蜃気楼に彼女を見たか

夜暇

文字の大きさ
20 / 73
第三章 秘密とカクテル

しおりを挟む

 俺達は定食屋「みずほ亭」に入った。客は数名のみである。とりあえず案内された席に座って、海鮮丼を二人前注文する。
 少し経ったところで、やたらと逞しい体つきの中年女性の店員が、トレイに乗せて運んでやってきた。
「ありがとうございます」
 深青はぺこりと頭を下げてそれを受け取る。育ちの良さは家庭で教えてもらったのだろうかとしみじみ思いつつも、俺は海鮮丼に目を向けた。
 両手で収まりきらないくらいに大きいお椀の中、サーモン、マグロ、イカ、イクラ、ネギトロ、真ん中には蟹の脚の身が二本。この店一番の贅沢丼だという。二人で六千円。中々の値段ではあるが、金はある。これくらいは良いだろう。
「じゃあ」
「いただきます」
 パキッ。両手を合わせて、二人同時に箸を割って食べ始める。蟹を一本。うん、美味しい。蟹か…一瞬、吉田の顔が浮かぶも、すぐに掻き消して味を堪能する。身が引き締まっていて、噛む度に旨味が滲み出てくる。
 お次はマグロだ。赤身だが、舌の上でとろけるような食感。これもまた絶品だった。
「龍介さん」
「ん?」
 舌鼓したづつみを打っていたところで、深青が「あれ、なんでしょう」と窓の外を指差した。彼女の指差す方向を見たところで、俺は目を見開いた。
 太陽が、水平線上に沈むところだった。
 しかし。ただ沈むわけではなかった。太陽が水平線すれすれに近づいたかと思えば、水平線上からも真っ赤な光が現れ、徐々に盛り上がっていく。まるで太陽が二つあるかのようだった。
「あ、くっついた!」
 深青の声と同時だった。両方の光はまるで、水滴と水滴がくっつくかのように同化した。今の太陽の形は、くびれを作って二つくっついているかのようなものになっていた。
「だるま夕日ね」
 俺と深青が振り返ると、そこには先程海鮮丼を持ってきた中年女性の店員が立っていた。胸元には「オーナー代理 追川みずほ」とある。店の名前とオーナー代理ということは、ここの店のオーナーの奥さんなのだろうか、などとぼんやり思っていたところで、深青はまっすぐ綺麗に手を挙げた。
「だるま夕日ってなんですか?」
 追川店員に尋ねる。子犬のような瞳で彼女を見上げながら。
「だるまみたいに二つ、太陽がくっついているでしょ。あれをそう言うらしいの」
「でも、どうしてあんな形になるんでしょうか」
 俺も深青に続けて質問していた。太陽…だるま夕日は、じりじりと緋色の光を放ちながら、ゆらゆらと海面上を波打っている。
蜃気楼しんきろうが原因で起こる現象のようね」
「蜃気楼?それって、砂漠で見えるっていう?」
 暑い砂漠を歩いていると、目の前に湖…俗に言うオアシスが見えるという。しかし、実際にそのオアシスにどんなに駆け寄ろうにも、そこへ辿り着くことはない。それもそのはず、そのオアシスは蜃気楼が見せる幻なのだ。深青が言っているのはそのことだろう。
「ということは、あのだるま夕日も幻ってことですか」
 深青は興奮して鼻を鳴らす。
「半分そうで、半分違うかしら」追川店員は、優しく微笑む。「お嬢さんが頭に浮かべているものは、少し大袈裟なフィクションになるわね。実際の蜃気楼は幻なんかじゃなくて、ちゃんと実物があるわけ。ただ、それが伸びたり縮んだりする現象のことなの」
「えっと…どういうことですか」
「つまりだな」
 気難しい顔をする深青に、俺が追川店員に次いで説明する。
 蜃気楼は、太陽の光が大気中で屈折することにより発生する現象である。なぜ光が曲がるのか、それは光の性質に、貫通する大気等の密度の違いがあると曲がって進むというものがあるからである。
 つまりあのだるま夕日は、太陽から放たれた光が、密度の違う大気を貫通することで下に曲がり、水面に太陽の虚像が映し出されている。そういうことだ。太陽が水平線に近づくにつれ、映し出される水面との距離が縮まり、くっついたように見える…当然だが、実際に太陽が二個あるわけではないのである。
「へえ」追川店員は俺を見据える。「お客さん、詳しいのね」
「知人から聞いた話ですけどね」
 深青は俺を見つめるも、それから「でも」と続けた。
「大気の密度に差が出る理由ってなんなんでしょう」
「ポピュラーなものは、極端な温度差によるものね」
 最初に貫通する大気が冷たく、その後貫通する大気が暖かい。そんな時は、今回のような現象が起きるらしい。
 俺は再びだるま夕日を見た。実像である太陽は輪郭を歪ませながら、少しずつ海に沈んでいっている。
「でもね、こんな夏になんて、あたしも初めて見たわ。普通は初冬から春先にかけて見えるものだから。多分お客さんの言った、密度っていうのが関係しているのかしら」
「へええ、珍しいんですね」
「そうそう。しかもその時期でも年に数回ってレベルなくらいに稀なのよ。地域によっては、幸運の夕日だなんて言われているんだから」
「幸運の夕日…」
「ええ。お客さん達、本当にラッキーね」
 死にゆく旅路の途中で、幸運な出来事。なんたる皮肉なことだろうか。
「ああ、もうなくなっちゃった」
 深青が残念そうに呟く。彼女の言うとおり、だるま夕日は形を崩し、今は水平線上に半分になった太陽が浮いている状態になっていた。午後七時になるところだった。夏の太陽は本当に息が長い。空はまだ明るいが、太陽が完全に沈んで少し経てば、朱色のキャンバスは一面すぐに黒で塗りつぶされるに違いない。
 だるま夕日にみとれていた俺に、テーブルを挟んで向かい側に座る深青が、「龍介さん」と声をあげる。
「ん?」
「涙」
「えっ」
「だから、涙が」
 彼女の指差すは、俺の顔…ではなく頬。触ると、指先が濡れていることがわかった。
「泣いて、いるんですか」
「そんな」
 意識すると余計に出てくるというのか、手の甲で拭えど涙は止まらない。視界は滲み始める。止まれと思えど止まらない。まるで今この瞬間、自分の体から切り落とされたような、意思が介在しない異質な物体を目にはめ込んでいるかのような。おかしな感覚にとらわれた。
「よくわからないけど、嬉しいわね。そんなに感動してくれるなんて」追川店員は微笑む。
「いや、はは」
 俺は半ば自嘲気味に笑うと、ふうと息をついた。深青は心配そうに、また不思議そうに俺を見つめる。
「幻ではないけど、幻のような存在か」
「え、なんですか」
「いや」俺はおしぼりで涙を完全に拭き取ると、かぶりを振る。「それは実在するけど、見える姿とは違うってことだろ。だから、あれはそんな感じなのかなって」
「確かにそのとおりね」
 追川店員は肯く。深青はなおも眉間に皺を寄せていたが、俺は沈みゆく、だるまだった夕日をじっと見ていた。
 この旅は、俺にとっての幻になるのか、それとも。
 既に出発してから、道のりは半分を過ぎていた。
 旅の終着点までは、あと少し。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

処理中です...