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最終章「夢見る偽神の存在証明」
264話 大悪魔
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*
戦いの音は止んだ。遠くの方では、まだ響いている。
アリアは目の前で起きた現実を直視できていなかった。否、直視することを最後まで拒もうとした。
自分は、あの黒い堕天使の男と戦っていたはずだ。どちらかが先に倒れるまで終わることのない殺し合いをしていたはずだ。
なのに────今、クロウリーは自分の前に仰向けで倒れていた。血の池に沈み動かないのに、アリアは彼を癒す術を使うことができない。
「悪いな」
横から狙撃銃を構えて男を撃った青年がいた。アリアが昨日話した片翼の天使は、ひどく冷徹な眼差しで淡々と話し始める。
「おれは子供の頃から嘘吐きだったんでね。お前を騙すことくらいなんてことなかった。だから、クリムの固有魔法を使わせてもらった」
それは、百年前にクロウリーが彼らから奪ったもの。「エーテル・ヴォイダー」──周囲の魔力に干渉することで魔法の使用を無差別に禁ずることのできる代物。ジュリオはアリアから受け取ったものを使用して周囲の一切の魔法を封じ、純粋な物理的手段でクロウリーを止めたのだ。
アリアも同様に魔法を封じられていたゆえに、彼の傷を癒せない。
「綻びを正さなければ平和は得られない。悪魔という存在は根絶やしにしないといけない。悪魔になりかけたそいつも例外じゃないんだよ」
子供に言い聞かせるような諭し方だった。アリアは何も言えずにジュリオの言葉を聞いている。なぜ騙したの、などと問い詰める余裕すら残されておらず。
自分たちが願った平和に、彼を連れていくことはできない────その事実を噛みしめさせられている。
「……とはいえ、クロウリーの『権能』は厄介だ。身体が生きることをやめない限り生き続けてしまう。殺す手段は限られているぞ」
「わかってる」
アーケンシェンにとって「右目」は重要なパーツだ。心臓と同じと言ってもいい。失えば悪魔の肉体になりかけていようとも、生きることはできない。死んだ彼らはいつだって最後に「右目」を遺していた。
「だから、クリムたちのところに行ってあげて。カルデルトも近くにいるんでしょう?」
光を失いかけた目で路地裏の向こうを見据える。目を逸らしたのが見えた。
彼もまた、自分と同じ選択肢をとるのだろう。自分の弱さを知っていてもなお戦うことをやめられないのだから。
「……わかった。おれには、クロウリーを救えないからな」
ジュリオは潔くその場を離れる。静かになった戦場に残されたのは二人の天使のみになった。
自分の信念を以て前に進めるクリムは立派だ。アリアは心からそう思っている。それに比べて自分は────信念よりも大事にしたいものの存在に気づいてしまった。
彼はまだ生きている。だから、アリアは救うための刃を握った。
ここから先は、世界と無関係の物語だから。
────今は二人だけの秘密にしようね。
*
…………
大地の匂い。温かな風の香りが鼻をくすぐる。身体が重くて言うことを聞いてくれない。目の前が真っ暗なように見えるのは、瞼が重くて持ち上げられないせいだ。
「ユキア。ユキア、起きてよ」
意識が朦朧としている中で声が聞こえた。なんとか目を開けてみると、周囲が大きく破壊されている光景が視界に映る。
「クリム……私、何して」
「よかった。刺されたと思ったら倒れたりして、かなり危険な状態だったんだよ?」
「刺さ、れ……そうだ、アスタは!?」
自分が気を失う前の状況を少しずつ思い出して、身体の力が戻るのを待たずに起き上がった。何よりも彼の状態が心配だったのだ。
周囲を見回すまでもなく、アスタは私の近くに座り込んでいた。しかし、彼は俯いて肩を震わせていた。
「う……っ、うぅ……」
「お兄様……」
どうやら、取り憑いていたヴァニタスは本当に消えてしまったらしい。すすり泣くアスタのそばに寄り添っているのはヴィータだった。
「お兄様はよく頑張りました。お姉様も、ローゼたちも、きっと喜んでくれますよ」
「ヴィー……ボクは、ボクは……」
彼女はアスタの肩を優しく抱きしめるだけで、心境を察してか深くは問いたださない。一緒に最期を見届けた私もまた、晴れ晴れとした気持ちにはなれなかった。この場にいる誰もが、深入りすることを拒んでいるように思えた。
私は、刺されたはずの自分の胸を確認する。傷はすっかり塞がっていて、身体のダメージも随分と和らいでいる。
「よかった、ユキアおねーちゃん……アスタくんも無事で、よかった……」
弱々しい足音が近づいてきたとき、私の身体の気だるさもだいぶマシになっていた。だから────私に歩み寄ってきたステラが倒れかけたとき、真っ先に反応できたんだ。
「ステラっ!!」
私は慌てて手を伸ばし、小さな身体を抱きとめた。重くはないはずなのに、腕の中に沈み込む感覚は異様に重たかった。
顔を覗き込むとすごい量の汗をかいている。呼吸もひどく乱れていて尋常じゃない。
「魔力切れ……! ユキア、ステラを貸して!」
「う、うん!」
切羽詰まったクリムにステラを預けると、すぐに緑の魔力の光がステラへと注ぎ込まれる。彼自身の魔力をステラに送ることで生命の危機を回避しようとしているのだ。
「でも、なんで魔力切れの症状が……」
「……ステラは最高神の力を扱うには幼すぎたんだ」
魔力を送る間、彼は目を伏せがちになりながらも理由を話してくれる。
「カトラスさんの魔力も足してようやく神幻術を使えたくらいなんだ。負担が大きくかかるとわかっていながら、彼女も力を行使したんだよ」
「そんな……じゃあ私の魔力も」
「いや、ユキアは温存しておいた方がいい。ヴァニタスを無力化したとはいえ、まだ敵は残ってる」
そう言ってクリムが指をさしたのは、巨大な十字架が突き刺さった場所。その下には、あの憎き悪魔が首を垂れている。
奴は地面に額を擦り付けていた。ふと見えた銀の瞳には悲哀の感情が現れている。
「くくっ……くははは……アスタルテめ、悪あがきが過ぎるというものだ……おかげで愛しい我が神を失ってしまったではないか」
さすがのニールも、ヴァニタスを失ったことで取り乱しているのかもしれない。私は愚かにもそう考えてしまった。
「とはいえ、そのおかげでここまで来れたというもの。貴様らが諦めを知らぬというなら、私も諦める選択肢はとらない」
……何かが変だ。底知れぬ虚無を倒されたというのに、虚無を崇拝する悪魔は嗤い始めた。ニールの嘲笑が増すにつれて、収まっていたはずの禍々しい気配も比例して増大していく。
「だって────『神は自らに似せて人を作った』のだろう? 神に相対する我々もまた、人の要素を持っているのだからねぇ!!」
狂気の叫びが響き渡り、巨大な十字架が砕け散る。破砕音の大きさと地面の激しい揺れに誰も反応できなかった。
焼け爛れた悪魔が真っ先に狙ったのは、地面に座り込んだままのアスタだった。
「お兄様っ!!」
「こやつ、まだ動くかっ!」
「マジでそろそろ死ねよ!!」
ヴィータはすぐさまアスタを抱えて守ろうとした。さらに二人の前にカトラスさんと、なぜかシファも一緒に立ち塞がった。
だが────ニールは杖を振りかざし、奴にとっての邪魔者をすべて振り払ってしまった。
「あいつ────っ!!」
「ユキア、ダメだ! 不用意に近づいたら殺される!!」
私も動こうとしたが、クリムに腕を掴まれて止められてしまう。暴走状態に等しい相手に突っ込むのは、やっぱり無謀か?
「それを寄越せっ!!」
「かはっ!?」
ニールは血眼になってアスタを吹き飛ばし、宙に吹っ飛んだ黒い塊を奪取した。それはアスタの身体から切り離されたヴァニタスの「因子」。
あれを封印すればすべてが終わるはずだった。それなのにニールは────!!
「貴様……それで何をするつもりじゃ!?」
「いやぁ、誤解しないでくれたまえ。私は元々こうするつもりだったのだよ!」
カトラスさんの問いにまともに答えることもなく。ニールは手のひらに収まるほどの塊を、自らの口で食らったのだ。しかも咀嚼することなく、そのまま喉を通して飲み込んでしまう。そんなことをすれば窒息するだろうに、それさえ恐れなかった。
結果として────奴は窒息するどころか、自身の中に因子を取り込んでしまった。そこから、奴は異様な変貌を遂げていく。
「くふ、ふははははっ────素晴らしい、素晴らしい虚無だぁっ!!」
奴の焼け爛れた傷が一瞬のうちに再生していった。奴から放たれる強風が私たちを押さえつけ、誰もこの場から逃れられなくなる。
ニールの白い肌に黒い亀裂が走り、眼球の白も黒く変色していく。装飾が壊れたローブが引き裂かれ布切れに変貌していく中、奴の背中から黒と白の模様が入った触手が無数に生えてくる。もはやそれは、触手でできた異形の翼だった。
「ああ────素晴らしいよ。世界にはまだこのような神秘が残されていたとは」
気づけば、ニールの短かった銀髪が腰に届くほどまで長く伸びていた。何の色も宿さなかった銀の瞳の中央は黒く鈍い光を放っていた。
奴の姿が変貌を終える頃には、私たちを押さえつける強風は収まっていた。だが、動けない。虚無の因子を得た悪魔は、私たちの動きを無意識に封じるほどの畏怖を放っていた。
「この塊に込められていたのはヴァニタス様の『因子』だけではない。エフェメラが有していた『永智』の神性も含まれていた。あれはヴァニタス様が彼女を殺した際に取り込んでいたものだからね。私が求めていたピースのうち二つは揃った。残る一つは……さすがの君たちでもわかるだろう?」
そう言って奴が指をさしたのは、ヴィータと一緒に吹き飛ばされて倒れてしまったアスタ。彼らもまた、身体も口も動かせないまま、ニールを凝視していた。
「そうだよ、傲慢なる星灯。君の中に残されたアスタルテの最後の『神性』────『星灯』をもらい受ければ、私は大悪魔になれる! 神をも超える大悪魔『アスタロト』として、世界の理を存分に破壊し尽くすのだ!!」
けたたましい嘲笑が世界にこだまする。奴が自称した名前を聞いた瞬間、私の胸の奥は氷のように冷え切っていく。
その名前を……お前が騙るな。
「何が、大悪魔だ。その名前はアスタルテさんを騙っただけじゃない」
私は畏怖を振り払い、足に力を込めた。他のみんなは動き出せそうにないのに、なぜか私だけはその場に立って異議を唱えようとしていた。
ニールもそれを不思議に思ったのだろう。私に目を向けて、わざとらしい笑顔とともに私を見下ろした。
「おや? 私の畏怖の前でまだ口を利けるか。君は思った以上に根性があるんだな、ユキア」
「黙れ!! 世界の理なんか壊して、お前に何の得がある!? ただ世界を壊すことにしか興味がないなら────お前は、つまらない悪魔だ!!」
愉快そうに私を見下ろしていた奴の目が、憎々しい色を宿しぎらついた。あの悪魔を見ているだけで精神を削り取られるような錯覚に陥っているのは、私も同じだ。
それでも私は、この世界の創造主を侮辱した悪魔を否定しなくてはならない。
「ああ────本当に失敗だったよ。やはりこちらも引いたりせず、君も深い絶望に突き落としておくべきだった」
落胆の言葉に背筋が凍りつきそうになる。私が諦めていたらすべてが終わっていたかもしれなくて。
「いや、違うな? 絶望はまだまだ生み出せる。なぜなら私には虚無の因子がある」
でも────ここまで来たらそれさえも関係ないのかもしれない。
奴は杖を天に掲げ、片手剣を構える私を嘲笑う。
「世界を粉々にすることくらい、余裕なのだよ」
頭上に掲げられた杖から、黒と白が渦を巻く光が迸った。
雲に覆われていた空が裂け、ひずみ、無理やり引き裂かれた空間の隙間から虚無そのものが覗いていた。
ピシッ
とても不吉な音がした。世界の輪郭が砕かれたのだ。
大地は不規則に震え、砕けた石片が跳ね上がっては落ち、乾いた衝撃音を繰り返している。大地も、街も人々も虚無の光に晒されて、色彩はすべて抜き取られていってしまう。
「そうか。ようやく、お主らにすべてを託せるのじゃな」
今度こそ世界が終わってしまうと確信したその間際。カトラスさんの声がした。
「案ずるな。これでいい」
最後に聞こえたその言葉には────微塵の後悔も残されてはいなかった。
戦いの音は止んだ。遠くの方では、まだ響いている。
アリアは目の前で起きた現実を直視できていなかった。否、直視することを最後まで拒もうとした。
自分は、あの黒い堕天使の男と戦っていたはずだ。どちらかが先に倒れるまで終わることのない殺し合いをしていたはずだ。
なのに────今、クロウリーは自分の前に仰向けで倒れていた。血の池に沈み動かないのに、アリアは彼を癒す術を使うことができない。
「悪いな」
横から狙撃銃を構えて男を撃った青年がいた。アリアが昨日話した片翼の天使は、ひどく冷徹な眼差しで淡々と話し始める。
「おれは子供の頃から嘘吐きだったんでね。お前を騙すことくらいなんてことなかった。だから、クリムの固有魔法を使わせてもらった」
それは、百年前にクロウリーが彼らから奪ったもの。「エーテル・ヴォイダー」──周囲の魔力に干渉することで魔法の使用を無差別に禁ずることのできる代物。ジュリオはアリアから受け取ったものを使用して周囲の一切の魔法を封じ、純粋な物理的手段でクロウリーを止めたのだ。
アリアも同様に魔法を封じられていたゆえに、彼の傷を癒せない。
「綻びを正さなければ平和は得られない。悪魔という存在は根絶やしにしないといけない。悪魔になりかけたそいつも例外じゃないんだよ」
子供に言い聞かせるような諭し方だった。アリアは何も言えずにジュリオの言葉を聞いている。なぜ騙したの、などと問い詰める余裕すら残されておらず。
自分たちが願った平和に、彼を連れていくことはできない────その事実を噛みしめさせられている。
「……とはいえ、クロウリーの『権能』は厄介だ。身体が生きることをやめない限り生き続けてしまう。殺す手段は限られているぞ」
「わかってる」
アーケンシェンにとって「右目」は重要なパーツだ。心臓と同じと言ってもいい。失えば悪魔の肉体になりかけていようとも、生きることはできない。死んだ彼らはいつだって最後に「右目」を遺していた。
「だから、クリムたちのところに行ってあげて。カルデルトも近くにいるんでしょう?」
光を失いかけた目で路地裏の向こうを見据える。目を逸らしたのが見えた。
彼もまた、自分と同じ選択肢をとるのだろう。自分の弱さを知っていてもなお戦うことをやめられないのだから。
「……わかった。おれには、クロウリーを救えないからな」
ジュリオは潔くその場を離れる。静かになった戦場に残されたのは二人の天使のみになった。
自分の信念を以て前に進めるクリムは立派だ。アリアは心からそう思っている。それに比べて自分は────信念よりも大事にしたいものの存在に気づいてしまった。
彼はまだ生きている。だから、アリアは救うための刃を握った。
ここから先は、世界と無関係の物語だから。
────今は二人だけの秘密にしようね。
*
…………
大地の匂い。温かな風の香りが鼻をくすぐる。身体が重くて言うことを聞いてくれない。目の前が真っ暗なように見えるのは、瞼が重くて持ち上げられないせいだ。
「ユキア。ユキア、起きてよ」
意識が朦朧としている中で声が聞こえた。なんとか目を開けてみると、周囲が大きく破壊されている光景が視界に映る。
「クリム……私、何して」
「よかった。刺されたと思ったら倒れたりして、かなり危険な状態だったんだよ?」
「刺さ、れ……そうだ、アスタは!?」
自分が気を失う前の状況を少しずつ思い出して、身体の力が戻るのを待たずに起き上がった。何よりも彼の状態が心配だったのだ。
周囲を見回すまでもなく、アスタは私の近くに座り込んでいた。しかし、彼は俯いて肩を震わせていた。
「う……っ、うぅ……」
「お兄様……」
どうやら、取り憑いていたヴァニタスは本当に消えてしまったらしい。すすり泣くアスタのそばに寄り添っているのはヴィータだった。
「お兄様はよく頑張りました。お姉様も、ローゼたちも、きっと喜んでくれますよ」
「ヴィー……ボクは、ボクは……」
彼女はアスタの肩を優しく抱きしめるだけで、心境を察してか深くは問いたださない。一緒に最期を見届けた私もまた、晴れ晴れとした気持ちにはなれなかった。この場にいる誰もが、深入りすることを拒んでいるように思えた。
私は、刺されたはずの自分の胸を確認する。傷はすっかり塞がっていて、身体のダメージも随分と和らいでいる。
「よかった、ユキアおねーちゃん……アスタくんも無事で、よかった……」
弱々しい足音が近づいてきたとき、私の身体の気だるさもだいぶマシになっていた。だから────私に歩み寄ってきたステラが倒れかけたとき、真っ先に反応できたんだ。
「ステラっ!!」
私は慌てて手を伸ばし、小さな身体を抱きとめた。重くはないはずなのに、腕の中に沈み込む感覚は異様に重たかった。
顔を覗き込むとすごい量の汗をかいている。呼吸もひどく乱れていて尋常じゃない。
「魔力切れ……! ユキア、ステラを貸して!」
「う、うん!」
切羽詰まったクリムにステラを預けると、すぐに緑の魔力の光がステラへと注ぎ込まれる。彼自身の魔力をステラに送ることで生命の危機を回避しようとしているのだ。
「でも、なんで魔力切れの症状が……」
「……ステラは最高神の力を扱うには幼すぎたんだ」
魔力を送る間、彼は目を伏せがちになりながらも理由を話してくれる。
「カトラスさんの魔力も足してようやく神幻術を使えたくらいなんだ。負担が大きくかかるとわかっていながら、彼女も力を行使したんだよ」
「そんな……じゃあ私の魔力も」
「いや、ユキアは温存しておいた方がいい。ヴァニタスを無力化したとはいえ、まだ敵は残ってる」
そう言ってクリムが指をさしたのは、巨大な十字架が突き刺さった場所。その下には、あの憎き悪魔が首を垂れている。
奴は地面に額を擦り付けていた。ふと見えた銀の瞳には悲哀の感情が現れている。
「くくっ……くははは……アスタルテめ、悪あがきが過ぎるというものだ……おかげで愛しい我が神を失ってしまったではないか」
さすがのニールも、ヴァニタスを失ったことで取り乱しているのかもしれない。私は愚かにもそう考えてしまった。
「とはいえ、そのおかげでここまで来れたというもの。貴様らが諦めを知らぬというなら、私も諦める選択肢はとらない」
……何かが変だ。底知れぬ虚無を倒されたというのに、虚無を崇拝する悪魔は嗤い始めた。ニールの嘲笑が増すにつれて、収まっていたはずの禍々しい気配も比例して増大していく。
「だって────『神は自らに似せて人を作った』のだろう? 神に相対する我々もまた、人の要素を持っているのだからねぇ!!」
狂気の叫びが響き渡り、巨大な十字架が砕け散る。破砕音の大きさと地面の激しい揺れに誰も反応できなかった。
焼け爛れた悪魔が真っ先に狙ったのは、地面に座り込んだままのアスタだった。
「お兄様っ!!」
「こやつ、まだ動くかっ!」
「マジでそろそろ死ねよ!!」
ヴィータはすぐさまアスタを抱えて守ろうとした。さらに二人の前にカトラスさんと、なぜかシファも一緒に立ち塞がった。
だが────ニールは杖を振りかざし、奴にとっての邪魔者をすべて振り払ってしまった。
「あいつ────っ!!」
「ユキア、ダメだ! 不用意に近づいたら殺される!!」
私も動こうとしたが、クリムに腕を掴まれて止められてしまう。暴走状態に等しい相手に突っ込むのは、やっぱり無謀か?
「それを寄越せっ!!」
「かはっ!?」
ニールは血眼になってアスタを吹き飛ばし、宙に吹っ飛んだ黒い塊を奪取した。それはアスタの身体から切り離されたヴァニタスの「因子」。
あれを封印すればすべてが終わるはずだった。それなのにニールは────!!
「貴様……それで何をするつもりじゃ!?」
「いやぁ、誤解しないでくれたまえ。私は元々こうするつもりだったのだよ!」
カトラスさんの問いにまともに答えることもなく。ニールは手のひらに収まるほどの塊を、自らの口で食らったのだ。しかも咀嚼することなく、そのまま喉を通して飲み込んでしまう。そんなことをすれば窒息するだろうに、それさえ恐れなかった。
結果として────奴は窒息するどころか、自身の中に因子を取り込んでしまった。そこから、奴は異様な変貌を遂げていく。
「くふ、ふははははっ────素晴らしい、素晴らしい虚無だぁっ!!」
奴の焼け爛れた傷が一瞬のうちに再生していった。奴から放たれる強風が私たちを押さえつけ、誰もこの場から逃れられなくなる。
ニールの白い肌に黒い亀裂が走り、眼球の白も黒く変色していく。装飾が壊れたローブが引き裂かれ布切れに変貌していく中、奴の背中から黒と白の模様が入った触手が無数に生えてくる。もはやそれは、触手でできた異形の翼だった。
「ああ────素晴らしいよ。世界にはまだこのような神秘が残されていたとは」
気づけば、ニールの短かった銀髪が腰に届くほどまで長く伸びていた。何の色も宿さなかった銀の瞳の中央は黒く鈍い光を放っていた。
奴の姿が変貌を終える頃には、私たちを押さえつける強風は収まっていた。だが、動けない。虚無の因子を得た悪魔は、私たちの動きを無意識に封じるほどの畏怖を放っていた。
「この塊に込められていたのはヴァニタス様の『因子』だけではない。エフェメラが有していた『永智』の神性も含まれていた。あれはヴァニタス様が彼女を殺した際に取り込んでいたものだからね。私が求めていたピースのうち二つは揃った。残る一つは……さすがの君たちでもわかるだろう?」
そう言って奴が指をさしたのは、ヴィータと一緒に吹き飛ばされて倒れてしまったアスタ。彼らもまた、身体も口も動かせないまま、ニールを凝視していた。
「そうだよ、傲慢なる星灯。君の中に残されたアスタルテの最後の『神性』────『星灯』をもらい受ければ、私は大悪魔になれる! 神をも超える大悪魔『アスタロト』として、世界の理を存分に破壊し尽くすのだ!!」
けたたましい嘲笑が世界にこだまする。奴が自称した名前を聞いた瞬間、私の胸の奥は氷のように冷え切っていく。
その名前を……お前が騙るな。
「何が、大悪魔だ。その名前はアスタルテさんを騙っただけじゃない」
私は畏怖を振り払い、足に力を込めた。他のみんなは動き出せそうにないのに、なぜか私だけはその場に立って異議を唱えようとしていた。
ニールもそれを不思議に思ったのだろう。私に目を向けて、わざとらしい笑顔とともに私を見下ろした。
「おや? 私の畏怖の前でまだ口を利けるか。君は思った以上に根性があるんだな、ユキア」
「黙れ!! 世界の理なんか壊して、お前に何の得がある!? ただ世界を壊すことにしか興味がないなら────お前は、つまらない悪魔だ!!」
愉快そうに私を見下ろしていた奴の目が、憎々しい色を宿しぎらついた。あの悪魔を見ているだけで精神を削り取られるような錯覚に陥っているのは、私も同じだ。
それでも私は、この世界の創造主を侮辱した悪魔を否定しなくてはならない。
「ああ────本当に失敗だったよ。やはりこちらも引いたりせず、君も深い絶望に突き落としておくべきだった」
落胆の言葉に背筋が凍りつきそうになる。私が諦めていたらすべてが終わっていたかもしれなくて。
「いや、違うな? 絶望はまだまだ生み出せる。なぜなら私には虚無の因子がある」
でも────ここまで来たらそれさえも関係ないのかもしれない。
奴は杖を天に掲げ、片手剣を構える私を嘲笑う。
「世界を粉々にすることくらい、余裕なのだよ」
頭上に掲げられた杖から、黒と白が渦を巻く光が迸った。
雲に覆われていた空が裂け、ひずみ、無理やり引き裂かれた空間の隙間から虚無そのものが覗いていた。
ピシッ
とても不吉な音がした。世界の輪郭が砕かれたのだ。
大地は不規則に震え、砕けた石片が跳ね上がっては落ち、乾いた衝撃音を繰り返している。大地も、街も人々も虚無の光に晒されて、色彩はすべて抜き取られていってしまう。
「そうか。ようやく、お主らにすべてを託せるのじゃな」
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