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第五章 旅とその目的
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しおりを挟む噂の出所は、誰なのだろう。
田上と話したその日は、何人かに声をかけられた。仕事の話は二割、理乃との関係を茶化すような話が八割…といった感じだ。
美沙の口は風船のように軽い。あの女に知られていれば、間違いなく会社に広まるに違いない。コンピュータウイルスのように、巡る速度は速いだろう。
「ずるいっすよ先輩。理乃ちゃんやめとけとか言って、ちゃっかりしてるっていうか」
吉田はにやにや顔で話しかけてきた。仕事の話は興味なさそうな癖に、下世話な話には積極的なところに辟易しつつ流しては、頭にはそのことばかり浮かんでいた。
誰が、一体——。
この会社の人間であることは間違いない。それが誰か…美沙に聞けば良いだけの話だが、生憎彼女とは雑談ができる程に仲が良いわけでもない。陰口を叩かれていることからも、むしろ嫌悪の対象に違いない。美沙が普段仲良くしている、杏奈はどうだろうか。いや、彼女も同様だ。
悩み過ぎて頭が痛くなる。俺はこめかみを押しつつ、仕事が進んでいないことに気がついた。こんな状況では師崎からまたもどやされる。
師崎…師崎が、噂の出所である可能性はないか。いや、あの男なら直接俺に言うだろう。それに今日は睨んでくるばかりで、何も言ってこなかった。感覚的に、噂を広めるなんて地味なやり方を取るとは思えなかった。
そこで、次に頭に浮かんだのは、理乃自身に話を聞くことだった。田上の話では、美沙に言われて彼女は何も答えなかったという。もしかすると、心当たりがあるのかもしれない。
その数日後、仕事終わりに俺は理乃に訊ねた。しかし彼女は俺のように焦ることもなく、随分と淡々としていた。
「だって事実だもの。否定することでもないし、反論して、皆の遊び道具になるの、嫌だったし。面倒じゃない?」
面倒だった。本当に、そうなのだろうか。平然と述べた彼女の言うことは、嘘偽りないように思えた。しかし何故か俺は、その言葉を鵜呑みにできなかった。
「気にならないのかって?」
俺の言葉を聞いて、理乃はフフッと笑った。
「学生ってわけじゃないし、冷やかしぐらいどうってことないと思うけど?」
「ああ、悪い。そういうことじゃない。俺達が噂されること自体は良いんだ。俺が気になるのは、噂を広めた奴は、俺が君の家まで君を送っていることを知っているってことだよ」
「どういうこと?ただ、私達二人で帰るところを見たってだけかもしれないよ」
「いや、それなら理乃の家でなんて言葉は出ないはずだ。俺の家に二人で向かうかもしれないわけなんだから」
俺がそう言うと、理乃は確かにと肯いた。
「つまり噂を広めた人はそこまでして、私と龍介さんの関係を知っているってこと?」
理乃の言葉に、改めて俺はそこはかとない気味の悪さを覚えた。単なる噂というわけではない。噂とは、その場にいない人の事情について、真偽不明な根拠に基づいて話されるものだ。しかし今回は、真偽を明らかにした上で、あえて噂という形で広めているのである。雑談の話題の一つとして出した…そういったものではない。噂を流した人間は、明確な理由があってそれをしたのだ。
神妙な面持ちの俺を見て、理乃は眉根を寄せる。
「結局は噂をされているだけだし、まあ良いんじゃない。彼が何を広めても、私達は毅然とした態度をしていれば良いだけ。違う?」
理乃の言うとおりだった。もちろん、本心としては納得していなかったのだが、それでも気にしないという態度は間違いない。あまりこういった聴衆の的になったことがないだけに、アレルギーというか、俺自身不慣れな感情が出ただけなのかもしれない。
しかしだからといって、理乃のその言葉を聞き逃すことはできなかった。
「彼?」
「えっ?」
「彼って、どういうことだ?」
俺は理乃を見る。理乃は唇を噛み、俺を見返す。
「彼って言ったな、今」
「ちょっと待って、そんな」
「まさか」俺は唾を飲み込んだ。「理乃は知っているのか」
この噂を広めた人物のことを。理乃はじっと俺を見据えていたが、それからふっと陰を落とした。
「家」
「…え」
「もう、着いた。私の家だよ」
彼女に言われて気付けば、確かに理乃が住むアパートは目と鼻の先にあった。いつの間にか着いていたようだ。
「今日は帰って。送ってくれてありがとう」
淡々とそう述べた後に、理乃は俺に背を向ける。そんな彼女の肩を、俺は柔く掴んだ。
「龍介さんは気にしなくて良いの」
俺が口を開く前に、理乃が言った。
「この件は彼と話をつけるから。近いうちに必ず」
彼女は自身の肩に置かれた俺の手の上に、自分の手を置いた。
「大丈夫。本当にね」
俺の手をそっと横にずらして優しく振り解くと、そのまま彼女は振り返ることなく、アパートの階段を登っていった。
俺は彼女を追いかける気にはならなかった。宵闇の中、俺は一人、彼女がアパートのドアの中に消えていく様を眺めていた。
この時、意地でも聞けばよかったと後悔している。
聞いておけば、最悪の事態は回避できたのかもしれない。
それが、彼女との最後の会話になった。
次の日——七月二十五日に、理乃は殺されたのだ。
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