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最終章「夢見る偽神の存在証明」
268話 遺された想いとともに
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*
────ダイヤの瞳の少女は、白い闇の中で夢を見ていた。
何もかもが終わったことを認識したときには、分かたれていた肉体と魂は一緒に消え果てていた。自らを縛り続けていた、呪いのような憎悪が消えていることに気づく。
少女──エフェメラの魂が召された頃には、彼女はすでに正気を取り戻していて、そして何もかもが終わりを告げたことを知った。
「ああ、そっか。やったんだな、あいつら」
エフェメラの口から力ない笑いがこぼれる。すべてがダメ元であることを自覚していたゆえに、成功した未来を信じきるのにかなりの時間を要したのだ。
「アスタルテ。あーしら、やっとあんたの願いを叶えてやれたよ」
ここに彼女はいない。ただ、エフェメラは孤独ではなかった。
彼女のそばにはすでに、かつて原初神と呼ばれた四人の大人が集っていた。
「お疲れさん。ローゼ、ユーリ。カトラス、ライラン」
白い闇の中に集う者たちは全員、すでに死んでいた。魂も肉体も祝福から解き放たれた彼らは、すべての苦痛を置いて天へ昇ろうとしている。
「お疲れ様、エフェメラちゃん。あなたとカイザーちゃんが頑張ってくれたおかげで、なんとかなったわ」
「あーしはただ、記録を遺しただけだけどな」
「だが、あれも大事な鍵だったことは間違いないだろう? あの少女が力を行使する大事な触媒だったのだから」
「まあ? 観測者の半身が材料ですし? 普通にあの子の身体に力通しちゃってたら、あんなに持たなかったでしょ」
「わしは色々と出遅れてしまったからのう。もう少し早く覚悟を決めておくべきじゃった」
「それはお前があの子たちを早く信じてやれないのが悪い! 反省しろ!」
「ワタシもさっさとあの一般神の身体を捨てておけばよかったかしら? まあ、後の祭りね」
「あの女の身体があったから好き勝手できてたんだろうが。少しはミラージュって奴にも感謝しろや!」
少女と大人たちは最後の言葉を交わしていた。労いの言葉をかけることもあれば、反省を口にし合って、無意味な言い争いも繰り広げて。
すべてが終わった彼らには、そのどれもがかけがえのない時間だった。
「もうそろそろ、かしら」
「そうだな。だがその前に、彼らに礼をしなければ」
「そうね。ずっと頑張ってもらったものね」
白い闇の中で、彼らの他にただ一つ存在するものがある。それは、古びた祭壇だった。
ローゼマリーは頭に乗せていた美しいティアラと、手にしていた金色の杖を祭壇に置いた。
次に、ユリウスが黒い剣と、自らを飾っていた三つの紅玉の宝石を捧げた。
カトラスは白銀の鉄槌と、首元にぶら下げていた首飾りを祭壇に遺す。
最後に、ライランが刃を仕込んだ黒い傘と、水色の不思議な鏡を祭壇に捧げた。
「これで、あいつらが支払った代償の少しは戻るんだな」
「そうじゃ。長く戦ってもらった以上、すべてもらっていくわけにはいかん」
「原罪の記録書は消えちゃったけど……まあいいか。あーしの形見なんか、あいつらには必要ない」
「アンタも寂しいこと言うわね。ちょっとは子供らしく泣いたりすればいいのに」
「涙なんて忘れましたー。あーしは天才児なのでー。ったく、余計なことばっか言ってないで、ほら行こ!」
そう言いながら、彼らは互いの顔を見合わせて、祭壇に背を向けて歩き出す。その先が何に続いているのかは、彼らにしかわからない。
最後に、エフェメラは一人立ち止まって、祭壇を振り返る。祭壇の向こう、白い闇に染められ無力化した黒が目に入る。
黒は恨めしく蠢いているように見えた。だが、今のエフェメラには恨めしい気持ちはない。
「あーしらの勝ちだ、底知れぬ虚無。何が真なる神だ! ざまあみろ!!」
ただ晴れやかに、されど闇を嘲るような笑顔を咲かせた。
彼女は二度と闇を振り返ることなく、遠い白の中へ駆けていくのだった。
*
────白い夢の中で考えていた。ユキアは、本当にすごい女神だ。
一つの夢だけを追い続けて、自分の弱さを自覚していながら前に進んでいた。自分を曲げずに貫き通す勇気を持ち合わせていた。僕は僕で願いを叶えることができたけど、彼女のすべては僕が持ち合わせないものだった。
「そんなこたぁねぇよ。オマエもユキアも似たモン同士だ。他人を助けるために自分を犠牲にしようとする大バカ野郎だ」
気づけば、座り込む僕の目の前にクロウがいた。アリアでもティアルでも、トゥリヤでもカルデルトでもなく。
「どうして君は残っているのさ」
「オマエと最後に話をしたかった。それだけだ」
現実で最後に見た彼はひどく苦しそうだった。でも、今僕の目の前にいるクロウは、とてもリラックスして安らいでいるように見えた。
「オマエは何をそんなに後悔してんだ? 世界は救えたんだろ? 魂の欠片をアイツに預けてさ?」
彼はあぐらをかいて、いたずらっぽく笑いながら問いかけてくる。僕はずっと、そのことについて考えていた。
「僕は自分のすべてを彼女に預けて、行く末を見守ることしかできなかった。それが悔しいんだ」
できることなら、僕も最後まで一緒に戦いたかった。けれど、原初神の魂を必要としていた以上、僕たちは自らの核を捧げるしかなかった。
他の原初神たちがそのことを僕たちに告げてきたときは、心が痛くてたまらなかった。彼女はあんな手段で力を得ることを望まなかっただろうから。
「じゃあさ。なんで今、オレとオマエがこうして話せてると思う?」
クロウの問いに首を傾げる。
……そういえば、どうして未だに僕の意識が残っているんだろう?
「どうやら、原初神たちも色々と悔いていたらしいぜ? だから、アイツらは祝福という呪いから解き放たれたときに、オマエらに『遺産』を遺していったんだ」
「遺産?」
「アイツらの魂は召されちまったけど、タダで召されるのはもったいないとでも思ったんだろうな。オマエらを生かすために必要なものだけは遺してくれたらしい」
クロウは僕が呆然としているのをいいことに、ペラペラと喋り続ける。
そもそも、僕たち現代神はローゼマリーさんが持っていた「神性」のおかげで、生命活動を維持できていた。アイリス様にその力が受け継がれていたからだ。
そして、ユリウスさんは僕たちに魂の欠片を返してくれたらしい。以前とは違って不完全になってしまったらしく、「権能」はかなり弱体化してしまったらしいけども。アーケンシェンが生命を保つため必要不可欠なことに変わりはない。
「じゃあ、僕たちは」
「一般神の奴らもアーケンシェンも、もうしばらく生きてられるってさ。まあ、すでに死んだトゥリヤとティアル、それからオレは対象外だけど」
自嘲しているクロウの顔が、少し痛々しい。
僕は、自分が思っている以上に色々なものを取りこぼしてしまったのかな。
「クロウ。君が持っていた核はアリアが持っているんだよね。君は、どうしてそうなる結末を選んだの?」
できれば聞いてみたいと思っていたことだった。しかし、クロウは「けっ」と乾いた声を吐き捨てて横を向く。どうしても僕に顔を見られたくないと言いたげだ。
「こればっかりは無理。たとえオマエの頼みでも教えてやんねー」
「……そう」
わざわざ僕が知るほどのことでもないのだろう。じゃあ、潔く諦めておくことにしよう。
「それでいい。これからは前だけ見て生きろよ? オマエの正義は、過去で揺るがされるようなものじゃねぇんだから」
彼は立ち上がって、白い光の中へと消えていこうとする。
僕も立って追いかけようとしたが、勝手に足が止まってしまった。あの先は僕が行くべき道じゃないと、本能が告げている。
「────あばよ、クリム。せいぜい余生を楽しめよ」
僕を振り返ったクロウは────まったく別人のように、優しく微笑んでいた。
手を伸ばそうとしたときには、真っ白な天井で視界が埋め尽くされていた。
重い身体を起こすと、そこはキャッセリアの診療所。白いカーテンで囲まれたベッドで眠っていたらしい。
「ああ……本当に、生きてるんだ」
長い夢から覚めたような気がしてならない。戦いも何もかもが夢だったんじゃないかと疑いたくなるくらい、この状況は信じられないもので。
「あなたって、案外ねぼすけですよね」
赤いクローバーを宿した瞳の少女が、なんてことなく声をかけてくるのだ。
ヴィータはわざわざ立った状態で僕に話しかけていた。どうせなら座っていればよかったのに、と思った僕に対してくすりと笑いかけてくる。
「アリアもカルデルトも、ちょっと前に目を覚ましたばかりなんです。二人とも、あなたを待っていたんですよ」
言われて辺りを見回したとき、その意味に遅れて気づく。眠っていた僕のベッドに、二人が突っ伏していた。アリアは僕のそばですやすやと寝息を立てていて、カルデルトは白紙のカルテを握って居眠りをしている。
ああ────自分の中の何かが決壊しそうだ。こんなこと、本当にあり得ていいのかな。
「こんな奇跡、あり得ないよ。罰が当たりそうだ」
「ふふっ。素直によかったと言えばいいくせに」
いつになく優しい声に、抑えることをやめてしまいそうだ。
眠っている二人を起こさないようにベッドを降りて、ヴィータと一緒に診療所を出た。外はすでに夜を迎えていて、彼らが眠っていたのも説明がつきそうだ。
あの戦いが終結した夜は、月明かりがとても眩しい。太陽と見紛えてもおかしいくらい強く輝く満月は、壊れ尽くしたキャッセリアを淡く照らしている。
「そういえば、原罪の記録書はどうしたの?」
「ああ……お兄様に預けたきりでしたが、恐らくなくなってしまったのでしょう。最後の戦いで必要なものでしたからね」
どこか名残惜しそうに答えたヴィータの言葉に、色々と疑問が沸き起こる。僕は自分の中の魂の欠片を手放したときに意識を失ってしまったから、あれから何が起きたのかもよくわかっていないのだ。
「アスタはどこに行ったんだい?」
「お兄様なら、ユキアの家にいますよ。しばらく一人にしてほしいと言われました」
相変わらず淡々とした言葉だった。彼女が僕のそばにいるのは、それが理由なのかもしれない。
一緒に歩いているものの、ヴィータの表情がよく見えない。僕から尋ねなければ、そのまま何も教えてくれなさそうなくらい大人しい。
「ヴィータ。ユキアがどうなったのか聞いてもいい?」
「……もう少し後で話すつもりだったのですがね。言っておきますか」
壊れた瓦礫の上に隣り合って座り、ゆっくりと話を聞くことにする。ヴィータは心苦しそうに俯いてから、前をまっすぐ見た状態で語りだす。
「ユキアは一応生きているのですが、昏睡状態から目覚める気配がないそうです」
「こ……昏睡?」
「お兄様が詳しく話してくださらないので、少し聞いただけの話です。ユキアは壊れた世界を元通りにするべく、あの戦いでひどい無茶をしたそうです。おかげでデウスガルテンに悪魔などが侵攻するリスクは、可能な限り減らせたのですが」
一度木っ端微塵にされたキャッセリアが元通りになったように見える理由は、そういうことだったらしい。
彼女の言葉を追いかけるように、瓦礫だらけの街に静かな風が吹き抜けた。
「昏睡から目覚める可能性は低いと。お兄様はそう言ってました」
言葉にされた途端に、胸の奥に押し込めていた重みがじわりと広がる。
自分の手を見下ろした。震えてはいないのに力が入らなかった。瓦礫の欠片に触れる指先が冷たくて、月明かりが滲んで見える。
「でも、まだ生きているなら可能性はゼロじゃないはずだ」
「ええ……クリムの言う通りなのですが。代償が大きすぎたということもまた、事実なのです」
言葉に相槌を打つかのように、遠くで瓦礫が崩れる音がした。誰もいないはずの街に響くその音は、静けさをいっそう重くする。
夜空を仰げば、異様なほど明るく輝く満月が浮かんでいる。気高い彼女はこの夜空の下で眠っている。あれほどにまで激しい戦いを乗り越えても、心が晴れ切ることはないのか。
「この世界は、どこまでいっても不条理ばかりだ」
「それでも、ユキアはこの世界を守りたかったんじゃないかな」
僕の呟きを追うようにしてかけられた言葉。一体誰が、と思って声の聞こえた先を見ると、アリアが僕たちの前に現れていた。
「あ、アリア!? なんで……」
「ごめんね、クリムが起きたときにはもう起きてた。こっそりついてきちゃった」
てへへ、と力なく笑っている。彼女の金の髪と白銀の翼が、優しく冷たい風で揺れていた。
「いつの間にか、すごく立派になったよね。私よりも前を向けていて、クリムはすごいよ」
彼女はその場に立ち尽くしたまま、僕たちに微笑みを向けている。そうかもしれない、と思いたくても思いきれない自分がいる。
「僕はいつだって後ろばかり向く奴だよ。今だってそうだ」
「それでも『可能性はゼロじゃない』って言えるのは、クリムが強いからだよ」
「そんな、ことは」
「他のみんなも、ユキアがこの世界を救ったことは知ってる。あの子が目覚めるまで、この世界がもっとよりよいものになるようにって頑張ろうとしてる。私もそう思ってるから」
言葉を重ねようとしたが、喉の奥が震えて声にならなかった。月光に照らされるアリアの顔は、笑っているようにも泣いているようにも見えて、何も言えなくなる。
「ゆっくりでいいと思うよ。私は私で、気持ちを受け止めるのに時間がかかっちゃってるからさ。ただ、この世界がいつまでも平和であってほしいと祈ることしかできないから……」
「平和でいるに決まってる。そうじゃないと意味がない」
「確かに。それもそうだね」
力ない笑顔を浮かべ、「あまり無理しちゃダメだよ」と言い残してから診療所の方へ戻っていく。
その背を見て気づいた。彼女は僕じゃない別の誰かを見ている。それが誰なのかも、僕はわかってしまっている。
なんだか、言葉にできない寂しさが生まれていた。いつから、僕はこんな気持ちを抱いていたのだろう。
「フラれましたね」
遠のく背中を呆然と見ていた僕の意識は、横で不敵な微笑みを浮かべる少女の声で引き戻される。
「何の話?」
「あなたはアリアの恋愛対象じゃないですよってだけの話です」
「はぁ? そんなの前からだよ」
「でしょうね。それにしても、うちの断罪神様は純粋なんですね。誰かに騙される前に、わたしが手綱を握った方がいいかもしれません」
「……さっきから話の内容が見えないんだけど」
「ふふ、なんでもありません。いつまでも辛気臭い顔をしているものですから、元気づけてやろうとしたまでです」
いつも涼しい顔をしていたヴィータは、細い指を口元に運んでくすくすと笑っている。背負っていた重荷が随分と軽くなったためなのか、以前よりも明るい笑顔を浮かべているように見えた。
「ありがとう、ヴィータ。君にはずっと助けられてばかりだね」
「それは……わたしのセリフですよ」
赤いクローバーの瞳が僕を見上げていた。出会った頃よりも距離は確かに縮まって、あの時よりもお互いのことはよく知っているつもりで。
「わたしたちを最後まで信じてくれて嬉しかった。ありがとう、クリム」
それでいて、彼女は知らない優しさを湛えながら礼を口にするのだ。
「ああ、そうでした。預かりものが二つありまして。片方はジュリオから、もう片方はアリアからです」
ヴィータは瓦礫から立ち上がって、懐から取り出したあるものを差し出してきた。白い羽根と、黒い羽根が一枚ずつ。
「あなたにはやはり、一人の時間が必要のようですから。それでは」
僕が何か言う前に、ヴィータはさっさと診療所のある方へ行ってしまう。
僕は、手渡された二枚の羽根に目を落とす。
白い羽根は、かつて奪われた力の欠片。結局、百年もの間使うことのなかった固有魔法。ジュリオが使った痕跡を感じられたが、その理由も力の源から流れ込んできた。
黒い羽根は、僕が救えなかった彼の欠片。過去の憎悪は、いつの間にかどこかに消えて。記憶の彼方へ消えていった微笑みが脳裏をよぎる。
「……僕は……また……っ」
唇が痺れて身体が震え始める。もう、いいよね? 全部終わったんだから、少しくらい振り返ったっていいよね?
すべてが終わった今、彼の残滓さえほとんど残っていないけれど。記憶の中の時の神が、仕方なさそうに笑った気がして────何もかもを抑えることが、急にバカらしく感じられた。
「っ、ごめん……救うことができなくて、ごめんなさい……!!」
胸に二枚の羽根を抱いて、こみ上げてくる涙と嗚咽を吐き出した。俯いて溢れ出したものが、壊れた地面に落ちていく。
ああ、自分がどうしても許せない。もっとうまくできたはずだ、うまく戦えたはずだと、自分を責め続けてしまう。
「……あなたは以前、自分が泣かないことを変だと言っていましたけども」
「っ!!」
驚きのあまり肩を震わせてしまう。いなくなっていたはずのヴィータが、なぜか僕の目の前に立っていた。
慌てて涙を拭おうとしたが、ヴィータは僕の顔を両手で包みこんで、自分に向けさせた。目の前が潤んで、彼女の顔がどうなっているのかわからない。
「泣かないのではなく────独りにならないと、泣けなかったのですね」
「っ、う……ヴィータ……僕は」
「つべこべ言わずに泣いてください。あなたには必要なことなんですよ」
彼女は僕を、壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめる。その行為で、その言葉だけで、すべてが許されてしまったような錯覚を覚えてしまう。
「うっ……ああ、ああああああぁぁっ……!!」
言い表せない感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、経験したことのない胸の痛みとともに泣き叫ぶ。
救われた今、救えなかったものばかりに目を向けてしまう僕を、ヴィータは許してくれている。冷徹なふりをしておきながら、なんて優しいのだろう。
その優しさに甘えて、吐き出せなかったものを吐き出して────僕は、ただ自分が楽になりたいがために泣いている。罪を背負った僕が涙を流す理由なんて、そんなものだろう。
「……ごめんなさい、クリム。わたしはいつも、あなたに偉そうなことばかり言ってきましたが……わたしは、あなたが思うような人間ではないですよ」
僕よりも華奢で小さな身体が、少しだけ震えていることに気づく。僕は涙を止められないまま、彼女の顔を覗き込む。
「わたしは……あなたが羨ましかった。あなたみたいに、もっと素直になりたかった……そうすれば、もっとたくさんの生命を守れたかもしれないのに……」
「……ヴィータ?」
「わたしが不器用だったせいで、死なせてしまったひともいました……思い返せば返すほど、悔しくなるばかりで……」
美しく輝きながら垂れる銀髪の間で、煌めく何かが伝ったように見えた。
「ごめんなさい……この期に及んで、自分のことばかりで……わたしはただ、自分が安心したかっただけなんです……お兄様やユキアを、クリムを死なせなくてよかったって……ただ、それだけで……っ!」
燃え盛る赤い瞳を腫らしたヴィータは、いつの間にか強い力で僕を抱きしめていた。本当の子供のような泣き顔をさらす彼女を、抱きしめ返さずにはいられない。
背中に腕を回してみると、彼女は驚くほど華奢で小柄だった。
「わたしたちは元より、お互いを利用し合う仲じゃないですか……こうして縋りついたところで、今更責めたりしませんよね……?」
「何言ってるの……先に泣けって言ったのは、君のくせに……!」
抑えようとした涙が再び溢れ出した。震える身体を抱きしめ合って、耐え続けていた分泣きじゃくる。互いに許しを求め合うように泣く僕たちは、傍から見たら弱く映るのだろう。
このデウスガルテンにも夜明けがもうすぐ訪れるみたいだ。戦いの幕を閉じたのは春の終わり。暖かな季節が過ぎれば、焼けつくように暑い夏が。その次も、その次も────季節は世界が終わるまで巡り続ける。
古代と現代、両方の悲劇の記憶を抱えながら────僕は、彼女が守った未来を生きていく。
────ダイヤの瞳の少女は、白い闇の中で夢を見ていた。
何もかもが終わったことを認識したときには、分かたれていた肉体と魂は一緒に消え果てていた。自らを縛り続けていた、呪いのような憎悪が消えていることに気づく。
少女──エフェメラの魂が召された頃には、彼女はすでに正気を取り戻していて、そして何もかもが終わりを告げたことを知った。
「ああ、そっか。やったんだな、あいつら」
エフェメラの口から力ない笑いがこぼれる。すべてがダメ元であることを自覚していたゆえに、成功した未来を信じきるのにかなりの時間を要したのだ。
「アスタルテ。あーしら、やっとあんたの願いを叶えてやれたよ」
ここに彼女はいない。ただ、エフェメラは孤独ではなかった。
彼女のそばにはすでに、かつて原初神と呼ばれた四人の大人が集っていた。
「お疲れさん。ローゼ、ユーリ。カトラス、ライラン」
白い闇の中に集う者たちは全員、すでに死んでいた。魂も肉体も祝福から解き放たれた彼らは、すべての苦痛を置いて天へ昇ろうとしている。
「お疲れ様、エフェメラちゃん。あなたとカイザーちゃんが頑張ってくれたおかげで、なんとかなったわ」
「あーしはただ、記録を遺しただけだけどな」
「だが、あれも大事な鍵だったことは間違いないだろう? あの少女が力を行使する大事な触媒だったのだから」
「まあ? 観測者の半身が材料ですし? 普通にあの子の身体に力通しちゃってたら、あんなに持たなかったでしょ」
「わしは色々と出遅れてしまったからのう。もう少し早く覚悟を決めておくべきじゃった」
「それはお前があの子たちを早く信じてやれないのが悪い! 反省しろ!」
「ワタシもさっさとあの一般神の身体を捨てておけばよかったかしら? まあ、後の祭りね」
「あの女の身体があったから好き勝手できてたんだろうが。少しはミラージュって奴にも感謝しろや!」
少女と大人たちは最後の言葉を交わしていた。労いの言葉をかけることもあれば、反省を口にし合って、無意味な言い争いも繰り広げて。
すべてが終わった彼らには、そのどれもがかけがえのない時間だった。
「もうそろそろ、かしら」
「そうだな。だがその前に、彼らに礼をしなければ」
「そうね。ずっと頑張ってもらったものね」
白い闇の中で、彼らの他にただ一つ存在するものがある。それは、古びた祭壇だった。
ローゼマリーは頭に乗せていた美しいティアラと、手にしていた金色の杖を祭壇に置いた。
次に、ユリウスが黒い剣と、自らを飾っていた三つの紅玉の宝石を捧げた。
カトラスは白銀の鉄槌と、首元にぶら下げていた首飾りを祭壇に遺す。
最後に、ライランが刃を仕込んだ黒い傘と、水色の不思議な鏡を祭壇に捧げた。
「これで、あいつらが支払った代償の少しは戻るんだな」
「そうじゃ。長く戦ってもらった以上、すべてもらっていくわけにはいかん」
「原罪の記録書は消えちゃったけど……まあいいか。あーしの形見なんか、あいつらには必要ない」
「アンタも寂しいこと言うわね。ちょっとは子供らしく泣いたりすればいいのに」
「涙なんて忘れましたー。あーしは天才児なのでー。ったく、余計なことばっか言ってないで、ほら行こ!」
そう言いながら、彼らは互いの顔を見合わせて、祭壇に背を向けて歩き出す。その先が何に続いているのかは、彼らにしかわからない。
最後に、エフェメラは一人立ち止まって、祭壇を振り返る。祭壇の向こう、白い闇に染められ無力化した黒が目に入る。
黒は恨めしく蠢いているように見えた。だが、今のエフェメラには恨めしい気持ちはない。
「あーしらの勝ちだ、底知れぬ虚無。何が真なる神だ! ざまあみろ!!」
ただ晴れやかに、されど闇を嘲るような笑顔を咲かせた。
彼女は二度と闇を振り返ることなく、遠い白の中へ駆けていくのだった。
*
────白い夢の中で考えていた。ユキアは、本当にすごい女神だ。
一つの夢だけを追い続けて、自分の弱さを自覚していながら前に進んでいた。自分を曲げずに貫き通す勇気を持ち合わせていた。僕は僕で願いを叶えることができたけど、彼女のすべては僕が持ち合わせないものだった。
「そんなこたぁねぇよ。オマエもユキアも似たモン同士だ。他人を助けるために自分を犠牲にしようとする大バカ野郎だ」
気づけば、座り込む僕の目の前にクロウがいた。アリアでもティアルでも、トゥリヤでもカルデルトでもなく。
「どうして君は残っているのさ」
「オマエと最後に話をしたかった。それだけだ」
現実で最後に見た彼はひどく苦しそうだった。でも、今僕の目の前にいるクロウは、とてもリラックスして安らいでいるように見えた。
「オマエは何をそんなに後悔してんだ? 世界は救えたんだろ? 魂の欠片をアイツに預けてさ?」
彼はあぐらをかいて、いたずらっぽく笑いながら問いかけてくる。僕はずっと、そのことについて考えていた。
「僕は自分のすべてを彼女に預けて、行く末を見守ることしかできなかった。それが悔しいんだ」
できることなら、僕も最後まで一緒に戦いたかった。けれど、原初神の魂を必要としていた以上、僕たちは自らの核を捧げるしかなかった。
他の原初神たちがそのことを僕たちに告げてきたときは、心が痛くてたまらなかった。彼女はあんな手段で力を得ることを望まなかっただろうから。
「じゃあさ。なんで今、オレとオマエがこうして話せてると思う?」
クロウの問いに首を傾げる。
……そういえば、どうして未だに僕の意識が残っているんだろう?
「どうやら、原初神たちも色々と悔いていたらしいぜ? だから、アイツらは祝福という呪いから解き放たれたときに、オマエらに『遺産』を遺していったんだ」
「遺産?」
「アイツらの魂は召されちまったけど、タダで召されるのはもったいないとでも思ったんだろうな。オマエらを生かすために必要なものだけは遺してくれたらしい」
クロウは僕が呆然としているのをいいことに、ペラペラと喋り続ける。
そもそも、僕たち現代神はローゼマリーさんが持っていた「神性」のおかげで、生命活動を維持できていた。アイリス様にその力が受け継がれていたからだ。
そして、ユリウスさんは僕たちに魂の欠片を返してくれたらしい。以前とは違って不完全になってしまったらしく、「権能」はかなり弱体化してしまったらしいけども。アーケンシェンが生命を保つため必要不可欠なことに変わりはない。
「じゃあ、僕たちは」
「一般神の奴らもアーケンシェンも、もうしばらく生きてられるってさ。まあ、すでに死んだトゥリヤとティアル、それからオレは対象外だけど」
自嘲しているクロウの顔が、少し痛々しい。
僕は、自分が思っている以上に色々なものを取りこぼしてしまったのかな。
「クロウ。君が持っていた核はアリアが持っているんだよね。君は、どうしてそうなる結末を選んだの?」
できれば聞いてみたいと思っていたことだった。しかし、クロウは「けっ」と乾いた声を吐き捨てて横を向く。どうしても僕に顔を見られたくないと言いたげだ。
「こればっかりは無理。たとえオマエの頼みでも教えてやんねー」
「……そう」
わざわざ僕が知るほどのことでもないのだろう。じゃあ、潔く諦めておくことにしよう。
「それでいい。これからは前だけ見て生きろよ? オマエの正義は、過去で揺るがされるようなものじゃねぇんだから」
彼は立ち上がって、白い光の中へと消えていこうとする。
僕も立って追いかけようとしたが、勝手に足が止まってしまった。あの先は僕が行くべき道じゃないと、本能が告げている。
「────あばよ、クリム。せいぜい余生を楽しめよ」
僕を振り返ったクロウは────まったく別人のように、優しく微笑んでいた。
手を伸ばそうとしたときには、真っ白な天井で視界が埋め尽くされていた。
重い身体を起こすと、そこはキャッセリアの診療所。白いカーテンで囲まれたベッドで眠っていたらしい。
「ああ……本当に、生きてるんだ」
長い夢から覚めたような気がしてならない。戦いも何もかもが夢だったんじゃないかと疑いたくなるくらい、この状況は信じられないもので。
「あなたって、案外ねぼすけですよね」
赤いクローバーを宿した瞳の少女が、なんてことなく声をかけてくるのだ。
ヴィータはわざわざ立った状態で僕に話しかけていた。どうせなら座っていればよかったのに、と思った僕に対してくすりと笑いかけてくる。
「アリアもカルデルトも、ちょっと前に目を覚ましたばかりなんです。二人とも、あなたを待っていたんですよ」
言われて辺りを見回したとき、その意味に遅れて気づく。眠っていた僕のベッドに、二人が突っ伏していた。アリアは僕のそばですやすやと寝息を立てていて、カルデルトは白紙のカルテを握って居眠りをしている。
ああ────自分の中の何かが決壊しそうだ。こんなこと、本当にあり得ていいのかな。
「こんな奇跡、あり得ないよ。罰が当たりそうだ」
「ふふっ。素直によかったと言えばいいくせに」
いつになく優しい声に、抑えることをやめてしまいそうだ。
眠っている二人を起こさないようにベッドを降りて、ヴィータと一緒に診療所を出た。外はすでに夜を迎えていて、彼らが眠っていたのも説明がつきそうだ。
あの戦いが終結した夜は、月明かりがとても眩しい。太陽と見紛えてもおかしいくらい強く輝く満月は、壊れ尽くしたキャッセリアを淡く照らしている。
「そういえば、原罪の記録書はどうしたの?」
「ああ……お兄様に預けたきりでしたが、恐らくなくなってしまったのでしょう。最後の戦いで必要なものでしたからね」
どこか名残惜しそうに答えたヴィータの言葉に、色々と疑問が沸き起こる。僕は自分の中の魂の欠片を手放したときに意識を失ってしまったから、あれから何が起きたのかもよくわかっていないのだ。
「アスタはどこに行ったんだい?」
「お兄様なら、ユキアの家にいますよ。しばらく一人にしてほしいと言われました」
相変わらず淡々とした言葉だった。彼女が僕のそばにいるのは、それが理由なのかもしれない。
一緒に歩いているものの、ヴィータの表情がよく見えない。僕から尋ねなければ、そのまま何も教えてくれなさそうなくらい大人しい。
「ヴィータ。ユキアがどうなったのか聞いてもいい?」
「……もう少し後で話すつもりだったのですがね。言っておきますか」
壊れた瓦礫の上に隣り合って座り、ゆっくりと話を聞くことにする。ヴィータは心苦しそうに俯いてから、前をまっすぐ見た状態で語りだす。
「ユキアは一応生きているのですが、昏睡状態から目覚める気配がないそうです」
「こ……昏睡?」
「お兄様が詳しく話してくださらないので、少し聞いただけの話です。ユキアは壊れた世界を元通りにするべく、あの戦いでひどい無茶をしたそうです。おかげでデウスガルテンに悪魔などが侵攻するリスクは、可能な限り減らせたのですが」
一度木っ端微塵にされたキャッセリアが元通りになったように見える理由は、そういうことだったらしい。
彼女の言葉を追いかけるように、瓦礫だらけの街に静かな風が吹き抜けた。
「昏睡から目覚める可能性は低いと。お兄様はそう言ってました」
言葉にされた途端に、胸の奥に押し込めていた重みがじわりと広がる。
自分の手を見下ろした。震えてはいないのに力が入らなかった。瓦礫の欠片に触れる指先が冷たくて、月明かりが滲んで見える。
「でも、まだ生きているなら可能性はゼロじゃないはずだ」
「ええ……クリムの言う通りなのですが。代償が大きすぎたということもまた、事実なのです」
言葉に相槌を打つかのように、遠くで瓦礫が崩れる音がした。誰もいないはずの街に響くその音は、静けさをいっそう重くする。
夜空を仰げば、異様なほど明るく輝く満月が浮かんでいる。気高い彼女はこの夜空の下で眠っている。あれほどにまで激しい戦いを乗り越えても、心が晴れ切ることはないのか。
「この世界は、どこまでいっても不条理ばかりだ」
「それでも、ユキアはこの世界を守りたかったんじゃないかな」
僕の呟きを追うようにしてかけられた言葉。一体誰が、と思って声の聞こえた先を見ると、アリアが僕たちの前に現れていた。
「あ、アリア!? なんで……」
「ごめんね、クリムが起きたときにはもう起きてた。こっそりついてきちゃった」
てへへ、と力なく笑っている。彼女の金の髪と白銀の翼が、優しく冷たい風で揺れていた。
「いつの間にか、すごく立派になったよね。私よりも前を向けていて、クリムはすごいよ」
彼女はその場に立ち尽くしたまま、僕たちに微笑みを向けている。そうかもしれない、と思いたくても思いきれない自分がいる。
「僕はいつだって後ろばかり向く奴だよ。今だってそうだ」
「それでも『可能性はゼロじゃない』って言えるのは、クリムが強いからだよ」
「そんな、ことは」
「他のみんなも、ユキアがこの世界を救ったことは知ってる。あの子が目覚めるまで、この世界がもっとよりよいものになるようにって頑張ろうとしてる。私もそう思ってるから」
言葉を重ねようとしたが、喉の奥が震えて声にならなかった。月光に照らされるアリアの顔は、笑っているようにも泣いているようにも見えて、何も言えなくなる。
「ゆっくりでいいと思うよ。私は私で、気持ちを受け止めるのに時間がかかっちゃってるからさ。ただ、この世界がいつまでも平和であってほしいと祈ることしかできないから……」
「平和でいるに決まってる。そうじゃないと意味がない」
「確かに。それもそうだね」
力ない笑顔を浮かべ、「あまり無理しちゃダメだよ」と言い残してから診療所の方へ戻っていく。
その背を見て気づいた。彼女は僕じゃない別の誰かを見ている。それが誰なのかも、僕はわかってしまっている。
なんだか、言葉にできない寂しさが生まれていた。いつから、僕はこんな気持ちを抱いていたのだろう。
「フラれましたね」
遠のく背中を呆然と見ていた僕の意識は、横で不敵な微笑みを浮かべる少女の声で引き戻される。
「何の話?」
「あなたはアリアの恋愛対象じゃないですよってだけの話です」
「はぁ? そんなの前からだよ」
「でしょうね。それにしても、うちの断罪神様は純粋なんですね。誰かに騙される前に、わたしが手綱を握った方がいいかもしれません」
「……さっきから話の内容が見えないんだけど」
「ふふ、なんでもありません。いつまでも辛気臭い顔をしているものですから、元気づけてやろうとしたまでです」
いつも涼しい顔をしていたヴィータは、細い指を口元に運んでくすくすと笑っている。背負っていた重荷が随分と軽くなったためなのか、以前よりも明るい笑顔を浮かべているように見えた。
「ありがとう、ヴィータ。君にはずっと助けられてばかりだね」
「それは……わたしのセリフですよ」
赤いクローバーの瞳が僕を見上げていた。出会った頃よりも距離は確かに縮まって、あの時よりもお互いのことはよく知っているつもりで。
「わたしたちを最後まで信じてくれて嬉しかった。ありがとう、クリム」
それでいて、彼女は知らない優しさを湛えながら礼を口にするのだ。
「ああ、そうでした。預かりものが二つありまして。片方はジュリオから、もう片方はアリアからです」
ヴィータは瓦礫から立ち上がって、懐から取り出したあるものを差し出してきた。白い羽根と、黒い羽根が一枚ずつ。
「あなたにはやはり、一人の時間が必要のようですから。それでは」
僕が何か言う前に、ヴィータはさっさと診療所のある方へ行ってしまう。
僕は、手渡された二枚の羽根に目を落とす。
白い羽根は、かつて奪われた力の欠片。結局、百年もの間使うことのなかった固有魔法。ジュリオが使った痕跡を感じられたが、その理由も力の源から流れ込んできた。
黒い羽根は、僕が救えなかった彼の欠片。過去の憎悪は、いつの間にかどこかに消えて。記憶の彼方へ消えていった微笑みが脳裏をよぎる。
「……僕は……また……っ」
唇が痺れて身体が震え始める。もう、いいよね? 全部終わったんだから、少しくらい振り返ったっていいよね?
すべてが終わった今、彼の残滓さえほとんど残っていないけれど。記憶の中の時の神が、仕方なさそうに笑った気がして────何もかもを抑えることが、急にバカらしく感じられた。
「っ、ごめん……救うことができなくて、ごめんなさい……!!」
胸に二枚の羽根を抱いて、こみ上げてくる涙と嗚咽を吐き出した。俯いて溢れ出したものが、壊れた地面に落ちていく。
ああ、自分がどうしても許せない。もっとうまくできたはずだ、うまく戦えたはずだと、自分を責め続けてしまう。
「……あなたは以前、自分が泣かないことを変だと言っていましたけども」
「っ!!」
驚きのあまり肩を震わせてしまう。いなくなっていたはずのヴィータが、なぜか僕の目の前に立っていた。
慌てて涙を拭おうとしたが、ヴィータは僕の顔を両手で包みこんで、自分に向けさせた。目の前が潤んで、彼女の顔がどうなっているのかわからない。
「泣かないのではなく────独りにならないと、泣けなかったのですね」
「っ、う……ヴィータ……僕は」
「つべこべ言わずに泣いてください。あなたには必要なことなんですよ」
彼女は僕を、壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめる。その行為で、その言葉だけで、すべてが許されてしまったような錯覚を覚えてしまう。
「うっ……ああ、ああああああぁぁっ……!!」
言い表せない感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、経験したことのない胸の痛みとともに泣き叫ぶ。
救われた今、救えなかったものばかりに目を向けてしまう僕を、ヴィータは許してくれている。冷徹なふりをしておきながら、なんて優しいのだろう。
その優しさに甘えて、吐き出せなかったものを吐き出して────僕は、ただ自分が楽になりたいがために泣いている。罪を背負った僕が涙を流す理由なんて、そんなものだろう。
「……ごめんなさい、クリム。わたしはいつも、あなたに偉そうなことばかり言ってきましたが……わたしは、あなたが思うような人間ではないですよ」
僕よりも華奢で小さな身体が、少しだけ震えていることに気づく。僕は涙を止められないまま、彼女の顔を覗き込む。
「わたしは……あなたが羨ましかった。あなたみたいに、もっと素直になりたかった……そうすれば、もっとたくさんの生命を守れたかもしれないのに……」
「……ヴィータ?」
「わたしが不器用だったせいで、死なせてしまったひともいました……思い返せば返すほど、悔しくなるばかりで……」
美しく輝きながら垂れる銀髪の間で、煌めく何かが伝ったように見えた。
「ごめんなさい……この期に及んで、自分のことばかりで……わたしはただ、自分が安心したかっただけなんです……お兄様やユキアを、クリムを死なせなくてよかったって……ただ、それだけで……っ!」
燃え盛る赤い瞳を腫らしたヴィータは、いつの間にか強い力で僕を抱きしめていた。本当の子供のような泣き顔をさらす彼女を、抱きしめ返さずにはいられない。
背中に腕を回してみると、彼女は驚くほど華奢で小柄だった。
「わたしたちは元より、お互いを利用し合う仲じゃないですか……こうして縋りついたところで、今更責めたりしませんよね……?」
「何言ってるの……先に泣けって言ったのは、君のくせに……!」
抑えようとした涙が再び溢れ出した。震える身体を抱きしめ合って、耐え続けていた分泣きじゃくる。互いに許しを求め合うように泣く僕たちは、傍から見たら弱く映るのだろう。
このデウスガルテンにも夜明けがもうすぐ訪れるみたいだ。戦いの幕を閉じたのは春の終わり。暖かな季節が過ぎれば、焼けつくように暑い夏が。その次も、その次も────季節は世界が終わるまで巡り続ける。
古代と現代、両方の悲劇の記憶を抱えながら────僕は、彼女が守った未来を生きていく。
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