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第三章 秘密とカクテル
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しおりを挟む五月下旬。朝六時過ぎのことである。
仮眠から目が覚めたところで、デスクの上に真っ白の缶が置かれていることに気がついた。「仕事の合間、リフレッシュ!」のラベルを見るに、栄養ドリンクだ。これを飲んで、さらに頑張れとでも言いたいのか。
その日は師崎から与えられた仕事が終わらず徹夜し、職場で朝を迎えていた。誰かが自分を嘲るために置いたものだと思い、舌打ちしつつ手に取ると、裏側に付箋がついていた。
毎日お疲れ様です。円城
「円城…?」
頭が働かず、すぐにその名前がピンとこなかったのだが、頭が眠気から覚めたところで、今月配属された新人、円城理乃のことを思い出した。
俺は栄養ドリンクの缶をまじまじと見る。どうやら流行りのリラクゼーションドリンクのようで、覚醒を促すものではなく、緊張を和らげるためのもののようだった。
理乃のデスクを見る。彼女はいない。出勤時刻よりもかなり前の時間なのだから、いないのが当たり前である。
缶は触ると冷たく、わずかな結露が指につく。置かれてから、そこまで時間が経っていない。どうやら早めに出勤して、席を外しているだけのようだった。
プルタブを開け、一口。シュワシュワと、微炭酸の中、さっぱりとした甘味。昨夜から飲まず食わずで仕事をしていただけあって、その一口は俺の全身をくまなく潤した。
しかしどうして、これを俺に?
理乃とはまともに会話をしたこともない。名前すらすぐに浮かばなかった程だ。俺は、彼女のことを知らなかった。
ただ、彼女は俺のことをよく知っているだろう。何せ、毎日のように師崎から怒鳴り散らされている社員なのだから。
恋愛感情、いや、同情——。
分かってはいるのだが、同情と聞くと少し切ないところもある。しかしそれでも、ありがたいことには変わりはない。彼女が戻り次第お礼でも伝えようと、そわそわして待っていた。
「理乃ちゃん、今日の夜。どう?」
「いや、その。課長…」
「良いでしょ良いでしょ。配属されてもうすぐ一ヶ月、疲れた頃だろ。酒でも飲んで、リフレッシュしようよ」
理乃は出勤時刻三十分前にやってきた。しかしその時刻には他の社員が出勤しており、落ち着いた隙を狙おうとしたところで師崎に阻まれ、俺は彼女にドリンクのお礼を言えないままでいた。
「課長って、理乃ちゃんのこと狙ってるんですかね」
隣席の新人、吉田が俺にこそこそと声をかけてくる。四月からの新卒で採用されたばかりの、まだスーツが馬子にも衣装な若者である。礼儀がなっていない、ビジネスマナーがわからない、仕事への熱意も感じられないなど、大学生気分が抜けていない男だった。
「俺、良いなって思ってんすよね」
俺は彼に流し目を送ると、「やめとけ」と一言。
「課長、この会社の中じゃ地位あるし、金もあるからな。目をつけられると面倒だぞ」
「でも、ぶっちゃけあんなおっさんよりも歳が近い俺の方が良くないっすか」
どうして自分にそんな自信があるのかわからないが、半ば面倒になった俺は適当に相槌を打って終わらせることにした。それから、師崎に絡まれる理乃へと目を向ける。
彼女も数ヶ月後には、師崎の付き人になるのだろうか。
四月に配属された美沙と杏奈はそうだった。今では「課長、課長」といつも後ろについてまわっている。あの男の何が魅力でそうしているのかはわからないが、慕っている様子は見てとれた。
彼女もまた——。
俺は何故だか、心の中で仄かに何かが燻るのを感じた。
「課長って独身でしたっけ」
ハッとして俺は横を見た。会話を終わらせたはずなのに、関係なく話しかけてくる吉田。俺は内心舌打ちをした。
「生粋の遊び人なんだよ」
師崎の若い女好きは、社内では有名だった。ターゲットは基本二十代の若い女性。師崎は、次のターゲットに理乃を選んだようだった。
「じゃあ理乃ちゃん、課長のもの?それ、嫌だなあ」
彼女は転職組のため、歳は吉田より上のはずである。一ヶ月の差で先輩目線になれる口ぶりと、女性を物扱いする態度に、俺は辟易する。
「俺の実家、北陸にあって。母さん、毎年蟹とかわんさか送ってくるから、それで大学の奴らと大騒ぎするんすよ。その蟹、食べません?なんて言って、理乃ちゃんうちに連れ込んで、ワンチャン狙えっかな、なんて思ってたんすけど。
そんなのできるわけないって思います?そりゃ、思いますよね。でもね、それで大学の後輩何人かとヤレましたからね。辻さん知ってますか、あの蟹。めちゃくちゃ旨いんで。名前、なんて言ったっけな——」
吉田はぺらぺらと、聞いてもいない自分のことを語りだす。蟹の話も、彼の下衆な武勇伝じみた話も、まったくといっていいほど、どうでも良かった。
「お前、仕事の進捗はどうなんだ?」
うんざりした俺は、声のトーンを少しだけ低くして吉田に尋ねる。
「え?」
「お前に任せたとこ、終わってないだろ」
するとそれまでにやにやしていた笑みが消え、「なんでしたっけ」と目が泳ぐ。
「昨日先方から急務で欲しいって言われた、コネクタの製造素材の説明資料のことだよ。できるって言っただろ」
「期限って、いつまででしたっけ」
「今日の正午くらい」
吉田は「あー」と腕時計に目を向ける。これはいつもどおりの反応だ。はぁと息をつく。
「明日の昼かと」吉田はぽつりと呟く。
「お前な」俺は呆れて声が掠れた。「昨日は早く帰ったし、てっきり家でやってたと思ってたんだが」
「え、昨日は、普通に帰ってブルエやってましたけど」
「ブルエ?」
「ブルーエンブレム。話題のソシャゲっすよ」
吉田は悪びれもなく説明する。嘘も方便という言葉を知らないのか、この若者は。
このまま任せても出来上がる未来が見えない。タイムイズマネーというやつだ。
「もうやらなくていい。吉田はメールチェックと書類整理を頼む」
「あ、はい」
それだけ言うと、吉田は自分のデスクに向き直った。一言謝るべきじゃないのか、そもそも率先して一緒にやろうとするべきじゃないのか…そういうのはないのだろうか。
ただ、俺は知っていた。やる気のない奴にあれこれ言っても、何も響かないものなのだ。特に最近の若い連中は、無意識的に責任から逃げる節があった。今回、吉田は自分の仕事、自分の責任のもとに取り掛かっていた自覚がないのだ。だから、俺がやらなくていいと言えば素直に頷くし、今もこうして他人事でいられるのである。
暗雲たる思いに苛まれるも、俺は考えるだけ無駄だと、吉田の尻拭いを如何にしてやっていくか、頭の中で順序立てる。先方に連絡し、納期の延長が少しでも可能か調整し、並行して作成した資料の整えから、どれくらいの時間がかかるかを計算する。
…時間は明らかに不足していた。俺も俺で、自分の仕事が中途半端で片付いていない。かといって、吉田の仕事を蔑ろにはできない。完成度は甘くても、並行して自分の仕事をやるしかない。
心の中で溜息を漏らしつつも、カタカタと作業に当たり始めて十分後かそこら。パソコンのディスプレイ右下、緑のアイコンに吹き出しが表示された。会社内のチャットアプリの、プッシュ通知だった。
『お疲れ様です。お手伝いできることはありますか?』
思わず二度見した。通知の相手は理乃だった。俺は顔を上げて、彼女のデスクを見る。既に師崎はいなかった。彼女は自席に座っていて、それから俺に顔を向けていた。
互いに目と目が合う。デスクは少し離れているが、それでもわかるくらいに透き通った瞳。色白の顔。
『こっちの話、そっちまで聞こえるの?」
『いえ。先程お手洗いに行った帰りに、吉田さんに今夜、飲み会のお誘いをされまして。その時、辻さんが俺の仕事をやることになったって言っていたので』
俺は拳を机に叩きつけるのを必死で堪える。それから、横目で吉田を見る。彼は何をしているのか、キーボードをかたかたと動かしていた。
『悪いね、吉田が迷惑かけて』
『大丈夫です。すみませんチャットでこんな…でも、本当に何かできることがありますか。田上さんに、ヘルプの許可はもらってます』
田上とは、彼女の先輩で俺の同期である。妻帯者で子煩悩な彼だが、仕事はちゃきちゃき進めるだけの力があり、人柄が良い。師崎も彼には特に何も言いはしない。
俺は再度、隣の吉田を見た。彼は俺に見られていることも気付かないくらいに、パソコンの画面に熱中している。盗み見ると、洋風なレストランの情報が表示されていた。声は出していないが、口の端が上がっている。
本当は他のチームの力を借りるのはよろしくない。しかし、今は猫の手も借りたい。そう思えるくらい、喫緊に迫られていたし、俺自身出来の悪い部下の態度に少しまいったのだろう。
『それなら、少しだけ手伝ってもらえるかな』
『わかりました。田上さんにも話しておきます』
彼女とのチャットは終わった。念のため、田上にも一言礼を送っておき、俺は仕事に取り掛かり始めた。
が、そこで思い出したのが、朝のドリンクの礼だ。
「しまった」
声に出してしまったところ、必死に口をつぐむ。チャットで言えばよかった。ただ、今は会話を再開するほどの余力が無い。仕方ない、ヘルプしてもらう時にいくらでも話すだろうから、そこで直接言おう。
「どうしたんです。仕事、やばそうですか?」
隣からの間抜けな声。焦る俺の様子を見てもなお、彼の態度は他人事だった。
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