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第二章
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しおりを挟む「うん、どうしたの?」
彼女の手には一枚の書類が握られている。
「この書類……何度も修正して提出したんですが、轟部長に受け取ってもらえなくて。どこが悪いのか聞いたんですが、自分で考えろの一点張りで……。でも、あと一時間で仕上げろって言われて、私、もうどうしたらいいのか分からなくて……」
「それ、私に見せてくれる?」
彼女の自席周りには私よりもベテランの社員が大勢いる。
それでも私を頼って来てくれたのだ。出来る限りのことはしてあげたい。
受け取った書類にざっと目を通す。
以前、彼女が英語が得意でないと言っていたのを思い出した。
けれど、文章の齟齬もなくきちんと体裁は整えられている。だとしたら……。
「すごく良いと思う。ただ、文頭に担当者各位の意味を入れたほうがいいかな」
私は自席のメモに『To whom it may concern,』と書いて彼女に手渡した。
「それから、文末によろしくお願いしますって入れると、より丁寧だよ」
「なるほど……ありがとうございます!」
彼女の表情が一転して明るくなる。
「どういたしまして」
自席へ戻っていく須賀さんの背中を見送る。私も新人の頃、小田さんにたくさん助けてもらった。
私は再びPCに向き合い、細かな書類作業に追われた。
それから一か月が経った。
陽介くんとは仕事の後に何度か食事へ行った。
けれど、立て込んでいる仕事があるらしく、私を家へ送り届けるとそのままとんぼ返りしてしまう。
もっと長い時間一緒にいたいと思っても、それを口にすることはなかった。
彼は日本を代表する大企業の早瀬商事の副社長だ。
自分の感情を優先すれば、彼の負担になる。
「無理しないで頑張ってね」と彼を見送ることしかできなかった。
多忙でなかなか会うことは叶わなくても、連絡だけはこまめにしてくれた。
そのおかげで寂しさは紛れ、彼からの深い愛情を感じられた。
今日も吹く風は凍てつくように冷たい。
出勤後、着ていた厚手のコートを脱ぎ、冷えた手のひらを擦り合わせる。
そのときふと、フロアの一部に目がいった。役職の高い社員が5、6人ほど集まって深刻そうな表情を浮かべている。その中には轟部長の姿もあった。
「おはよ~!」
「おはようございます」
鼻歌まじりにこちらに歩み寄ってくる小田さんに挨拶を返す。
その顔はにこやかでずいぶんと機嫌がいい。
私はフロアをぐるりと見渡す。なにかがおかしい。始業時間が差し迫ったころ、他の部署の社員までもが同じフロアに集められた。
すると、唐突に北本社長が姿を現した。
物々しい様子にフロアがざわつく。社長秘書が集まるように声をかけた。私は立ち上がり、社長に目を向けた。
「急な発表になり申し訳ないが、わが社は今日付で早瀬商事の傘下に入ることになった」
瞬間、どよめきが起こる。私は目を見開いて立ち尽くす。早瀬商事って……陽介くんの?
彼は私が北本貿易に務めていると知っている。
守秘義務があるのは分かっているけれど、彼はそんな素振りを一切見せなかった。
「買収されたとはいえ、敵対的なものではない。雇用条件等は今までと変わらないから安心してくれ」
主は変わるが、大きな変化はないらしい。
一様に不安そうな表情を浮かべていた社員の顔に安堵が広がる。
「以前から早瀬商事の副社長とは懇意にしていたんだ。みんなには言っていなかったが、実は病気を抱えている。僕には、跡継ぎがいない。社員の未来を不安視する僕に、副社長はわが社の未来を共に担ってくれると約束してくれた」
社員たちが目を見合わせる。みんなの反応を見るに、私を含めて社長の病気を知る人間は誰一人いなかったようだ。
「今日は直々に早瀬商事の副社長が挨拶に来てくれている」
社長の言葉に、女性社員がわっと声を上げる。
「早瀬の副社長って雑誌にも出てるイケメンだよね?」
「そうそう!実物も相当カッコいいって聞いたよ!」
騒めくフロア。奥の扉が開き、全員の視線が一斉にそちらに向けられた。
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