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第四章 幻と嘘
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しおりを挟むエレベーターを降りると、目の前にホテル入り口の自動ドアが現れた。建物は全体的に黒を色調としていて、自動ドアのガラスも指紋一つない。
ラブホテルは数が多いが故に、管理運用が為された、いわゆるきちんと泊まれるホテルかどうかは運によるものである。どのホテルも、ホームページ上では加工された無駄に人工的な部屋を晒しており、期待して行ったけど部屋が酷過ぎて残念だった…なんてことは往々にしてある。
「どうせなら一番良い部屋にするか」
金はある。残しても仕方がない、金が。
自動ドアを二つ潜ると、暗い廊下の先に大きなパネルが現れた。流石にこの時間となれば、大体の部屋は埋まっている。しかし高い部屋はまだ数室、余裕があった。
「あ、じゃあ。あれがいいです」
深青の指差すのは、このホテルでいえば最高ランクに相当する…ではなく、そのワンランク下の部屋だった。
「どうしてだ。別に遠慮なんて」
「いや、なんとなくです」深青はぎこちない表情だった。「なんとなく、不相応な気がして」
不相応。彼女の言葉は、何故だか重みがあった。
「ここを押せば良いんですか」
「そうみたいだな」
彼女は普通の部屋のパネルのボタンを押す。すると、パネルの下、一辺三十センチ程度の真四角の凹みのところで、ガシャンッと音が鳴った。
二人して凹みを覗いてみると、中に銀色の鍵があった。キラリと光る、ディンプル形状のキーである。持ち手の部分には中央付近に穴が空いていて、そこから鉄の輪が付いている。鉄の輪には、ドッグタグのような掌よりも幾分か小さい鉄の薄板がついている。
202号室。建物内の簡素なエレベーターに乗り、二階で降りた俺達は、すぐに目的の部屋に入る。
部屋は八畳程度で、思ったよりも広かった。黒を基調とした壁紙、ライトは白色光。セミダブルのベッドの上、つまみがいくつかある。ライトの明るさを変えられるのだろう。
シンプルで、不思議と性的な気分にはならない部屋だった。ここを目的とする者達をターゲットにした場所にしては、造りが間違っているように思えた。
「そういえば。受付の人とか、店員さんとか。いなかったんですね」深青が冷蔵庫を開けて中を覗きながらつぶやく。
「全部自動みたいだな」
「お金とかどうするんです」
「入り口に精算機があるだろ」
俺は部屋の入口横に設置された、意識の高いラーメン屋の券売機でありそうな、やたら綺麗なパネルを指差した。深青がととと、と近づいてきた。
「へえ。これでそうなんですね」
「ちなみに、金を支払うまで外に出れなくなるらしい」
「え。じゃあ、買い物とかは?」
「できないな」
「そんなぁ。夕食、買ってないじゃないですか」
「ルームサービスはあるんじゃないかな」
俺はきょろきょろと部屋の中を見る。予想どおり、テレビが置かれた棚の引き出しの中、それ飲食のメニューが置かれていた。「ほら。普通のホテルと同じさ」
多分、冷凍物ばかりだろう。味や満足度はともかく、空腹に苦しむことはない。割高だが、払う金なんていくらでもある。問題は無い。
「でも」そこで深青はにやりと意地悪な笑みを浮かべる。「これだと、もしその気じゃないって女の人が言っても、逃げられそうにないですね」
「そうだな」
俺の相槌を流しつつ、深青は精算機を見つめている。そんな彼女に、俺は言ってみた。
「なんだ、やっぱり心配なのか」
「なにがです?」
「俺と同じ部屋で寝るってのが」
深青はキョトンとした顔をした後に、クスッと笑って俺に近寄ってくる。
「心配なのは、龍介さんの方なんじゃないですか」
「はっ?」
「ここは恋人にせよ、恋人じゃないにせよ。セックスをする場所でしょう」
「セッ…」
思わず俺は彼女の顔を見た。深青は冗談とも、そうでないとも言い難い、判断し辛い表情をしていた。
「この部屋には私とあなた以外、いません。ここで何が起きたとしても、誰にも知られることもないです。そもそも私達は、死ぬわけですからね。世間一般的に知られることについては、今、この状況下ではなんら障害になりません」
やたらと説明口調でそう述べた後、深青はソファに座る俺の前に跪く。彼女は美しかった。化粧はしていないはずなのに、目鼻がくっきりとした顔貌。ひんやりとした冷たさを、俺はその瞳の奥に感じた。
深青は俺の手を両手で握る。思わず、俺は反射的に手を引く。きょとんとした表情をするも、彼女は口の端を上げる。
「つまりはそういうことです。でしょ?」
「大人をからかうのもいい加減にするべきだ」
「からかってなんかいません」深青は美しく首を傾げる。「それに、さっき言ったはずですよ。私は龍介さんになら、何をされても良いんです。たとえ…そうですね。ここで、龍介さんに犯されたとしても、私は抵抗しませんし、受け入れます」
男としての理性が吹っ飛ぶ台詞だった。俺は自分の下唇より、血が流れ出ていることに気がついた。
深青は俺の手を離して立ち上がる。
俺は座ったまま、ぼうっと彼女のことを見上げる。
「それを踏まえて、と」そこで深青は、聖母のように微笑んだ。「龍介さん、これからあなたは何をしますか」
「何を…」
深青は呆然とする俺の首に、両手をかけてくる。今度は何故か、振り解けなかった。目の前に彼女の顔。三十センチもない。吐息のかかる距離。彼女の整った顔に、俺は近づく。それは自然な動作で、まるで映画のワンシーン、取り決められた台本に沿った動きというのか。
台本通りであれば、次のシーンは深青とのキスシーンとなるのだろう。しかし全年齢に配慮した、一般公開用の映画ではない。理性の枠など容易に超え、その後は、止まることがない。
加えてたとえそうなっても彼女の言うとおり、今この瞬間は、誰にも非難されることはないに違いない。
「…やっぱり」
しかし、俺は己の動きを止めた。
「どう、されましたか」
深青は怪訝な顔で俺を見る。俺は一回目を強く瞑り、少しだけ呼吸を整えつつ、「駄目だ」と彼女の両肩を掴み、自分から遠ざけた。
「どうして?」
深青は床にそのまま座り込み、潤んだ瞳で俺を見上げる。
「俺にはできない」
「だから、どうして」
「俺には君を抱く、資格がない」
「資格ってなんです一体」
彼女の問いに、俺は震えて声が出せないままだった。
「俺は」
息切れがしてきた。
「俺は」
「俺は?」
「俺は、俺は…」
壊れたおもちゃのようにそう繰り返す俺を見て、深青は何を思ったのか、口をぎゅっと結んだ後に、ふうと大きく息をついた。
「すみません」
「え?」
「悪ふざけが、過ぎました」
深青は二度ほど俺の頭をぽんぽんと柔く叩いて、ベッドに腰掛け、大きく天井に向けて両手を伸ばした。
「どういう…」
「龍介さんの良心を試してみたんです」
「俺の、良心?」
「ええ」
「龍介さんが己の性欲に負けて、私とセックスするか、それともしないか」
「な、なんでそんな」
声が震える。当然だった。
「すみません」深青は眉をハの字にした。「でも、仕方のないことでした。最終テストでしたから」
「最終テストだって?」
「龍介さんの本心が…想いがどうだったのか。そのチェックですよ」
なおもわからない状況下の中、美緒は首を少しだけ傾げた。
「円城理乃」
脳みそに直接、冬の冷水を浴びたような。
そんな、全身飛び上がるような衝撃を受けた気がした。
「龍介さん、彼女の名前を知っていますよね」
「え、あ」
「あなたが愛したのは彼女。そうなんですよね」
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