蜃気楼に彼女を見たか

夜暇

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第五章 旅とその目的

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 雨が、降っていた。
 七月二十五日。理乃が死んだ日。
 その日、俺は会社で残業をしていた。部下の吉田は既に退勤しており、彼に手をかけていた分積んでいた残作業を着々と潰していっている最中だった。
 ストーカーの話もあり、ここ最近は退勤後に理乃を家へ送り届けるのが習慣になっていた。残業ばかりの日々、彼女は悪いからと最初断ったのだが、俺は断固として譲らなかった。
 そのお陰か、数日も続けると、それまで感じていたストーカーの気配が無くなったそうだ。元を潰せずとも、そのまま諦めてフェードアウトしてくれれば良い。俺と理乃は、互いにそう思っていた。
 だから——。完全に、気が抜けてしまった。
 そう考えるのは早計だったのだ。
 午後九時ごろに理乃が退勤する姿を目にして、俺はそっとスマホでお疲れ様とメッセージを送った。数分後に「無理しないでね」と返ってきて、俺は口の端が緩んだことを覚えている。
 その後メッセージが届いたのは、それから三十分も経っていなかった。机上に置いたスマホが、着信でブルブルと震える。着信は理乃だった。何気なく電話をとった俺だったが、彼女は開口一番、「助けて」と悲痛の声を上げた。
「助けてって、どうしたんだ」
 ——変な人に追われてて。
「追われて?」
 まさか。俺の脳裏には、件のストーカーのことが浮かんだ。何者かはわからないが、それまでじっとりと潜めていたそいつは、とうとう実力行使に出たということなのか。
 俺は仕事や荷物をそのままにして、転がるように会社を出る。そのまま駅へと全力疾走する。
「どこにいるんだっ」
 ——えっと、駅とアパートのちょうど合間くらいの。あ、公園の前あたり。
 公園、公園公園…そこで俺は思い当たった。確かに彼女の家に向かう途中に、少し広めの公園があったかと思う。
「今向かってる。だから、理乃はそれまで逃げてくれ」
 ——わかった。早く来てね。
 気が気じゃないまま、とにかくと俺は電車に乗った。たった数駅、数分の距離である。なのに、気分はまるで数十キロはある長距離走をしているかのように思えた。
 目的の駅に着くと、雨が降り出していた。しかしまだ気にならない程度の小雨であった。
 降車したタイミングで電話をかける。しかしつながらない。電波が悪いところにいるのだろうか?しかしコール音は聞こえる。いや、そんな、まさか。韋駄天さながら、改札を飛ぶように抜ける。
 理乃が電話をかけてきてから既に数十分は経過している。それからの彼女の足取りがわからない。焦燥感を抱きながらも、ひとまず件の公園へと向かう。
 やっとのことで公園にたどり着くも、やはり彼女はいなかった。園内に入って見回しても、それらしい人影はない。そもそも、誰もいない。
 そのまま周辺を捜索する。しかしやはり誰もいない。通りすがる住民達は、傘も差さずに走り回る俺に奇異の眼差しを向ける。どうでも良い。理乃さえ無事でよければ良い。
 いくら捜せど見つからなかったがために、俺は彼女の家の前にいた。家に帰っている一縷の望みに賭けたのだ。合鍵を使って入ると、室内は電気がついておらず、真っ暗闇のままだった。
 やはり、帰宅途中で彼女の身に何かがあったのだ。もう何度目か、彼女に電話をかける。もう、ここに来るまでに俺は何度も電話をかけていた。しかし一度として繋がらない。コール音が鼓膜の中で二重になって響く。
 どうしてどうしてどうして。
 頼む、頼む頼む。
 俺は願った。そして自分の浅はかさに後悔をした。
 ——蜃気楼、必ず見に行きましょうね。
 午前0時になる頃だった。雨は本降りになって、服はびっしょりと濡れ、肌に張りつく程である。しかし不快感なんて、もはや二の次三の次だった。
 彼女の笑顔が、温もりが欲しかった。それだけなのだ。
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