蜃気楼に彼女を見たか

夜暇

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第四章 幻と嘘

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 夜も更け、午後十一時を迎えようとしていた。
 俺と深青は西尾の店「SHELLY」を出ていた。旧友との別れは寂しいものだったが、いつまでも彼の店を開けとくわけにはいかない。残されたカクテルを飲むと、早々に退散した。
「必ずまた来いよ」
 西尾は真剣な面持ちで最後、俺にそう言った。その言葉に、俺は首を縦にふれなかった。先ゆく未来に、もう彼と会える日があるのか。それはもう無い。自分が一番わかっていた。
 有料駐車場に停めていた車に乗り込み、深青がシートベルトを閉めたことを確認したところで、俺はアクセルを踏む。緩慢な動きで、車は進みだす。
「さてと」俺はそこで頭を切り替える。一つ差し迫った問題について触れなければならなかった。「これからのことなんだけどさ」
「これからって?」
「だから、その」
「今夜、どこに泊まりましょうね」
 深青は俺が言いあぐねていることをスッパリと言い放つ。それから一度、ふわあと欠伸を手で抑えながら、「そのことでしょ」と俺に訊き返す。
「あ、ああ」
「昨日からきちんと休めていないですものね」
 サービスエリアで何度か仮眠をとっていたのだが、休憩といえばそれだけだった。
「このまま車で寝ても…」
 深青は何を言っているんですと鼻を鳴らした。
「龍介さん、ほぼ徹夜で運転しているんですよ。ハンドルミスとか、あるかもしれないし。自分は大丈夫っていって、事故になる人なんて沢山いるんですから」
「まるで運転したことあるような口ぶりだな」
 そこで深青は少しだけ声のトーンを下げた。
「家族が、よく言ってましたんで」
 母子家庭と言っていただけに、母親の言葉だろうか。
 しかし確かに、彼女の主張にも一理はあった。疲労を強く感じていたのは事実だ。アドレナリンというか、大胆な行動をとったことで、これまでは脳内でそれを感じにくくなっていただけなのだ。元来体力がある人間ではないし、ここ数年は会社と自宅の行き帰りだけ。疲れるのは当然だった。しっかりと休むのであれば、どこかで寝泊まりをしたい。その欲はあった。
 それに深青はまだ若い女の子である。風呂にも入りたいだろうし、俺みたいなアラサーの男と狭い車内で…というのは。たとえ彼女が了承したとしても、倫理的に間違っているのは明らか——いや、この状況も同様だ。何を今さらと思いもすれど、彼女のことも考えると、車内泊を選ぶのは違う気がした。
「そうだな」
 俺はハンドルをゆるく、左へときっていく。車は、先程の繁華街に入ったばかりだった。
「休む所を探しましょう」
 そう簡単に言えど、予約もしていない飛び入り予約なんてあまり見つからない。スマートフォンを使えば調べられるが、あいにく俺は運転中で、彼女は所持していない。
 そこで俺は車を路肩に停めて、二人で調べる。しかしやはり、近辺で部屋を抑えることができる宿泊施設は無い。
 最終手段で、そこいらのホテルや旅館に突撃するか。そんなことをぼんやりと考えていたところで、深青がガラス越しに指差した。
「あれ、Hotelホテルって書いてありますよ。泊まれないんですか」
 俺は彼女の指差す方を見る。そして目を見開いた。
「ああ、あれは」俺は頭の中、言葉を捻り出す。「泊まる所だ」
「やっぱり!もっと近づいてくださいよ」
 今度は車をその建物の近くへと寄せていく。
「え、しかも朝まで泊まっても数千円ですよ。ほら」深青は建物の壁についた大きなパネルを見て言う。それから、少し首を傾げた。「でもなんでだろう、さっき調べた時は出てこなかったですよね」
「それはそうだよ」
「え?」
「ここ、ラブホテルだからな」
「らぶほ…」
 途端、深青の顔が紅潮するのを見た。それは暗いこの車内であっても、わかるほどのもの。
「ここなら、空いていれば飛び込みで泊まれるかもな。いやむしろ、そういうところだし」
 俺の言葉に深青はしばらく考えていたが、やがて顔を上げて「ここにしましょう」と一言。
「えっ」
「もう時間も時間じゃないですか」
「まあそうだけど」
 未成年と一緒に入るようなところじゃない。俺は脳裏に、ニュースの見出しを浮かべた。『都内会社員、女子高生と淫行』。駄目だ、よくある見出しでしかない。
 深青は肩をすくめる。
「だから、これから死ぬっていうのに細かいことを気にし過ぎだと思うんですけど」
「わかってるって。でも」
「それなら龍介さんの中で、他にあてがありますか」
「いや…」
「でしょ?」深青はにっこりと可愛らしく微笑む。「それに私。龍介さんを信じていますから」
 俺は唾を飲み込む。人は相手を信頼していない時、相手を試したり、信じているだなんて言葉を投げかけるらしい。無論たとえ密室に二人きりになったとしても、彼女の言うとおり何もする気はなかった。
 俺が不安なのは、そうしたことで、死ぬことに少しでも未練が残ったりすることだった。
 そんなことが、あってはならないのだ。
 しかし俺の心情など彼女が知っているわけがない。故に今の言葉——。それは、彼女なりの牽制。そう思えた。
「いやですね、勘繰っちゃって」
 心を読まれたようで、俺はドキッと心臓が跳ねた気がした。
「別に勘繰ってなんて」
「本心ってやつですよ?龍介さん、信頼してますからね」
「よくもまあそこまで…」俺は息をつく。「俺とは前に一度会っていただけだろ。きちんと話したの、昨日が初めてじゃないか」
 どうして、素性もよく知らない相手にそんな言葉を投げかけられるのか。深青は眉根を寄せ、「まあそうですけど」と小さく言った。
「しかも深青は可愛い、だろ」
「え」嬉しそうに、顔を明るくさせる。「そうですか?」
「一般的に、可愛い部類だろうな」
「なんですその言い方」
「まあそれは良いんだけどさ。たとえ理性があっても、もしかしたらってことも考えてみろよ」
「別に」そこで面倒になったのか、深青は溜息をついた。「結局そうなったっていうなら構いませんけど」
「それって」
「とにかく、ここに車停めとくの、なんか嫌なんで。入っちゃいましょうよ」
 あれよこれよというまに、俺はラブホテル「エルミタージュ」の駐車場へと車を進めていた。
 彼女の淡々とした口ぶり、それにはむしろ、俺の方が緊張してくるものがあった。ぎこちない運転は、まるで俺の心を表しているかのよう。
 対する深青は、最初だけは顔を赤くしていたというのに、今では飄々とした様子でフロントガラスに目をやっている。この肝の据わり方。とてもじゃないが、自分よりも一回りは歳下の女の子のようには思えなかった。
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