後宮の星詠み妃 平安の呪われた姫と宿命の東宮

鈴木しぐれ

文字の大きさ
表紙へ
3 / 21
1巻

1-3

しおりを挟む
「君が、中納言の暗殺計画に加担していたことは事実だ。この世には知っているだけで罪になることがある」
「はい。承知しております」

 彰胤は、淡々と事実を並べた。宵子も理解しているから、その言葉に頷いて立ち上がろうとした。

「それを、不問にする。俺の妻になってほしい」
「え」
「え」

 聞き間違いかと思った。だが、同じように驚いている宗征を見るに、聞き間違いではないらしい。

「東宮様、一体何をおっしゃっているのですか! 東宮様を殺そうとした者を不問にするどころか、妃に迎えるなど、あり得ません」
「だって、姫は殺そうとしてないし、巻き込まれただけだし。それに未来が分かるなんて、面白いじゃないか」
「不問の対価が面白い、ではさすがに……」
「お前も、早く妃を迎えてうるさい爺どもを黙らせろと言っていただろう」
「そのような言い方はしておりませんが、東宮様が姫君を追い返すからでございましょう」
「摂関家に近い姫を迎えたら、面倒になることは目に見えている。それに、揃いも揃って嫌々やってくるし」
「それは、そうでございますが……」

 宵子は、彰胤と宗征のやり取りを、はらはらしながら聞いていた。彰胤がこちらに向き直ったから、宵子は自然と背筋が伸びる。

「姫」
「はい」
「俺には、やらなければならないことがある。星詠みの力があると助かるんだ。君は牢に入ることはなくなる。だから、取引ってことでどうかな?」

 これを断れば、牢に入ることになる。それは避けられるなら、避けたい。でも、それ以上に彰胤の言った『面白い』という言葉に惹かれていた。呪いと言われ続けてきた星詠みは、この人にとっては面白いものらしい。
 太陽の傍に新月だなんて、とても似つかわしくないけれど。手を差し伸べてくれるなら、その手を取りたいと思った。

「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしく」

 頭を抱える宗征を横目に、彰胤はいたずらが成功した子どものように、楽しそうに笑っていた。



   第二章 桐壺と澪標


 あの騒動の翌日、宵子は彰胤の住まう殿舎、梨壺に呼ばれていた。

「君に紹介したい者がいてな」

 彰胤に促されて、一人の女房が進み出た。

「本日より、姫様にお仕えします。弁命婦べんのみょうぶ、もしくは単に命婦とお呼びくださいませ」
「あの、この女房は東宮様付きの者ではございませんか」

 昨日の衣装合わせの時に、東宮の着付けをしていたうちの一人だったはず。彰胤にまだ動くなと言っていた、あの女房だ。

「ああ。俺に仕えていた、信用のできる者だよ。君のところの女房頭にと思ってな」
「よろしいのですか」
「先日の件で藤原の者は信用できないから、こちらから付けたほうが安心だ。この命婦の母は、俺の乳母めのとの一人でな。命婦のほうが七歳上で、姉弟のように育っていた仲だな」
「さようでございますねー」

 命婦――清原きよはらの仲子なかこは、彰胤の頭を撫でるような仕草をしてみせ、にこにこと笑っている。

「命婦、東宮様に馴れ馴れしいぞ。慎め」

 宗征が注意をするけれど。

「いつものことじゃないか」
「いつものことではありませんか」

 彰胤と仲子は同じ調子で返していた。本当に姉弟のようで微笑ましい。
 ただ、宵子は女房というものにいい思い出がない。三歳以前は世話をしてくれた者がいると、老師から聞いているけれど、幼くてまったく覚えていない。朔の姫は無視して当然、そうでなければ見下し、蔑む。そういう女房しかいなかった。誰かを自分の近くに置くことは、気が進まない。

「あの、わたしに女房は必要ありません。大抵のことは一人でできますので」
「まあ! そんな寂しいことを言わないでください。姫様のお世話をするのが、女房の仕事でございます。あたしの仕事を取らないでくださいませ」

 怒る、というより拗ねるような可愛らしい口調で、仲子はそう言うと宵子の前にかしずいた。

「姫様にとっては、あたしはいらないものでしょうか」
「……っ、違うわ。朔の姫に仕えるなんて、誰だって嫌でしょう? だから、誰も必要ないと」

 喉に言葉をつっかえながらそう言うと、なぜか仲子は泣きそうな顔になった。

「誰が、そのようなことを申したのですか。そんな、ひどいことを」
「皆、そうだったわ。呪われた姫に仕えるなんて、凶事でしょう」
「あたしは違います! そもそも、朔の姫の噂は、すべてでたらめだったではありませんか。未来が視えることだって、素敵なことです」

 仲子が星詠みのことを口にして、思わず彰胤を見ると、静かに頷いた。

「命婦には話してある。大丈夫、他の者に話すつもりはないよ。君の一番近くに置く信頼のおける者だから、君が隠しごとで気負う必要のないようにね。もちろん、婚姻の取引のことも知っている」

 仲子は、お任せください、と自分の胸を打った。宗征が、はしたない、と注意している。仲子は気を取り直して口を開いた。

「姫様は、凶兆が視えるのでございますよね。では、あたしの目を視てくださいませ。姫様に仕えることが、あたしにとって凶事なんかじゃないって、分かっていただけると思います」

 ずいっと顔を寄せてくる仲子の目を視る。
 宵子は目を疑った。そこには、凶星が一切なかったのだ。大なり小なり、人の目の中には凶星が必ずある。宗征のように、少し躓くだとか、ほんの些細な凶兆でも星となって現れる。仲子には、それすらない。

「こんなことが……」
「どうでございますか?」
「ないわ。一切、凶星がない。こんなに強運な人がいるなんて驚いたわ」
「えへへ、あたし、運はものすごくいいんですよ。自慢じゃないですけど」

 仲子は胸を張って、言葉とは反対に、自慢げににっこり笑った。そして、宵子の手を取って静かに続けた。

「姫様に仕えることは、凶事などではございません。今も、これから先も」
「本当に、命婦はいいの? 元々、東宮様にお仕えしていたというのに……」
「それが命令でございますから。ですが、こうして姫様にお会いして、姫様付きになれることが嬉しいのです」
「どうして」
「だって、東宮様よりも、姫様のほうが可愛いんですもの!」

 当然と言わんばかりの勢いでそう言われたが、答えになっていないような気がする。助けを求めて彰胤を見ると、苦笑いを浮かべていた。

「こいつの価値基準は『可愛い』ことなんだ。変わっているが、悪いやつじゃないよ」
「可愛いことは正義でございますよ! 人も動物も、草木も花も、可愛いことは素晴らしいことです。東宮様もお生まれの時はもう、この世にこんなに可愛らしいものがあるとは! と思いましたが、最近は可愛いというところからは離れているような気がいたします」

 確かに、とうに元服げんぷくした男性を相手に可愛いを求めるのは違うと思う。東宮様が可愛くないとは愚弄ぐろうか! と見当違いなことを言っている宗征の言葉を聞かなかったことにしたらしい仲子は、宵子の傍にぐっと寄ってきた。

「本当に可愛らしい御方でございますね。長く艶やかな黒髪、白く透き通った肌、切れ長の目は可愛いと言っては失礼なほどお美しく、紅を差した唇も頬も可愛らしく――」
「待って。急に、恥ずかしいわ」

 仲子が恥ずかしげもなく真っすぐに褒めてくるから、宵子は顔を覆った。きっと顔が赤くなっている。

「あら、本当のことでございますのに。ねえ、東宮様?」
「そうだね」

 間髪を容れずにそう言う彰胤のせいで、より一層、顔が熱くなった。赤い顔を隠しながら彰胤をちらりと見る。彰胤は、この状況を面白がっているのか、ずっと楽しそうな笑みを浮かべて仲子と宵子のやり取りを見ていた。一方、宗征はずっと険しい顔をしている。
 仲子は、少し改まって宵子に問いかけた。

「あたしを、姫様の傍に置いていただけますか」

 女房は皆、朔の姫を嫌うと勝手に思い込んでいたのは宵子のほうだった。そうではない人もいるのかもしれないと、少し期待を持った。

「ええ。こちらこそ、よろしくね」
「ありがとうございます! また婚姻の儀の後には女房が増えるので、今のうちに準備を進めておかなくてはなりませんね」
「えっ、女房が増えるのでございますか」

 宵子は彰胤に問いかけた。ここまでの宵子の様子を見ていた彰胤が、少し言いにくそうに口を開いた。

「そうなんだよね。東宮の妃になると、ある程度の人数の女房は必要でね。命婦と同じく、俺に仕えていた信頼できる者を置くから、不安には思わないで」
「分かり、ました」

 これも、取引の一環と思うことにした。暗殺計画の件を不問にしてもらうのだから、わがままは言えない。

「そうそう、命婦を紹介するのと、もう一つ話があってね」

 彰胤の顔には、少し険しさが見える。あまり良くない話なのかと宵子は身構える。

「実は、中納言が、君を返せと言ってきているんだ」
「え……」
「相応しくないからとか、きちんと妃教育ができていないからとか、先日の件で迷惑をかけたから、とかいろいろと理由を並べ立ててね」

 そういえば、昨日のことで中納言である父にもとがが及ぶことになったのでは、と思い至る。彰胤は宵子の考えていることを察したようで、宗征に説明を、と短く指示をした。

「昨日、女房や兵がしたことは、東宮様をお守りしなければ、と気負った末の勘違いゆえ、と釈明していました。中納言は、あくまで配下の独断と暴走ということにしたいようです」

 暗殺や襲撃を命じておきながら、父は何も知らないとしらを切り通すつもりらしい。

「まあ、相応しくない、という点においては、中納言と同意見ですね。この婚姻には反対です。藤原の家に返すのがよろしいかと存じます」

 宗征が淡々と、そう彰胤へ進言した。ちらりと宵子を見た宗征の眼差しは冷たく軽視するものだった。仲子とは正反対の視線に、宵子は身を硬くする。何度向けられても慣れない、朔の姫への蔑み。

「それはお前が決めることではないよ」

 彰胤の口調は穏やかなままだが、なぜか圧を感じる。宗征は一瞬、気まずそうに視線を逸らしたが、意見を変えようとはしなかった。

「東宮妃は、東宮様に相応しい相手でなくてはなりません。足手まといになります。私は認めません」

 きっぱりと言うと、彰胤にだけ礼をして梨壺を後にしてしまった。彰胤はため息とともに宗征の背中を見送っていた。

「もう! 学士殿は何を言っているのですか! こんなに可愛らしい姫様のどこに不満があるというのでございましょう。それに、東宮様のお選びになった御方じゃないですか。主人の決めたことに文句を言うなんて」

 仲子は、頬を膨らませながら怒っていた。宵子や彰胤の七歳上と言っていたから、二十五歳。仲子のほうが可愛らしいと思う。

「姫様だって怒ってよろしいのですよ、あんな失礼な男!」

 朔の姫への蔑みなどで、怒ることはもう長年していない。その言葉の鋭さや怒気に怯えることはあっても、怒りにはならない。きっとどこかで諦めてしまっている。

「学士殿の言うことは、正しいわ。わたしは、東宮妃にはとても相応しくないもの」
「だめだよ」

 彰胤が短い言葉で、はっきりと言った。

「自分を下げるような言葉を言ってはだめだよ。婚姻の儀は、この中納言の問題を解決してからにするけれど、俺は君を追い返すつもりは一切ないからね」

 彰胤は、眩しく思うほどの真っすぐな笑みを浮かべている。宵子は太陽のような笑みに微笑み返せるほど、自分に自信などなかった。頷くふりをして、俯いた。


   *


 宵子は、仲子とともに桐壺へ帰る渡殿を歩いていた。前を歩く仲子は、まだ宗征に対してちくちく言っていたが、ふいに立ち止まった。

「どうしたの?」
「お召し物が汚れてしまいますので、お下がりください」

 仲子の肩越しに見えたのは、渡殿の幅めいっぱいに広がっている汚れだった。土をき散らしたようで、確かにこのまま進めば引きずって歩いている着物のすそが汚れてしまう。

「もう! 一体誰がこんなことを」
「まるで、源氏物語のようだわ」

 宵子は思わずそう感想を零した。
 源氏物語。枕草子と並んで有名な、宮仕えの女房が書いた長編小説だ。帝の息子の光源氏ひかるげんじを主人公とした、宮中での恋模様、権力争いが描かれている。老師との問答でもたびたび出てきていた。
 帝から類まれなる寵愛を受けていた桐壺の更衣こういという女性は、その寵愛と身分の低さゆえに、他の妃から嫌がらせを受けていた。妃たちは、帝に召されて清涼殿に向かう桐壺の更衣が通る道に、汚物を撒き散らして妨害したのだ。

「姫様、物語のようだなんて、呑気なことをおっしゃらないでくださいませ」
「でも呼ばれた先ではなく、帰る時だなんてずれているわね」
「確かに源氏物語では、帝に呼ばれているから急がなきゃいけないのに、通れないっていう話でしたけど。そういうことではなく! ともかく、東宮様にご報告しなくては」

 仲子は、憤りをあらわにしているけれど、宵子は怒りよりも、感動すら覚える。物語のようなことが、宮中では本当に起こるらしい。
 言い終わらないうちに、仲子は足早に梨壺へ引き返そうとした。宵子は、着物を掴んでそれを止める。

「待って、命婦。そんな大げさよ」
「大げさではございません。東宮妃に、嫌がらせをした者がいるのですよ!」
「正式に妃になったわけでもないし、ただの取引で妃になる予定のわたしが、迷惑をかけるわけにはいかないわ」
「でも……」
「床が汚れていただけよ。わたしに向けた嫌がらせかどうか分からないわ。お願い、命婦」
「姫様がそう、おっしゃるのなら……」

 渋々だが、仲子は承知した。宵子は再び目の前の汚れに目を向ける。

「これが、物語のように汚物だったら、異臭がして大変だったわね。乾いた土が散っているだけだから、掃除もすぐに終わりそうね。早くしてしまうわね」

 宵子は、掃除をするのに邪魔になりそうな着物を持ち上げたのだが、目を丸くした仲子に素早く戻されてしまった。

「何をなさっているのです!」
「え? ここを掃除しようと思ったのよ。さすがにこのままじゃ、着物が汚れてしまうもの」
「そのようなこと、姫様がする必要はございません。そういう仕事をする者がおりますので。食事や、洗濯など、着付けも含めて姫様に仕える者の仕事でございます」
「じゃあ、わたしは何をすればいいの……?」

 今まですべて自分でやってきたのに。誰かに自分のことをしてもらうなんて、想像がつかない。

「そうですねー、桐壺のあるじとして、堂々としていらしてください。後は、顔と名前を覚えてくださると、女房たちは喜びます」

 仲子はにっこりと笑って言った。たくさんの女房の顔と名前を覚える、今までほとんど人との関わりがなかった宵子にとっては、なかなか難しいことだ。宵子は、ぐっと力を入れた。

「分かったわ、頑張るわ」
「少しずつで大丈夫ですよ。――あ、そこの二人、ここの掃除をお願いできる?」

 仲子は近くを通った女性二人に声をかけた。質素な服を着ている二人は、仲子に呼ばれると、かなり急いで駆けてきた。宵子よりも少し年上だろうか。

「かしこまりました」

 二人は床に膝をついて、拝礼している。汚れている床に着物が少し触れてしまっている。

「着物が汚れてしまうわ。立って、土を払わないと」

 思わずそう声をかけたが、目を見開いて固まってしまっている二人を見て、さあっと血の気が引いていくのを感じた。朔の姫などに声をかけられるのは、迷惑なだけなのに。直前まで仲子と話していたから、失念していた。

「えっと……」
「あの……」

 二人とも困惑した表情を浮かべて、お互いに顔を見合わせている。やはり、呪われた姫なんて、災いの元だ。

「姫様」
「あ、ごめんなさい。わたしなんかが声をかけてしまって」

 仲子の呼びかけで、宵子ははっとして謝った。すると、さらに二人の顔が困惑に包まれた。少し慌てた仲子が、早口で教えてくれた。

「そうではないんです。この者たちは、雑仕女ぞうしめでございます。姫様とは身分が違いすぎるので、普通は声をかけられることなどございません。恐れ多くて、固まっているだけなんです」

 雑仕女とは、仲子のように誰か個人に仕えるのではなく、宮中全体で働く身分の低い女性たち、だったはず。冊子で読んだ知識を引っ張り出した。

「話しかけて、迷惑だったわけじゃないのね」
「相当、驚いたとは思いますが」

 仲子の言葉に、二人はこくこくと頷いている。そうなると、少し不思議に思えてくる。

「話しかけることはないって、普通の姫君はどうしているのかしら」
「ただ通り過ぎるだけでございますよ。彼女たちは拝礼のまま、姫君が立ち去るのを待つのが、慣習ですから」

 頭を下げたまま、声をかけられることもなく、過ぎるのを待つ。それは、あまりに存在を無視した対応ではないか。役立たずの宵子とは違って、宮中で皆のために働いてくれているのに。

「ねえ、命婦。雑仕女には名前を聞いてはいけないの?」
「雑仕女の名、でございますか」

 仲子は、少し困惑したような表情を浮かべた。仲子の言った、女房たちの名前を覚えてほしいという第一歩として、二人の名前を聞きたいと思った。でも、それが姫君として普通なのか、分からない。

「いけない、ということはございませんよ」

 仲子は少し考えた後、そう言って微笑んだ。きっと、その反応からして普通ではないのだろう。けれど、存在しないように扱われることが辛いことを、宵子は知っている。

「二人の名前を、聞いてもいいかしら」

 雑仕女の二人は、恐縮しながらもそれぞれに答えた。

「その、高貴な方々のように、特別な呼び名は持っておりません。呼ばれる際には、ただ、かやと」
「ええっと、わたしは、なえと呼ばれております」

 背の高いほうが茅、小柄なほうが苗、と宵子はそれぞれ覚えた。自分でするはずの掃除を頼むのは、何だか違和感があるけれど、それは飲み込んで茅と苗に言った。

「茅と苗。ありがとう、ここの掃除をお願いしていいかしら」
「は、はい。仰せのままに」
「すぐに掃除をいたします……!」

 二人は、勢いよく一礼すると、掃除道具を取りにぱたぱたと走っていった。

「やっぱり、迷惑だったかしら」
「いえ、慣れていなくて驚いただけかと。姫様は、身分の低い者にも声をおかけになって、お優しいのですね」

 そう仲子から、きらきらとした目で見つめられたけれど、宵子は緩く首を振った。そんな大層なものじゃない。

「……優しくは、ないわ。無視されることが辛いのは充分に知っているから。だから、それを誰かにしたくないだけなの」
「お優しいだけでなく、お強いのですね。ご自分にとっての苦しさを他の者にぶつけることはなさらない。強くなければできないことです」
「ありがとう……」

 そうやって言ってくれる仲子のほうが優しく、強いと思う。この人に仕えてもらって、せめて恥ずかしくないようになりたい。


 桐壺に戻ると、女官が宵子たちを待っていた。

「客人がお見えでございますが、いかがいたしましょう」

 宮中まで宵子のことを訪ねてくる人なんて、いないと思うのだけれど。

「どなたがいらっしゃっているのかしら」
「中納言様の遣いの方でございます」

 宵子は反射的に身を硬くした。父がわざわざ遣いを送り込んでくるなんて。いい話ではないことは、容易に想像ができる。あまり、会いたくはない。怖い。でも、逆らうことはできない。

「分かったわ……」

 女官が、呼んで参りますと下がってから、すぐに御簾の向こうに遣いがやってきた。女房ではなく、男性の従者が来たことから、父がすぐにでも連れ戻したがっていることが分かる。

「姫様、中納言様が藤原の家に戻ってきて良い、との仰せでございます。一刻も早く、お戻りください」

 戻ってきて『良い』なんて、嫌味な言い方だ。宵子が暗殺の計画を知っているから、父の指示があったことを知っているから、早く宮中から引き離したいのだろう。もしも、家に戻ったりしたら、殺されてしまう。彰胤の暗殺の成否に関係なく、宵子を殺そうとしていたのだから。宵子は、ぐっと両腕を抱きしめる。何枚にも重ねた着物の上からなのに、その爪が腕に食い込むような錯覚さえした。恐ろしい……

「姫様、大丈夫でございますか」

 隣にいる仲子が、心配そうに声をかけてくれた。仲子は、宵子の代わりに従者に問いかけた。

「中納言様は、他に何と仰せでございましたか」
「姫様を心配しておいででした。箱入り娘がいきなり宮中に出ては、さぞ苦労していることであろうと。悪意も混在する場所であるからと」

 従者の口調も言葉も、外向きの取り繕ったもの。本気で宵子を心配してなどいない。ただ、言葉の中に少し引っ掛かるものがある。悪意、とは渡殿が汚されていた嫌がらせのことを指しているのだろうか。宵子が宮中を離れたいと思うよう、仕向けられたのかと、勘ぐった。
 考えすぎかと思ったが、仲子も同じように考えたらしく、あからさまに従者に向けて顔をしかめている。

「この御方は、東宮様が妃にと所望しておられる方でございますよ。東宮様のお許しもなしに、連れ帰れるとお思いですか」

 仲子は、言葉の上ではぎりぎり礼儀を保っているが、声音が怒っていると言っているようなものだ。従者はそそくさとその場を後にした。また来ますと言っていたが、それにも仲子は相手が去ってから小声で言い返していた。

「二度と来るなー!」

 子どもの喧嘩のように言うものだから、可愛らしい。少し気持ちが和らいだ。

「姫様はもっと怒っていいんですよ、あんな失礼なやつ」
「いいのよ、いつものことだから」
「よくありませんよ。あんなのばっかりなんですか。姫様のご実家って」
「そうねえ、あまり母屋の人たちとは話さなかったから、分からないわ」
「はっ、つい、ご実家のことを悪く言ってしまいました。姫様は、帰りたいとお思いですか……? でしたら、余計なことを申しました」

 仲子が、恐る恐るそう聞いてきた。
 帰りたい? 老師が来ることのない、あの離れに? 自分に問いかけて、答えはすぐに出る。

「帰りたいとは思わないわ」
「そうでございますか」

 仲子は、ほっとした表情になった。対照的に宵子の顔は曇る。帰りたいとは思わない。でも、他に帰る場所なんて、宵子にはない。ここにいられるのも取引のおかげで、いつまでいられるか分からない。第一、宗征に認められていないのだし。

「姫様?」
「いえ、何でもないわ」

 不安を押し殺して、宵子は返事をした。ここにずっといたい、そう思うことも、口にすることもできない。そんな勇気なんてない。


   *


 翌日も、宵子は梨壺に呼ばれていた。朝日が差し込む渡殿を歩いていく。
 昨日の雑仕女の二人が庭を掃除しているのが見えた。仲子は、宵子が朔の姫だからではなく、中納言の姫君だから恐れ多く、あんな反応だったと言っていた。それを疑っているわけではないが、もう一度、声をかけることを躊躇ちゅうちょしてしまう。
 でも、無視はしたくはない。

「大丈夫ですよ、姫様」

 隣を歩く仲子が小さな声でそう言った。にっこりと笑うその顔を見たら、大丈夫だと思えてきた。

「茅、苗、おはよう」

 茅と苗は、はっと宵子のほうへと向き直り、深々と頭を下げた。

「おはようございます、三の姫様」
「おはようございます」

 宵子は、もう一言だけ付け加えた。

「お掃除、ありがとう」
「いえ、とんでもございません」
「いってらっしゃいませ」

 拝礼のままだったが、顔を上げさせるのは慣習に反するとは聞いたから、宵子はそのまま歩き出した。少し見えた横顔は、やはり戸惑いの表情だった。

「やっぱり、迷惑だったかしら……」
「昨日と同じく、慣れていないだけでございましょう。ただ……少し気になりはしますね」
「気になる?」
「あ、いえ、大したことではございませ――あれ?」

しおりを挟む
表紙へ
感想 1

あなたにおすすめの小説

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です

ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」 「では、契約結婚といたしましょう」 そうして今の夫と結婚したシドローネ。 夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。 彼には愛するひとがいる。 それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

お飾り王妃の死後~王の後悔~

ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。 王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。 ウィルベルト王国では周知の事実だった。 しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。 最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。 小説家になろう様にも投稿しています。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。