蜃気楼に彼女を見たか

夜暇

文字の大きさ
10 / 73
第二章 雨と傘

しおりを挟む

 俺の会社は、電子機器端末の内蔵部品の開発、製造、それらの営業を主に行なっている。
 今の会社のことを好んで入社はしていない。機械工学を専攻していただけあって、こんな会社への就職はもはや既定路線だった。いや、そもそも複数社受けて唯一引っかかったのが、そこだった。それだけの話だった。
 株式会社テクノロジーネットワークサービス。通称TNS。大手企業の下請け。それ以外の何者でもない。開発なんて偉そうにいえども、主体的で建設的な仕事はできそうにない。就職案内サイトに寄せられたコメントにあったそれに、俺はひどく納得したものだった。
 そういうものなのだ。会社で働くなんて。
 主体的に働く?建設的な仕事?それができる人間は、そもそもこんな会社で働きなんてしていない。ここでは上から示された、決められた仕事を上手にこなすこと。それが求められているのである。


「辻さん、納期遅延したんだって」
 いつだったか、昼休憩の時間だった。トイレに用を足しに行った帰り、給湯室近くから聞こえた会話に、俺は思わず足を止めた。
「決められた仕事くらい、終わらせてほしいよね」
「それで吉田くんにストレスぶつけんでしょ。ヤダヤダ」
「ああいう人、恥ずかしくないのかって」
「恥ずかしかったらここにいないでしょ。恥知らずって、ああいう人を言うんだよ」
 きゃっきゃっと、笑い声が響く。
 俺の陰口を叩いている二人…四月に採用されたばかりの、美沙みさ杏奈あんなだ。はたからみても、彼女らは大して仕事も任されていないのだが、若さとお得意の愛嬌で、社内中の——特に男性社員達の心を掴んでいた。
 俺は拳を強く握る。
 担当業務の采配は、課長の師崎の権限で決まっている。新人はまだ他の社員同様の業務実績を上げられないが故に、通常の業務負担分の一部を、他の社員で振り分けしているそうだ。
 しかしその分の俺の割り当ては他の社員よりも多く、内容も面倒な調整を要するものばかり。明らかに他と違っていた。
 加えて、新人の吉田は無能を絵で描いたような男だった。俺が提示した期限までに仕事は終わらせないし、新人とはいえ、明らかに手を抜いているとしか思えない程にミスが多い。再チェック、ミスの尻拭い、彼に仕事を任せると、余計に俺の仕事も増えていた。
 それでいて他の社員と同じ納期が求められる。定時に仕事が終わるわけがない。その規模の業務量なのだ。
 そんな日々の中で、俺は更に時間を割かなければならないことがあった。
「辻ぃ!」
 怒気を含んだ声で師崎が自分を呼ぶ時は、数十分の説教が始まる時だった。仕事の報告が遅い、態度が悪い、お前が無能だから俺も上から目をつけられる、エトセトラ。フロアに響く程の大きな声で、罵詈雑言を俺に投げつけてくる。
 しかしフロアの誰もが平然と仕事をしている。無関係、無関心。皆、巻き込まれたくないし、仕方ないことなのかもしれない。俺が逆の立場なら、極力関わらないように身を縮こませるだろう。
 ——師崎のストレス発散の道具に使われていることは、俺も…俺以外の社員全員も、分かっていた。
 師崎は俗に言えばパワハラ上司で、昨年度は石垣千紗いしがきちさという女性社員を追いつめていた。彼女は二月に辞めてしまったのだが、自主退職扱いのためにお咎めなしである。なまじ権力を持っていること、これまでの実績もあって、奴はやりたい放題だった。
 そこで次のターゲットは、俺だった。
 割と早く、それに気づいた。師崎が怒鳴るのは俺だけになっていると。まさかとは思えど、事実今に至るまで、奴の俺に対する態度には既視感を覚えていた。
 正論が通じない相手には、何を言っても火に油だということを実感する。いつしか、彼と面と向かって話す時に手が震えるようになった。彼のことを、体が拒絶するようになっていた。


「辞めるしかねぇよ」
 旧友の西尾にしおは、電話でそう口にした。酔った勢いで電話したにもかかわらず、彼は俺の愚痴、悩みを真摯に聞いてくれた。
「パワハラする奴ってさ。相手がどう思うかなんてなんて何も考えちゃいないんだよ。しかもそいつ、管理職で力があるんだろ。歯向かうと、しっぺ返し喰らって終了だぞ。
 それでも会社にいたいなら、今は我慢して、他のターゲットが現れるのを待つしかないんじゃねえの」
 つまりは、劣悪な環境から今すぐに逃れる方法は無い。だからこその「辞める」の選択肢を彼は提示した。しかしその時の俺は冷静な彼の態度に頭に来たようで、ぶっきらぼうに電話を切った。
 だが、酔いが冷めたところで、絶望が心を支配する。西尾の言うとおり、辞めるか、我慢するか。それしかないというのか。
「課長の辻さんへの態度、やり過ぎじゃないですね」
 一筋の光が俺に差したのは、そのすぐ後の話だった。五月…ゴールデンウィークが明けた日のこと。三月末に自主退職した社員の代わりとして、新たな社員が採用された。
 それが彼女…円城理乃えんじょうりのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

処理中です...