蜃気楼に彼女を見たか

夜暇

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第四章 幻と嘘

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「理乃ちゃん、絶好調らしいっすね」
 六月中旬。梅雨もピークに達し、雨はやむことを知らない…そんな季節だ。吉田が隣で下心満載の顔つきをして、田上らがミーティングをしているブースを眺めている。
「美沙ちゃん達の噂じゃ、仕事も覚えてテキパキしてきたって。ほら、あの子達理乃ちゃんの席に近いでしょ」
「そうなんだな」
 俺はパソコンでキーを打ちながら、適当な相槌も打つ。吉田は構うことなく、話を続ける。
「やっぱあの子可愛いですよ。愛嬌もあるし。それで仕事もできるとか、すごくないですか?ああやっぱり、仲良くしたいっすね。まあ、課長っていう面倒な壁がありますが。けど」そこで吉田は、声のトーンを少しだけ落とす。「課長、めちゃくちゃ彼女のことを気に入ってるみたいですがね。そりゃ、僕みたいなペーペーと比べると地位も金もありますけど。やっぱりあれですよ、あれ。なんとかギャップ」
「ジェネレーションギャップだろ」
「そうそうそれ、それがあると思うですよ。誰だって…ああ、僕、彼女と連絡先を交換したんすよ」
「は?」
「この前、帰りが一緒になったんで」
 一瞬だが、心臓が揺さぶられた。
「話が合うんですよねぇ。音楽とか、最近ハマってることとかね。飲みのお誘いには乗ってくれませんけど。なんかお酒、全然飲まないんですって。まあそれはそれで…ふふ。俺は構わないんですけど。
 とにかくオジンの師崎課長じゃ、多分ですが自分の話ばかりしているでしょう。それでいて大して面白くもないでしょうし。やっぱり女は共感と感性。その点圧勝っすよ」
 一人満足げにぼやく彼に、それはすごいなとこれまた適当に返す。なんだかやけに吉田は気をよくしたようで、見ててくださいよ、と胸を叩く仕草をした。
「理乃ちゃんのこと、落として見せますよ」

「吉田さんの頭の中って、結構なお花畑なんですね」
 理乃はうええと吐く真似をした後に、ビールを飲む。
 その日の夕方は、俺は理乃と飲む約束をしていた。あの日の残業以来、俺と彼女は頻繁に酒を飲む間柄になった。
 会社の連中にはシークレット。「会合」と隠語を使う。その実態はただ酒を飲みつつ、仕事やプライベートのちょっとした会話をするだけ。肌を触れ合うこともしない、いわばプラトニックな関係だった。
 酒が進んで、俺はなにげなく日中の吉田との会話について、理乃に話した。聞いている最中、彼女はきょとんとしたすまし顔をしていたが、その後小さくせせら笑った。
「連絡先って。その場の流れで渡しただけなんですよ。偶然美沙ちゃんと杏奈ちゃんといたから、交換したくないって言いづらくて。ほら、吉田さんとあの子達、歳が近いでしょ。困ったことに仲が良いみたいなんですよ」
「あいつはそのタイミングを狙ったんだろうよ」
「ま、そうでしょうね」
「そういう気の回し、なんで仕事でやれないんだ」
 理乃は苦笑した後で、テーブル脇に置いていた、オレンジのアメスピの箱を手に取る。彼女は白く細い人差し指を使って器用に片手で箱を開け、煙草を一本取り出して咥えた。
「火、くらはい」
「はいはい」
 俺はライターを取り出し、火をつける。ゆらり、ゆらり。ガヤガヤとした居酒屋の空気の、少しの揺らぎ。火は自分事で、踊っているかのようだった。
「ふうぅ」
「ほんと、吸うようになったな」
「辻さんのせいですからね」
 何回目かの「会合」の際、俺の煙草を吸いたいというため、彼女にそのとき吸っていた同じアメスピの煙草を渡したのだ。最初は咳き込んで「もう良いです」と涙目になっていたのだが、次の「会合」ではスパスパと得意げに煙。宙に燻らせていた。
「なんかハマっちゃって」
 てへへと笑う理乃。俺も彼女に合わせて笑みを浮かべる。
「大丈夫か。煙草、肌荒れとか影響ありそうだけど」
「そういうのセクハラですよ」
 何がセクハラなんだと呆れる俺に、「でもまあそうなんですよね。ケアしても、なかなか治らなくて」と困り顔で息をつく。
「やっぱりやめた方がいいよ。体に悪いから」
「全く説得力ないんですけど」
 やれやれと理乃は肩をすくめた後で、「それで?」と彼女は煙草の灰を灰皿にトントンと落とした。「その彼、今日は酷かったんですよね」
「え。ああ…」
 俺は今日、数時間前のことを今一度思い返した。
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