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第三章 秘密とカクテル
11②
しおりを挟む「どうした、神妙な顔しちゃって」
西尾に尋ねられ、俺は口内に残っていたチーズの旨味を全て飲み込んだ。
「こんな美味しいもん、久々だなって思ってさ」
普段はコンビニの菓子パンやカップ麺、カロリーバーなどで済ませてしまっていることが多かった。なんたって、毎日休む間もなく仕事にあたっているのだ。味や満足度合よりも、手軽に食べられる方を選んでしまうのは自然な流れだった。
「仕事、どうなんだよ」
そこで西尾は、おずおずと切り出した。俺がここに来てから、ずっと聞きたかったのかもしれない。その時だけは、彼はバーテンダーではなく、俺の知っている旧友の顔をしていた。
「相談したのって四月だっけ」
「確か、いや。五月ぐらいかな」
「そっか」ジントニックを一口飲むと、俺はかぶりを振った。「その時から変わってないよ、状況」
俺のあっけらかんとした口ぶりに、西尾は口をつぐむ。それから、「あのさ」と続ける。
「お前が良ければ」
「ん?」
「さっき言った、俺が働いてたとこのバーテンダーの人。今もまだ交流があるんだよ。その人、年明けくらいに事業を拡大して、東京に普通の飲食店を開く予定なんだって。そこのオープンスタッフが、まだ集まってないらしくて。それで、お前が良ければ、どうかなって思ったんだけど」
「オープンスタッフ…」
「今お前がやってるような仕事とは180度違っちゃうのはあるけどさ。今なら社員として扱ってもらえると思うから、給料も低いわけじゃないと思うし。
今の仕事に思い入れとかがあるなら良いけど、話を聞いた感じじゃ、そんなの無いだろ。それなら、断崖絶壁に無理やりしがみついていくよりも、心機一転してみるのもアリなんじゃないかなって」
懇願するような表情でそう言う西尾。俺は、一度頭の中で考えてみた。
今の仕事は忙しいし、パワハラも酷い。また、そこにいる基本人間も自分とは合わないし、屑と呼べるような人間もいる。給料も、基本給は今を生きるのに精一杯な程度で、サービス残業は当然といったもの。対してオープンスタッフであれば、最初は大変だろうが、軌道に乗った後は古参として居座ることができる。飲食店のアルバイトなら、大学生の頃に少しやったことがあるし、経験値がゼロベースというわけでもない。確かに西尾の言うとおり、今の所に縋り付くような要素はなかった。
しかし——。俺は、首を横に振った。
「すごい、魅力的なんだけどさ」
俺は、隣で座る深青を見た。彼女は不安そうな表情をして、俺を見ていた。
俺は彼女と、ここに死ぬつもりで来ている。
いまさら、生きるための希望を抱けるだけの気力は、持つことはできそうになかった。
西尾は口を一文字にして俺を見つめていたのだが、「それなら仕方ないな」と儚げに微笑んだ。
「ごめんな。誘ってくれたのに」
「無理強いすることじゃないさ。お前にはお前の都合があるだろうしな」
そこでちらりと、俺は深青を見る。ちびちびとカクテルを飲んでいるが、口許はどこか、ホッと緩んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「悪い、トイレ」
そこで、尿意が俺を襲ってきた。「あっちだあっち」と、西尾は店の奥を指でさす。
「ごゆっくり」
「そんなゆっくりする所じゃないだろ」
深青の笑い声を背に受けながら、俺はトイレに入る。何とか間に合った。長旅で疲れたのか、便座に座ってふうーと息をつく。
しかし先程は、思ってもいなかった提案だった。最後には喧嘩別れのようになってしまったにもかかわらず、西尾はやはり、友達想いの男だとつくづく思いながらも、俺は息をつく。
彼の言うとおり、今の全てを忘れ、彼の知り合いのバーテンダーのもとで世話になるのが一番良い選択かもしれない。客観的にもそう思える。
それにも断ってしまったのは、うちに燻るこの想いが原因なのか。ぐつぐつと煮えたぎるような、熱く溶けそうな想いだ。これを沈静化させていないうちに、そんな、逃げるようなことを考えることはできそうにない。
だが——。落ち着かせる頃には、俺はこの世にいないだろう。そう、決めたのだから。
俺はそこで、スマホの画面を表示させた。
今日は八月二週目。夏も真っ只中のこの季節。
ちょうどスマホに、メールが届いた。
仕事用のアドレスからだ。普通は社用携帯にメールは届くだけに、少し緊張した俺は届いたメールを機械的に開く。安直な件名に、思わず笑いそうになった。
件名 どこにいる
無断欠勤なんて舐めた真似をするものだな。社会人として非常識だとは思わないのか。それも二日もだ。お前が休んだ分の補填、他の奴らで回していたんだぞ。
明日は必ず出勤しろ。盆の休暇で、休む奴が多くて、仕事が回ってないのが現状だ。俺も明日から不在にするが、お前の受け持っている仕事はそのままにしてある。自分の身勝手な行動が、他人に迷惑をかけていることを自覚しろ。
このメールを見たら返信をするように。以上。
師崎からのメール本文からは、無断欠勤に対する怒りを感じた。しかし、ストレス発散を目的に送ってきたであろうメールは、俺の心を揺さぶることはなかった。
俺はメールを返信せずに、スマホの画面をオフにした。
「盆の休暇か」
一言。誰もいない、トイレの個室で呟く。
——私、死んでいるんです。
そこで、今朝の深青の声が脳内で思い返された。
盆の時期には、過去に亡くなった者の魂が現世で一時的に還り、霊として現れると聞いたことがある。しかし、それは本当なのだろうか。
魂、霊…どちらも見えない、超常現象といってもいい存在。俺は昔から、その宗教じみた考えが嫌いだった。死んだ人間は無になるのだ。そう、幼い頃から思ってきていた、独自論があった。
でも——。それが本当なら?
俺は両膝の上、拳を強く握った。
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