蜃気楼に彼女を見たか

夜暇

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第二章 雨と傘

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 七月も半ばに差しかかった頃だ。夏の到来、その日は台風が接近したとかなんとかで、蛇口から最大の強さで放出された水のような、大雨が降っていた。
 仕事終わりの終電。土砂降りの帰路の合間で、俺はその時初めて彼女に——深青に会った。
 俺の自宅の近くには上乃川かみのがわいう川が流れていて、その上を年季の入った橋がかかっている。この荒れ狂う天候の中、彼女は傘もささずに、橋の真ん中あたりでうずくまっていた。その時の彼女も、今日と同じような制服だった。半袖の白シャツは肌にべったりとくっつき、ベストとチェックのスカートは雨に濡れ、黒ずんでいる。
 初めは見間違いかと思った。それが違うとわかるや否や、次には妖怪か幽霊のような、オカルトな存在を頭の中で浮かべた。しかし半袖シャツから出た両腕、水に濡れたそれは、人間の肉感のそれだった。よどんだ空気と周囲の暗さもあいまって、彼女は夜の闇に溶け込んでしまっていたのだ。
「大丈夫か」
 そんな彼女に、俺は声をかけたのである。
 いつもの俺なら声をかけることもない。相手は女子高生だろうから、下手すれば犯罪者扱いだ。そういうご時世なのだから。
 しかし俺は、自然と声をかけていた。
 そこに下心はなかった。本心から、そう言えた。今思い返してみると、多分…彼女は今にも消えそうなくらい、この世界において不安定な存在に思えたのだ。
 まるで、その時の俺と同じように——。
 女子高生は緩慢な動きで、俺を見上げた。髪が顔に張りつき、顔はよく見えなかったが、色白で、鼻が高いことはわかる。憂いを帯びた雰囲気は妙に色気があって、俺は思わず緊張したことを覚えている。
「ここでいたら、風邪引くんじゃないか」
 そんなことを言った気がする。風邪とか、もはやそんな程度はゆうに通り越してずぶ濡れの彼女だったのだが。しかし言えることはそれだけだった。
 彼女は何も言わない。しかし張り付いた髪の隙間から、俺を見ていることはわかった。視線は俺の顔、それから体に向けられていることを感じた。
 いたたまれなくなってきて、「これ、使いなよ」と、俺は自分がさしていた傘を彼女のそばに置いた。途端、雨が雪崩のように自分の体に降りかかってきた。しかし丸く座っていた彼女は、俺の大きな黒い傘の中にすっぽりと収まった。
「いらなかったら、捨てて良いから」
 俺は彼女をそこに残したまま、駆け足でその場を去った。槍のような雨が、頭を、背中を強く突く。衣服が十分に水分を吸収し、徐々に体は重くなる。
 それでも俺は走った。走らずにはいられなかった。
 途中、自分の瞳から涙が出ていることに気がついた。しかも、それは止まらない。いつから。そうだったのだろう。考えてみると、最寄駅を降りたところから、既に視界が滲んでいたような気がする。
 涙は拭かずとも、豪雨に吹き飛ばされ、そのまま消え失せる。しかし、心に生まれた感情の揺さぶりは治まることは無い。
 あの少女は、俺だ。
 雨に濡れ、ぼうっと死んだような雰囲気で、消えてなくなっても誰も気にしないような。全世界に蔓延る数十億もの人間の中でも特に、誰にも意識されないような儚い存在。
 俺なんだ。
 少女の存在は、その時の自分の存在をそのまま投影しているかのように、思えてならなかった。


「あの日から、龍介さんを探していました。ようやく家を突き止めたかと思えば、もう八月になってました」
 深青は、何度か俺に声をかけようと思ったらしい。
「ちっとも気づかなかった。話しかけてくれればよかったのに」
「だって龍介さんのこと、何も知りませんでしたから。それにあの雨の日の夜のことなんて、龍介さんからしてみれば、覚えていないかもしれないなって」
 彼女の言うとおりだ。俺はその時、自分のことで精一杯だったのである。
「そう思うと、なんだか気乗りせず…」
「でもそもそも、どうして俺なんだ」
「どうしてって?」
「傘のお礼で探していたわけじゃないだろ」
 深青は両手を膝の間に入れて、俯く。「あの日、傘をくれた龍介さんの顔が、忘れられませんでした」
「忘れられなかった…」
 それが、甘いラブロマンス的な意味合いではないことは、百も承知だった。
「まるで」彼女は息継ぎをする。「まるで、これから死のうとしている——そんな顔つきでした」
 的を射た発言に、俺は思わず閉口する。つまりは、彼女からもすべからくそう思われていたということだった。
「なるほど。似たもの同士ってことか」
 俺は座席を倒して、ふうと息を吐く。容姿も年齢も、生きてきた過程も何もかも違う二人。しかし、最終的に行き着く先で交わることがあるなんて、人生何があるかわからないものだ。
「死のう、か。確かにそうしようか、考えていた時だったよ」
 深青は目を細めて、何も言わずに軽く肯く。
「やっぱりそうだったんですね」
「ああ」
「それならなおのこと、私は龍介さんとこのまま行きたいんです」
「このまま、か」
「ええ。このまま、まで」
 最後。一緒に死ぬ。深青の懇願するような表情に、俺は口をグッと結んだ後に「詮索して悪かった」と詫びた。


 俺はサイドブレーキを解除し、本線に合流する。それからしばしの間、彼女の顔は見なかった。運転中だからではなく、もはや見ずともどんな顔をしているかは理解できたからである。
 この、人生を終える旅は…深青と二人でも、良いのかもしれない。その時の俺は、ようやく本心からそう思えているように思えた。
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