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1巻
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「そのような不思議な噂もあるのですか」
「いいや。これは優秀な臣下に調べさせた話だ。よくやったぞー」
彰胤はひらひらと手を振り、背後に控える男性を労っている。宵子は視線を彰胤から横にずらして、その男性を見た。彼は宵子と目が合うと、口を真一文字に結んだまま、控えめに礼を返してきた。宵子はこの人と会ったことはない。調べた、と言っても正確なことまでは知られていないかもしれない。宵子は分からないふりを続ける。
「未来を知るなんて、陰陽師や宿曜師の方々でなければ、できないことでございましょう。そのようなことは、とても――」
「俺の目の中には、どんな星が視えるかい?」
目の中に星。はっきりとそう言った。本当に星詠みのことを調べ上げたらしい。宵子は、自分の体がひどく重くなっていくのを感じた。これ以上、知らないで通すことは厳しそうだ。追い返されてしまうかもしれない。それに、こんなに綺麗で太陽みたいな人に蔑まれるのは、苦しい。会ったばかりだというのに。こんな呪いのことなど、知られないままでいたかった。
「……わたしが視ることができるのは、凶兆だけでございます。呪われたものです。口にするなと、育ての老師からも言われております」
「どうして、言ってはならないんだい」
「老師が口にするなと」
「誰かに言われたから、ではなく、君が言わない理由は」
「そ、れは……」
言葉に詰まってしまった。災いを招くから、という理由は宵子自身が納得していない。今まで言わなかったのは、恩のある老師がそう言ったから。ただそれだけだった。
「俺は、知りたい。言ってくれないかい」
「どうか、お許しを」
「そうだなあ、じゃあ、東宮からの命令ってことで」
そう言われたら断れるはずがない。いたずらっ子のように、笑顔で東宮の地位を使ってくるなんて、ずるい人だ。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
宵子は正面から彰胤と向かい合い、その目をじっと見つめる。深い黒橡色の瞳は、吸い込まれそうなほど美しい。
「東宮様には、子(北)の方角に凶星がございます。はっきりとは大きさが分からないので、まだ日付は定まっていないようですが」
「ほう。方角というのは?」
「その方の基準となる場所から見た方角になります。普通は住んでいるところが基準になるかと」
「なるほどな」
彰胤は凶兆を聞いたにもかかわらず、楽しそうに頷いている。ここまで言ったのなら、と思い、先ほどから気になっていた臣下の凶星も、口にした。
「あなたにも、凶星が視えます。明日、乾(北西)の方角にお気をつけください」
「え、ああはい……」
彰胤とは違い、戸惑った返事だった。あなたに良くないことが起こる、と言われて喜ぶ者などいるわけがない。当然の反応だ。臣下は彰胤に声をかけた。
「東宮様、そろそろお戻りにならないと。正式なご訪問ではないのですから」
「えー、もうだめか」
「だめでございます」
「仕方ないかあ。ではまたな。婚姻の儀の日程が決まれば知らせるよ」
「はい。ありがとうございます」
彰胤は立ち上がり、臣下が持ち上げた御簾をくぐって渡殿へ出た。宵子も、見送りのために渡殿へ出る。空には、少なくなっているものの今も星が降り注いでいる。
「君は、星が好きかい」
「はい。いつでも空にあり、美しいものでございますから」
「流星は、『よばひ星』とも言う。尾がないほうが良いとされるが、君はどう思う?」
口元には笑みを浮かべていて、穏やかさに変わりはないけれど、試すような少し鋭い空気を肌で感じた。この試される感覚を宵子はよく知っている。一つ息を吸ってから答えた。
「流星よりも、噂の尾のほうが、なくて良いものと思います」
「ははっ、うん、それは俺も同感だな」
彰胤の纏う空気が柔らかくなり、満足げな笑顔で帰っていった。笑顔の種類が多い人だ。
今のやり取りは、枕草子の『星はすばる』から始まる一節に掛けたもの。流星に尾はいらない、と書かれていることについて聞かれたから、先ほど話題にあがった宵子の噂の尾ひれのほうがいらない、という返しをしたのだ。どうやらお気に召したようで、老師との問答が役に立った。
「何とか、追い返されなかったわ……」
宵子はへたりと座り込み、星空を見上げる。流星雨を見ていただけだったのに、想定外の客人で何とも慌ただしい夜になってしまった。彼は、妃を追い返す冷酷な冬の宮、という前評判とはだいぶ違っているように感じる。
いろいろと考えなきゃいけないけれど、どっと疲れが襲ってきて、宵子は部屋の中に戻って早々に眠りについた。
*
「本当に当たったぞ!」
彰胤が嬉しそうに桐壺にやってきたのは、翌日の夕方のことだった。またしても、いきなりやってきたことに驚いたけれど、そんな宵子にはお構いなしに彰胤は話し始める。
「宗征が、さっき派手に転んだんだ。いやー、あんなに見事にすてーんと転ぶとはな。怪我がなくて良かった」
「あの、宗征様とは……」
「ああ、そうか、紹介していなかったな。こいつは源宗征。東宮学士、東宮に儒教を教える教育係、といった立場だが、まあ簡単に言えば俺の臣下だ」
昨日と同じく、彰胤の後ろに控えている男性が軽く会釈をした。宗征は黒色の衣を身に纏っている。
平安の内裏に勤める臣下たちは、位によって許されている衣の色が違う。そのため、衣の色を見ればその人の位がある程度分かってしまう。黒色は全部で八つある中の一つ目から四つ目、つまり一位から四位の者が身につける色。
「学士殿、でしたか。でも衣の色は……」
宵子は少し戸惑っていた。冊子で学んだ東宮学士の位は、五位。許される色は深緋色のはず。衣の色と位が合っていない。
「おお、鋭いね。宗征は学士だけれど、東宮大夫の代理をしているからね。衣は四位の大夫のものを着ているんだ。実質、東宮の臣下で一番偉いってわけ。もういっそ東宮大夫と名乗ればいいのに」
「私はあくまでも学士でございますゆえ」
「生真面目だなあ。まあ、そこがいいところでもあるけど」
恐縮です、と宗征が答えてから、微妙な間が生まれた。何の話をしていたのだったか、と彰胤が首を傾げて、はっと思い出したように口を開いた。
「そう! そんなことより、君の未来視が見事に当たったんだ! 君の言った乾の方角で、宗征が階段に躓いてな、持っていた冊子を落として、それに足を取られて、すてーんと。いやあ、君はすごいな」
「……不気味ではないのでございますか。呪われた力なのに、凶兆が真実になったのに」
凶兆しか視えないと知り、父が宵子を見たあの表情は、忘れたくても忘れられない。また、あの表情を向けられると思っていた。
「どうして?」
彰胤は、宵子の言うことが心底分からない、という顔をしている。宵子は確かめるようにもう一度問うた。
「凶兆を視る、呪われた力なんて、不気味でございましょう?」
「未来を事前に知ることができるなんて、素晴らしいじゃないか」
「それが凶兆でも、でございますか」
「知っていれば、それを回避するための対処ができるだろう。まあ、宗征が信じていなくて、今回は防げなかったが」
彰胤がにやりと、宗征に視線を送る。宗征は無言だったが、ぶすっと不満そうな顔をしていた。
彰胤は穏やかな表情になって、宵子に向き直った。
「俺は、君のその力を呪いとは思わない。素晴らしい力だと思うよ」
宵子の頬を、ほろりと一筋の涙が滑り落ちた。星詠みの力を肯定されたのは、初めてだった。老師ですら口にしてはならないと言ったこの力を、素晴らしいと。災いを招くからという理由に納得していなかったのではなく、ただ、それで良いと言ってもらいたかっただけなのかもしれない。
それだけで、こんなにも心が軽くなって嬉しくなれるなんて、知らなかった。
「これは、悲しい涙?」
彰胤の指先が、宵子の涙を掬い取った。柔らかくそう聞かれて、宵子はふるふると首を横に振った。すると、彰胤はほっとしたように笑った。暖かな日差しのような笑みだ。
「ねえ、もう一度、俺の目の星を視てくれないかい」
「分かりました」
宵子は素直に頷く。この人になら、星詠みのことを伝えても大丈夫かもしれないと、そう思ったから。彰胤の目の中の星は昨日とは違い、はっきりと輝いていた。
「四日後、子の方角に凶星がございます。どうか、お気をつけください」
「四日後と言えば、二十日か。それは少し困ったな」
「何か、あるのですか」
「二十一日に、婚姻の儀を行うと占いで決まってね。その前日には、衣装合わせをすることになっているんだ。今日はそれを伝えようと思ってね。まあ、儀式の当日は吉なのだから、問題ないか」
あっけらかんとそう言う彰胤に、宗征が後ろで頭を抱えていた。日付は一致している、もう一つは方角だ。宵子は気になって彰胤に聞いた。
「その、衣装合わせをする場所は、どちらでございますか」
「桐壺らしい。君も一緒にすることになると思うよ」
宵子はぞっとした。桐壺は、彰胤の住まう梨壺のちょうど子の方角に位置する。おそらく、その衣装合わせの際に、暗殺を実行させられる。女房からの伝言よりも先に知ることになるなんて。どこか現実味のなかった暗殺の話が、すぐ傍まで迫っていることを、ひしひしと感じた。
四日後、この方に災いをもたらすのは、わたし。
*
神無月二十日。桐壺には、たくさんの人がやってきていた。藤原家の女房が宵子のためにたくさん来ているが、父に仕えている者ばかりで顔も名前も分からない。皆、体裁として宵子にかしずいているが、敬うような様子は微塵もなく、誰一人目を合わせようとはしない。
東宮側も大勢の女房が来ている。几帳を隔てて、衣装合わせを同時に行っている。彼女たちの会話が少し聞こえてきた。
「衣装合わせなんて普通は別々にやるものなのに」
「まとめてやったほうが人も時間も削減できるから、ですって」
「まったく、冬の宮様だからって」
少し怒っているようにも聞こえる口調だった。宮中とは人と時間をふんだんに使う豪奢な場所であると、老師が言っていたけれど、彰胤が同時にやることを提案したのだろうか。
宵子は、藤原の家にいた時には着たことのない、豪華な衣装を着せられている。祝いの時に用いられる、紅の匂の襲は、外側から濃紅、紅、紅、淡紅、より淡い淡紅、紅梅と、濃い色から順に薄くしていく華やかな色合わせ。一枚の着物を取ってみても、上等な布や糸を使っていることが分かる。
「……朔の姫には、もったいない」
そう呟く女房の声が聞こえた。必要以上に強く着物を引っ張られて、宵子はよろけてしまうが、女房は謝ることはしない。存在しない姫なのだから、当然と言わんばかりに。宵子は、下唇を噛んでぐっと堪える。ぞんざいな扱いはいつものことだが、やはり息がしづらくて苦しい。
宵子の着付けが終わった頃、几帳の向こう側から彰胤がひょこっと顔を出した。宵子の姿を見て、にっこりと笑った。
「うん、とても綺麗だ」
決して目を合わせない女房たちとは対照的に、彰胤は真っすぐに目を合わせてくる。ふっと力が抜けて、息がしやすくなる。だが、彰胤の目には変わらず凶星が輝いていた。
「東宮様、まだ動かないでください」
彰胤の着付けはまだ済んでいないらしく、女房に引き戻されていった。几帳の向こうに見えなくなる。
藤原家の女房が近付き、声を潜めて宵子に話しかけてきた。
「着付けが終われば、どちらの女房も一度下がることになっております。その時に決行しろと、中納言様からの御言葉です」
「……そう」
「殿舎の近くに兵も控えておりますので」
「兵?」
思わず聞き返したが、女房は答えるつもりはないらしく、聞こえていないかのような態度を取る。暗殺を命じておいて、兵まで用意するなんて。宵子が失敗すれば、数で押し切るつもりなのか。どうしてそこまでして、彰胤を殺したいのか。
あの、太陽のような方を。
「余計なことはせぬように。ただ命じられたことをすればよいのです。――役に立たない呪いなのですから」
吐き捨てるように、女房はそう言った。父の口調を思い起こさせる、石ころ相手のようなあの無機質さ。これが済めば、認めてもらえる、笑いかけてくれるかもしれない。
やがて、彰胤の着付けも終わり、女房が言った通り、宵子と彰胤以外の者は下がっていく。
「ん、おいで」
彰胤は、宵子に向かって手のひらを差し出してくる。戸惑っていると、掬い取るようにして手を取られた。宵子よりも大きい手のひらは少し冷たくて、でもそれが心地よいと思った。
「やっぱり綺麗だね。よく似合っている」
「恐れ多いことでございます」
「俺はどう? かっこいい?」
彰胤は、着物を見せびらかすように、両手を広げてみせた。身に纏っているのは、唐綾の直衣だ。豪奢な文様が使われている舶来品で、高貴な者しか身につけられない。それを見事に着こなしている。
「はい、かっこいいです」
自分の口から素直にそういう言葉が出たことに驚いた。聞いてきた彰胤本人も少し虚を衝かれたような表情をしてから、声を上げて笑った。
「ははっ、言わせたみたいになっちゃったな」
背後からの視線が背中に刺さる。女房からの、ひいては父からの圧を感じる。彰胤を見上げると、目が合った。
「凶星は視えるかい?」
「はい」
「そうか。教えてくれてありがとう」
ありがとう、だなんて。どうしてこの人は、宵子の欲しかった言葉をいとも簡単に口にするのだろう。彰胤の笑顔は、穏やかな声はとても安心する。藤原の家で存在しない者として過ごしてきたのが嘘のように、宵子を星詠みの力ごと認めてくれる。
この太陽をわたしが殺す? できるわけがない。そんなこと、絶対にしたくない。
宵子は、袖で隠して小刀を取り出すふりをしてから、彰胤の胸に飛び込んだ。そのまま二人して倒れ込むかと思ったけれど、彰胤はびくともしなかった。
「大丈夫かい?」
彰胤はよろけてぶつかったと思っているらしい。心配する声がすぐ耳元に聞こえた。宵子は女房たちには聞こえないように、彰胤に囁いた。
「東宮様、お逃げくださいませ」
精一杯の力を込めて彰胤を突き放した。目を見開いて驚いている彰胤の顔を見ながら、宵子は反動で後ろに倒れ込んだ。
「行きなさい!」
その時、女房の鋭い声が響いた。どたどたと無粋な足音がいくつも聞こえてきた。しかし、彰胤はその場から動こうとしない。このままでは彰胤が逃げきれない。
「不届き者を捕らえよ!」
しかし、兵が向けられているのは、彰胤ではなく宵子のほうだった。どうして、と思う間もなく腕をねじり上げられた。
「うっ」
痛みに呻きながら、宵子は女房を見た。変わらず、宵子のことを見もしない。
「出てきていいよ。で、こいつら捕まえて」
彰胤の先ほどまでと変わらない穏やかな声を合図に、別の兵がなだれ込んできた。突如として兵が入り乱れる混戦状態になった。その混乱に乗じて、一人の兵が彰胤に迫る。
「危ない!」
宵子が思わず声を上げると、彰胤はその存在に気付き、体を半回転させて攻撃を避ける。流れるような動きで、兵の足を払って床に伸した。別の兵がやってくるが、腕をねじり上げて他の兵を巻き込むように突き返す。
「その手を放せ」
宵子の背後にいる兵に、静かにそう言った。怒鳴られたわけでもないのに、兵は怯えた声を上げて手を放した。
宵子は腕の痛みから解放され、呆然と目の前で起こっていることを見つめる。
「腕は大丈夫かい?」
彰胤に問われて、こくんと頷いた。この場の喧騒にそぐわず、彰胤は穏やかに微笑んでいる。
後から来た兵は藤原側の倍はいて、すぐに制圧された。
「一体、何が……」
宵子の口から零れた呟きをかき消すように、女房が声を荒らげた。床に押さえつけられた体をよじりながら、彰胤へ訴えかける。
「東宮様! なぜ我々を捕らえるのでございますか! 我々藤原の者は、東宮様を殺そうとした不届き者を捕らえようと――」
「姫が、俺を? 一体、何を言っているのやら」
彰胤が、両手を広げて一切傷ついていない唐綾を見せつけた。
「なっ……」
女房は反射的に宵子のほうを見て、小刀がそもそも抜かれていないことを認識し、ようやく状況を理解したようだった。激しい怒りの目で睨んできた。余計なことを、と目が語っている。ここで初めて目が合った女房には、凶星が煌々と輝いているのが視えた。
「このっ、役立たずが! 呪いめ!」
その後は、口を塞がれて女房が何と言っているのか、聞き取れなかった。しかし、睨みつける目だけで女房の恨みと蔑みの念が充分に伝わってきて、宵子は視線から逃げるように顔を逸らした。
「連れていけ。東宮と、妃候補への狼藉、許されるものではないからね」
女房は抵抗を続けていたが、結局は藤原の兵とともに連行されていった。
再び、桐壺が静かになった。
「はあーやれやれ、そんなに冬の宮が邪魔なんだなあ、まったく」
「どう、して……」
宵子は上手く声が出せないまま、そう呟いた。妃候補を追い返す冷酷な冬の宮、それが藤原にとって邪魔な存在である、とはいまいち結びつかない。
「君、俺がどうして冬の宮、って呼ばれているか、理由を知っているかい?」
「えっ……それは」
「構わないから、言ってごらん」
「……妃候補の姫君を何人も追い返している冷酷な御方だから、春ではなく冬の宮だと」
姉たちが話していた内容をそのまま答えた。彰胤は怒る様子は見せず、ため息混じりにやっぱりか、と呟いた。
「何も知らずに、中納言に送り出されたんだね。そんなところだろうと思ったけれど」
彰胤は、手招きをして宵子を目の前に座るように示した。宵子はそれに従った。
「今上帝は俺の腹違いの兄上で、俺は東宮の地位にいるが、父も母も亡くなっていて後ろ盾が弱くてな。藤原たち摂関家は、俺の従弟にあたる若宮を東宮に推している。若宮が東宮になるまでの繋ぎ――本来の春の宮までの繋ぎの、冬の宮だそうだ」
春の前だから、冬であると。帝の弟であるというのに、まるでお前は東宮ではない、望まれていない存在だと、言っているようなものではないか。宵子は、衝撃とともに怒りを覚えた。この人に、そんな失礼な名を与えた顔も知らない者への。華やかな袿をくしゃりと握りしめる。
「宮中だと割と知られていることなんだけどね。宮中の外だと妃候補の話と絡めたり、いろいろと尾ひれが付いたりしているんだ。君と一緒でね」
宵子は、はっと胸をつかれた。思えば彰胤は、一度も宵子のことを朔の姫とは呼ばなかった。きっと知っていたのだろう、そう呼ばれている理由を。
「ああ、そうそう。宗征が学士の身分なのに、東宮大夫なのは、冬の宮の下だと出世が見込めなくて誰もやりたがらなくてね、こうなっているんだ」
「そのようなこと、東宮様の口からおっしゃらないでください」
宗征が少し怒ったような口調で言いながら、桐壺に入ってきた。彰胤は、宗征の言葉をさらりと流した。
「戻ってくるのが早かったな。もう分かったのか」
「はい。向こうの兵の一人が口を割りました。姫を入内させ、東宮様を殺せればこれ幸い。そうでなくとも、お荷物な姫を亡き者にする口実にと考えていたそうです」
「まったく。そのように簡単に口を割る者は伏兵に向いていないだろうに。中納言の人選はいまいちだな」
「東宮様、注目すべきはそこではございません……」
自分の命が狙われる計画があったと知ってなお、彰胤の様子は変わらなかった。穏やかな笑顔のまま。
宵子は、じんわりと宗征の報告の内容を理解し始めた。宵子が彰胤を殺せるかは、どうでも良かったのだ。父はどちらにしても、宵子を殺すつもりだったのだろう。運が良ければ摂関家の邪魔になる東宮を殺せるかもしれない、その程度の期待。いや、期待ですらない。
「わたし、は……」
ただの使い捨ての駒じゃないか。
認めてやるなんて、母屋に置いてやるなんて、嘘だった。その事実に失望している自分に気が付いた。殺されそうになった相手に、認めてほしいと願っていた。なんて、滑稽なのだろう。自分の愚かさに涙も出ない。
宵子は、ぼんやりと彰胤を見つめる。その目にはもう凶星はなかった。老師の手紙にあった、試練を越えることはできなかった。でも、この人を殺さずに済んで良かったと思う。後悔はしていない。
「君は、その様子だと、本当に何も知らされていなかったようだけど、どうして暗殺の計画に入っていたんだい」
「……父に命じられました。わたしは藤原の家で存在しないも同然でした。逆らうことはできません」
「衣装合わせの時に、自分の家の女房との距離感がおかしかった。冷遇されていたのは確かなようだね。ひどいことをする。目が行き届かなくて、すまない」
彰胤が、申し訳なさそうな顔をして目礼した。宵子は慌てて何度も首を振る。
「東宮様が謝ることではございません……!」
「中納言には、成功すれば認めてやる、とでも言われたのかい」
「どうして、それを」
言い当てられて、宵子は目を見開いて彰胤を見つめた。彰胤は苦々しい顔をしている。
「あの男が言いそうなことだ。自分の娘にまで言うほど腐っていたとはな」
何も言わない宗征も、ここにはいない父への軽蔑の表情を浮かべていた。内裏の仕事で会う機会はあるだろう。もしかしたら、宵子よりも父のことを知っているかもしれない。
「認めてほしい、その想い自体は間違えていない。ただ、やり方と相手を間違えている。この綺麗な手に、刀を持つ必要はない。それから、君を尊重しない相手に認めてもらう必要はない」
彰胤は、宵子の顔を覗き込んで、にっこりと笑った。安心させるような穏やかな笑み。
「まあ、もう分かっているみたいだけどね」
「え」
「だって、君は俺を逃がそうとしただろう。中納言からの命令を放棄して、認められることを諦めて、逃げろと言ったんだ。だから、君は大丈夫だよ」
大丈夫、その言葉が宵子の中に染み込んできた。宵子はすでに、父に逆らうことを選んでいた。
「わたしは、大丈夫……」
「ああ、大丈夫だよ」
堰を切ったように、ぽろぽろと涙が溢れ出てきた。どうしてこんなに泣いているのか、よく分からなかった。さっきまでの緊張からの解放なのか、父に逆らうことができた喜びなのか、この人の声に安心したのか。どれも合っているようで、違うような気もする。
宵子は今さら檜扇で顔を隠す。流した涙の分だけ、心が軽くなっていくような気がした。
涙がひいてから、宵子は彰胤に向き直って頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
「いや、君のおかげで助かったのは事実なんだよ。中納言が何かしてくるとは思っていたんだ。でも、いつどこで、何を仕掛けてくるかは分からなかった。だから、君の星詠みのおかげで日付と場所が絞り込めて助かった」
「わたしの星詠みを、信じておられたのですか。父、中納言が送り込んできたわたしの言うことを……?」
「ああ。宗征が転んだ日付と方角が一致していたし、この計画を示す凶星の方角も、衣装合わせの場が桐壺だと伝える前に当てていただろう? だから本当だと思った」
この人は、とても冷静に正確に、状況を見ている。東宮として上に立つ者だからできることなのだろうか。
「東宮様、そろそろ」
宗征が声をかけた。視線が宵子のほうに向いているのは、女房たちのように宵子も連行されるからだろう。暗殺の計画の中にいたのだから当然だ。
「いいや。これは優秀な臣下に調べさせた話だ。よくやったぞー」
彰胤はひらひらと手を振り、背後に控える男性を労っている。宵子は視線を彰胤から横にずらして、その男性を見た。彼は宵子と目が合うと、口を真一文字に結んだまま、控えめに礼を返してきた。宵子はこの人と会ったことはない。調べた、と言っても正確なことまでは知られていないかもしれない。宵子は分からないふりを続ける。
「未来を知るなんて、陰陽師や宿曜師の方々でなければ、できないことでございましょう。そのようなことは、とても――」
「俺の目の中には、どんな星が視えるかい?」
目の中に星。はっきりとそう言った。本当に星詠みのことを調べ上げたらしい。宵子は、自分の体がひどく重くなっていくのを感じた。これ以上、知らないで通すことは厳しそうだ。追い返されてしまうかもしれない。それに、こんなに綺麗で太陽みたいな人に蔑まれるのは、苦しい。会ったばかりだというのに。こんな呪いのことなど、知られないままでいたかった。
「……わたしが視ることができるのは、凶兆だけでございます。呪われたものです。口にするなと、育ての老師からも言われております」
「どうして、言ってはならないんだい」
「老師が口にするなと」
「誰かに言われたから、ではなく、君が言わない理由は」
「そ、れは……」
言葉に詰まってしまった。災いを招くから、という理由は宵子自身が納得していない。今まで言わなかったのは、恩のある老師がそう言ったから。ただそれだけだった。
「俺は、知りたい。言ってくれないかい」
「どうか、お許しを」
「そうだなあ、じゃあ、東宮からの命令ってことで」
そう言われたら断れるはずがない。いたずらっ子のように、笑顔で東宮の地位を使ってくるなんて、ずるい人だ。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
宵子は正面から彰胤と向かい合い、その目をじっと見つめる。深い黒橡色の瞳は、吸い込まれそうなほど美しい。
「東宮様には、子(北)の方角に凶星がございます。はっきりとは大きさが分からないので、まだ日付は定まっていないようですが」
「ほう。方角というのは?」
「その方の基準となる場所から見た方角になります。普通は住んでいるところが基準になるかと」
「なるほどな」
彰胤は凶兆を聞いたにもかかわらず、楽しそうに頷いている。ここまで言ったのなら、と思い、先ほどから気になっていた臣下の凶星も、口にした。
「あなたにも、凶星が視えます。明日、乾(北西)の方角にお気をつけください」
「え、ああはい……」
彰胤とは違い、戸惑った返事だった。あなたに良くないことが起こる、と言われて喜ぶ者などいるわけがない。当然の反応だ。臣下は彰胤に声をかけた。
「東宮様、そろそろお戻りにならないと。正式なご訪問ではないのですから」
「えー、もうだめか」
「だめでございます」
「仕方ないかあ。ではまたな。婚姻の儀の日程が決まれば知らせるよ」
「はい。ありがとうございます」
彰胤は立ち上がり、臣下が持ち上げた御簾をくぐって渡殿へ出た。宵子も、見送りのために渡殿へ出る。空には、少なくなっているものの今も星が降り注いでいる。
「君は、星が好きかい」
「はい。いつでも空にあり、美しいものでございますから」
「流星は、『よばひ星』とも言う。尾がないほうが良いとされるが、君はどう思う?」
口元には笑みを浮かべていて、穏やかさに変わりはないけれど、試すような少し鋭い空気を肌で感じた。この試される感覚を宵子はよく知っている。一つ息を吸ってから答えた。
「流星よりも、噂の尾のほうが、なくて良いものと思います」
「ははっ、うん、それは俺も同感だな」
彰胤の纏う空気が柔らかくなり、満足げな笑顔で帰っていった。笑顔の種類が多い人だ。
今のやり取りは、枕草子の『星はすばる』から始まる一節に掛けたもの。流星に尾はいらない、と書かれていることについて聞かれたから、先ほど話題にあがった宵子の噂の尾ひれのほうがいらない、という返しをしたのだ。どうやらお気に召したようで、老師との問答が役に立った。
「何とか、追い返されなかったわ……」
宵子はへたりと座り込み、星空を見上げる。流星雨を見ていただけだったのに、想定外の客人で何とも慌ただしい夜になってしまった。彼は、妃を追い返す冷酷な冬の宮、という前評判とはだいぶ違っているように感じる。
いろいろと考えなきゃいけないけれど、どっと疲れが襲ってきて、宵子は部屋の中に戻って早々に眠りについた。
*
「本当に当たったぞ!」
彰胤が嬉しそうに桐壺にやってきたのは、翌日の夕方のことだった。またしても、いきなりやってきたことに驚いたけれど、そんな宵子にはお構いなしに彰胤は話し始める。
「宗征が、さっき派手に転んだんだ。いやー、あんなに見事にすてーんと転ぶとはな。怪我がなくて良かった」
「あの、宗征様とは……」
「ああ、そうか、紹介していなかったな。こいつは源宗征。東宮学士、東宮に儒教を教える教育係、といった立場だが、まあ簡単に言えば俺の臣下だ」
昨日と同じく、彰胤の後ろに控えている男性が軽く会釈をした。宗征は黒色の衣を身に纏っている。
平安の内裏に勤める臣下たちは、位によって許されている衣の色が違う。そのため、衣の色を見ればその人の位がある程度分かってしまう。黒色は全部で八つある中の一つ目から四つ目、つまり一位から四位の者が身につける色。
「学士殿、でしたか。でも衣の色は……」
宵子は少し戸惑っていた。冊子で学んだ東宮学士の位は、五位。許される色は深緋色のはず。衣の色と位が合っていない。
「おお、鋭いね。宗征は学士だけれど、東宮大夫の代理をしているからね。衣は四位の大夫のものを着ているんだ。実質、東宮の臣下で一番偉いってわけ。もういっそ東宮大夫と名乗ればいいのに」
「私はあくまでも学士でございますゆえ」
「生真面目だなあ。まあ、そこがいいところでもあるけど」
恐縮です、と宗征が答えてから、微妙な間が生まれた。何の話をしていたのだったか、と彰胤が首を傾げて、はっと思い出したように口を開いた。
「そう! そんなことより、君の未来視が見事に当たったんだ! 君の言った乾の方角で、宗征が階段に躓いてな、持っていた冊子を落として、それに足を取られて、すてーんと。いやあ、君はすごいな」
「……不気味ではないのでございますか。呪われた力なのに、凶兆が真実になったのに」
凶兆しか視えないと知り、父が宵子を見たあの表情は、忘れたくても忘れられない。また、あの表情を向けられると思っていた。
「どうして?」
彰胤は、宵子の言うことが心底分からない、という顔をしている。宵子は確かめるようにもう一度問うた。
「凶兆を視る、呪われた力なんて、不気味でございましょう?」
「未来を事前に知ることができるなんて、素晴らしいじゃないか」
「それが凶兆でも、でございますか」
「知っていれば、それを回避するための対処ができるだろう。まあ、宗征が信じていなくて、今回は防げなかったが」
彰胤がにやりと、宗征に視線を送る。宗征は無言だったが、ぶすっと不満そうな顔をしていた。
彰胤は穏やかな表情になって、宵子に向き直った。
「俺は、君のその力を呪いとは思わない。素晴らしい力だと思うよ」
宵子の頬を、ほろりと一筋の涙が滑り落ちた。星詠みの力を肯定されたのは、初めてだった。老師ですら口にしてはならないと言ったこの力を、素晴らしいと。災いを招くからという理由に納得していなかったのではなく、ただ、それで良いと言ってもらいたかっただけなのかもしれない。
それだけで、こんなにも心が軽くなって嬉しくなれるなんて、知らなかった。
「これは、悲しい涙?」
彰胤の指先が、宵子の涙を掬い取った。柔らかくそう聞かれて、宵子はふるふると首を横に振った。すると、彰胤はほっとしたように笑った。暖かな日差しのような笑みだ。
「ねえ、もう一度、俺の目の星を視てくれないかい」
「分かりました」
宵子は素直に頷く。この人になら、星詠みのことを伝えても大丈夫かもしれないと、そう思ったから。彰胤の目の中の星は昨日とは違い、はっきりと輝いていた。
「四日後、子の方角に凶星がございます。どうか、お気をつけください」
「四日後と言えば、二十日か。それは少し困ったな」
「何か、あるのですか」
「二十一日に、婚姻の儀を行うと占いで決まってね。その前日には、衣装合わせをすることになっているんだ。今日はそれを伝えようと思ってね。まあ、儀式の当日は吉なのだから、問題ないか」
あっけらかんとそう言う彰胤に、宗征が後ろで頭を抱えていた。日付は一致している、もう一つは方角だ。宵子は気になって彰胤に聞いた。
「その、衣装合わせをする場所は、どちらでございますか」
「桐壺らしい。君も一緒にすることになると思うよ」
宵子はぞっとした。桐壺は、彰胤の住まう梨壺のちょうど子の方角に位置する。おそらく、その衣装合わせの際に、暗殺を実行させられる。女房からの伝言よりも先に知ることになるなんて。どこか現実味のなかった暗殺の話が、すぐ傍まで迫っていることを、ひしひしと感じた。
四日後、この方に災いをもたらすのは、わたし。
*
神無月二十日。桐壺には、たくさんの人がやってきていた。藤原家の女房が宵子のためにたくさん来ているが、父に仕えている者ばかりで顔も名前も分からない。皆、体裁として宵子にかしずいているが、敬うような様子は微塵もなく、誰一人目を合わせようとはしない。
東宮側も大勢の女房が来ている。几帳を隔てて、衣装合わせを同時に行っている。彼女たちの会話が少し聞こえてきた。
「衣装合わせなんて普通は別々にやるものなのに」
「まとめてやったほうが人も時間も削減できるから、ですって」
「まったく、冬の宮様だからって」
少し怒っているようにも聞こえる口調だった。宮中とは人と時間をふんだんに使う豪奢な場所であると、老師が言っていたけれど、彰胤が同時にやることを提案したのだろうか。
宵子は、藤原の家にいた時には着たことのない、豪華な衣装を着せられている。祝いの時に用いられる、紅の匂の襲は、外側から濃紅、紅、紅、淡紅、より淡い淡紅、紅梅と、濃い色から順に薄くしていく華やかな色合わせ。一枚の着物を取ってみても、上等な布や糸を使っていることが分かる。
「……朔の姫には、もったいない」
そう呟く女房の声が聞こえた。必要以上に強く着物を引っ張られて、宵子はよろけてしまうが、女房は謝ることはしない。存在しない姫なのだから、当然と言わんばかりに。宵子は、下唇を噛んでぐっと堪える。ぞんざいな扱いはいつものことだが、やはり息がしづらくて苦しい。
宵子の着付けが終わった頃、几帳の向こう側から彰胤がひょこっと顔を出した。宵子の姿を見て、にっこりと笑った。
「うん、とても綺麗だ」
決して目を合わせない女房たちとは対照的に、彰胤は真っすぐに目を合わせてくる。ふっと力が抜けて、息がしやすくなる。だが、彰胤の目には変わらず凶星が輝いていた。
「東宮様、まだ動かないでください」
彰胤の着付けはまだ済んでいないらしく、女房に引き戻されていった。几帳の向こうに見えなくなる。
藤原家の女房が近付き、声を潜めて宵子に話しかけてきた。
「着付けが終われば、どちらの女房も一度下がることになっております。その時に決行しろと、中納言様からの御言葉です」
「……そう」
「殿舎の近くに兵も控えておりますので」
「兵?」
思わず聞き返したが、女房は答えるつもりはないらしく、聞こえていないかのような態度を取る。暗殺を命じておいて、兵まで用意するなんて。宵子が失敗すれば、数で押し切るつもりなのか。どうしてそこまでして、彰胤を殺したいのか。
あの、太陽のような方を。
「余計なことはせぬように。ただ命じられたことをすればよいのです。――役に立たない呪いなのですから」
吐き捨てるように、女房はそう言った。父の口調を思い起こさせる、石ころ相手のようなあの無機質さ。これが済めば、認めてもらえる、笑いかけてくれるかもしれない。
やがて、彰胤の着付けも終わり、女房が言った通り、宵子と彰胤以外の者は下がっていく。
「ん、おいで」
彰胤は、宵子に向かって手のひらを差し出してくる。戸惑っていると、掬い取るようにして手を取られた。宵子よりも大きい手のひらは少し冷たくて、でもそれが心地よいと思った。
「やっぱり綺麗だね。よく似合っている」
「恐れ多いことでございます」
「俺はどう? かっこいい?」
彰胤は、着物を見せびらかすように、両手を広げてみせた。身に纏っているのは、唐綾の直衣だ。豪奢な文様が使われている舶来品で、高貴な者しか身につけられない。それを見事に着こなしている。
「はい、かっこいいです」
自分の口から素直にそういう言葉が出たことに驚いた。聞いてきた彰胤本人も少し虚を衝かれたような表情をしてから、声を上げて笑った。
「ははっ、言わせたみたいになっちゃったな」
背後からの視線が背中に刺さる。女房からの、ひいては父からの圧を感じる。彰胤を見上げると、目が合った。
「凶星は視えるかい?」
「はい」
「そうか。教えてくれてありがとう」
ありがとう、だなんて。どうしてこの人は、宵子の欲しかった言葉をいとも簡単に口にするのだろう。彰胤の笑顔は、穏やかな声はとても安心する。藤原の家で存在しない者として過ごしてきたのが嘘のように、宵子を星詠みの力ごと認めてくれる。
この太陽をわたしが殺す? できるわけがない。そんなこと、絶対にしたくない。
宵子は、袖で隠して小刀を取り出すふりをしてから、彰胤の胸に飛び込んだ。そのまま二人して倒れ込むかと思ったけれど、彰胤はびくともしなかった。
「大丈夫かい?」
彰胤はよろけてぶつかったと思っているらしい。心配する声がすぐ耳元に聞こえた。宵子は女房たちには聞こえないように、彰胤に囁いた。
「東宮様、お逃げくださいませ」
精一杯の力を込めて彰胤を突き放した。目を見開いて驚いている彰胤の顔を見ながら、宵子は反動で後ろに倒れ込んだ。
「行きなさい!」
その時、女房の鋭い声が響いた。どたどたと無粋な足音がいくつも聞こえてきた。しかし、彰胤はその場から動こうとしない。このままでは彰胤が逃げきれない。
「不届き者を捕らえよ!」
しかし、兵が向けられているのは、彰胤ではなく宵子のほうだった。どうして、と思う間もなく腕をねじり上げられた。
「うっ」
痛みに呻きながら、宵子は女房を見た。変わらず、宵子のことを見もしない。
「出てきていいよ。で、こいつら捕まえて」
彰胤の先ほどまでと変わらない穏やかな声を合図に、別の兵がなだれ込んできた。突如として兵が入り乱れる混戦状態になった。その混乱に乗じて、一人の兵が彰胤に迫る。
「危ない!」
宵子が思わず声を上げると、彰胤はその存在に気付き、体を半回転させて攻撃を避ける。流れるような動きで、兵の足を払って床に伸した。別の兵がやってくるが、腕をねじり上げて他の兵を巻き込むように突き返す。
「その手を放せ」
宵子の背後にいる兵に、静かにそう言った。怒鳴られたわけでもないのに、兵は怯えた声を上げて手を放した。
宵子は腕の痛みから解放され、呆然と目の前で起こっていることを見つめる。
「腕は大丈夫かい?」
彰胤に問われて、こくんと頷いた。この場の喧騒にそぐわず、彰胤は穏やかに微笑んでいる。
後から来た兵は藤原側の倍はいて、すぐに制圧された。
「一体、何が……」
宵子の口から零れた呟きをかき消すように、女房が声を荒らげた。床に押さえつけられた体をよじりながら、彰胤へ訴えかける。
「東宮様! なぜ我々を捕らえるのでございますか! 我々藤原の者は、東宮様を殺そうとした不届き者を捕らえようと――」
「姫が、俺を? 一体、何を言っているのやら」
彰胤が、両手を広げて一切傷ついていない唐綾を見せつけた。
「なっ……」
女房は反射的に宵子のほうを見て、小刀がそもそも抜かれていないことを認識し、ようやく状況を理解したようだった。激しい怒りの目で睨んできた。余計なことを、と目が語っている。ここで初めて目が合った女房には、凶星が煌々と輝いているのが視えた。
「このっ、役立たずが! 呪いめ!」
その後は、口を塞がれて女房が何と言っているのか、聞き取れなかった。しかし、睨みつける目だけで女房の恨みと蔑みの念が充分に伝わってきて、宵子は視線から逃げるように顔を逸らした。
「連れていけ。東宮と、妃候補への狼藉、許されるものではないからね」
女房は抵抗を続けていたが、結局は藤原の兵とともに連行されていった。
再び、桐壺が静かになった。
「はあーやれやれ、そんなに冬の宮が邪魔なんだなあ、まったく」
「どう、して……」
宵子は上手く声が出せないまま、そう呟いた。妃候補を追い返す冷酷な冬の宮、それが藤原にとって邪魔な存在である、とはいまいち結びつかない。
「君、俺がどうして冬の宮、って呼ばれているか、理由を知っているかい?」
「えっ……それは」
「構わないから、言ってごらん」
「……妃候補の姫君を何人も追い返している冷酷な御方だから、春ではなく冬の宮だと」
姉たちが話していた内容をそのまま答えた。彰胤は怒る様子は見せず、ため息混じりにやっぱりか、と呟いた。
「何も知らずに、中納言に送り出されたんだね。そんなところだろうと思ったけれど」
彰胤は、手招きをして宵子を目の前に座るように示した。宵子はそれに従った。
「今上帝は俺の腹違いの兄上で、俺は東宮の地位にいるが、父も母も亡くなっていて後ろ盾が弱くてな。藤原たち摂関家は、俺の従弟にあたる若宮を東宮に推している。若宮が東宮になるまでの繋ぎ――本来の春の宮までの繋ぎの、冬の宮だそうだ」
春の前だから、冬であると。帝の弟であるというのに、まるでお前は東宮ではない、望まれていない存在だと、言っているようなものではないか。宵子は、衝撃とともに怒りを覚えた。この人に、そんな失礼な名を与えた顔も知らない者への。華やかな袿をくしゃりと握りしめる。
「宮中だと割と知られていることなんだけどね。宮中の外だと妃候補の話と絡めたり、いろいろと尾ひれが付いたりしているんだ。君と一緒でね」
宵子は、はっと胸をつかれた。思えば彰胤は、一度も宵子のことを朔の姫とは呼ばなかった。きっと知っていたのだろう、そう呼ばれている理由を。
「ああ、そうそう。宗征が学士の身分なのに、東宮大夫なのは、冬の宮の下だと出世が見込めなくて誰もやりたがらなくてね、こうなっているんだ」
「そのようなこと、東宮様の口からおっしゃらないでください」
宗征が少し怒ったような口調で言いながら、桐壺に入ってきた。彰胤は、宗征の言葉をさらりと流した。
「戻ってくるのが早かったな。もう分かったのか」
「はい。向こうの兵の一人が口を割りました。姫を入内させ、東宮様を殺せればこれ幸い。そうでなくとも、お荷物な姫を亡き者にする口実にと考えていたそうです」
「まったく。そのように簡単に口を割る者は伏兵に向いていないだろうに。中納言の人選はいまいちだな」
「東宮様、注目すべきはそこではございません……」
自分の命が狙われる計画があったと知ってなお、彰胤の様子は変わらなかった。穏やかな笑顔のまま。
宵子は、じんわりと宗征の報告の内容を理解し始めた。宵子が彰胤を殺せるかは、どうでも良かったのだ。父はどちらにしても、宵子を殺すつもりだったのだろう。運が良ければ摂関家の邪魔になる東宮を殺せるかもしれない、その程度の期待。いや、期待ですらない。
「わたし、は……」
ただの使い捨ての駒じゃないか。
認めてやるなんて、母屋に置いてやるなんて、嘘だった。その事実に失望している自分に気が付いた。殺されそうになった相手に、認めてほしいと願っていた。なんて、滑稽なのだろう。自分の愚かさに涙も出ない。
宵子は、ぼんやりと彰胤を見つめる。その目にはもう凶星はなかった。老師の手紙にあった、試練を越えることはできなかった。でも、この人を殺さずに済んで良かったと思う。後悔はしていない。
「君は、その様子だと、本当に何も知らされていなかったようだけど、どうして暗殺の計画に入っていたんだい」
「……父に命じられました。わたしは藤原の家で存在しないも同然でした。逆らうことはできません」
「衣装合わせの時に、自分の家の女房との距離感がおかしかった。冷遇されていたのは確かなようだね。ひどいことをする。目が行き届かなくて、すまない」
彰胤が、申し訳なさそうな顔をして目礼した。宵子は慌てて何度も首を振る。
「東宮様が謝ることではございません……!」
「中納言には、成功すれば認めてやる、とでも言われたのかい」
「どうして、それを」
言い当てられて、宵子は目を見開いて彰胤を見つめた。彰胤は苦々しい顔をしている。
「あの男が言いそうなことだ。自分の娘にまで言うほど腐っていたとはな」
何も言わない宗征も、ここにはいない父への軽蔑の表情を浮かべていた。内裏の仕事で会う機会はあるだろう。もしかしたら、宵子よりも父のことを知っているかもしれない。
「認めてほしい、その想い自体は間違えていない。ただ、やり方と相手を間違えている。この綺麗な手に、刀を持つ必要はない。それから、君を尊重しない相手に認めてもらう必要はない」
彰胤は、宵子の顔を覗き込んで、にっこりと笑った。安心させるような穏やかな笑み。
「まあ、もう分かっているみたいだけどね」
「え」
「だって、君は俺を逃がそうとしただろう。中納言からの命令を放棄して、認められることを諦めて、逃げろと言ったんだ。だから、君は大丈夫だよ」
大丈夫、その言葉が宵子の中に染み込んできた。宵子はすでに、父に逆らうことを選んでいた。
「わたしは、大丈夫……」
「ああ、大丈夫だよ」
堰を切ったように、ぽろぽろと涙が溢れ出てきた。どうしてこんなに泣いているのか、よく分からなかった。さっきまでの緊張からの解放なのか、父に逆らうことができた喜びなのか、この人の声に安心したのか。どれも合っているようで、違うような気もする。
宵子は今さら檜扇で顔を隠す。流した涙の分だけ、心が軽くなっていくような気がした。
涙がひいてから、宵子は彰胤に向き直って頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
「いや、君のおかげで助かったのは事実なんだよ。中納言が何かしてくるとは思っていたんだ。でも、いつどこで、何を仕掛けてくるかは分からなかった。だから、君の星詠みのおかげで日付と場所が絞り込めて助かった」
「わたしの星詠みを、信じておられたのですか。父、中納言が送り込んできたわたしの言うことを……?」
「ああ。宗征が転んだ日付と方角が一致していたし、この計画を示す凶星の方角も、衣装合わせの場が桐壺だと伝える前に当てていただろう? だから本当だと思った」
この人は、とても冷静に正確に、状況を見ている。東宮として上に立つ者だからできることなのだろうか。
「東宮様、そろそろ」
宗征が声をかけた。視線が宵子のほうに向いているのは、女房たちのように宵子も連行されるからだろう。暗殺の計画の中にいたのだから当然だ。
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