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獣医という職がある。
この職業は漫画や小説、果ては映画でも取り上げられているので、知らない人はほぼいない。動物を相手にするお医者さん。多くの人が抱く印象はそんなところだ。
しかし実を言うと、それが全てではない。
国家試験に合格する獣医学生は一年間に約千人。そのうちの四割ほどは動物病院に就職するが、残りはあまりテレビなどでは映らない場所に就職する。
わかりやすいところだと、動物園や水族館など。
わかりにくいところだと、農済と呼ばれる農業共済組合や保健所の衛生担当、空港の検疫、製薬会社の研究職など。
スーツに見えなくもないカジュアルな服装で取り繕った風見心悟も、マイナーどころに勤める獣医の一人だ。
医者といえば理知的で勤勉なイメージが付きまといがちだが、彼は若干違う。
読むなら英字新聞より漫画や小説だし、クラシックではなくアニメやゲームを嗜む。テレビの動物特集やサイエンス番組が好きで、大自然やロマン、さらにはファンタジーといったものが好物な人種だ。
動物が好き。生命の神秘には心くすぐられる。そんな彼が行き着いた先が獣医という職業だった。少年の心を大人の型にはめたら、彼のような人が生まれるのだろう。
ただし、彼は変なところで現実的だった。
医者は金持ち。獣医も医者の一種だから金持ち。――そんな考えはただの幻想だ。
だから彼は、獣医なんて珍しい職に就いたにもかかわらず、動物病院ではなく、家畜保健衛生所という場所に勤めている。
要するに家畜の病気を防ぐための公務員獣医師というやつだ。確かにこれなら獣医でもあり、かつ公務員なので食いっぱぐれもしない堅実な選択であった。
だが、それだけで安穏と生きられるほど彼の人生は甘くなかった。
『――のようです。おそらく全頭殺処分のショックや経済的損失の大きさから自殺に至ったのでしょうね。検査がもっと早く正確におこなわれていたら、こんな事件も起こらなかったかもしれません。対応マニュアルに甘さがあったのではという追及の声も上がっています。さて、次のニュースですが――』
事務員を合わせても十人ちょっとしかいない職場。そこに備え付けられたテレビが朝のニュースを伝えていた。
コーヒーを飲みながらテレビを眺める人がいたり、デスクワークの合間に耳を傾ける人がいたりと、いかにも朝の業務始めという空気だ。普段なら談笑も聞こえていただろう。
だが今日という日は違った。
「好き勝手言いやがって」
誰かが悪態をついてチャンネルを変える。
「……」
机の上のファイルを片付ける風見にもニュースの声は届いていた。
しかし彼は黙々と作業を続ける。頑なにと表現してもいいくらいに打ち込んでいると老齢の所長が歩み寄り、肩を叩いてきた。
「あまり気を落とすな。お前さんだけのせいじゃない。マニュアルに足りない部分もあったし、全員の失敗でもある。あんなに数が多いんだ、仕方ないところもあるさ」
「いや、俺は大丈夫ですよ。これでも精神的にはタフですからね。……むしろ俺以外が大丈夫じゃなかったのが問題というか。今回も助けられる分岐点というか、他の選択肢もあったはずだなって思い返しているだけです。生物にも、教科書にも、診断法にも絶対はない。難しいものですね」
風見は症例の写真を集めたファイルや分厚い対応マニュアルを叩いて示した。
彼が担当した農家の一つで伝染病が蔓延したのだ。その結果はニュースのとおりである。
こんな時、前向きに笑ってみせるべきか、素直に気持ちを表して落ち込んでおくべきなのかわからない。結局どちらにも針が振りきれなかった彼は、苦笑に似た顔で誤魔化した。
心はそれほど病んでいない。それこそ時間がそのうち癒してくれるだろう。
……そのはずなのだが、見えない傷がじゅくじゅくと痛む気がするのもまた事実だった。
「とりあえず農家の訪問に行ってきます。選択を間違えないよう、慎重すぎるくらいの気持ちでやってきますよ」
もう失敗しないためにも、という言葉は呑み込み、彼はデスクを後にした。
†
アウストラ帝国の中央に位置する帝都には、琥珀宮と呼ばれる王族専用の庭園がある。そこには小川が引かれており、巨大な池が魚や水鳥を澄んだ水で受け止めていた。
川のせせらぎと、揺れる木々のざわめき、鳥の鳴き声。ゆったりと流れる時間に身を任せれば、心身ともに癒されることだろう。
その一角に、大理石でできた四方の柱と屋根だけの簡素な東屋が建てられている。そこに、この帝国の皇帝、シーザス・ロル・マグワイアが座し、紅茶を楽しんでいた。
「父上、お呼びでしょうか?」
シーザスの前に一人の青年がかしずく。その動作は優美で、非の打ちどころがない。
老成したシーザスの視線に晒されれば誰であろうと肝を冷やしメッキが剥げるものだが、目の前のこの青年、ユーリスは微塵も揺らがなかった。おそらく呼び出された用件も承知しているのだろう。
「宰相として国の些事はお前に任せている。ゆくゆくは第一皇子のお前にこの座を引き渡すことにもなろう。それもお前を信頼してのことだったが――お前は今、神官共と何をこそこそとしている?」
「それについては今日にでもご報告申し上げる所存でした。そのためにもまず一つ。父上はマレビトの伝説をご存知ですか?」
「知らないはずがあるまい。このトランジア大陸を支配する四つの国、それらの成立にも大きく関わった存在だ。伝説ではなくもはや史実ではないか」
教育されていない農奴の子すら知っていることだ。改めて問われるまでもない。
シーザスの呆れた口調を気にも留めず、ユーリスはそのままの調子で続けた。
「マレビトは異国――いや、異世界の知識や技術をもって勝てないはずの戦を勝たせた。小国を大国に成長させた。飢え、苦しむ多くの民を救った……その偉業を数えればキリがない。私はそんな伝説をこの国に喚ぶ話を取り付けるために奔走していたのです」
「その力で余から王位の簒奪を目論むか?」
シーザスの目は言葉と共にすっと細まる。
その気迫はまるでナイフのような鋭さでユーリスの喉元に突きつけられた。が、彼は「まさか」と大仰に首を振る。
前もって作られていたかのような表情だ。彼にとって表情など服選びや言葉選びと同じ。その腹の内は、結果が出るまで誰も知ることができない。
「今、父上の治めるこの帝国は諸外国の煩わしい圧力によって歩みを阻まれています。しかしこの大国が揺れれば大陸全土が揺れましょう。それを危惧したハドリア教は、この国が他国を率いる形で安寧を取り戻してほしいと、私にマレビトの召喚を打診してきたのです」
「愚かしいことだ。異世界の知恵、技術は確かに我らを凌駕していよう。だがその活躍の陰には常に戦乱があった。マレビトを巡り、またその技術を用いて一層の騒乱を巻き起こすだけ。あれに頼るなど律法を神に与えられた魔法と崇めていた古き時代の考えだ。お前がよもやそのような世迷言を言うとは思わなんだ」
本気で言っているのなら、他の子を次代に考えたであろう。
しかしそうではないのがユーリスであった。
シーザスは嘆くふりをして、ユーリスの演劇じみた振る舞いの奥底を読み取ろうとしていた。
「そのことは承知しております。マレビトは奇跡と繁栄を起こしますが、同時に戦乱と破滅も呼ぶ。だからこそハドリア教の神官はここ四百年、マレビトを喚んでいませんでした。ですがそうは言っていられない情勢であることは父上もご承知のはず」
「西か」
「まさしく」
この大陸は勢力争いが絶えない。
東西南北にそれぞれ国があり、南にあるこの帝国は温暖で実り豊かな土地を狙われ、常々東から侵攻を受けていた。
北は漁夫の利を狙っているのか不気味に沈黙を守っている。
そして西は自国での内乱が続いていたはずだった。が、最近それが一つの勢力にまとまり始めたというのだ。
雨の匂いと同じ。そういう時代になれば自然とわかる。
今までは小競り合いでしかなかったが、大陸全土に一気に戦火が広がるような嫌な臭いが立ち込めているのだ。
「父上。西にある彼の国は氏族の集まりでまとまりがなく、統一されても一代限りが精々でした。それが何故突然まとまりなど得られるでしょうか? それも耳が聡い者の報告によれば強力な魔獣すら討ち果たすほど軍が力を付けたと聞きます。その理由が気になりませんか?」
「……」
理由など容易に想像できた。この世界に急変を起こす存在など一つしかない――マレビトだ。
歴代の者たちは皆、同じ世界からやってきたという話だ。ならばこちらでもマレビトを喚び、訊けばいい。同じ世界の住人ならば原因を推測するくらいはできるだろう。
だがマレビトを喚ぶ理由としては弱い。何を起こすかわからない火をおこすくらいなら西へ密偵を送ればいいだけだと難色を見せると、ユーリスは待っていたように言葉を重ねた。
「過去の国々と同じ過ちを繰り返すほど神官たちも愚かではありません。今までとは違うマレビトを喚ぶのだと申しておりました」
「では何を召喚すると言う。大工か? 農夫か? 戦士や鍛冶師などはもう訪れておったはずだな」
「医者です。それも獣を相手とする医者だということです」
それを聞いた瞬間、シーザスは鼻で笑った。
「は、ははは! なんと医者か! ふん、では我が宮廷に迎え入れ、病に伏せった時は活用するとしよう。だがそれで果たして国が救えるか。むしろ国を救うのは病床から立ち上がる我らになるやもしれぬな」
ひとしきり笑い飛ばしたシーザスは皮肉を込めた物言いをする。
「そもそも、医者など眉唾物だ。益があるとも知れぬものを薬と言い、わけのわからぬ処置をする。だが結局のところ病を克服するのは己の力だ。老いてさえいなければ勝手に治る。いったい医者が何の助けになろう?」
医者を名乗る輩を上から見つめてきたシーザスだからこそ余計に思う。
医者という人種は金儲けのために商人と結託して、珍しい植物や宝石などを「万能薬」や「特効薬」と銘打って売るのだ。
我が治療法こそは正しいと患者の血を抜いたり、下剤を飲ませたり。それで病状が悪化すれば忽然と姿をくらませ、少しでも回復すればどうだどうだと胸を張る。
捕まえて断頭台にかければ今までの威勢もどこへやら。保身のためにあれやこれやと言い訳し、見苦しく泣き叫ぶ者たちだ。シーザスからすれば他国の親善大使とやらが差し出してくる握手と同じくらいに信用できない者たちである。
だがユーリスの表情には、ひび一つ入らない。
「我らが知る医者ならばそうであるかもしれません。しかし相手はマレビトです」
「よしんば病を治せたとしよう。だが一人の人間が疫病から救える数などたかが知れている。ましてや獣を診るしか能がない輩に何ができる?」
「父上、我らが食べるものは何ですか? 我らを領地や戦場へ運ぶものは? 我らの生活の根幹を支えているものが何であるのかを考えれば、意味のないものとは思えません。それにもし仮に貴重な飛竜やグリフォンといった獣まで診られる医者なら? その者が持つ価値は計りしれないと私は考えます」
その進言にシーザスはふむと関心を示した。
飛竜やグリフォンは適当に暴れさせるだけでも人間数十人分の働きをする。それを訓練した兵が駆れば小規模な敵なら一方的に蹂躙することも可能だ。
本当にそれが可能ならば有益に違いない。そうでなくとも西の動きの原因を探るくらいはできるだろう。
ならば、自由にやらせてみるのも面白い。しばし顎を揉んで考えたシーザスは鷹揚に頷き、「よかろう」と許しの声をかけた。
「ユーリス、その件はお前に一任しよう。その伝説の存在とやら、好きに扱ってみるがいい」
「ありがたき幸せ。父上のご期待以上の成果をお約束いたします」
立ち上がって再び一礼したユーリスは早速、指示を出すために辞去を告げた。
「せいぜい期待するとしよう」
シーザスは去っていく息子の背に声をかける。
それは本物の医者や医学というものをまだ知らない、剣と魔法の世界の住人の言葉だった。
†
風見は訪問先に向かって、職場の公用車である白いワンボックスカーを運転していた。
彼の勤める家畜保健衛生所は略して家保と呼ばれ、細菌やウイルス、寄生虫――有名なところだとBSE、口蹄疫、鳥インフルエンザなどを調べる。そして怪しいものを病性鑑定室と呼ばれるさらに専門的な調査場に送るのが仕事だ。
つまりは獣医の地味担当。普通の保健所とは違って家畜の防疫を主としている。
午前中に風見がおこなうべき仕事は、農場へ行って肉牛・乳牛の定例の血液検査と成績評価、そして今後の方針の相談などをすることだった。
ここでおこなうのはいかに早く、いかに良く、いかに安くできるかの追求だ。
簡単に言うと、どういう栄養と飼料をどの時期に与えればどうなるか。それを今までの成功例と照らし合わせて改良する作業の繰り返しである。
畜産農家の希望に沿った育て方を助言するのもれっきとしたお仕事なのだ。
「それと病畜が出た、ねえ……。今度は変なことがなければいいんだけど。とりあえず念入りに調べておこう」
これから行く農場からの報告書を思い出しながら呟く。
例えば鳥インフルエンザなどが発生した時のマニュアルは、それぞれの自治体で作られている。どういう検査をして、陽性だったらどこどこへ報告して――などだ。
しかし相手は生物だ。教科書どおりの症例とは限らないし、類似した別種の病気かもしれない。症状の似ている病気はいくつもあるのだ。
しかも相手にするのは日本全国で五百万の牛、一千万の豚、二億五千万の鶏、その他家畜。さらには渡り鳥などの野生動物が病気を広げることもある。これら全てに余すところなく対応しろというのは大いなる無茶だった。
だが、検査と対処が発症と蔓延の速度に追いつけない場合、農場全体に広がって全頭処分などに至ってしまう。
人知れず万を救うこともあれば、万を殺すこともある。それがこの仕事だ。
「ああ、もっとたくさん救えたらいいのに」
どうしても起こってしまうものなのだから多少は諦めるしかない――そうは思いたくなかった。少なくとも今回のようなことは二度は許したくない。あまり生真面目な性分ではない彼でもそう思って仕事に臨んでいた。
風見が用意したものはカメラと自前の顕微鏡。それに白衣や作業用のツナギ、解剖用のセット。さらには安全長靴や消毒漕など普段どおりの仕事道具も詰め込んだので、車の後部には大きな段ボール一つ分にもなる荷物が載っている。
マニュアルにプラスして何かできることはないかと模索した結果の大荷物だ。
「にしても、この農場は相変わらず遠いよなぁ」
風見は民家もまばらな細道をひたすら進んでいた。
と、そんな時。
『――なぁんだ、あっちも望んでんのかい。いいのを見ぃつけたっと』
「……?」
不意に誰かの声が聞こえたような気がした。しかし相席者なんていない。ラジオがしゃかしゃかとJ‐POPを流すだけだ。
「空耳、だよな?」
そうとしか考えられなかった風見はハンドルを切る作業に戻った。
それから約三十分が経過した。
彼はもう先程のことなんて忘れていたが、本当の異変の始まりはこれからだったのだ。
トンネルに差し掛かった時、ふいにラジオに雑音が入り唐突に途切れた。まあ、その程度は別に異様でもないのだが、同時にトンネル内の明かりが逃げ出したらどうだろう。
「は……?」
突然のことだった。
夜、街のネオンが尾を引いて遠ざかるように電灯が一斉に逃げ出した。そう表現するしかない現象が起こったのだ。しかもその速度は車の何倍も速い。数秒もすると明かりは見えなくなり、ずっと先まで暗闇に満ちた道となってしまった。
驚いてブレーキを踏み、後方を確認するが、そちらも真っ暗闇だ。こちらは逃げていく軌跡すら見えなかった。
「あー……。錯覚、じゃないよな? 日頃の仕事疲れが目に来たっていうのも……」
目頭を揉み、深呼吸をしてもう一度あたりを確かめる。
しかし、何も変わっていなかった。
ヘッドライトが照らす数十メートルはトンネルの内壁と路面が何とか見えるものの、その先は前後ともに真っ暗闇だ。奈落に挟まれた気さえしてぞっとする。
「……少し落ち着いてみるか」
混乱していても仕方がない。状況を一から整理するために冷静になろうとする。風見は、車を壁際に寄せ、ハザードランプを点けた。
そのまま目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をする。
「根を詰めて仕事をしすぎたか。……それとも祟られたかなぁ、俺」
胸に手を当ててみると、己の罪状がよくわかる。
動物を殺処分する時は指示書が渡される。
――病気の蔓延を防ぐために、あなたの家畜何頭をこういう手段を用いてあそこで殺します。ちなみに法律で定められているのでこの命令には逆らえません。変に逆らうと罰金か禁固刑です。しかし従えば手当金は交付されますよ。
そんなことが書かれている書類を畜産農家に渡し、殺処分をする前に判子を押してもらうのが有事の仕事だった。
しかも口蹄疫のような感染力が強すぎるものは新たな発症や感染を防ぐため、国の支援や手当金がしっかりと決まる前に健康なものも含めた全頭殺処分の了解を取り付けなければならないこともある。
『なんで健康なやつまで殺さないといけないんだ! あんたは動物を助ける医者だろう。それが動物だけでなくワシたちまで殺したいのか!』
と、襟を掴まれた記憶がよみがえる。
そんなはずはない。物言わぬ動物だって救いたかったから獣医になったのだ。
思い出すと胸がずきんと痛んだ。
「……さて、と」
休憩にほんの数分で区切りをつけて、目を開ける。
一寸先から果てまで真っ暗闇だ。状況は全く改善していない。
「何なんだかな、これは。本当に祟りとかそういうのか?」
試しに窓を開け、クラクションを鳴らしてみた。本来ならばけたたましい音が反響しただろうが、音は遠くに吸い込まれたように消えてしまった。
薄々わかっていたが、これは自分の失調とかいう問題ではないようだ。
真っ暗な部屋でがさりと物音を聞いた時に感じる、得体の知れないものが這い寄ってくるような不気味さと同じだ。何かに気付け気付けと耳元でささやかれている気がする。
風見はその予感に誘われるように車外に出た。
そしてその瞬間を境に異常はさらに激化し、本性を現し始めた。
「えっ……」
なんと突然、地面にヒビが走ったのだ。その光景に目を疑った。が、次の瞬間、足裏で感じていた地面の感触がいきなり激減し、ついには消失してしまった。風見は間一髪のところで飛び退る。
これは、間違いなく幻覚ではない。
「ちょ、え。いや、そんなまさかっ!?」
亀裂は驚くほどの速度で走り、避けたはずの風見の足下はおろか、そのずっと先までひび割れて崩落する。
「くっ……!」
咄嗟に手を伸ばした風見は車の窓を掴み、何とかぶら下がる。崩落した先には何もなかった。宇宙よりも暗い濁りが大口を開けている。
風見は車によじ登ろうと指に力を込めるが、異変はそれだけで終わらなかった。
なんと亀裂は地面や壁どころか空間をも走り、広がったのである。それはまるでテレビの中の世界が液晶と共に割れるかのようだった。事実、亀裂は風見の体までも貫通し、広がり続ける。
だが、割れたはずの体には痛みもなければ出血もない。ヒビに触れると体なんてそこにないかのようにずぶりと指が沈み込んだ。
これはやはり夢ではない。
びしびしと亀裂が広がる音とわけのわからない現象に脅かされ、心臓の鼓動は速まる一方だ。
次々に崩壊していく世界で、車の窓枠さえ砕けて消える。
風見は暗闇に落下した。
「何がどうなっているんだよっ……!?」
その言葉が、彼の故郷での最後の言葉となった。
第一章 異世界に喚ばれました
よく見た展開ではどうだっただろうか。
確か奇妙な現象に巻き込まれた主人公は穴に落ちたり吸い込まれたりして意識を失い、目覚めるとそこは異世界――そんなところだったか。
「トンネル……じゃ、ないよなぁ。どう見ても」
風見が目にしたのはもっと別のものだった。
砕け散った世界を見た。
砕け散った自分を見た。
けれども体がそこにあるのは感じていた。手もあるし、足もある。感じようと思えば心臓の鼓動だってわかった。
いくつもあった感覚の中、まず重力が消えた。
世界にヒビが入り、風景がメッキのように落ちたあたりからは全く意味不明だ。
ぐにゃんぐにゃんと歪む風景は何の脈絡もなく移り変わっていく。走馬灯の如く次々と変わる世界にとうとう吐き気をもよおした風見は、口を押さえてその場に手をついた。
「地、面……?」
手がつける――らしい。
彼は地面を見つめてからようやく気付いた。もうすっかり異常はやみ、重力も戻ってきている。
「おぇぇぇっ…………。うぅ」
だが気持ちが悪い。ひどい車酔いや荒れた飲み会明けのような気分だ。
胸に渦巻く気持ち悪さを吐き出せないまま、風見は青い顔を上げた。
「やあ。ご機嫌いかがかな、猊下」
「…………え?」
にぱっと、胡散臭い笑顔が視界に飛び込んできた。周囲には誰もいなかったはずなのに何故?
「ん、おかしいね。話によるとこの言語で合っていたはずだけど。How are you? それとも古語のように体に悪しきところはあらぬかと問えばいいのかい?」
目の前の青年はふむと顎を揉む。年齢は二十六の風見と同じくらい――なのだろうか?
リングで束ねた髪を肩から下げた彼はハリウッド俳優と見紛うばかり。その金色の髪も碧眼も生来のものらしい。
次から次へと予想外の事態に襲われた風見の思考回路は、読み込み途中で止まってしまった。
「あーあ、疲れた。仕事も終わったし、あたしゃもう休ませてもらうからね。クロエ、あんたはこっちで適当にやりなさい」
どこか聞き覚えがある女性の声。
「かしこまりました、リイル様」
「これはお疲れさまです、枢機卿。ゆっくりとお休みください」
ここはどこかの中庭のようだった。西洋風だがどこか雰囲気の違う建物にぐるりと囲まれ、すぐ隣には噴水もある。
先程の声は若い女性のものだった。
もう後ろ姿しか見えなかったが、金髪のその女性は頭をくしゃくしゃと掻くと、残業後のOLのような足取りで建物の中に消えていく。
彼女もまた外国人っぽかったことも驚きだが、髪から覗く耳がいわゆるエルフ耳のように尖っていたのが一番の驚きだ。
「あっちもこっちもなんだよ、これ……」
今さらながらに気付く。彼はたくさんの人に囲まれていた。
まずあの金髪碧眼の青年。
それから軍服の少女が四人。だが彼女たちは狼のような耳と尾がある少女だったり、猫の耳と尾を持つ少女だったりウサ耳お姉さんと褐色ウサ耳の幼女だったりと丸きりファンタジーの産物だ。
それにまだいる。
クロエと呼ばれたこれまた金髪碧眼で白いローブを羽織った神官風の少女に、軍服を着た剣闘士のような偉丈夫。おまけに彫刻の如く微動だにせず佇む執事まで。
ここまで揃うと何の集まりなのかもわからない。だが、全員の視線は確かに風見に注がれていた。
「やっぱり日本語で合っていたようだね。答えてくれないとは意地が悪いなぁ」
エルフ耳の女性を見送った青年が戻ってくる。
「まずは自己紹介を。僕の名前はユーリス・ロル・マグワイア。この国の皇太子であり、宰相も任されている。さて、君の名前を聞かせてもらって構わないかな?」
「えっと……俺?」
「他に誰がいるんだい?」
こんな人物に話しかけられる覚えのない風見は、つい左右を確認してしまった。差し出された手を掴み、立ち上がると困惑しながら「風見心悟です」と返す。
ユーリスや周囲の人の視線は風見に据えられたままだ。敵意を感じるわけではないが、こうも不思議な面々に見つめられると映画のスクリーンに入ってしまったような錯覚に襲われてどうも冷静に物を考えられない。
「じゃあカザミ、いつまでも立ち話というのもなんだ。休憩と状況説明もかねて場所を移動したいのだけれどいいかな?」
「あ、えーと。はい」
彼との距離感が掴めない風見は堅い口調だ。状況がわかるまではそうしておいた方が無難と社会人の習性が発動しているのである。
すたすたとユーリスが先を行くと、執事が館の扉を開けて待っていた。
「うっ……」
風見も一歩を踏み出そうとしたのだが、どうやらまださっきの異常のツケが残っていたらしく、吐き気と共に足がもつれてしまった。
けれどすぐさまやってきた金髪碧眼の少女が肩を受け止めてくれる。
「まだご気分が優れませんか? もしよろしければ私に寄りかかってください」
眩しいくらいの笑顔を向けてくれる彼女は、十五歳かそこらだろうか。
金髪を肩のあたりから三つ編みにした彼女は、身に羽織った純白のローブもあって清純さを絵に描いたような少女だった。ジャンヌ・ダルクもかくや、そんな容姿である。
少女にしては豊かな胸が腕に当たるので、風見は心臓を持て余してしまう。
「悪いな。えーと……?」
「クロエです。クロエ・リスト・ウェルチと申します」
そう言ったクロエは腕を支えたまま、何やらぽーっとした表情で風見を見つめていた。
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