蜃気楼に彼女を見たか

夜暇

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第五章 旅とその目的

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 理乃と名実共に恋人の関係になってからの俺は、まるで世界が明るくなったかのように思えた。
 師崎や吉田の面倒は変わらずあったが、それでもそれらが己に与えるストレスは減ったように思えた。気の持ちよう、とはよくいったものだ。俺は何度もそれを実感している。
 職場で理乃と目が合う。彼女はにっこりと、微笑んでくれる。仕事中に節度の無い態度はとらないのがお互いのルールだったが、十分だった。俺はそれだけで一日、また一日を乗り切ることができていた。
 師崎は面白くなさそうだった。それまでストレス発散の道具にしていただけあって、自分の言葉で普段よりも暗い顔をしない俺に、苛々するのだろう。稟議書の文字数が多い、枚数が多いなど。これまで以上に細かい点で俺を指摘するようになったのだが——。
「師崎、井手浦部長から拳骨喰らったってさ」
 喫煙スペースで一緒になった同期の田上が、話しかけてきた。
「拳骨?」
「お叱り。まあ、それでも軽めっちゃそうだけどな」
「それはまたどうして?」
相坂あいさかさん、いるだろ」
「え。あ、ああ。総務の」
「この前な、お前をいびってた時に偶然用があって、うちのフロアにいたらしいんだよ。そこで師崎がいつものあれをお前にやってたんだって。流石に目の当たりにしたら黙っていられないよな、俺ら下々の前だし。彼の面子もあるし」
 相坂は、花形である総務課の長につく社内の有名人だ。正義感があり、品行方正で人当たりも良い。それでいて容姿も人並み以上。誰もが憧れる存在だった。
「相坂さん、その足で部長のとこに行ったんだって。師崎は部長と面識あるだろうけど、相坂さんの方が蜜月だろうよ。お前へのいびりが終わった後、すぐに部長室で説教タイム。終わって部屋を出てきた師崎、歳をかなり食ったみたいにやつれてたってさ」
 あの師崎が。とても信じられなかった。だからこそなのか、田上の話は他人事のようだった。
「でもそれだけじゃ、処分までいってはいないだろ」
「まあな。ただ、お前へのいびりは減るんじゃないかな。お前、相坂さんに会ったら礼を言っとけよ」
「言われなくてもそうするつもりだよ」
 そう口にしながらも、自分の言葉尻が少し浮き足立っているのを感じた。理乃との関係から、俺の人生が上昇し始めている。彼女と出会えたことに、改めて心の中で感謝をした。
 そんな俺の肩を叩きながら、田上は「まあそれはそれとして」と言った。
「聞きたいことがあってさ」
「聞きたいこと?」
「お前、最近良いことあっただろ」
「良いこと、って」
 無論、理乃との関係である。しかし彼女との関係は誰にも明かしていない。無論彼女もそうだ。社内恋愛というだけで、根掘り葉掘り聞いてくる輩が面倒だからと、二人で秘密にしようと話し合った結果だった。
 まさか今の幸福感が言わずとも漏れ出てしまっているのだろうか。そんな惚気にも近いことを考えていると、田上はにんまりと笑った。
「円城さんと付き合ってんだよな」
「え?」
 どきりと音が鳴ったように思えた。思わず周りをきょろきょろと見回す。喫煙席には誰もいない。俺と、田上の二人だけだ。
「噂になってるぞ。せめて、同期の俺には言ってくれよ」
「噂って、お前どこからそれを?」
「出所は、まあ知らん。けど俺は美沙ちゃんから知った。この前帰り際に、円城さんに『辻さん元気ですか?』なんて聞いてたんだよ。
 辻って、うちの会社にお前ぐらいしかいないだろ」
 美沙…ということは双子同期の杏奈にも筒抜けだろう。世間話が好きな彼女達のことだ。社内の情報は収集しているに違いない——のだが。
「なんか円城さん、困ってそうだったから。私語を注意したらさ」
 ——だって、辻さん、また課長に叱られたんですもん。仕事帰りにお家で癒してあげたほうがいいんじゃないかって思っただけですよぉ。
「美沙ちゃんがそんなこと言うからさ。もう、俺の班は驚きってかそんな感じよ。円城さんも円城さんで、違いますとか言わないし、黙って帰ってったから、余計にリアルでさ」
「待ってくれ」俺は思考が停止するところを無理やり動かした。「なんで、その二人が知ってんだ」
「お、ということは本当なんだな」
「…まあそうだけど」
「へえ、やっぱりそうなのか」
「で、でもな。俺、誰にも言ってないんだよ」
 理乃も、美沙と杏奈にそんな態度となると、同じく口を滑らせたというわけでもない気がする。田上はさあと肩をすくめた。
「お前らが一緒にいるところを社内の誰かが見たとか、そんなとこじゃないのか。まあそもそも、社内恋愛なんて隠し通す方が難しいだろうよ。俺は歓迎だぞ、ようやくお前に春がきたってことだからな」
 しかし俺は心中、穏やかではなかった。
 確かに彼の言うとおり、完璧に秘密にできているかと言われればそうでもない。誰かしらに見られてしまえば、それは水面に落ちた血液のように広がっていくに違いない。
 しかし、そうだとしても。
 ——仕事帰りにお家で、だと?
 田上が聞いた、美沙の言葉。そんな言葉は俺が理乃を、彼女の家に送り届けるという一部始終を見ていない限り、わからないことなのだ。
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