望が心を支配する。西尾の言うとおり、辞めるか、我慢するか。それしかないというのか。
「課長の辻さんへの態度、やり過ぎじゃないですね」
一筋の光が俺に差したのは、そのすぐ後の話だった。五月…ゴールデンウィークが明けた日のこと。三月末に自主退職した社員の代わりとして、新たな社員が採用された。
それが彼女…円城理乃だった。
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