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最終章「夢見る偽神の存在証明」
259話 世界の理
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*
判然としない浮遊感が続いたと思ったら、行き場のない足が地面に降り立つ。恐る恐る目を開けると、一面灰色の世界が広がっていた。何もないと思ったが、ところどころから黒い茨のような何かが生えて、周囲に蔓延っている。
なんなんだろう……私の頭はぼんやりとしていて、その歪な茨に触れてもなんともないだろうと思ってしまった。
「触っちゃダメ」
手を伸ばしかけた私を引き留めたのは、伸ばしていない方の手を握った誰かだった。手を握られた瞬間、もやがかかっていた私の意識ははっきりとしたものになる。
「あれ? 私、いま……」
「気をつけないとダメだよ。今のこの子の中、ヴァニタスにだいぶ支配されちゃってるからね」
「う、うん……って」
さっきから、誰が私に話しかけているんだ? 声が聞こえている方へバッと顔を向けた。
だが、私はまた混乱しそうになった。目の前にいた人物が、アスタによく似ていたからだ。
「あ、アスタ!? 大丈夫なの!?」
「ううん、違うよ。よく見て?」
困ったように諭されたので、なんとか落ち着くために目の前の人物を観察する。
よく見ると、相手の背丈は私と同じくらいだった。アスタによく似た橙色の髪の毛は、腰の下まで伸びるほど長い。アスタと同じ夜空色の瞳には、特徴的な星の模様は宿っていない。何より、相手は橙色の煌びやかな衣装を身にまとっていて、その様は踊り子の少女と形容できる。
つまり、今私の目の前にいるのはアスタではなく、アスタに似た女の子だったのだ。
「ご、ごめんなさい……あなたは誰?」
「ボクの名前はアスタルテ。デウスガルテンの創造主だった女神さ」
「創造主? 最高神じゃなくて?」
「うん。ローゼマリーはボクを慕ってくれた女の子でね。ボクの代わりにデウスガルテンを統治してくれていたんだ」
創造主とは最高神よりもさらに目上の存在らしい。そういえば、前に誰かが創造主がどうとか口走っていたような。
それにしても、彼女──アスタルテさんは、どうしてここまでアスタにそっくりなのだろう。私が一瞬見間違えるほど似ているわけだし、無関係とは思えない。
「ここはアスタに関係した場所なの? あなたは、どうしてここにいるの?」
「そう。ここはあの子の精神の中。キミの中にカイザーが入ったのと同じ原理だよ。ユキア、キミは彼の最後の力を使ってここに来たんだ」
「なんで私の名前を知って……あ」
その言葉に、私は自然と自らの胸に手を当てていた。心の奥底でずっと私を支えてくれていた、あの温かい灯火が完全に消えている。
カイザー……本当に、もういないのね。
「そして今のボクは、あの子……アスタにあげた『神性』そのものさ。アスタが会ったことのある人物なら誰でも知ってるんだ」
「神性?」
「簡単に言うなら『力』。ボクはこれを『神を神たらしめるもの』って解釈してるけどね」
なんだか、私たちとはあまりにも遠く離れた世界の住人の言葉のようで、その響きはどこか現実味を帯びていなかった。
「アスタはどこ? 私、あの子を早く助けないと」
「待って待って。あまり大きく動くとヴァニタスに気づかれちゃう。ボクが連れていくから、一緒においで」
アスタルテさんに手を引かれるまま、私は灰色の世界を歩き始めた。
一歩、また一歩と進むたびに、足元や周囲に蔓延る黒い茨から、じくじくと不快な気配が伝わってくる。
「実は……ボクね、もう死んじゃってるんだ」
沈黙が続くと思われたとき、アスタルテさんはあっけらかんと言い放った。彼女の声が遠くへ小さく響き渡るも、波紋も残らぬまま消えていく。
「どうして? まさか、誰かに殺されたの?」
「違うよ。約束を守るために死ななければならなかっただけさ」
静かに歩みを進めながら、彼女は私にぽつりぽつりと話をしてくれる。その口調は、まるで子供に昔話を語り聞かせるかのようにどこまでも穏やかだった。
「その前に。キミには神と悪魔の関係性と、それからヴァニタスについて話しておかなきゃ。原初神たちにも詳しく話せてなかったから、誰も知らないことなんだよね」
「ちょっと待って、情報量多いってば」
「理解できるところだけ掴んでくれればいいから。どのみち、まだアスタの元には辿りつけないと思うし」
アスタルテさんは、遠い目をしながら切り出す。
彼女から語られる事実は、あまりにも重苦しいものばかりだった。
「ユキア────キミは、この世界の『ルール』について考えたことはある?」
いきなり何の話だと突っ込みたかったが、やめておいた。日常のルールや掟について言っているわけではなさそうだ。
「この世界に限らず、すべての世界には『理』が存在する。いわば全世界共通のルールだね。人間や、キミたちのような人間を元に生まれた生命は、そのルールを遵守することで初めて生を許されるのさ」
「例えばどういうルールなのよ?」
「色々あるけれど、大抵は普通に生きていれば破りようもないことだよ。死んだ命をそのまま蘇生させてはならない、時間を操作することで歴史を大きく改変してはならない……とかね」
本来あるべき流れのようなものがあるのなら、それを乱すこと自体がルール違反とみなされる。まあ、どれも普通の人間であればできないことだろう。
「世界の理は理不尽な部分もあるけれど、決して揺るがされてはならないんだ。異分子が意図的に生み出されて壊されるなんて論外だ。本来保証されるはずの流れが乱されて、誰も少しの幸せも掴めなくなってしまうからね」
「……はぁ」
「ボクのような神は、その理が定められた『世界概念の記憶』を守る役目を担っている。逆に、悪魔は異分子的存在を生み出すことで、世界の理を書き換えようとしている。おかげで、ボクたちは苦労させられっぱなしなのさ。ニールはその中でも特にたちが悪い悪魔だよ」
まあ、ニールについては理解できる。心の底では殺したいくらい憎むくらいには腹が立っているし。
アスタルテさんの話は、さらに続いていく。
「ヴァニタスは元々、ボクたち神の仲間だったんだ」
「つまり神だったってこと?」
「厳密には、とある神から引き裂かれたことで生まれた存在なんだ。そういうイレギュラー的な生まれだから、誰も仲間と認めていなかった。誰にも手懐けられなかったんだ。なにせ、奴はすべてを虚無に飲み込んで消し去ってしまう力を持っているからね」
文字通りの虚無そのものだったということか。そんなの、誰にもどうしようもできなくて当然だろう。
「そんなヴァニタスをどうにかしろって押し付けられたのがボク。当初は反対したんだけど、自分が管理していた箱庭にヴァニタスを無理やり縛り付けられちゃって」
「……それが、このデウスガルテンだったのね」
「そう。ボクはこの箱庭に直接入ってヴァニタスを監視しながら、奴を処理する方法を探してたんだ。キミたちの祖先となる人間に累が及ばないようにね」
アスタルテさんはそこで一度言葉を切り、寂しげに微笑んだ。その笑みは、灰色の世界に溶けてしまいそうなほど、儚く見えた。
けれど、彼女は微笑むのをやめて、遠いどこかを静かに睨んだ。
「でも、ニールがそこに目をつけた。アイツはヴァニタスが持つ『虚無』の力に惹かれていたんだよ。アイツらが組んでからというもの、デウスガルテンに多大な被害が及んだ。ボクだけじゃ……どうにもできなかった」
アスタルテさんの瞳に、深い悲しみの色が浮かぶ。
やがて、彼女は私に夜空色の美しい瞳を向ける。そのときには、物悲しさはどこかへ消えていた。
「だからボクは、ボク自身が見出した『進化論』に賭けることにしたんだ」
「進化論?」
今まで生きてきて、あまり聞いたことのない言葉だったので問い返した。アスタルテさんは引き続き私の手を引いて歩きながら、静かに続ける。
「人間はボクたちから見ても弱い生き物だ。けれど、人間には特有の『心』がある。それは神すらも超える不可視の臓器だと、ボクは考えているんだ」
「不可視の臓器?」
「神は、人らしい心を持たずに不変であることを善とする。それに対して人間は心を捨てられないけれど、だからこそあらゆる可能性を生み出せる。それこそがボクの見出した進化論で、勝利の存在証明だった」
人間の心について語る彼女は、少し生き生きしているように見えた。彼女は神でありながら、人間を深く深く信じている。
私はなんとなく考えていた。人間と共存するにふさわしい神は────きっと、アスタルテさんのような人物だ。
「原初神たちには、ボクの仲間が遺した『神性』の断片……セフィラと呼ばれる力の源泉を与えていた。つまり、人間を神に至らせた。それが原初神の四人なんだ。他にも色々布石は打ったんだけどね」
「聞いている限り、結構危険そうに聞こえるんだけど」
「うん、本当はやっちゃいけないことだよ。箱庭を観測する神にとって最も罪深いことは、箱庭内の生命に干渉すること……だから、ボクが死ぬのは当然の定めだったんだ」
────神はあくまで『箱庭の観測者』であり、箱庭の中にある他の生命の世界に干渉してはいけない────
アイリスが生きていた頃、キャッセリアで暮らす私たちに課した掟と同じだ。彼女は、私が反抗した掟と同じルールを破って死んでしまったというのか。
こんな偶然、あっていいものか。
「……そこまで頑張ったのに死ななきゃいけなかったなんて、理不尽だわ」
なんとか絞りだした言葉は震えていた。アスタルテさんはきょとんとした様子で首を傾げている。その様は、まるで他人事。
「理不尽かな? ボクは自業自得だと思ってるけどなぁ……」
「だって! あなたが死んでしまった今の世界は大変なことになってるのに、あんまりじゃない! あなたは人間が大好きで、人間のために色々尽くしたのに……ちっとも報われていないじゃない」
あまりにも残酷だ。人間の可能性に未来を託せてしまうほど、この神様は人間を愛してくれていたのに。
嘆く私を見て、アスタルテさんは悲しそうな顔をする。
「キミには、死ぬことが不幸に思えてしまうのかな? キミの中にいた彼のこともそう見えた?」
「っ……! ちっ、違う!!」
カイザーは自らの死を嘆いたとしても、私に色々なものを託してくれたじゃないか。私が彼の生き様を否定することなどあり得ない。
アスタルテさんは「そうだよね」と慈悲深い微笑みを浮かべてくれた。
「魂が召されようと、キミの中にはあの子の想いが今も息づいている。本当に不幸なのは、自分の想いや生きた証を誰にも繋いでもらえないまま、すべて忘れ去られてしまうことだ」
そう言って、アスタルテさんは心の底から嬉しそうに笑って続けるのだ。
「ボクにとっては、それが死ぬことよりも恐ろしい不幸だったんだよ」
その笑顔は、このどこまでも続く灰色の世界の中で唯一の、確かな彩りを持っているように見えた。
「さあ、もうすぐだよ」
やがて、灰色の世界の奥で何かが蠢いていることに気づいた。それは、途方もないほど深い闇。虚無そのものが私とアスタルテさんの前に立ち塞がっている。
「ユキア。キミがアスタを救うことは、ボクの生きた証を残すことと同義なんだ。だから」
「言われなくても助けるよ」
怖気づいている時間はない。私はアスタルテさんの手を握ったまま、闇の中へ足を踏み入れようとする。
私の気配を察知した瞬間、闇がさらに激しく蠢いた。黒い霧のような何かが周囲へ広がり、私とアスタルテさんを断絶する。
「おや。どうやら、ボクはついていけないみたいだ」
「わ、私一人!? どうやって探せばいいの!?」
「大丈夫だよ。アスタを信じて。心優しく人間らしさに溢れたキミなら、助けてあげられるはずだから」
闇が濃くなり、手が離されてしまう。霧が実体を持ち、私の身体を捕らえて闇の中に引きずり込んでいく。アスタルテさんの姿が遠ざかる中、私は流されるまま飲み込まれていくしかない。
視界が完全に黒く染められたとき、顔が生温かくどろりとしたもので覆われたことに気づく。得体のしれない力によって、暗い沼の底へと引きずり込まれていく。
判然としない浮遊感が続いたと思ったら、行き場のない足が地面に降り立つ。恐る恐る目を開けると、一面灰色の世界が広がっていた。何もないと思ったが、ところどころから黒い茨のような何かが生えて、周囲に蔓延っている。
なんなんだろう……私の頭はぼんやりとしていて、その歪な茨に触れてもなんともないだろうと思ってしまった。
「触っちゃダメ」
手を伸ばしかけた私を引き留めたのは、伸ばしていない方の手を握った誰かだった。手を握られた瞬間、もやがかかっていた私の意識ははっきりとしたものになる。
「あれ? 私、いま……」
「気をつけないとダメだよ。今のこの子の中、ヴァニタスにだいぶ支配されちゃってるからね」
「う、うん……って」
さっきから、誰が私に話しかけているんだ? 声が聞こえている方へバッと顔を向けた。
だが、私はまた混乱しそうになった。目の前にいた人物が、アスタによく似ていたからだ。
「あ、アスタ!? 大丈夫なの!?」
「ううん、違うよ。よく見て?」
困ったように諭されたので、なんとか落ち着くために目の前の人物を観察する。
よく見ると、相手の背丈は私と同じくらいだった。アスタによく似た橙色の髪の毛は、腰の下まで伸びるほど長い。アスタと同じ夜空色の瞳には、特徴的な星の模様は宿っていない。何より、相手は橙色の煌びやかな衣装を身にまとっていて、その様は踊り子の少女と形容できる。
つまり、今私の目の前にいるのはアスタではなく、アスタに似た女の子だったのだ。
「ご、ごめんなさい……あなたは誰?」
「ボクの名前はアスタルテ。デウスガルテンの創造主だった女神さ」
「創造主? 最高神じゃなくて?」
「うん。ローゼマリーはボクを慕ってくれた女の子でね。ボクの代わりにデウスガルテンを統治してくれていたんだ」
創造主とは最高神よりもさらに目上の存在らしい。そういえば、前に誰かが創造主がどうとか口走っていたような。
それにしても、彼女──アスタルテさんは、どうしてここまでアスタにそっくりなのだろう。私が一瞬見間違えるほど似ているわけだし、無関係とは思えない。
「ここはアスタに関係した場所なの? あなたは、どうしてここにいるの?」
「そう。ここはあの子の精神の中。キミの中にカイザーが入ったのと同じ原理だよ。ユキア、キミは彼の最後の力を使ってここに来たんだ」
「なんで私の名前を知って……あ」
その言葉に、私は自然と自らの胸に手を当てていた。心の奥底でずっと私を支えてくれていた、あの温かい灯火が完全に消えている。
カイザー……本当に、もういないのね。
「そして今のボクは、あの子……アスタにあげた『神性』そのものさ。アスタが会ったことのある人物なら誰でも知ってるんだ」
「神性?」
「簡単に言うなら『力』。ボクはこれを『神を神たらしめるもの』って解釈してるけどね」
なんだか、私たちとはあまりにも遠く離れた世界の住人の言葉のようで、その響きはどこか現実味を帯びていなかった。
「アスタはどこ? 私、あの子を早く助けないと」
「待って待って。あまり大きく動くとヴァニタスに気づかれちゃう。ボクが連れていくから、一緒においで」
アスタルテさんに手を引かれるまま、私は灰色の世界を歩き始めた。
一歩、また一歩と進むたびに、足元や周囲に蔓延る黒い茨から、じくじくと不快な気配が伝わってくる。
「実は……ボクね、もう死んじゃってるんだ」
沈黙が続くと思われたとき、アスタルテさんはあっけらかんと言い放った。彼女の声が遠くへ小さく響き渡るも、波紋も残らぬまま消えていく。
「どうして? まさか、誰かに殺されたの?」
「違うよ。約束を守るために死ななければならなかっただけさ」
静かに歩みを進めながら、彼女は私にぽつりぽつりと話をしてくれる。その口調は、まるで子供に昔話を語り聞かせるかのようにどこまでも穏やかだった。
「その前に。キミには神と悪魔の関係性と、それからヴァニタスについて話しておかなきゃ。原初神たちにも詳しく話せてなかったから、誰も知らないことなんだよね」
「ちょっと待って、情報量多いってば」
「理解できるところだけ掴んでくれればいいから。どのみち、まだアスタの元には辿りつけないと思うし」
アスタルテさんは、遠い目をしながら切り出す。
彼女から語られる事実は、あまりにも重苦しいものばかりだった。
「ユキア────キミは、この世界の『ルール』について考えたことはある?」
いきなり何の話だと突っ込みたかったが、やめておいた。日常のルールや掟について言っているわけではなさそうだ。
「この世界に限らず、すべての世界には『理』が存在する。いわば全世界共通のルールだね。人間や、キミたちのような人間を元に生まれた生命は、そのルールを遵守することで初めて生を許されるのさ」
「例えばどういうルールなのよ?」
「色々あるけれど、大抵は普通に生きていれば破りようもないことだよ。死んだ命をそのまま蘇生させてはならない、時間を操作することで歴史を大きく改変してはならない……とかね」
本来あるべき流れのようなものがあるのなら、それを乱すこと自体がルール違反とみなされる。まあ、どれも普通の人間であればできないことだろう。
「世界の理は理不尽な部分もあるけれど、決して揺るがされてはならないんだ。異分子が意図的に生み出されて壊されるなんて論外だ。本来保証されるはずの流れが乱されて、誰も少しの幸せも掴めなくなってしまうからね」
「……はぁ」
「ボクのような神は、その理が定められた『世界概念の記憶』を守る役目を担っている。逆に、悪魔は異分子的存在を生み出すことで、世界の理を書き換えようとしている。おかげで、ボクたちは苦労させられっぱなしなのさ。ニールはその中でも特にたちが悪い悪魔だよ」
まあ、ニールについては理解できる。心の底では殺したいくらい憎むくらいには腹が立っているし。
アスタルテさんの話は、さらに続いていく。
「ヴァニタスは元々、ボクたち神の仲間だったんだ」
「つまり神だったってこと?」
「厳密には、とある神から引き裂かれたことで生まれた存在なんだ。そういうイレギュラー的な生まれだから、誰も仲間と認めていなかった。誰にも手懐けられなかったんだ。なにせ、奴はすべてを虚無に飲み込んで消し去ってしまう力を持っているからね」
文字通りの虚無そのものだったということか。そんなの、誰にもどうしようもできなくて当然だろう。
「そんなヴァニタスをどうにかしろって押し付けられたのがボク。当初は反対したんだけど、自分が管理していた箱庭にヴァニタスを無理やり縛り付けられちゃって」
「……それが、このデウスガルテンだったのね」
「そう。ボクはこの箱庭に直接入ってヴァニタスを監視しながら、奴を処理する方法を探してたんだ。キミたちの祖先となる人間に累が及ばないようにね」
アスタルテさんはそこで一度言葉を切り、寂しげに微笑んだ。その笑みは、灰色の世界に溶けてしまいそうなほど、儚く見えた。
けれど、彼女は微笑むのをやめて、遠いどこかを静かに睨んだ。
「でも、ニールがそこに目をつけた。アイツはヴァニタスが持つ『虚無』の力に惹かれていたんだよ。アイツらが組んでからというもの、デウスガルテンに多大な被害が及んだ。ボクだけじゃ……どうにもできなかった」
アスタルテさんの瞳に、深い悲しみの色が浮かぶ。
やがて、彼女は私に夜空色の美しい瞳を向ける。そのときには、物悲しさはどこかへ消えていた。
「だからボクは、ボク自身が見出した『進化論』に賭けることにしたんだ」
「進化論?」
今まで生きてきて、あまり聞いたことのない言葉だったので問い返した。アスタルテさんは引き続き私の手を引いて歩きながら、静かに続ける。
「人間はボクたちから見ても弱い生き物だ。けれど、人間には特有の『心』がある。それは神すらも超える不可視の臓器だと、ボクは考えているんだ」
「不可視の臓器?」
「神は、人らしい心を持たずに不変であることを善とする。それに対して人間は心を捨てられないけれど、だからこそあらゆる可能性を生み出せる。それこそがボクの見出した進化論で、勝利の存在証明だった」
人間の心について語る彼女は、少し生き生きしているように見えた。彼女は神でありながら、人間を深く深く信じている。
私はなんとなく考えていた。人間と共存するにふさわしい神は────きっと、アスタルテさんのような人物だ。
「原初神たちには、ボクの仲間が遺した『神性』の断片……セフィラと呼ばれる力の源泉を与えていた。つまり、人間を神に至らせた。それが原初神の四人なんだ。他にも色々布石は打ったんだけどね」
「聞いている限り、結構危険そうに聞こえるんだけど」
「うん、本当はやっちゃいけないことだよ。箱庭を観測する神にとって最も罪深いことは、箱庭内の生命に干渉すること……だから、ボクが死ぬのは当然の定めだったんだ」
────神はあくまで『箱庭の観測者』であり、箱庭の中にある他の生命の世界に干渉してはいけない────
アイリスが生きていた頃、キャッセリアで暮らす私たちに課した掟と同じだ。彼女は、私が反抗した掟と同じルールを破って死んでしまったというのか。
こんな偶然、あっていいものか。
「……そこまで頑張ったのに死ななきゃいけなかったなんて、理不尽だわ」
なんとか絞りだした言葉は震えていた。アスタルテさんはきょとんとした様子で首を傾げている。その様は、まるで他人事。
「理不尽かな? ボクは自業自得だと思ってるけどなぁ……」
「だって! あなたが死んでしまった今の世界は大変なことになってるのに、あんまりじゃない! あなたは人間が大好きで、人間のために色々尽くしたのに……ちっとも報われていないじゃない」
あまりにも残酷だ。人間の可能性に未来を託せてしまうほど、この神様は人間を愛してくれていたのに。
嘆く私を見て、アスタルテさんは悲しそうな顔をする。
「キミには、死ぬことが不幸に思えてしまうのかな? キミの中にいた彼のこともそう見えた?」
「っ……! ちっ、違う!!」
カイザーは自らの死を嘆いたとしても、私に色々なものを託してくれたじゃないか。私が彼の生き様を否定することなどあり得ない。
アスタルテさんは「そうだよね」と慈悲深い微笑みを浮かべてくれた。
「魂が召されようと、キミの中にはあの子の想いが今も息づいている。本当に不幸なのは、自分の想いや生きた証を誰にも繋いでもらえないまま、すべて忘れ去られてしまうことだ」
そう言って、アスタルテさんは心の底から嬉しそうに笑って続けるのだ。
「ボクにとっては、それが死ぬことよりも恐ろしい不幸だったんだよ」
その笑顔は、このどこまでも続く灰色の世界の中で唯一の、確かな彩りを持っているように見えた。
「さあ、もうすぐだよ」
やがて、灰色の世界の奥で何かが蠢いていることに気づいた。それは、途方もないほど深い闇。虚無そのものが私とアスタルテさんの前に立ち塞がっている。
「ユキア。キミがアスタを救うことは、ボクの生きた証を残すことと同義なんだ。だから」
「言われなくても助けるよ」
怖気づいている時間はない。私はアスタルテさんの手を握ったまま、闇の中へ足を踏み入れようとする。
私の気配を察知した瞬間、闇がさらに激しく蠢いた。黒い霧のような何かが周囲へ広がり、私とアスタルテさんを断絶する。
「おや。どうやら、ボクはついていけないみたいだ」
「わ、私一人!? どうやって探せばいいの!?」
「大丈夫だよ。アスタを信じて。心優しく人間らしさに溢れたキミなら、助けてあげられるはずだから」
闇が濃くなり、手が離されてしまう。霧が実体を持ち、私の身体を捕らえて闇の中に引きずり込んでいく。アスタルテさんの姿が遠ざかる中、私は流されるまま飲み込まれていくしかない。
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