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最終章「夢見る偽神の存在証明」
243話 Aster(1)
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*
目の前に、形容しがたい光景が広がっている。
狭くて薄暗い部屋。その中に集められた子供たち。ボクと近い年の幼い子ばかり。近くには、ヴィーとエフェによく似た子供が立っていた。ボクはどこ?
……あ、そうか。明晰夢の中でもボクはボクなのか。だとしても、視界の端に映る髪の色が違う気がするんだけど。
やがて、知らない大人たちが部屋に入ってくる。その中でも一際目立つ高貴な黒い装束の男──占星術師と呼ばれていた気がする──は、赤い物体がたくさん入った籠を抱えていた。
「おめでとう。君たちは今日から自由の身だ。これは神々からの祝福だよ」
ボクを含めた子供たちに配られたのは、普通のリンゴだった。真っ赤で綺麗に熟した、甘酸っぱそうな果実。
何も知らない子供たちは大人の言うことを鵜吞みにした。大人が言うなら、これが祝福であることは間違いない。リンゴを食べたら、村という名の鳥籠から巣立つことができる。
周りの子供たちは笑いながら、躊躇なくリンゴを食べ始めた。その中でヴィーは不安そうにボクを見ていた。エフェは気難しい顔でリンゴを眺めていた。
異変が起こったのは、その後。
「あ、あ、うぅああああああっ!!」
ある男の子がリンゴを床に落として、狂ったような叫び声を上げた。喉をかきむしりながら倒れ込み、身体の内側から肌が黒く変色していく。肉体のすべてが黒い炭のようになってしまった子供を見て、他の子供たちが悲鳴を上げた。
彼が食べたリンゴの欠片が床に落ちていた。リンゴは外側が綺麗に赤く染められていた。中身は、真っ黒。腐敗や傷みによるものではない。果肉の中にこの世の闇が凝縮されているように見えた。
そんな光景を目にした頃には、すべてが手遅れだった。ボクたち三人以外、みんなすでに禁断の果実を口にしていたのだから。
「今回は運が悪いね。収穫ゼロで終わるかもしれない」
占星術師を名乗る大人がそう言った。子供たちが死んでいっているのに、大人たちは無言でボクたちを見つめているだけ。
ボクはその場から動けなかった。呼吸を忘れたまま、ただ死の連鎖を見つめていた。悲鳴が薄れていくにつれて、命の気配が消えていく。子供たちは確かにそこにいたのに、誰一人残らなかった。
「これは燔祭だよ。たとえ果実を口にして死んだとしても、我が神に捧げる贄となるだけだ。生き残ったなら、私の目となり働いてもらう。違いはそれだけなんだ」
今度はボクたちの番と言いたげに、奴らは期待を込めた目で見つめてきた。神への生贄になるべく育てられただけの子供に、何を期待しているのだろう。
「……ふざけんなよ。そっちがその気なら」
絶対に食べるもんか。そう思っていた矢先、エフェが果実を口に運ぼうとしているのを見た。
「待って■■■! これを食べたら死んじゃうよ!」
夢の中のボクは彼女を知らない名前で呼んだ。エフェは苦々しく笑いながら、ボクたち兄妹を見遣った。
「ごめん■■、■■。きっと助けが来る。大丈夫だから」
そう言い残して、果実を口にした。苦しくなる前にすべて食べきって、息をつく間もなく倒れ込んでしまった。
「────いやああああぁぁぁ!! おねえさまあああぁぁ!!!」
動かなくなったエフェの姿に悲鳴を上げたのは、ヴィーだった。涙をポロポロ流して、銀の髪を振り乱しながら泣きじゃくる。ボクは固まってしまい、泣き叫ぶこともできない。
どういうわけか、エフェは他の子供のように変色しなかった。ボクには、生きているのか死んでいるのか判別できない。
「おお、ようやく成功かな? くふふ、残るは君たちだけだね」
占星術師の声は妙に粘り気を帯びていた。まるで期待していた展開がついに訪れたとでも言いたげな声音で、浮かべた笑顔はとても不気味だった。
「君たちは■■■と仲がいいんだったね? 彼女と生き残りたいのなら、果実を口にしたまえ。未来をその手で掴み取るがいいさ」
聞こえはいいだけのその言葉は、罠としか思えなかった。誰がオマエなんかの言う通りにするものかと、果実という名の毒物を投げ捨てたかった。
だが、ヴィーは違った。泣き疲れたのか、とてもやつれた顔で果実を眺めていた。
「お兄様……わたし、お姉様を残していくなんて嫌です」
狂った空間の雰囲気にあてられてすっかり疲弊し、自暴自棄になっていた。光を失った赤い瞳で、ボクを力なく見上げてくる。
「一緒に食べましょう? ここまで来たら、生きるも死ぬも同じです」
「…………そうだね」
ボクも疲れてしまった。子供が大人に逆らえるわけがない。こんな狂った場所に囚われ続けたら、ボクたちの方がおかしくなりそうだ。
これ以上大人に翻弄され続けるくらいなら、いっそのこと死んでしまった方がいいかもしれない。だから、今は大人しく毒を食らおう。果実に歯を立て、中身が黒く腐った異物を飲み込んだ。
息苦しくなり、意識が揺れて、視界が眩む。身体から力が抜けていく中で、大人たちの歪な笑みが目に入った。きっとボクたちの死を喜んでいるんだろうな。許さない。弱い子供を利用する汚い大人たちが、早く死んでくれますように。
「────相変わらず、腐っている」
口も開けなくなり意識を失う直前、煌びやかな少女が飛び込んでくる光景を見た気がした。
急に夢の形が曖昧になってきた。視界にノイズが走り、耳障りな音で埋め尽くされる。
「ごめんね。キミを助けるので精一杯だったんだよ」
その言葉が、ボクの意識を呼び起こした。知らない少女の声だった。
「この先の未来を考えたら、ボクこそが死ななければならないのかもね」
これは……いつの夢だったっけ? でも、知っている。
彼女は、自分の死を悟っていた。互いを知らないボクに向かって、呟き続けていたんだ。
「でも、その前に約束を果たさなきゃ」
少女がどのような人物だったか、どんな顔をしていたか、今はもう覚えていないけれど。
「今日からキミはアスタだよ」
名前も何もかもなくしたボクに、彼女は贈り物をくれた。ボクがボクである証をくれた。
そんな彼女は、自分が忘れられることになろうとかまわないと言いたげだった。現にボクは、彼女の名前を一切思い出せていない。
「願いじゃない、使命だよ。ボクが成すべきこと……それは、この楽園を侵略している悪魔を殺すこと」
彼女の言葉を理解しようとしたが、「使命」や「悪魔を殺す」という言葉が現実味を伴っていなかった。ただ、彼女がとても大事なことを自分に託そうとしているのはわかった。
キミは人間を守ることだけ考えればいい。彼女はそう、強く約束させてきた。
「この世界をお願いね。ボクの愛した、あまねく生命の楽園……デウスガルテンを……」
一人の少女の死に絶えた顔は色を失い、褪せていく。
自分が不死身の存在になったと気づいたのは、一人で森をさまよっていたときのことだ。野生動物に噛みつかれ、腕を爪で切り裂かれたことがある。負った怪我が異常な速度で再生するのを目の当たりにしたとき、少なからず動揺したのだ。
────ボクはいつから、人間から化け物に変わっていたのかな?
いつの間にか深く考えることすらやめていた。積極的にあらゆるものとの接触を避けるようにして、日陰者のように生きていた。少なくとも、むやみに生命を殺す意義などは見出せなかった。
「あなた、観測者のくせにヴァニタス様に忠誠を誓わないのね」
ボクが一人でさまよった末、「ルミナ」と名乗る少女の姿をした観測者に出会ったときの話だ。ルミナはボクと同じく、星の模様を瞳に宿した観測者だった。ボクよりも僅かに小柄で、橙色のサイドテールと金色の瞳、橙色のふわふわしたコートとワンピースが特徴的な、可愛らしい女の子だった。
ボクたちが出会ったのは、夜の草原だった。雲一つない、明るい星空の下で邂逅を果たしたのを覚えている。
「ヴァニタス? 誰それ?」
「えぇ? 知らないの? ヴァニタス様はわたしたち観測者にとって崇拝すべきお方よ? わたし、ヴァニタス様さえいれば他に何もいらないわ」
ルミナの言葉を聞いても、特に驚きもしなかった。
様々な場所を渡り歩いていた中で、観測者たちが何らかの強大な存在に支配されていることは知っていた。ボクの中には「使命」と「悪魔を殺す」、そして「この世界をお願い」という遺言めいた言葉しか残っていなかった。そんな中で、ヴァニタスという名前を聞いたのは初めてだった。
「あなた、もしかして本当に何も知らないの? それとも、知っていても従う気がないのかしら?」
ルミナは目を細めて、じっとボクの瞳を覗き込んできた。
「……ヴァニタスは悪魔なの?」
「悪魔じゃないわ。真なる神よ。確かに、ヴァニタス様とは別に悪魔も存在なさっているけれど」
ボクの周囲をくるりと回りながら、じっとこちらの様子を観察していた。その様子は、未知の生物を興味深そうに観察する子供みたいだった。
「あなた、本当に変わってるわ。普通の観測者なら、ヴァニタス様の命令に逆らうことなんて考えられないのに」
「命令?」
「ええ。観測者は『悪魔の目』とも呼ばれている。悪魔の目となり世界を傍観し、邪魔な生命を殺すの。要は人間たちに反乱を起こさせないように監視するの。それが、わたしたち観測者に与えられた役割」
そのときのルミナの言葉が、なんとなく癪に障った。
「キミは、その役割に疑問を持ったことはないの?」
その問いに、ルミナが一瞬だけ面食らった。
しかし、すぐに微笑みを浮かべた────まるでそう定められたような、機械的な微笑を。
「疑問なんて必要ないわ。だって、ヴァニタス様がわたしたちを導いてくださるもの。あなたも、ヴァニタス様の元に来ればわかるわ」
「悪いけど、ボクにはやらなきゃいけないことがあるんだよ。キミたちみたいな傀儡の主であるヴァニタスを殺さなきゃいけないんだよね」
静かに答えながら、託された金色の短剣を手にした。
かつてのボクは、他の観測者と同じように空っぽだった。ボクと他の観測者の違いは、一度与えられた使命の内容だ。彼らがヴァニタスを存在理由とするなら、死に際の少女の言葉そのものがボクの存在理由なのだ。
「そっか。じゃあ、あなたは敵ね」
ルミナの金色の瞳が細められた次の瞬間、彼女の手が光を帯びた。アストラルを収束した手のひらに現れたのは、金色の笛──フルートだった。
「ヴァニタス様に従わない観測者なんて、いてはいけないのよ!」
彼女の口にフルートが当てられ、不快な甲高い音色が鳴り響く。その音色はアストラルの波動と化し、ボクへ襲いかかる。
だが、高くジャンプしてそのまま浮遊した。ルミナはボクの行動を目にして驚愕する。そのはずみでフルートから口を離した。
「う、嘘っ!? なんで星幽術もなしに飛べるの!? あなた一体────」
「さあね。気づいたときからこうだったよ」
ルミナの驚愕の声が宵闇に溶ける。しかし、それに構うことなく、静かに宙を舞っていた。
まるで────ボクだけが世界の理から逸脱しているかのように。
「まさか……っ、こんなことありえない!!」
ルミナの声は困惑と動揺に満ちていた。彼女に限らず、普通の観測者は誰もがそう思うだろう。
だが、そんな彼女の動揺を意に介する暇などない。
「真なる神がどれだけ上位の存在であろうと、この世界を侵略している以上、始末する以外ありえないんだよ」
淡々とした口調で言い放ち、手にした短剣を構える。金色の刃が月光を反射し、淡い輝きが視界に焼き付く。
「……本気なのね。でも、あなたのような異端はいずれ消される。世界はそうやって廻ってるんだから!」
ルミナは静かにフルートを構え直し、その金色の瞳に決意の色を宿した。
「『《Lucis Ortus》』!」
再びフルートを吹き鳴らすと、今度は不協和音ではなく、透き通るような旋律が紡がれた。空間を震わせ、あらゆるエネルギーの流れを乱す。ルミナの奏でる旋律がただの音ではなく、アストラルを帯びたものだと、すぐに気づいた。
「逃がさない!」
ルミナの旋律が頂点に達した瞬間、空間が歪み、無数の光の刃がボクへと放たれた。それらは鋭く、まるで生きているかのように逃げ道を塞ぐ。
「異端は消されるって言うけどさ。ボクも含めた観測者みんな、キミが言う『消されるべき異端』じゃないのかな?」
空間を蹴るようにして急上昇した。今のボクはもはや、重力の制約を受けていないのと同義だろう。だが、ルミナの攻撃もまた容赦がない。彼女の旋律が変調すると、光の刃は一斉に方向を変え、こちらを追尾し始めた。
「この世界には元々、悪魔も観測者もいなかった。いなくても世界は廻ってた。結果はどっちにだって転がるよ。『《Meteoron Inanis》』!」
自分へと牙が向いた攻撃に対しても動揺しない。ボクはアストラルでできた小さいブラックホールを二つ生み出し、光の刃へとぶつけてまるごと吸い込んだ。吸収する対象を失ったブラックホールは、一直線にルミナへと追尾する形で飛んでいく。
「っ!? 嘘……!」
「弱光は潰えぬ、燦然たる星屑となり万象を砕け」
ルミナが自らに飛来してきたブラックホールに対処している間、手のひらを天に掲げる。淡々と詠唱が進むにつれて、手にアストラルが収束していく。
観測者であれば、詠唱とともに放たれる星幽術がどれだけの脅威であるかなどすぐにわかるだろう。
「いやぁっ! 何しようとしているの!? やめて、アスタ!!」
「『《Procidens Caelum》』」
ルミナは自ずと震えあがり、青ざめながら叫んだ────が、次の瞬間には空間ごと身体を分断されていた。分断された空間と空間の隙間から星空が見え隠れし、血が流れ出すはずの断面すら星空に侵食された。
「あーあ、呆気ないな。これだけで死んじゃうんだ、観測者って?」
観測者は不老不死だ。身体がどれだけ傷ついたり、欠損したとしても、アストラルのエネルギーでほぼ無限に再生される。
だが、この星幽術であれば観測者を空間ごと断ち切って再生を阻止し、結果的に殺すことができてしまう。このような異質な手段を持つ者はごく限られている……というか、今現在もボク以外存在していない。
「……そう。どっちの結果にだって転がる。ボクが観測者を皆殺しにすれば……悪魔だってきっと」
ルミナの一件以降、ボクは観測者という存在を見つけ次第屠るようになった。それからも観測者に何度か出くわして、そのほとんどを殺した。
────キミは人間を守ることだけ考えればいい────
与えられた使命を果たすためだと思えば、どんな行為にも罪悪感は生まれなかった。
目の前に、形容しがたい光景が広がっている。
狭くて薄暗い部屋。その中に集められた子供たち。ボクと近い年の幼い子ばかり。近くには、ヴィーとエフェによく似た子供が立っていた。ボクはどこ?
……あ、そうか。明晰夢の中でもボクはボクなのか。だとしても、視界の端に映る髪の色が違う気がするんだけど。
やがて、知らない大人たちが部屋に入ってくる。その中でも一際目立つ高貴な黒い装束の男──占星術師と呼ばれていた気がする──は、赤い物体がたくさん入った籠を抱えていた。
「おめでとう。君たちは今日から自由の身だ。これは神々からの祝福だよ」
ボクを含めた子供たちに配られたのは、普通のリンゴだった。真っ赤で綺麗に熟した、甘酸っぱそうな果実。
何も知らない子供たちは大人の言うことを鵜吞みにした。大人が言うなら、これが祝福であることは間違いない。リンゴを食べたら、村という名の鳥籠から巣立つことができる。
周りの子供たちは笑いながら、躊躇なくリンゴを食べ始めた。その中でヴィーは不安そうにボクを見ていた。エフェは気難しい顔でリンゴを眺めていた。
異変が起こったのは、その後。
「あ、あ、うぅああああああっ!!」
ある男の子がリンゴを床に落として、狂ったような叫び声を上げた。喉をかきむしりながら倒れ込み、身体の内側から肌が黒く変色していく。肉体のすべてが黒い炭のようになってしまった子供を見て、他の子供たちが悲鳴を上げた。
彼が食べたリンゴの欠片が床に落ちていた。リンゴは外側が綺麗に赤く染められていた。中身は、真っ黒。腐敗や傷みによるものではない。果肉の中にこの世の闇が凝縮されているように見えた。
そんな光景を目にした頃には、すべてが手遅れだった。ボクたち三人以外、みんなすでに禁断の果実を口にしていたのだから。
「今回は運が悪いね。収穫ゼロで終わるかもしれない」
占星術師を名乗る大人がそう言った。子供たちが死んでいっているのに、大人たちは無言でボクたちを見つめているだけ。
ボクはその場から動けなかった。呼吸を忘れたまま、ただ死の連鎖を見つめていた。悲鳴が薄れていくにつれて、命の気配が消えていく。子供たちは確かにそこにいたのに、誰一人残らなかった。
「これは燔祭だよ。たとえ果実を口にして死んだとしても、我が神に捧げる贄となるだけだ。生き残ったなら、私の目となり働いてもらう。違いはそれだけなんだ」
今度はボクたちの番と言いたげに、奴らは期待を込めた目で見つめてきた。神への生贄になるべく育てられただけの子供に、何を期待しているのだろう。
「……ふざけんなよ。そっちがその気なら」
絶対に食べるもんか。そう思っていた矢先、エフェが果実を口に運ぼうとしているのを見た。
「待って■■■! これを食べたら死んじゃうよ!」
夢の中のボクは彼女を知らない名前で呼んだ。エフェは苦々しく笑いながら、ボクたち兄妹を見遣った。
「ごめん■■、■■。きっと助けが来る。大丈夫だから」
そう言い残して、果実を口にした。苦しくなる前にすべて食べきって、息をつく間もなく倒れ込んでしまった。
「────いやああああぁぁぁ!! おねえさまあああぁぁ!!!」
動かなくなったエフェの姿に悲鳴を上げたのは、ヴィーだった。涙をポロポロ流して、銀の髪を振り乱しながら泣きじゃくる。ボクは固まってしまい、泣き叫ぶこともできない。
どういうわけか、エフェは他の子供のように変色しなかった。ボクには、生きているのか死んでいるのか判別できない。
「おお、ようやく成功かな? くふふ、残るは君たちだけだね」
占星術師の声は妙に粘り気を帯びていた。まるで期待していた展開がついに訪れたとでも言いたげな声音で、浮かべた笑顔はとても不気味だった。
「君たちは■■■と仲がいいんだったね? 彼女と生き残りたいのなら、果実を口にしたまえ。未来をその手で掴み取るがいいさ」
聞こえはいいだけのその言葉は、罠としか思えなかった。誰がオマエなんかの言う通りにするものかと、果実という名の毒物を投げ捨てたかった。
だが、ヴィーは違った。泣き疲れたのか、とてもやつれた顔で果実を眺めていた。
「お兄様……わたし、お姉様を残していくなんて嫌です」
狂った空間の雰囲気にあてられてすっかり疲弊し、自暴自棄になっていた。光を失った赤い瞳で、ボクを力なく見上げてくる。
「一緒に食べましょう? ここまで来たら、生きるも死ぬも同じです」
「…………そうだね」
ボクも疲れてしまった。子供が大人に逆らえるわけがない。こんな狂った場所に囚われ続けたら、ボクたちの方がおかしくなりそうだ。
これ以上大人に翻弄され続けるくらいなら、いっそのこと死んでしまった方がいいかもしれない。だから、今は大人しく毒を食らおう。果実に歯を立て、中身が黒く腐った異物を飲み込んだ。
息苦しくなり、意識が揺れて、視界が眩む。身体から力が抜けていく中で、大人たちの歪な笑みが目に入った。きっとボクたちの死を喜んでいるんだろうな。許さない。弱い子供を利用する汚い大人たちが、早く死んでくれますように。
「────相変わらず、腐っている」
口も開けなくなり意識を失う直前、煌びやかな少女が飛び込んでくる光景を見た気がした。
急に夢の形が曖昧になってきた。視界にノイズが走り、耳障りな音で埋め尽くされる。
「ごめんね。キミを助けるので精一杯だったんだよ」
その言葉が、ボクの意識を呼び起こした。知らない少女の声だった。
「この先の未来を考えたら、ボクこそが死ななければならないのかもね」
これは……いつの夢だったっけ? でも、知っている。
彼女は、自分の死を悟っていた。互いを知らないボクに向かって、呟き続けていたんだ。
「でも、その前に約束を果たさなきゃ」
少女がどのような人物だったか、どんな顔をしていたか、今はもう覚えていないけれど。
「今日からキミはアスタだよ」
名前も何もかもなくしたボクに、彼女は贈り物をくれた。ボクがボクである証をくれた。
そんな彼女は、自分が忘れられることになろうとかまわないと言いたげだった。現にボクは、彼女の名前を一切思い出せていない。
「願いじゃない、使命だよ。ボクが成すべきこと……それは、この楽園を侵略している悪魔を殺すこと」
彼女の言葉を理解しようとしたが、「使命」や「悪魔を殺す」という言葉が現実味を伴っていなかった。ただ、彼女がとても大事なことを自分に託そうとしているのはわかった。
キミは人間を守ることだけ考えればいい。彼女はそう、強く約束させてきた。
「この世界をお願いね。ボクの愛した、あまねく生命の楽園……デウスガルテンを……」
一人の少女の死に絶えた顔は色を失い、褪せていく。
自分が不死身の存在になったと気づいたのは、一人で森をさまよっていたときのことだ。野生動物に噛みつかれ、腕を爪で切り裂かれたことがある。負った怪我が異常な速度で再生するのを目の当たりにしたとき、少なからず動揺したのだ。
────ボクはいつから、人間から化け物に変わっていたのかな?
いつの間にか深く考えることすらやめていた。積極的にあらゆるものとの接触を避けるようにして、日陰者のように生きていた。少なくとも、むやみに生命を殺す意義などは見出せなかった。
「あなた、観測者のくせにヴァニタス様に忠誠を誓わないのね」
ボクが一人でさまよった末、「ルミナ」と名乗る少女の姿をした観測者に出会ったときの話だ。ルミナはボクと同じく、星の模様を瞳に宿した観測者だった。ボクよりも僅かに小柄で、橙色のサイドテールと金色の瞳、橙色のふわふわしたコートとワンピースが特徴的な、可愛らしい女の子だった。
ボクたちが出会ったのは、夜の草原だった。雲一つない、明るい星空の下で邂逅を果たしたのを覚えている。
「ヴァニタス? 誰それ?」
「えぇ? 知らないの? ヴァニタス様はわたしたち観測者にとって崇拝すべきお方よ? わたし、ヴァニタス様さえいれば他に何もいらないわ」
ルミナの言葉を聞いても、特に驚きもしなかった。
様々な場所を渡り歩いていた中で、観測者たちが何らかの強大な存在に支配されていることは知っていた。ボクの中には「使命」と「悪魔を殺す」、そして「この世界をお願い」という遺言めいた言葉しか残っていなかった。そんな中で、ヴァニタスという名前を聞いたのは初めてだった。
「あなた、もしかして本当に何も知らないの? それとも、知っていても従う気がないのかしら?」
ルミナは目を細めて、じっとボクの瞳を覗き込んできた。
「……ヴァニタスは悪魔なの?」
「悪魔じゃないわ。真なる神よ。確かに、ヴァニタス様とは別に悪魔も存在なさっているけれど」
ボクの周囲をくるりと回りながら、じっとこちらの様子を観察していた。その様子は、未知の生物を興味深そうに観察する子供みたいだった。
「あなた、本当に変わってるわ。普通の観測者なら、ヴァニタス様の命令に逆らうことなんて考えられないのに」
「命令?」
「ええ。観測者は『悪魔の目』とも呼ばれている。悪魔の目となり世界を傍観し、邪魔な生命を殺すの。要は人間たちに反乱を起こさせないように監視するの。それが、わたしたち観測者に与えられた役割」
そのときのルミナの言葉が、なんとなく癪に障った。
「キミは、その役割に疑問を持ったことはないの?」
その問いに、ルミナが一瞬だけ面食らった。
しかし、すぐに微笑みを浮かべた────まるでそう定められたような、機械的な微笑を。
「疑問なんて必要ないわ。だって、ヴァニタス様がわたしたちを導いてくださるもの。あなたも、ヴァニタス様の元に来ればわかるわ」
「悪いけど、ボクにはやらなきゃいけないことがあるんだよ。キミたちみたいな傀儡の主であるヴァニタスを殺さなきゃいけないんだよね」
静かに答えながら、託された金色の短剣を手にした。
かつてのボクは、他の観測者と同じように空っぽだった。ボクと他の観測者の違いは、一度与えられた使命の内容だ。彼らがヴァニタスを存在理由とするなら、死に際の少女の言葉そのものがボクの存在理由なのだ。
「そっか。じゃあ、あなたは敵ね」
ルミナの金色の瞳が細められた次の瞬間、彼女の手が光を帯びた。アストラルを収束した手のひらに現れたのは、金色の笛──フルートだった。
「ヴァニタス様に従わない観測者なんて、いてはいけないのよ!」
彼女の口にフルートが当てられ、不快な甲高い音色が鳴り響く。その音色はアストラルの波動と化し、ボクへ襲いかかる。
だが、高くジャンプしてそのまま浮遊した。ルミナはボクの行動を目にして驚愕する。そのはずみでフルートから口を離した。
「う、嘘っ!? なんで星幽術もなしに飛べるの!? あなた一体────」
「さあね。気づいたときからこうだったよ」
ルミナの驚愕の声が宵闇に溶ける。しかし、それに構うことなく、静かに宙を舞っていた。
まるで────ボクだけが世界の理から逸脱しているかのように。
「まさか……っ、こんなことありえない!!」
ルミナの声は困惑と動揺に満ちていた。彼女に限らず、普通の観測者は誰もがそう思うだろう。
だが、そんな彼女の動揺を意に介する暇などない。
「真なる神がどれだけ上位の存在であろうと、この世界を侵略している以上、始末する以外ありえないんだよ」
淡々とした口調で言い放ち、手にした短剣を構える。金色の刃が月光を反射し、淡い輝きが視界に焼き付く。
「……本気なのね。でも、あなたのような異端はいずれ消される。世界はそうやって廻ってるんだから!」
ルミナは静かにフルートを構え直し、その金色の瞳に決意の色を宿した。
「『《Lucis Ortus》』!」
再びフルートを吹き鳴らすと、今度は不協和音ではなく、透き通るような旋律が紡がれた。空間を震わせ、あらゆるエネルギーの流れを乱す。ルミナの奏でる旋律がただの音ではなく、アストラルを帯びたものだと、すぐに気づいた。
「逃がさない!」
ルミナの旋律が頂点に達した瞬間、空間が歪み、無数の光の刃がボクへと放たれた。それらは鋭く、まるで生きているかのように逃げ道を塞ぐ。
「異端は消されるって言うけどさ。ボクも含めた観測者みんな、キミが言う『消されるべき異端』じゃないのかな?」
空間を蹴るようにして急上昇した。今のボクはもはや、重力の制約を受けていないのと同義だろう。だが、ルミナの攻撃もまた容赦がない。彼女の旋律が変調すると、光の刃は一斉に方向を変え、こちらを追尾し始めた。
「この世界には元々、悪魔も観測者もいなかった。いなくても世界は廻ってた。結果はどっちにだって転がるよ。『《Meteoron Inanis》』!」
自分へと牙が向いた攻撃に対しても動揺しない。ボクはアストラルでできた小さいブラックホールを二つ生み出し、光の刃へとぶつけてまるごと吸い込んだ。吸収する対象を失ったブラックホールは、一直線にルミナへと追尾する形で飛んでいく。
「っ!? 嘘……!」
「弱光は潰えぬ、燦然たる星屑となり万象を砕け」
ルミナが自らに飛来してきたブラックホールに対処している間、手のひらを天に掲げる。淡々と詠唱が進むにつれて、手にアストラルが収束していく。
観測者であれば、詠唱とともに放たれる星幽術がどれだけの脅威であるかなどすぐにわかるだろう。
「いやぁっ! 何しようとしているの!? やめて、アスタ!!」
「『《Procidens Caelum》』」
ルミナは自ずと震えあがり、青ざめながら叫んだ────が、次の瞬間には空間ごと身体を分断されていた。分断された空間と空間の隙間から星空が見え隠れし、血が流れ出すはずの断面すら星空に侵食された。
「あーあ、呆気ないな。これだけで死んじゃうんだ、観測者って?」
観測者は不老不死だ。身体がどれだけ傷ついたり、欠損したとしても、アストラルのエネルギーでほぼ無限に再生される。
だが、この星幽術であれば観測者を空間ごと断ち切って再生を阻止し、結果的に殺すことができてしまう。このような異質な手段を持つ者はごく限られている……というか、今現在もボク以外存在していない。
「……そう。どっちの結果にだって転がる。ボクが観測者を皆殺しにすれば……悪魔だってきっと」
ルミナの一件以降、ボクは観測者という存在を見つけ次第屠るようになった。それからも観測者に何度か出くわして、そのほとんどを殺した。
────キミは人間を守ることだけ考えればいい────
与えられた使命を果たすためだと思えば、どんな行為にも罪悪感は生まれなかった。
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しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
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【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
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私、寝てる間に何かしました?
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