後宮の星詠み妃 平安の呪われた姫と宿命の東宮

鈴木しぐれ

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   第一章 朔の姫と冬の宮


 星の降る夜だった。
 あまたの流星が、天から地上に向けて落ちている。濃い藍色の空を覆いつくすほどの流星は、数日前まで降り続いていた秋雨のよう。

「見事な流星雨ね」

 呟いた言葉に答える者はいない。この平安の世で、星が落ちるのは不吉なこと。地上の人々と対になるのが、天に浮かぶ星々である。星が落ちることは、地上の人の命が一つ失われることを暗示すると言われている。
 そんな夜に殿舎でんしゃの外へ出て、空を見上げている者は、彼女――藤原ふじわらの宵子しょうこ以外にはいなかった。周りから呪われた姫だとか言われる宵子にとっては、流星など今さら恐れるものではない。
 宵子の身にまとっているあお紅葉もみじかさねは、外側から青、淡青うすあお、黄、淡朽葉うすくちばくれない蘇芳すおうと並ぶ、もうすぐ色付く紅葉を表したもの。神無月かんなづき半ばの今は、小袿こうちぎを一番上に羽織れば、寒さは気にならない。
 ふいに、板張りの床がきしむ音がした。宵子のいる場所まで続く渡殿わたどのを誰かが歩いてくるようだ。音が聞こえた辺りは暗く、ここからではよく見えない。慌てて檜扇ひおうぎで顔を隠して、平静を装って尋ねる。

「どなたですか」

 足音が近付き、星明かりが作り出した影から人がゆっくりと出てきて、その姿が見えた。宵子は思わず息をのんだ。その人が身に纏っているのは黄丹おうに色、東宮とうぐうのみに許された禁色きんじきだったから。

「やあ、こんばんは。君の夫になる者だよ」

 彼は、にこやかに手を上げながらそう言った。宵子は、東宮妃とうぐうひになるために宮中にやってきた。目の前にいる人がその相手、彰胤あきつぐ親王らしい。
 彰胤はお互いの顔が見える距離まで来て、足を止めた。背が高く、宵子は檜扇越しにわずかに見上げる形になる。流星に照らされた顔には華やかな笑みが浮かんでいて、夜なのにその場が明るくなったと錯覚するほどだ。ふわりと少し癖のある髪も、大きな黒橡くろつるばみ色の瞳も、人を惹きつける。
 まるで太陽のような人だと思った。同時に、檜扇を持つ手が強張る。


 ――――わたしは、この太陽のような方を、殺さなくてはならないのだわ。


   ***


 宵子は呪われている。
 宵子が生まれた時、空には深紅の月が浮かんでいた。月蝕げっしょくである。羅睺星らごうせいと呼ばれる悪星によって引き起こされる月蝕は、けがれや凶兆の証。何もせず、過ぎ去るのを待つべきとされている。宵子はそんな月蝕の最中に生まれた。

「月蝕に生まれた子など、呪われておる」

 父はそう言って、自分の腕に赤子を抱くことはなかったらしい。そして、出産の数日後に母が亡くなった。元々、出産は死と隣り合わせの危険なものだが、母が亡くなったことも、すべては呪われた宵子のせいだと言われた。宵子は、生まれてすぐに母と死に別れ、父に見放された。


 母が亡くなり身寄りがなかったが、生まれてすぐの幼子を放置するのは外聞が悪いと、父は別の妻――正妻の家に宵子を連れていった。しかし、呪われた子なんて恐ろしい、と正妻によって離れに隔離されてしまう。あわれに思った数人の侍女が世話をしてくれていた。けれど、彼女たちすらいなくなる事件が起こる。
 三歳になった宵子は、さすがに袴着はかまぎの儀式をしたほうがいいと考えた侍女によって、母屋に連れていかれた。子どもの死亡率が高い平安の世で、子どもの成長を願う儀式はたくさんある。生まれてすぐに行う産養うぶやしない、子どもが生まれて五十日目、百日目には、五十日いかいわい百日ももかいわい
 そして、三歳から五歳の頃に初めて袴を着ける袴着。これは父親が自分の子を世間にお披露目する意味合いもあった。

「どこいくの」
中納言ちゅうなごん様――御父上のところでございますよ」

 この頃には少しずつ話せるようになっていた。そして、母屋には侍女や従者などたくさんの人がいる。それが、良くなかった。

「あのひと、ちかい。こっち、それとね、こっちのひとも。えっとね、あのひとも」

 幼い宵子は、母屋にいた人たちを次々と指さした。指された人たちは、首を傾げたり、特に気にしたりもせず去っていた。
 その意味は徐々に明らかになる。宵子が指をさした者たちに、大なり小なり災いが起こったのだ。一人として例外なく。

「やはり、呪われた子だ」

 報告を受けた父はそう言って、名のある僧を呼び寄せた。宵子は僧にいろいろと質問をされ、特に目を何度も診察された。

「この姫様には、人の目の中に星がえるようじゃ。その輝く星によって、物事の前兆が分かるとな。まだ幼く、すべてを言葉にすることは難しいようじゃが」
「未来が分かると申すか」
「うむ。ただし、凶兆だけじゃな」

 凶兆だけ、という僧の言葉を聞き、父は化けものでも見るような、嫌悪とさげすみが混ざった表情を宵子へ向ける。

「ちちうえ……」
「寄るな、呪いめが」

 伸ばした小さな手は、たもとで邪険に払いのけられた。
 その日を境に、宵子のいる離れに近付く者は誰もいなくなる。宵子は、この家で存在しない者とされた。
 宵子には二人の姉がいる。通常、長女を大姫おおひめ、次女をなかひめと呼び、その下の娘はさんひめよんひめと続く。ただ、姉たちは正妻の子で、宵子はめかけの子。正妻と姉たちは母屋で暮らし、宵子は離れで隔離されている。待遇に大きな差があるものの、宵子は三の姫、と呼ばれるはずなのだが、誰が言い出したのか、『さくひめ』と呼ばれるようになった。
 朔――新月のようにいるかも分からぬ存在感のない姫、と。


「姫、できたかのう」

 誰も世話をしなくなった宵子の面倒を見てくれたのは、あの時の僧だった。流れで世話を押しつけられた僧は、月に二度やってくるかどうか。親代わりとは思えなかったけれど、さまざまなことを教えてくれていたから、老師せんせいと呼んでいる。

「うん。せんせいできたよ。これでいい?」
「ふむ。ここの字が間違っておるのう。それ以外はよくできておる」
「よかったー」
「次はこの冊子を読んでみるのじゃ」

 老師は、幼い宵子に多くのことを叩き込んだ。たくさんの冊子で知識を、炊事や洗濯の仕方を、そして空の星を読み解く技術を。老師は宮中に出入りできる宿曜師すくようしらしい。
 宿曜師は、陰陽師おんみょうじと並び立ち、空にある星を観測して国や個人の吉凶を占う技術を持つ者だ。他にも、貴族が日々の行動の指針とするこよみを作ったり、祈祷きとうをしたりと重要な役割を担う。ただし、国政を左右するため空の星を読み解き未来を占うことは、限られた者にしか許されない。それをしている老師はただ者ではない、と思うのだけれど、詳しく聞こうとしてもいつもはぐらかされてしまう。
 ふと、宵子は老師の目の中に、星が輝くのを視た。

「あ、せんせい、とら(東北東)の方角に――」
「待て、『星詠み』は口にしてはならぬと言ったであろう」
「でも……」
「口にすれば、災いを招きかねんのじゃ。何度も言うたであろう。分かっておくれ」

 宵子は俯くように頷いた。だが、あまり納得はしていなかった。老師は災いを招くと言うけれど、宵子にとっては、凶星まがつぼしはすでにそこにあるもの。口にしようがしまいが、近い未来で起こることに変わりないのに、と思っている。
 口にしてはならないと、口酸っぱく言われているが、老師はきちんと目の中にある星の詠み方――星詠みも教えてくれた。凶星の輝く位置が災いの起こる方角を示し、その大きさで日付が分かる。星が大きければ大きいほど、それは近い未来であることを示す。

「星詠みは口にしてはならないのに、老師はどうしてわたしに詠み方を教えてくれたの」

 十歳になった頃だったか、そう聞いてみたことがあった。老師はすぐに答えた。

「そりゃあ、自分の持つ力のことを知らないままのほうが良くないからじゃよ。知ったうえで、口にせぬことが――」
「大丈夫、分かっているわ」
「うむ」


 老師がいない間は、離れに迷い込んでくる動物たちが唯一の友だちだ。ある日、怪我をしたうさぎが離れの傍に倒れていた。

「痛そう……すぐに手当てをするわね」

 慣れない手付きながらも、宵子はうさぎに手当てを施した。数日経つと、うさぎは飛び回れるくらいに回復した。ぴょんと、元気よく離れから外に出て、小さな口で草を食べている。自分はあのうさぎのように自由に外を駆け回ることは叶わない。つい、そんな考えに落ちていく。はっと切り替えて、笑顔でうさぎに手を振った。

「怪我が治って良かったわ。元気でね」

 宵子はうさぎの後ろ姿を見送った。だが、しばらくしてうさぎは離れに戻ってきた。それからも、食事のために外へ出るものの、必ず宵子のいる離れに戻ってくる。人の感情が分かるのか、宵子が落ち込んでいる時は膝に乗って好きなだけ撫でさせてくれる。すっかり懐いたうさぎと、離れでともに過ごすことが癒やしとなっていた。
 うさぎを飼っていると父の耳に入ると、父が大きな足音を立てながら離れにやってきた。顔を見るのは何年振りだろう。もしかして、父は動物が好きなのか。そうなら、こうして話す機会が増えるかもしれない。宵子は淡い期待を持っていたが、それはすぐに打ち砕かれる。

「この家に汚らわしい獣を入れるな! この呪いめ」

 宵子は気が付くと、床に倒れ込んでいた。ひりひりと痛む頬と、憎々しげにこちらを見下ろす父を見て、ようやく怒号とともに頬を叩かれたのだと理解した。そして、父の視線がうさぎへ向いていることに気付く。

「お待ちください。この子は何も悪くありません……!」

 倒れ込んだまま、父の袴を引いて必死に止めようとした。

「ええい、黙れ。呪われた朔の姫のくせに」

 容赦なく足蹴にされて、振り払われてしまう。新たな痛みにうめいたが、宵子は何とか体を起こした。うさぎが怯えるように細かく震えている。宵子は手を伸ばして、外へと続く戸を細く開けた。うさぎならば、ぎりぎり通れる幅。

「逃げて」

 宵子の言葉を理解したのか、危険を回避する本能か、うさぎは素早い動きで戸をすり抜け、遠くへ駆けていった。頭上で父が呪い、汚らわしい、と何度も言っていたが、それに答える気力はもうない。うさぎの姿が見えなくなったことにほっとして、意識を手放した。
 次に目覚めた時には、父も、うさぎも、誰もいなかった。


 宵子が十五歳になったある日、老師が大量の冊子を持ってやってきた。最近は、体の節々が痛むと言っていたのに、重労働は体に障ってしまう。

「老師、お体を労わってください。こんなにたくさんの冊子を、一度に持ってきていただかなくて大丈夫です」
「いや、まだあるからのう。ちょいと待っていておくれ」
「それはわたしが運びますから。老師は座っていてください」

 離れの前には荷車が置いてあり、そこには老師が持っていた分の五倍は冊子が積んであった。さすがにここまで運ぶのは従者に任せたのだろうけど、それでも老師がかなり無茶をして持ってきたことは分かる。

「老師、こんなにたくさんの冊子、次にいらっしゃる時までにはとても読み切れません」
「よいよい。ゆっくりと読めばいいのじゃ」
「いつもは早く読んで知識をたくさん取り入れなさいと、おっしゃっているのに」
「そうじゃったのう。姫は、ずいぶん読むのが速くなったし、字を間違えることもなくなって偉いのじゃ」
「もう、いつの話をしておられるのですか」

 老師はいつまでも宵子のことを幼子おさなご扱いする。ほっほほと笑う老師の目に、凶星が視えた。まだ小さく、それは少し先のことのようだけれど、決して消えることのない強い光。宵子は一度口を開いたが、何も言わずにまた閉じた。ここで口にすれば、また老師から口酸っぱく言われてしまう。

「さて、前回渡した冊子は読み終えたかのう」
「ええ、もちろんです」
「よろしい。博識といえば漢詩をよく知っていることであるが、近頃は宮仕えの女房たちが書いたものにも精通していることが、宮中での常識となりつつあるのじゃ」

 老師は朗々と世の流れを説いてくれる。けれど、もう聞き飽きるくらいに聞いた。だからこそ、老師の言う通り、彼女たちの作品を何度も読み返してきた。

「老師、問答をお願いします」
「やる気があってよろしい。では、問いに答えてみせるのじゃ」

 宵子は居住まいを正す。何度やっても、この試される感覚には緊張する。息をゆっくりと吐いて心を落ち着かせる。

「まず、枕草子まくらのそうしの冒頭を述べよ」
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山際すこし明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる」
「続けて、夏、秋、冬は何が良いとされるか」
「夏は夜、秋は夕暮れ、冬は早朝つとめて、です」

 かの有名な随筆、枕草子。宮中で見聞きしたあらゆるものが、瑞々みずみずしい視点と言葉で綴られている。
 宵子はすらすらと答えた。きちんと読んだことが頭に入っている。ただ、老師はまだ表情を崩さない。これはまだ序の口といったところらしい。

「次に、あてなるもの――上品なもの、の項を述べるのじゃ」
「あてなるもの。薄色うすいろ白襲しらがさね汗衫かざみかりの子。削り甘葛あまづら入れて、新しきかなまりに入れたる。水晶の数珠じゅず。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。いみじううつくしきちごのいちごなど食いたる」

 これも、きちんと覚えていたから、宵子は詰まることなく答える。
 枕草子で、上品なものと称されるものたちを、宵子はほとんど見たことがない。特に、削った氷に甘い蜜をかけて新しい金の器に入れたもの、なんてどんなに素敵なものだろうと思う。

「うむ。よくできておるのう」
「ありがとうございます」

 老師はゆったりと笑って褒めてくれた。宵子はくすぐったい嬉しさを感じる。頑張って、老師にもっと褒めてもらいたい。それに、姫としての教養が身につけば、いつかは父にも認めてもらえるかもしれない。
 その後も問答を続け、今日の分が終わると老師は満足そうに頷いた。老師は膝に手をつきながら立ち上がった。離れを出る時には、一度振り返って宵子を見つめる。

「どうしたのですか、老師」
「……いいや。渡したものは、しっかりと読むのじゃぞ」
「はい。次にいらっしゃる時までに、できるだけたくさん読んでおきます」
「ではな、姫」

 老師の背中を見送ってから、宵子は離れに戻る。改めて見ても、渡された冊子の膨大さに驚いてしまう。今から少しずつ読んでおかなければ、と早速一冊に手を伸ばした。


 老師の訪問から少し経った頃、老師が亡くなったと、侍女たちが話しているのを聞いた。宵子は信じられなかった。たまにしかここへやってこないのが常だから実感がない。

「…………老師」

 それでも、一か月、二か月と経つうちに、老師はもういないのだと理解した。どれだけ待っても、あの優しい口調で姫と呼ばれることも、褒めてくれることもないのだと。老師が、朔の姫と呼ばれ放置される宵子にとってどれほど大きな存在であったか、今さら思い知る。
 あの時、視えた凶星は、死を示していた。

「わたしが、凶星を口にしていれば――」

 そう呟いて、宵子は自分の口を覆った。老師にあれほど言われていたのに。
 おそらく口にしたとしても、その未来は変わらなかった。そもそも、老師自身が自分の死期を悟っていたからこそ、あんなに膨大な冊子を渡したのだろう。
 そうだったとしても。

「もう一度、会うことはできたかもしれないわ……」

 思わず出た言葉とともに、涙が頬を流れ落ちる。老師は最後と思ってここへ来たのだろうが、宵子はそうではなかった。また会えると思っていた。
 涙が枯れてから、冊子を読み始めた。この膨大な冊子がある限り、老師との問答は終わっていない、そう思えたから。老師が言ったように、何日も何か月もかけてゆっくりと読み進める。

「あら、これは……」

 半分ほど読んだところで、一冊の冊子に、紙が挟まっているのを見つけた。年季が入った冊子とは違い、その紙は新しい。墨が滲んでいるのが見えて、宵子はその紙を取り出して裏返す。そこには老師の字でこう書かれていた。


『認められる日が来る。試練を越えよ』


 空の星を読み、未来を知ることのできた老師の、最後の言葉。
 宵子は、涙で紙を濡らさないよう、自分の胸にぐっと押し当てる。もう一度、老師の言葉を聞くことができたかのようだった。


 そして、三年が経った。宵子は十八歳になっていた。
 平安の世の姫君というのは、炊事や掃除はもちろん、着替えすら自分ではせず、侍女たちが行うのが普通である。だが、離れを訪れる者は誰もいない。宵子は、食事も掃除も身の回りのことはすべて自分でやっていた。老師はこうなることを見越して、普通は必要のない炊事や掃除も教えてくれたのだろう。
 困ってはいなかった。……でも、何もなかった。朔の姫という呼び名の通り、いてもいなくても変わらない。時々、本当に自分はここに存在しているのか、分からなくなる。
 この日もいつもと変わらない、何もない日になるはずだった。

「中納言様がお呼びです」

 戸の外側でそう呼びかけられた。まさか自分に向けられたものとは思わず、返答までに時間がかかってしまった。久しぶりに交わす侍女との会話に喉が張りついて、たどたどしくなってしまう。

「ち、父上が……? どうして」
「早くおいでください」

 言葉自体は丁寧だけれど、言い方は嫌々させられた役割だということが伝わってくる、ぞんざいなものだ。
 母屋に行くのは何年振りだろうか。父と御簾みすを隔てて向かい合う。御簾ではっきりと顔は見えないが、険しい雰囲気は伝わってくる。何を言われるのかと、宵子は身を硬くする。

「お前の、東宮様への入内じゅだいが決まった」
「――え」
「すぐに出立しゅったつとなる。準備をして待て」

 姉たちを差し置いて、宵子が入内をする。東宮は次のみかどの地位にある人、国のいただきに立つことが約束された人だ。そんな人のもとへの嫁入りだなんて、一体どういうことなのか。宵子にとってあり得ない、降って湧いたような話に困惑してしまう。

「お姉様、お聞きになりました? 朔の姫が入内するというお話」
「まさか、嘘でしょう」

 部屋の横を通る姉たちの声がする。すぐ近くに宵子がいることには気が付いていないようだ。

「それが、本当らしいですわ。……あの東宮様のところへ」
「冬の宮様、と宮中で呼ばれているのでしょう? 妃候補を何人も追い返しているという冷酷な御方だとか」

 東宮は『春宮』と表すことができ、春の宮と呼ばれることもよくある。だが、春ではなく、冬と表される方。それが今の東宮らしい。

「きっと朔の姫なんて、すぐに追い返されるに決まっているわよ」
「そうですわね。では、この家に戻ってくるのでしょうか」
「突き返された姫を置いておくわけがないわ。出家でもさせるのでしょう」
「まあ! ということは離れが空くのですわね。袿が増えて置き場に困っていたところですわ」
「それはいい考えだわ」

 父がわざとらしく大きな咳払いをした。姉たちは慌てたように足早に去っていく。追い返されることが予想できるから、大事な姉たちではなく、宵子を送り出すということらしい。

「これを」

 御簾と床の間を滑って、布に包まれた細長いものが放られた。形と大きさからして、布に包まれているのは小刀だと分かる。そして、それはかすかに見覚えがあった。母の形見だ。初めは宵子が持っていたけれど、いつだったか父に取り上げられた。
 小刀とともに一枚の紙が添えられている。二つに折られたそれを開くと、父の字でこう書かれていた。

『これで、東宮様を暗殺せよ』

 入内するという話よりも、さらに衝撃的なことを告げられて、宵子は声も出なかった。なんと、恐ろしいことを。父は何でもないように話を続ける。

「東宮様は御年おんとし十八であらせられる。お前も十八だったな? 入内する年齢としては遅いが、まあ仕方がない。呪いのせいで貰い手などなかったわけだしな」
「どうして、東宮様を」

 暗殺、の言葉までは口にできなかった。呼び出されて初めて、宵子は父に問いかけた。

「知る必要はない」

 返ってきたのは、温度のないものだった。まるで、道端の石に向かって言うような無機質な声。

「――だがまあ、もしもやり遂げたのなら、認めてやろう。母屋にも置いてやってもいい」

 父が、宵子のことを認めると、そう口にした。とても信じられない思いだった。
 これが、老師の言う試練なのか。宵子はぐっと拳を握りしめた。なんと重い試練なのだろう。
 すぐに父からの話は切り上げられ、宵子の意思などは置き去りに準備は進み、宮中へと向かった。


   ***


「何か、考えごとかい」

 彰胤の声で、宵子は思考から戻ってきた。
 小刀は今も宵子の懐に入っている。暗殺のことは気取られてはいけない。決行の頃合いは、父の遣わした女房から指示があるという。それまでは決して追い返されることはあってはならない、疑われることがあってはならない、と。

「申し訳ございません。緊張、しておりまして」
「緊張?」

 今、宵子と彰胤は向かい合って座っている。
 唐突な訪問ではあったが、東宮を外に立たせたままにするわけにはいかない。桐壺きりつぼの中へと入ってもらった。宮中に来て、宵子に与えられたのは、北東に位置する淑景舎しげいしゃ。庭に桐が植えられていることから、一般的に桐壺と呼ばれるところだ。
 帝の住む清涼殿せいりょうでんから最も遠く、不遇の場所と言われるが、東宮が住む梨壺なしつぼには一番近く、東宮妃の住まう場所としては妥当である。

「今日、東宮様が桐壺へいらっしゃるなんて、思いがけないことでしたので」

 婚姻の儀の日取りは、占いによって吉日が選ばれる。追って通達があるから、それまで待て、と言われていた。今日は星が降り、不吉だから部屋に籠る人がほとんど。何も起こらないと安心していたのに。彰胤は臣下を一人だけ連れてやってきた。

「あの、どうして、東宮様はいらっしゃったのですか。星が降る夜ですのに」
「どうしてって、そりゃあ、妻になる人の顔を見に来たのだよ」

 彰胤は、にこにこと笑顔でそう言ってのける。人当たりよく、楽しげに話す様子を見て、一体どこが冷酷な冬の宮なのだろう、と疑問に思った。
 彰胤の手が、宵子の持つ檜扇に伸びてきた。強い力ではないが、ゆっくりと檜扇を下げさせられた。顔を見に来た、というのは会いに来たという意味ではなく、本当に顔を見るためのようだ。

「綺麗な顔をしているね。星明かりによく映える」
「お、恐れ多いことでございます」

 人を惹きつける見た目をしている彰胤に、そんなことを言われて戸惑ってしまう。しかも、宵子の頬に指を添わせて言うものだから、彰胤の手から逃れるように思わず俯いた。彰胤は気を悪くした様子もなく、明るく宵子に話しかけてくる。

「いやあ、実は宮中には君の噂がいろいろとあってね」
「噂、でございますか」
「中納言が自邸に隠している姫、それはもう宮中での噂の恰好のまとだよ。顔に大きな傷がある、髪が老婆のように白い、ひどくわがまま、気が触れている、などなど。まあ、全部嘘だったみたいだけど」

 彰胤はどこか満足そうに宵子を見つめる。確かに、父が宵子を見放したのはそんな理由ではない。噂はあてにならない。何より星詠みのことは噂でも知られていないようで、安心した。

「ああ、それから、未来を知ることができる、とかね」

 宵子は息をのむ。今まさに考えていたことを言い当てられたかと思った。しかし、何とか平静を保って聞き返した。

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