55 / 72
第三章 ザハラ王国編
55 止められない想い
しおりを挟む
「誰かを愛するって、どんな気持ちなのかしら……」
そう言いながら、姉さんは弱々しく微笑んだ。
「でも、姉さんはあいつと婚約してるんだよな……」
「……アシークのこと?」
あいつの名を耳にした途端、胸の奥がざわついた。
「あいつのことは、どう思ってるのさ……」
「彼は……」
姉さんは何かを言いかけて、俺の顔を心配そうに覗き込んだ。
「彼の話をするのは、嫌じゃない?」
確かに……あいつの話など、冷静に聞けるのだろうか。
でも――
「姉さんのことをもっと知りたいから……話してほしい」
姉さんはまだ不安そうに俺を見つめていたが、やがて小さく頷くと、静かな声で話し始めた。
「両親が恋しくて、私はいつも泣いてばかりだったの。そんな私を慰めてくれたのは、彼だった」
「あいつが、そんなことを……」
「兄のように慕ってた。彼は、私には優しかったのよ。ただ、不器用なだけ。感情を表すのが苦手で、ぶっきらぼうな態度しか取れなくて……」
彼が軍に入ったのも、私のためだった。
自分が強くなって、私をここから出してやると言って。
軍に入ったアシークは目覚ましい活躍を見せたわ。
でも、ここに来るときはいつも傷だらけで、そんな彼を見るのが辛かった。
私が涙を流すと、彼はこう言うの――俺は平気だから。戦功を上げて王から褒賞をもらうんだ。
でも、彼が願う褒賞とは、私を自由にすることだった。
彼は厳しい前線で勝ち続け、ザハラ全軍を統べる将軍にまで昇り詰めたの。影の力があったとは言え、それは並大抵なことではなかったはずよ。
「じゃあ、どうしてあいつは姉さんと婚約したんだ? 結局、姉さんを自由にする気などなかったんだ」
「いいえ、婚約は王が勝手に決めたこと。ラクロス国との国境を制圧できたなら、褒美に私をくれてやると、そう言ったの」
「ラクロスの……国境を?」
思わず声が震えた。
そこは、俺たちが命懸けで守っていた所だ。
それを……前王は姉さんを餌に、アシークの力を使って蹂躙しようとしたのだ。
「王は、私と彼を一緒にすれば、光と影の力を手に入れられると思ったのね。そのために私たちを攫って手元に置いてきたのだもの」
だが、その思惑には決定的な誤算があった――姉さんには、光の力などなかったのだから。
「あいつは、姉さんの力のことを、ずっと王に黙ってたのか?」
「ええ、私たちが光と影であると思わせておけば、少なくとも引き離されることはないと考えたのね。だから、婚約の件も黙って受け入れたんだわ」
「王は、本気だったのかな」
「どうかしら……王は、彼に私との婚約を命じるとすぐに私の顔を見に来たわ。ずっと放っておいたくせに、急に興味が湧いたようだった」
そして、王は美しく成長した姉さんを見た。
「姉さんを手放すのが、惜しくなったんだな」
「さあ……でもその時、神殿で男神と話しているところを、王に聞かれてしまったの」
姉さんが話をしていたのは、女神ではなく男神だった。
つまり、姉さんの力は光ではなく、影だったということ。
真実を知って、王はさぞ驚いたことだろう。己の計画が目の前で崩れてしまったのだから。
(だが、待て……少なくとも影の力は手元にある。自分の意のままに戦い続けるアシークという存在が。それならば、目の前にいる美しい女をどうしようとも、何も問題はない)
そう考えた王の瞳に仄暗い光が宿ったとしてもおかしくない。
「その夜、王がここに来たの……」
姉さんの声が震えだし、指先が白くなるほど拳を握りしめる。前王に襲われた時の恐怖が、まだ生々しく記憶にこびりついているのだ。
俺は言葉をかけることもできず、その拳をそっと解いてやることしかできなかった。
「目が覚めたら、王の顔が目の前にあって……」
姉さんに覆い被さる王の姿が浮かんだ。
その時、王は既に狂った考えに取り憑かれていたに違いない。
(こんな小娘に欺かれていたとは、腹立たしい! だが、もはや光の力など必要ない。既に多くの国を屈服させ、金貨も奴隷も溢れるほど手に入れた。この私が皇帝として君臨する日も遠くない――神々ですら私の前に跪くのだ!)
だが、王は気づいていなかった。その富が、幾多の屍の上に築かれたものだということに。
それは、果たして神の意思だったのか?
我欲、慢心、虚偽――そして、背神。
闇が王の罪を嗅ぎつけ、蠢き出した。
――お前の、罪はなんだ……
そして、アシークが召喚されたのだ。
「彼は、私から王を引き剥がして……」
王は床に這いつくばり、顔を憎悪に歪めながらアシークへ叫んだ。
(お前のような獣が、レイラを娶ることができると本気で信じていたのか!お前は、ザハラが帝国となるための道具にすぎない……っ!)
その刹那、王の首が吹き飛んだ。
「……王の首が床の上を転がっていった。その首を見下ろす彼の瞳が真っ赤に燃えてた……恐ろしくて、彼の手を振り払ってしまったの……私は彼が闇に染まるのを、ただ見ているしかなかった……」
「いや、姉さんは何も悪くない……」
きっと、奴の心はもう壊れかけていたんだ。
俺もそうだった……戦いに明け暮れるうちに、少しずつ心が蝕まれてゆく。
町を焼き尽くす炎、吹き荒ぶ熱風。立ち込める煙の中から断末魔の悲鳴が聞こえる――やがて、そんな光景にも慣れて、平気で屍を踏みつけるようになるんだ。
自分は獣か、まだ人なのか……そんな恐れも、少しずつ薄れてゆく。
殺戮を楽しんでいたなら、平気だっただろう。
己の信念のために戦っていたら、耐えられただろう。
でも、そうじゃなかったら?
王の私欲のために戦わされ、良心を押し殺して戦っていたとしたら?
きっと、奴の心は壊れる寸前だったに違いない。
この辛さを唯一わかってくれるはずの彼女さえも、自分を見て怯えているのだ。
嫌でも気づかされる――己の手は、既に幾千もの人の血に染まっているのだと。
その瞬間、あいつは人の心を手放した。
欺かれ、裏切られ、信じていたものにも拒まれ、独りで闇の底へ堕ちていったんだ。
「いいえ……私が彼を闇の底へ突き落としてしまったのよ」
ああ、俺はその闇の底で蹲るあいつを見つけたんだ。
奴は両腕で頭を抱え、ただ震えていた――もう何も望まないから、傷つけないでくれと。
その苦しみが、俺の悲しみに重なった。
もう二度とルシアンには会えないと諦めて、胸が張り裂けそうで。
その痛みに堪えられなくて、俺はあいつに縋ったんだ。
もし、あの時、差し出された手を掴まなければ――
俺も、心を失くしていたかもな。
「それでも、ロイド……あなたはルシアンさんを想うことを止めなかった」
姉さんの柔らかな声が、俺を現実に引き戻した。
「だから、アシークはあなたに惹かれたの。あなたがルシアンさんを想い続けることが、彼には救いだったのよ」
「それは、どういう意味……?」
「いつか、自分もそんなふうに想われたいと願ってしまった。叶わないとわかっていても、求めずにはいられなかった。その想いで、あなたを壊してしまいそうになるほどに」
「でも、そんな願い……叶わないだろ」
俺は、いつまでもルシアンだけを想い続けるから。
「でも……そんなふうにしか、あなたを愛せなかったのよ」
「愛してた……俺を?」
あれは、ただ暴力的で、欲望を吐き出すだけの行為だった。そして、その行為は、俺の魔力を手に入れるための手段に過ぎなかったはず。
それでも――
俺の名を呼ぶ声は、普段より柔らかくなかったか。
口づけの許しを乞うのは、なぜだ。
肌を重ねながら、俺の瞳を見つめていたのは……
歪んだ関係の中にも、伝えようとした想いはあったのだ。
ただ、俺が見ようとしなかっただけ。
「あんなのが……愛だったって言うのかよ……」
愕然とした。
身体にも心にも刻まれた痛みを、愛と呼ぶなんて。
俺はあいつを許すべきなのか?
憎んではいけないのか?
いつまで俺を苦しめ続けるんだ……!
「……やっぱり辛い思いをさせてしまったわね」
俺の冷たくなった頬に、姉さんの指先が触れた。
その温もりが、俺の張り詰めた心を静かに解いてくれるような気がした。
「アシークのことを思うと、誰かを愛するのが怖くなるわ」
「そんなことないさ……」
俺は目を閉じて、誰よりも好きな男の姿を思い浮かべる。
「誰かを好きになると、その瞬間から世界がまるで違って見えるんだ……」
気づけば、彼のことばかり考えてる。
顔を見てるだけで良かったはずなのに、もっと触れたいと願ってしまう。
そんなことを思って赤くなってると、そっと手を握られて。
もっと、彼のことが好きになるんだ。
彼の笑顔を守りたい、ずっと幸せでいてほしいと心から願う時――
俺は、誰よりも幸せなんだ。
「とても素敵……それは、ルシアンさんのことね?」
「まあ……そうかな」
「ルシアンさんを想うだけで幸せなのね……そう言えば、トビアスも同じようなことを言ってたわ」
「トビアスが?」
トビアスと言えば、姉さんとの仲が噂になってたな。
ザハラ国の王女が、敵国の騎士に恋をしたって。その騎士には既に想い人がいて、王女の想いには応えられないが、病弱で余命少ない王女の元に留まったのだと。
「……姉さんはトビアスにひとめ惚れしたって噂だったけど、本当のところはどうなんだい?」
「えっ、いきなり何を言い出すのよ。トビアスにひとめ惚れ?……まさか、そんなことあるわけないじゃない」
やっぱり。噂なんて当てにならないよな。
「ちなみに病弱な王女ってのは、姉さんのこと?」
「いやらしい貴族たちと顔をあわせたくなかったから、病弱ってことにしてたの。見ての通り、とっても元気よ」
「それは……よかった」
風邪ひとつひかないと言われて、ひとまずホッとする。
すると、姉さんがぽつりと呟いた。
「トビアスを側に置いたのは……あのまま放っておいたら、無茶をしそうだったからよ」
ああ、そうだ。トビアスは独りでアシークを襲おうとしたんだった。
戦を終わらせるため、奴と刺し違える覚悟だったなんて……ほんと無茶だ。
「ああ、姉さんが止めてくれなかったら、どうなっていたか……ありがとう」
「まったく、独りでアシークと戦おうだなんて。どうしてそんな無茶をするのかって聞いたのよ……そうしたら、愛する人のためだって言うのよ」
私には、さっぱり訳がわからなかったわ。
愛する人がいるのに、どうして自分の命を捨てるような真似をするの?
どうして、彼女の元に戻ってあげないの?
そう尋ねると、彼はこう言ったわ。
叶わない愛なのだと。
それでも、愛することを止められないのだと――
「そう言いながら、彼はとても優しく微笑んでいたわ」
「トビアスの奴……」
どうして、そんな愛し方しかできないんだよ。
あの傷だらけの剣に刻まれた言葉を、エリスがどんな思いで受け取ったか……少しは考えろよ。
貴女だけを、永遠に――それがお前の想いなんだろう?
それなら、直接その想いをエリスに伝えてやれよ。
「まあ、トビアスったら……」
俺がその話をすると、姉さんは涙声になった。
俺だって、トビアスとエリスの気持ちを考えると涙が出そうだ。
「俺は、絶対にトビアスを連れて帰る。そして、エリスに思い切り怒鳴られたらいいんだ」
「彼女が怒鳴るの?」
「ああ、そうさ。彼女だって彼を愛してるんだ。それなのに、何も告げずにいきなり形見を残すような真似をしやがって。それが、どれだけ彼女を苦しめたか」
「でも、彼は彼女のことを思って、命まで投げ出そうとしたのよ」
「それが、ダメなんだ! 俺だって、ルシアンがそんな真似をしたら怒鳴りつけるよ!」
独りで勝手に決めるな、俺はそんなことを望んでないって。
一緒に悩んで、一緒に乗り越えたいんだ……そうやって、もっとルシアンのことを知って、もっと好きになりたい。
「ふふっ……ロイドは、ちゃんと愛する人を見つけたのね」
姉さんが、俺を見て微笑んだ。
「奪いたいとか、命を捨ててもいいとか……誰かを愛するって、苦しいことなのかもしれない。でも、ロイドは、そんな苦しみも呑みこんで、共に生きてほしいと言うのね」
そんなふうに言われると、すこし照れてしまう。
姉さんがまた笑って、ようやく穏やかな空気が流れ出した、その時――
バンッ!!
壁に叩きつけられるように扉が大きく開け放たれ、燭台の灯りが揺らめいた。
「レイラ殿下っ!」
焦ったように部屋の中に駆け込んできたのは、トビアスだった。
よほど急いで来たらしく、額にはうっすらと汗が滲む。
「大変です、王命が……」
そのただならぬ様子に、なぜか胸騒ぎがした。
「サリームが、何を?」
姉さんが緊張した面持ちで尋ねると、トビアスは手にした紙に視線を落とし、そこに書かれている王命を読み上げる。
アシーク将軍並びにレイラ王女の婚姻の日取りをここに決定する。
ついては式典並びに祝宴を催すため、至急その準備に取りかかるように。
何人も逆らうことのなきよう――これは、王命である。
そう言いながら、姉さんは弱々しく微笑んだ。
「でも、姉さんはあいつと婚約してるんだよな……」
「……アシークのこと?」
あいつの名を耳にした途端、胸の奥がざわついた。
「あいつのことは、どう思ってるのさ……」
「彼は……」
姉さんは何かを言いかけて、俺の顔を心配そうに覗き込んだ。
「彼の話をするのは、嫌じゃない?」
確かに……あいつの話など、冷静に聞けるのだろうか。
でも――
「姉さんのことをもっと知りたいから……話してほしい」
姉さんはまだ不安そうに俺を見つめていたが、やがて小さく頷くと、静かな声で話し始めた。
「両親が恋しくて、私はいつも泣いてばかりだったの。そんな私を慰めてくれたのは、彼だった」
「あいつが、そんなことを……」
「兄のように慕ってた。彼は、私には優しかったのよ。ただ、不器用なだけ。感情を表すのが苦手で、ぶっきらぼうな態度しか取れなくて……」
彼が軍に入ったのも、私のためだった。
自分が強くなって、私をここから出してやると言って。
軍に入ったアシークは目覚ましい活躍を見せたわ。
でも、ここに来るときはいつも傷だらけで、そんな彼を見るのが辛かった。
私が涙を流すと、彼はこう言うの――俺は平気だから。戦功を上げて王から褒賞をもらうんだ。
でも、彼が願う褒賞とは、私を自由にすることだった。
彼は厳しい前線で勝ち続け、ザハラ全軍を統べる将軍にまで昇り詰めたの。影の力があったとは言え、それは並大抵なことではなかったはずよ。
「じゃあ、どうしてあいつは姉さんと婚約したんだ? 結局、姉さんを自由にする気などなかったんだ」
「いいえ、婚約は王が勝手に決めたこと。ラクロス国との国境を制圧できたなら、褒美に私をくれてやると、そう言ったの」
「ラクロスの……国境を?」
思わず声が震えた。
そこは、俺たちが命懸けで守っていた所だ。
それを……前王は姉さんを餌に、アシークの力を使って蹂躙しようとしたのだ。
「王は、私と彼を一緒にすれば、光と影の力を手に入れられると思ったのね。そのために私たちを攫って手元に置いてきたのだもの」
だが、その思惑には決定的な誤算があった――姉さんには、光の力などなかったのだから。
「あいつは、姉さんの力のことを、ずっと王に黙ってたのか?」
「ええ、私たちが光と影であると思わせておけば、少なくとも引き離されることはないと考えたのね。だから、婚約の件も黙って受け入れたんだわ」
「王は、本気だったのかな」
「どうかしら……王は、彼に私との婚約を命じるとすぐに私の顔を見に来たわ。ずっと放っておいたくせに、急に興味が湧いたようだった」
そして、王は美しく成長した姉さんを見た。
「姉さんを手放すのが、惜しくなったんだな」
「さあ……でもその時、神殿で男神と話しているところを、王に聞かれてしまったの」
姉さんが話をしていたのは、女神ではなく男神だった。
つまり、姉さんの力は光ではなく、影だったということ。
真実を知って、王はさぞ驚いたことだろう。己の計画が目の前で崩れてしまったのだから。
(だが、待て……少なくとも影の力は手元にある。自分の意のままに戦い続けるアシークという存在が。それならば、目の前にいる美しい女をどうしようとも、何も問題はない)
そう考えた王の瞳に仄暗い光が宿ったとしてもおかしくない。
「その夜、王がここに来たの……」
姉さんの声が震えだし、指先が白くなるほど拳を握りしめる。前王に襲われた時の恐怖が、まだ生々しく記憶にこびりついているのだ。
俺は言葉をかけることもできず、その拳をそっと解いてやることしかできなかった。
「目が覚めたら、王の顔が目の前にあって……」
姉さんに覆い被さる王の姿が浮かんだ。
その時、王は既に狂った考えに取り憑かれていたに違いない。
(こんな小娘に欺かれていたとは、腹立たしい! だが、もはや光の力など必要ない。既に多くの国を屈服させ、金貨も奴隷も溢れるほど手に入れた。この私が皇帝として君臨する日も遠くない――神々ですら私の前に跪くのだ!)
だが、王は気づいていなかった。その富が、幾多の屍の上に築かれたものだということに。
それは、果たして神の意思だったのか?
我欲、慢心、虚偽――そして、背神。
闇が王の罪を嗅ぎつけ、蠢き出した。
――お前の、罪はなんだ……
そして、アシークが召喚されたのだ。
「彼は、私から王を引き剥がして……」
王は床に這いつくばり、顔を憎悪に歪めながらアシークへ叫んだ。
(お前のような獣が、レイラを娶ることができると本気で信じていたのか!お前は、ザハラが帝国となるための道具にすぎない……っ!)
その刹那、王の首が吹き飛んだ。
「……王の首が床の上を転がっていった。その首を見下ろす彼の瞳が真っ赤に燃えてた……恐ろしくて、彼の手を振り払ってしまったの……私は彼が闇に染まるのを、ただ見ているしかなかった……」
「いや、姉さんは何も悪くない……」
きっと、奴の心はもう壊れかけていたんだ。
俺もそうだった……戦いに明け暮れるうちに、少しずつ心が蝕まれてゆく。
町を焼き尽くす炎、吹き荒ぶ熱風。立ち込める煙の中から断末魔の悲鳴が聞こえる――やがて、そんな光景にも慣れて、平気で屍を踏みつけるようになるんだ。
自分は獣か、まだ人なのか……そんな恐れも、少しずつ薄れてゆく。
殺戮を楽しんでいたなら、平気だっただろう。
己の信念のために戦っていたら、耐えられただろう。
でも、そうじゃなかったら?
王の私欲のために戦わされ、良心を押し殺して戦っていたとしたら?
きっと、奴の心は壊れる寸前だったに違いない。
この辛さを唯一わかってくれるはずの彼女さえも、自分を見て怯えているのだ。
嫌でも気づかされる――己の手は、既に幾千もの人の血に染まっているのだと。
その瞬間、あいつは人の心を手放した。
欺かれ、裏切られ、信じていたものにも拒まれ、独りで闇の底へ堕ちていったんだ。
「いいえ……私が彼を闇の底へ突き落としてしまったのよ」
ああ、俺はその闇の底で蹲るあいつを見つけたんだ。
奴は両腕で頭を抱え、ただ震えていた――もう何も望まないから、傷つけないでくれと。
その苦しみが、俺の悲しみに重なった。
もう二度とルシアンには会えないと諦めて、胸が張り裂けそうで。
その痛みに堪えられなくて、俺はあいつに縋ったんだ。
もし、あの時、差し出された手を掴まなければ――
俺も、心を失くしていたかもな。
「それでも、ロイド……あなたはルシアンさんを想うことを止めなかった」
姉さんの柔らかな声が、俺を現実に引き戻した。
「だから、アシークはあなたに惹かれたの。あなたがルシアンさんを想い続けることが、彼には救いだったのよ」
「それは、どういう意味……?」
「いつか、自分もそんなふうに想われたいと願ってしまった。叶わないとわかっていても、求めずにはいられなかった。その想いで、あなたを壊してしまいそうになるほどに」
「でも、そんな願い……叶わないだろ」
俺は、いつまでもルシアンだけを想い続けるから。
「でも……そんなふうにしか、あなたを愛せなかったのよ」
「愛してた……俺を?」
あれは、ただ暴力的で、欲望を吐き出すだけの行為だった。そして、その行為は、俺の魔力を手に入れるための手段に過ぎなかったはず。
それでも――
俺の名を呼ぶ声は、普段より柔らかくなかったか。
口づけの許しを乞うのは、なぜだ。
肌を重ねながら、俺の瞳を見つめていたのは……
歪んだ関係の中にも、伝えようとした想いはあったのだ。
ただ、俺が見ようとしなかっただけ。
「あんなのが……愛だったって言うのかよ……」
愕然とした。
身体にも心にも刻まれた痛みを、愛と呼ぶなんて。
俺はあいつを許すべきなのか?
憎んではいけないのか?
いつまで俺を苦しめ続けるんだ……!
「……やっぱり辛い思いをさせてしまったわね」
俺の冷たくなった頬に、姉さんの指先が触れた。
その温もりが、俺の張り詰めた心を静かに解いてくれるような気がした。
「アシークのことを思うと、誰かを愛するのが怖くなるわ」
「そんなことないさ……」
俺は目を閉じて、誰よりも好きな男の姿を思い浮かべる。
「誰かを好きになると、その瞬間から世界がまるで違って見えるんだ……」
気づけば、彼のことばかり考えてる。
顔を見てるだけで良かったはずなのに、もっと触れたいと願ってしまう。
そんなことを思って赤くなってると、そっと手を握られて。
もっと、彼のことが好きになるんだ。
彼の笑顔を守りたい、ずっと幸せでいてほしいと心から願う時――
俺は、誰よりも幸せなんだ。
「とても素敵……それは、ルシアンさんのことね?」
「まあ……そうかな」
「ルシアンさんを想うだけで幸せなのね……そう言えば、トビアスも同じようなことを言ってたわ」
「トビアスが?」
トビアスと言えば、姉さんとの仲が噂になってたな。
ザハラ国の王女が、敵国の騎士に恋をしたって。その騎士には既に想い人がいて、王女の想いには応えられないが、病弱で余命少ない王女の元に留まったのだと。
「……姉さんはトビアスにひとめ惚れしたって噂だったけど、本当のところはどうなんだい?」
「えっ、いきなり何を言い出すのよ。トビアスにひとめ惚れ?……まさか、そんなことあるわけないじゃない」
やっぱり。噂なんて当てにならないよな。
「ちなみに病弱な王女ってのは、姉さんのこと?」
「いやらしい貴族たちと顔をあわせたくなかったから、病弱ってことにしてたの。見ての通り、とっても元気よ」
「それは……よかった」
風邪ひとつひかないと言われて、ひとまずホッとする。
すると、姉さんがぽつりと呟いた。
「トビアスを側に置いたのは……あのまま放っておいたら、無茶をしそうだったからよ」
ああ、そうだ。トビアスは独りでアシークを襲おうとしたんだった。
戦を終わらせるため、奴と刺し違える覚悟だったなんて……ほんと無茶だ。
「ああ、姉さんが止めてくれなかったら、どうなっていたか……ありがとう」
「まったく、独りでアシークと戦おうだなんて。どうしてそんな無茶をするのかって聞いたのよ……そうしたら、愛する人のためだって言うのよ」
私には、さっぱり訳がわからなかったわ。
愛する人がいるのに、どうして自分の命を捨てるような真似をするの?
どうして、彼女の元に戻ってあげないの?
そう尋ねると、彼はこう言ったわ。
叶わない愛なのだと。
それでも、愛することを止められないのだと――
「そう言いながら、彼はとても優しく微笑んでいたわ」
「トビアスの奴……」
どうして、そんな愛し方しかできないんだよ。
あの傷だらけの剣に刻まれた言葉を、エリスがどんな思いで受け取ったか……少しは考えろよ。
貴女だけを、永遠に――それがお前の想いなんだろう?
それなら、直接その想いをエリスに伝えてやれよ。
「まあ、トビアスったら……」
俺がその話をすると、姉さんは涙声になった。
俺だって、トビアスとエリスの気持ちを考えると涙が出そうだ。
「俺は、絶対にトビアスを連れて帰る。そして、エリスに思い切り怒鳴られたらいいんだ」
「彼女が怒鳴るの?」
「ああ、そうさ。彼女だって彼を愛してるんだ。それなのに、何も告げずにいきなり形見を残すような真似をしやがって。それが、どれだけ彼女を苦しめたか」
「でも、彼は彼女のことを思って、命まで投げ出そうとしたのよ」
「それが、ダメなんだ! 俺だって、ルシアンがそんな真似をしたら怒鳴りつけるよ!」
独りで勝手に決めるな、俺はそんなことを望んでないって。
一緒に悩んで、一緒に乗り越えたいんだ……そうやって、もっとルシアンのことを知って、もっと好きになりたい。
「ふふっ……ロイドは、ちゃんと愛する人を見つけたのね」
姉さんが、俺を見て微笑んだ。
「奪いたいとか、命を捨ててもいいとか……誰かを愛するって、苦しいことなのかもしれない。でも、ロイドは、そんな苦しみも呑みこんで、共に生きてほしいと言うのね」
そんなふうに言われると、すこし照れてしまう。
姉さんがまた笑って、ようやく穏やかな空気が流れ出した、その時――
バンッ!!
壁に叩きつけられるように扉が大きく開け放たれ、燭台の灯りが揺らめいた。
「レイラ殿下っ!」
焦ったように部屋の中に駆け込んできたのは、トビアスだった。
よほど急いで来たらしく、額にはうっすらと汗が滲む。
「大変です、王命が……」
そのただならぬ様子に、なぜか胸騒ぎがした。
「サリームが、何を?」
姉さんが緊張した面持ちで尋ねると、トビアスは手にした紙に視線を落とし、そこに書かれている王命を読み上げる。
アシーク将軍並びにレイラ王女の婚姻の日取りをここに決定する。
ついては式典並びに祝宴を催すため、至急その準備に取りかかるように。
何人も逆らうことのなきよう――これは、王命である。
1
あなたにおすすめの小説
【完結】王宮勤めの騎士でしたが、オメガになったので退職させていただきます
大河
BL
第三王子直属の近衛騎士団に所属していたセリル・グランツは、とある戦いで毒を受け、その影響で第二性がベータからオメガに変質してしまった。
オメガは騎士団に所属してはならないという法に基づき、騎士団を辞めることを決意するセリル。上司である第三王子・レオンハルトにそのことを告げて騎士団を去るが、特に引き留められるようなことはなかった。
地方貴族である実家に戻ったセリルは、オメガになったことで見合い話を受けざるを得ない立場に。見合いに全く乗り気でないセリルの元に、意外な人物から婚約の申し入れが届く。それはかつての上司、レオンハルトからの婚約の申し入れだった──
【完結】おじさんダンジョン配信者ですが、S級探索者の騎士を助けたら妙に懐かれてしまいました
大河
BL
世界を変えた「ダンジョン」出現から30年──
かつて一線で活躍した元探索者・レイジ(42)は、今や東京の片隅で地味な初心者向け配信を続ける"おじさん配信者"。安物機材、スポンサーゼロ、視聴者数も控えめ。華やかな人気配信者とは対照的だが、その真摯な解説は密かに「信頼できる初心者向け動画」として評価されていた。
そんな平穏な日常が一変する。ダンジョン中層に災厄級モンスターが突如出現、人気配信パーティが全滅の危機に!迷わず単身で救助に向かうレイジ。絶体絶命のピンチを救ったのは、国家直属のS級騎士・ソウマだった。
冷静沈着、美形かつ最強。誰もが憧れる騎士の青年は、なぜかレイジを見た瞬間に顔を赤らめて……?
若き美貌の騎士×地味なおじさん配信者のバディが織りなす、年の差、立場の差、すべてを越えて始まる予想外の恋の物語。
完結|好きから一番遠いはずだった
七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。
しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。
なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。
…はずだった。
運命よりも先に、愛してしまった
AzureHaru
BL
幼馴染で番同士の受けと攻め。2人は運命の番ではなかったが、相思相愛だった。そんな時、攻めに運命の番が現れる。それを知った受けは身籠もっていたが、運命の番同士の子供の方が優秀な者が生まれることも知っており、身を引く事を決め姿を消す。
しかし、攻めと運命の番の相手にはそれぞれに別の愛する人がいる事をしり、
2人は運命の番としてではなく、友人として付き合っていけたらと話し合ってわかれた。
その後、攻めは受けが勘違いしていなくなってしまったことを両親達から聞かされるのであった。
身代わりにされた少年は、冷徹騎士に溺愛される
秋津むぎ
BL
第13回BL大賞奨励賞頂きました!
最終17位でした!応援ありがとうございます!
あらすじ
魔力がなく、義母達に疎まれながらも必死に生きる少年アシェ。
ある日、義兄が騎士団長ヴァルドの徽章を盗んだ罪をアシェに押し付け、身代わりにされてしまう。
死を覚悟した彼の姿を見て、冷徹な騎士ヴァルドは――?
傷ついた少年と騎士の、温かい溺愛物語。
夫には好きな相手がいるようです。愛されない僕は針と糸で未来を縫い直します。
伊織
BL
裕福な呉服屋の三男・桐生千尋(きりゅう ちひろ)は、行商人の家の次男・相馬誠一(そうま せいいち)と結婚した。
子どもの頃に憧れていた相手との結婚だったけれど、誠一はほとんど笑わず、冷たい態度ばかり。
ある日、千尋は誠一宛てに届いた女性からの恋文を見つけてしまう。
――自分はただ、家からの援助目当てで選ばれただけなのか?
失望と涙の中で、千尋は気づく。
「誠一に頼らず、自分の力で生きてみたい」
針と糸を手に、幼い頃から得意だった裁縫を活かして、少しずつ自分の居場所を築き始める。
やがて町の人々に必要とされ、笑顔を取り戻していく千尋。
そんな千尋を見て、誠一の心もまた揺れ始めて――。
涙から始まる、すれ違い夫婦の再生と恋の物語。
※本作は明治時代初期~中期をイメージしていますが、BL作品としての物語性を重視し、史実とは異なる設定や表現があります。
※誤字脱字などお気づきの点があるかもしれませんが、温かい目で読んでいただければ嬉しいです。
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
自己判断で消しますので、悪しからず。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる