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第三章 秘密とカクテル
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しおりを挟む俺と深青の二人旅も、二日目の午後六時半を過ぎた。
車は上信越自動車道の突き当たり、上越ジャンクションを富山方面へと進み、北陸自動車道へと合流した。それから走っていくと、右手側に海が——。
「そう、気を落とすなよ」
「だって」助手席側のドアを開けて外に出ると、深青は両眉の端を下げて俯いた。「海沿いを走るだなんて聞いていましたし、てっきり海が見えるものかと」
「見えたじゃないか」
「そりゃ、少しはそうですけど。でも、ほぼトンネルだったじゃないですか。てっきりずっと見えるものだって思ってました」
北陸自動車道を西方へと進む道路は、地図上では海沿いだが山の中をくり抜いて作られている。春日山トンネルから泊トンネルまで、富山県に辿り着くまでに二十六もの薄暗いトンネルの中を進むのである。
「沖縄とかの島国とは違うんだぞ」
「わかってますよ。でもちょっとだけ、海沿いドライブってやつを味わってみたかったんですよね」
観光しているような口ぶりに、俺は肩をすくめる。
「まあ、これからいやでも海は見ることになるだろうさ」
「龍介さんはこっちの方に来たことあるんですか?」
「いや、俺も初めてだ」
信頼度ゼロじゃないですか、と項垂れる深青を放っておいて、俺は長距離運転の凝りを取るために、大きく背伸びをした。
俺達は北陸自動車道をしばらく進み、今はふ頭近くの道の駅で車を降りていた。
折角だし水平線上の日の入りを見ながら、美味しい海鮮丼でも食べよう。俺がそう提案すると、彼女も大いに賛同した。互いの意見が合致したこともあり、こうして一度、高速道路を降りたのだ。
道の駅の定食屋「みずほ亭」の建物を見る。横に広く、屋根は瓦でできている。壁はつい最近塗り替えたのか、随分と綺麗な様相である。
深青には内緒だったが、実はここのことを、俺は事前に調べていた。是非とも来たいと思っていただけに、こうして食事時に訪れることができてよかった。
だだっ広い駐車場の海際は堤防になっていて、そこからは一面海が広がっている。遠く…水平線上に浮かぶ太陽は沈み始めており、あと一時間もすれば全て沈んで、やがて夜が訪れるだろう。
「わあ」
深青は堤防まで走り出す。彼女は今、衣料品店で購入した水色のワンピースを身に纏っていた。真夏の夕暮れ、朱色に染まる空の下で、ワンピースの裾がひらりひらりとはためく様はまるで、印象的な絵画のようだった。
「海。良いですよね」
少し遅れる形で俺が隣に立つと、深青はぽつりとつぶやいた。彼女は両手を堤防に置いて、太陽をじっと見つめた。ざざあ、ざざあと波の音が聞こえてくる。海面がすぐ下にあっと。潮が満ちてきているようだ。
「海って私、数えるほどしか来たことないんです」
「そうなのか?」
あまり旅行に連れて行ってもらえなかったのだろうか。そう続けようとしたが、俺は言葉を飲み込んだ。それを口にすれば、彼女の過去を聞くことになるのだ。
彼女は歳上の人間に裏切られ、挙げ句の果てに死のうと考えて、今ここにいる。つまりは、頼れる家族がいるかも怪しいものである。互いに死ぬための旅として考えれば、もはや根掘り葉掘り聞くのは、少し気が引けた。
「龍介さんはどうです」
「えっ?」
「子どもの頃とか。海に連れて行ってもらえました?」
しかし深青は、けろりとした表情で尋ねてきた。俺は頭を掻きながら、うーんと唸る。
「俺も、そんな無かったかな。親は忙しかったし、海なんて行く暇も、金もなかったんだろうな」
「龍介さんの親って、どんな感じだったんですか」
俺は彼女を見た。首を傾げて、深青は俺を見返す。まさか、そこまで彼女から訊かれるとは思わなかった。少し俺の考え過ぎか。内心やれやれと思いつつ、「俺、片親家庭なんだよ」と答える。
俺はそこで、自分の母の顔を思い浮かべた。女手一つで、俺を育ててくれた。目を閉じると今でも、あれは大丈夫かこれは大丈夫か、心配性の母が浮かんでくる。
「お陰様でこうやって、今日まで生きて来れたよ」
「お母さんには感謝しても仕切れないですね」
「本当にな」
俺もまた、夕日に顔を向ける。「もっと、恩を返してやればよかったよ」
「よかった?」
俺の言葉に深青は首を傾げる。その後、ハッとした表情で口を開ける。「まさか、龍介さんのお母さんって」
「そのまさかだよ。もう死んでる」
俺が大学に入ってすぐのことだった。過労死。そこで俺ははじめて知った。母が俺の大学費用を貯めるために、それこそ死ぬ程に、働いていたことを。
「それは、その。辛かった、ですよね」
「高校生が大人に気を遣わないでくれよ」俺は苦笑いを浮かべた。「でも辛いとか、言ってられなかったかな。大学費用はともかく、そこからは生計を立てなくちゃならなかったから」
金を稼がないと、明日生きることもできない。突然、そのような窮地に立たされた俺は、遊ぶ時間も捨ててバイトに励んだ。
そんな俺から、学友達は次第に離れていく。しかし彼らに悪気はない。同じ大学に通う者でも、環境が違えば話は合わない。高校まであったクラスのような集団に、強制されることもない。好きな人と、好きなふうに関わりを持つようになるのだ。
「だから、俺も海は久しぶりだな」
それからは二人で、沖を見つめていた。太陽の朱い光に照らされ、きらきらと煌めく水面。空を飛ぶ海鳥の群れ。手も届かないくらい、遠くに浮かぶ船。死ぬための旅であることを、一瞬ではあるが忘れてしまいそうになる程に美しく、目を奪われる景色だった。
「私もそうなんです」
少し経って、深青は呟くように口にした。
「そうって?」
「私も、母親しかいません」
ざざあ。波の音を一度聞いたあとで、「今も一緒に暮らしているんですけど」とさらに小さな、微かな声で言った。
「そっか。健在なら何より」そこで俺は、「あのさ。お母さんは心配していないのか」と続けてみた。
「心配?」
「こうして、その。俺なんかとさ」
「ああ。ええ多分、していると思います。何も言わずに、出てきちゃったから」
「帰らなくて、本当に良いのか」
俺と一緒に死ぬ、それで良いのか。頭に浮かんだが、あえて言わずに俺は尋ねる。
「まあ、そうですね。今は一人になっちゃったから、余計にお母さんは寂しいと思います」
それでもなお、こうして俺と今、一緒にいる。そこには、彼女自身揺らぐことのない強い意志があることを、俺は感じた。
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