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2巻
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ドニの部屋を出たグレンは、リズを腕に抱えたまま廊下を進んでいた。
よほど強く打たれたらしく、彼女は糸の切れたマリオネットのように力なく身を任せている。
「団長殿、何故あのような物言いを?」
「仕事が終われば報告は義務だろう? だから嘘偽りなく伝えた。命令されているとおりの仕事を果たしただけだよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「人は人形ではありませんぞ。言われたとおりを果たすだけでは――」
「グレン」
小言は聞きたくないとリズは声を遮る。
「お前にそんなことを言う権限はない」
「……そうでした」
ドニに対して口答えできないのと同じ。リズとグレンには明確な上下関係があるのだから、聞く義務はなかった。それに、言われる内容はわかりきっている。
「私よりも偉くなったらお前の言葉に耳を傾けてやるよ」
「こんな事態になっておるのだからどうなるやらわかりませんぞ」
「ん……あー、そうか。はは、それはそうだね。でもその前に私はゴミになるんだから、お前はずっと私の下だ。残念だが意見は聞いてやらんよ。残念だったね」
「ワシには婦女子をゴミ呼ばわりする趣味はありません」
見ていられないと言外に伝える瞳で見られるのだが、リズはそれでも、くくと笑って流した。
彼女はこんなときでも悪戯っぽい表情のままだ。
「団長殿は変わりましたな。強いことにはお変わりないし、容赦なく敵を倒すことも以前と同じです。が、どこか危うくなりました。今の団長殿はお役目を、ただこなしているだけに思えて仕方がない」
グレンは騎士崩れだった。
生活が苦しく盗賊騎士として街道を荒らしていたとき、ドニの外遊に連れ立っていたリズに出会い、そして打ちのめされたのだ。
あのときは剣と共に指を折られ、怯んだところで律法による大岩をぶつけられ、完全に鎮圧されてしまった。律法の差だけではない。剣技ですら敵わなかったのだ。女子供に負けるはずがないと高を括っていた彼はそれに強い衝撃を受け、以来彼女に付き従っていた。
奴隷や職権の上下関係以前に強さに惚れてしまったのだ。だから立場が変わろうとも部下以外になる気はない。けれどそんな彼だからこそ、最近のリズにはどこか違和感を覚えていた。
詳しいところは彼にもわからない。周囲の騎士に聞いても、気のせいでは? と返されるくらいに些細なものなのだ。
「そうか。そう思うならお前はリズをよく見ていたのだろうね」
「団長殿……?」
珍しく愉快そうに笑ったリズはグレンの顔に触れると、彼をよくよく記憶するようにじっと見つめるのだった。
†
ノーラの墓参り後、大人しく塔に隔離された風見は自分の体調を確かめ、グール予防のための抗体を注射した。だが、それからはやるべきことがなくなってしまった。
「俺、どうすればいいかな……」
ひゅうと吹き抜ける風だけが話し相手である。ここにはクロエもいない。リズもいない。一人っきりだ。
やることもなく、一人でいるとヒュドラとの戦いで助けることができなかったノーラのことをどうしても思い出してしまう。何かできたはずと何度も思い返していた。
……あのときのように自分の無力さを後悔する結末だけはもう御免だ。
「今やれることをやっておこうか」
グール化の恐れがあるため、今後十日間はドニの城の中央塔で過ごすことになっている。たとえ一人きりでもその時間は有効活用するべきだ。
当初はクロエが、
「いやですっ。たとえグールになろうと離れたくありません! 風見様に何かあるなら私も同じことを望みます。私をお傍から離さないでくださいっ、お願いします!」
と、涙ながらに訴えてきて大変だったが、そこはぴしりと駄目と言いつけておいた。
防疫の基本は感染源、感染経路、保因者への対策だ。下手をすると感染が広がりかねないと熟知している風見は厳格に対処した。相手がクロエだろうと例外はなしである。
「グールは何がどうして悪いのか、どうやって広まるのか。それをきちんと理解するのは重要なことだ。それを一番上手くやれるのは学校代わりでもあるハドリアの教会だろ? クロエにはそっちを任せたい」
一人一人が真実を理解すれば、変な噂や誤情報は出回らない。
病気に対する偏見や差別はこういうところから生まれてしまうので、その芽は早めに摘み取っておくべきである。
「…………はい」
言い含めるとクロエは涙を呑んで引き下がった。
そういうわけで今現在、ここには誰も入ってこない。だが、研究をおこなうなら道具を持ってきてもらう必要があるだろう。グリやグラだって他人には世話ができないだろうし、ここに連れてきてもらわなければいけない。
「とりあえず門番にいろいろとお願いをしに行くかな」
時間を無駄にしないためにも、彼は早速部屋の扉に向かった。
「おお。猊下殿、ちょうどいいところに」
部屋を出たところにグレンが待ち構えていた。彼はそのまま部屋の中に入ってくる。
その傍らには頭を押さえたリズもいる。風見は彼女の様子に目を見張った。
「どうしたんだよ、その怪我っ!?」
ヒュドラ退治の際には怪我なんて一つも負わなかったくせに、今の彼女は血の滲む包帯を頭に巻いていた。その痛々しい様子に、風見は急いで駆け寄る。
が、すぐに触れないほうがいいと思い直して立ち止まった。
「簡単に言うと、責任問題で八つ当たりされたというところですな」
「……ドニか」
グレンは無言でこくりと頷く。
人のことを悪く言うのは好まないが、ドニがいい人間から程遠いのは風見もよくわかっていた。
グールの件を強引に握り潰していたことからもそれがわかる。そんな彼に八つ当たりされたリズが、どうしてここに来なければならなかったのか?
風見にはすぐに粗方の察しがついた。要するに、ここは駆け込み寺なのだ。
「……で、俺はどうすればいい? ドニを引っ捕まえてお灸を据えてほしいって言うなら努力はするぞ」
「これもいつものこと。そこまでしてくださらなくともいいのです。しかし、願えるなら団長殿をここで匿ってもらえませんか?」
「ちょっと待ってくれ。俺は一応ここに隔離されてる身だぞ? 一緒にいるとマズイって」
「いえ、むしろここにしか安全がない。出れば領主殿の癇癪を受けて刎頚にされてしまいます。今や団長殿の命は猊下殿が握っとるのですよ。だから、どうか」
グレンは娘を思いやる父親のごとく、深く頭を下げてくる。しかもそれは一向に戻らない。風見が頷くまでこうしているつもりなのだろう。
「でも皆は、ユーリスが持っている兵隊って扱いじゃないのか?」
「いえ、皇太子殿に提供されている間は、あの方が主というだけですな。領主殿が約束したのは優秀な兵であって個人ではない。もし能力に疑問があるのなら入れ替えられるのは当然のことでしょう」
「もし俺に何かがあったらリズも道連れってことか?」
「そうなります。それに猊下付きを命じられている以上、ワシたちもどうなることやら」
リズだけでなくその他の命まで自分にかかっているなんて予想外の重荷だ。しかし断れるわけがない。「わかった」と深く頷くと、グレンは安堵した様子で下がる。
ぱたんとドアが閉まり、風見は振り返った。リズは手持ち無沙汰そうに立っている。
「シンゴ。なあ、私は何をすればいい?」
「何って言われてもな。俺もやることがなくて困ってたところなんだ。グール化の経過がわかるまで十日間は適当に過ごすしかないな。暇潰しならとりあえず空でも見ていたらどうだ? 屋上からの景色はいいみたいだぞ」
「……そうか、そう言うならそうする。用があったら呼べばいい」
「あ、おい」
気のせいかもしれないが、彼女はわずかに残念そうな顔をしていた。彼女は覇気のないままふらふらと歩き、階段へと消える。怪我の具合を聞きそびれてしまった。
思わず伸ばした手が空を切ったが、まあいいかと放っておくことにした。歩ける元気があるならひとまず心配ないだろう。
リズは奔放なので、自由にさせておくのが一番。そう思い、扉の向こうにいる門番に声をかけた。
「なあ、そこに誰かいるんだろ。ちょっと話を聞いてくれないか?」
中央塔の三階は、二階への階段前に金属製の分厚い扉があり、上部には物見用の格子がついている。そこからドア前で警備している者の後頭部が見えていた。
「お前の話なんか聞くやつはいないっ!」
「その声は……」
しゃーっ! と猫が威嚇をするような声だ。それだけで誰かわかってしまった。
「クイナ……。その、なんて言うかだな――」
「知らないっ。何も聞きたくない!」
クイナが慕っていたノーラを死なせてしまった。そのことについて何かしらの言葉を伝えようとしたのだが、途中で拒絶されてしまった。
「これからもずぅっと大っ嫌い! わたしはそういう優しいフリした顔なんて見たくないっ……! そういう顔をしたやつは嫌いだ!」
「……厳しいな」
感情そのままの言葉だからこそ、驚くほど鋭利に胸に刺さる。
クイナの言葉は真実かもしれない。彼女に慰めの言葉をかけたいと思ったが、それは遠回しな自己弁護になってしまいそうだ。
「このチビスケはまーたやんちゃにして。クイナは優先的にここを割り振られてっけど、担当したいヤツはいっぱいなんだぜ? こんな態度をとるくらいなら今度から辞退しとけ」
格子窓から見えていたもう一人が動く。この声からするに、ノーラの墓参りをする前に話したライのようだ。
彼はクイナの目線に合わせて屈み、彼女に厳しめな言葉をかけようとしていた。
「そ、そんなこと言われたってしょうがないもん……。副団長が、ここに行けって……」
「あの副団長のことだから、猊下付きは領主の目が届きそうな場所には割り振られないって、気ぃ利かせてくれてんだろ? そういって逃げられる先があること自体、ありがたいことじゃないかよ」
「私はそんなの頼んでなんかない! 仕事だからこうなってるだけだもん。ノーラだって……ノーラはこいつがいなければ死ななかった!」
半ば叫ぶような声と一緒に地団駄が聞こえた。腕を振って抗議しているのだろう、ガチャガチャと装備が揺れる音まで聞こえる。
胸を締め付ける声であったが、ライの返答は冷静そのものだった。
「んじゃ、誰のせいでもないわな。全部含めてオレたちに命じられた仕事だ。オレたちの責務だ。今の態度は旦那に謝っとけ。言わせてくれる旦那の優しさに甘えんな」
「うぅっ――。ちが、う。やさしくなんてないっ! だって、だって、それじゃあノーラは……! なんで、ノーラだけっ……」
「……クイナの言うとおりだ。俺には足りてない。そんな風に言われる資格はないよ」
「うるさい。お前がいなくなればよかったんだっ!」
「あだっ!?」
クイナが振り絞るように叫ぶと、格子の向こうから何かが飛んできた。額に当たって転がったもの。それは弓の弦を引くために使う、革の指かけだった。
彼女が後生大事に持っている弓の道具。誰の物だったのかは明白だ。
「だからこのチビスケ! お前、八つ当たりは――」
「知らない知らない知ったこっちゃないっ!」
十三歳くらいの年頃では仕方ないが、相変わらずクイナは感情が振りきれやすいらしい。ライの声を無理やり遮ると、どんと突き飛ばし、下の階へと走っていった。
しかし親しい仲間の死に直面したなら、これが年相応の反応だろう。他の隷属騎士だってこうしたい気持ちを押し殺しているに違いない。風見は何も言えなかった。
場が静かになってからライは口を開く。
「旦那、チビが申し訳ない」
やれやれと肩を竦め、ため息をつく。そんなライには首を振り、気にしていないと伝えた。
「んー。まあ、なんだ。アイツ、ノーラと仲良かったから」
「……そうだったのか」
ノーラのことだから、クイナとは姉と妹のように接していたのだろう。いじけるクイナの頭をがしがしと撫でる姿が目に浮かぶ。隷属騎士のような環境では数少ない救いだったはずだ。
事実はどうあれ、風見はそんなノーラを殺した原因の一つである。それを思うと胸がくっと締まって痛んだ。
「それなら恨まれて当然だよな。なおさら謝られる必要なんてない」
「おいおい、それは違うぜ。ノーラが死んだことに旦那の責任はない。俺や副団長、団長だって生き残ってる。あのとき、生き残るチャンスは平等にあったはずなんだ。それを掴み取れなかったアイツが悪い。自分の命以上のものを守れと言われたのはオレたちで、旦那じゃねえよ。少なくとも理不尽はあそこにゃなかった」
「それでも――」
「それでも、だぜ? それがオレたちで、これが旦那だ。ノーラが死んだ今でも精一杯やってくれてんのはわかってる。これでもう十分だ。甘え癖がついちまうよ」
そう言い、彼はおどけて笑った。
「アイツはしばらく泣いたら、ぐずって帰ってくる。多分、この会話も聞こえるくらいのところにいて、ようやく静かになって考えているくらいだろうから心配いらねえよ。物語の聖人君子じゃあるまいし、気にしすぎだって」
「いや、このくらい気にするのは普通じゃないか」
「ないない。人を気にかける余裕があるヤツなんていないし、他人に尽くす義理もねえよ。それが普通だなんてどんな世界なんだかなぁ。旦那の性格はそういうとこにいたから?」
「性格はいろいろだ。こっちにだってリズみたいなのもいるしクロエみたいなのもいる。性格なんて違うもんだろ」
「……」
千差万別と言ってみたら急に返答がなくなった。
しかも彼の雰囲気が少しばかり変わったことに風見は気づく。ライにはなにかしら引っかかる部分があったようだ。
「リズ団長はどうだかなぁ。なんか根本が違う気がすんだよ」
「それってどういうことだ?」
「ほら、オレらって奴隷だろ? 多かれ少なかれお涙ちょうだいの話ってのは持ってんだ。だから同類臭を感じるものだけど……リズ団長はどこか違う感じがするんだよ。それを言ったら副団長も違う気はするけど」
「上に立つ人はカリスマがあるらしいから、そういうことなんだろうさ」
うーん、と腕を組んで考え込んでいる彼に言ってみると、「そんなもんか」と納得したようだった。
それから風見は、とりあえず研究道具を持ってきてほしいと伝えた。
道具が一通り揃った頃にはもう陽が落ち、夕食も運ばれてきていた。しかしそんな時分になってもリズはまだ降りてこない。
「まったく、どんだけ空を見ているんだか」
しょうがないと息を吐くと、風見は彼女を迎えに行くことにした。
塔の外周に沿うように設置されている螺旋階段を抜けて、屋上に出る。遮蔽物がないので吹き抜ける風は強く、身に染みる寒さだ。うっと肩を抱いて縮こまる。
リズはそんな場所で、壁に背を預けて座っていた。
眠っているわけでもなく、抜け殻のように空を見上げている。意外だったが、彼女は仕事がないと時間を持て余すタイプなのかもしれない。
しかしこんな吹き抜けの場所だ。いつまでもこんな場所にいて寒くないのかと疑問に思ったが、肌を温めている様子はない。亜人は人と違って耐寒性があるのだろうか。
「ご飯が届いたんだけどどうする? 放っておくと冷めちゃうぞ」
「ん、一緒に食えという命令かな?」
「いやいや、そんな命令はしないから」
「そう。ならいい。別に空腹じゃないよ」
ちらと向けられた翡翠の瞳は興味を失ったらしくまた空に戻った。
空は茜色もとうに追いやられ、夜のとばりが覆っている。一番星が煌めき、そのあとに続く無数の星々。それに二つの衛星――月っぽいものが見える異世界の空だ。そういえばこちらに来てからまともに夜空を見上げたのは初めてだった。
これは新たな発見だ。
こんなに綺麗な星空は地球ではそうそうお目にかかれない。少なくとも日本にはなくなってしまった空だ。
「綺麗な空だな。星が数えきれない」
「うん。空くらいなら埋め尽くすさ」
「俺の世界じゃこうはいかなかったな。細かな塵のせいで星がこの半分以下しか見えないんだよ」
「ほう、それは良い世界だね」
「はい? ゴミで空が汚れてるんだぞ。それのどこが良いんだよ」
酸性雨だの大気汚染だのとマイナスでしかないはずなのだが、リズはふふっと鼻で笑った。こんなこともわからないのか? と小バカにした顔が少々腹立つ。
「柄でもないことだけどね、きっと人があまり死なない世界なんだと思うよ」
「それって……」
「だから良い世界だと思う。少なくとも私はそう感じた。そっちなら星にならずに済むのだろうね」
死んだ命は天に昇る。そして、お星さまとなる。
小さい頃、聞いた覚えがある言葉だ。それはこちらでも言われるものだったらしい。しみじみと語るリズの目に映った満天の星空には、綺麗以外の意味があることに風見はようやく気付いた。
もしかしたら彼女は、ここで誰かに黙祷を捧げていたのかもしれない。
だがまだ、平和に染まった目でしかこの世界を見られない彼には、リズの心が見通せなかった。惜しいことに、わかってやれなかった。
気まぐれで、自由奔放で、物騒。そんな印象で彼女を固めてしまうのは早計なのかもしれない。
「……そうだな。多分昔の人が努力して、努力して、星を隠した世界だ。俺がいたところはこっちよりずっと人死にが少なかったよ」
「そうか。なら、その世界のシンゴが、ここで何をするのか見ものだね」
「少なくとも、そこら辺の勇者や英雄よりは人を救ってみせるさ」
「ははっ、あの程度の力しかないのに?」
「できる」
くつくつとリズはけなして笑うのだが、風見は真面目な顔で返した。
視線の圧力に声はすぐにやみ、押し込められる。代わりに興味の瞳が向けられた。
「できるさ。勇者も英雄も、暴力で何かを解決するしかない連中だろ? だったら俺はもっと凄いぞ。生かすことも殺すことも、絶対にそいつらを越える自信がある」
「面白いね。言うじゃないか、シンゴ」
その淀みない声にリズは何かを嗅ぎ取ったらしい。普段は真面目にやれと言っても背に力が入らない彼がこんな物言いをすることに興味を持ったようだ。
「もういろいろと重すぎるものをもらっちゃったからな。それに応えられるくらいには胸を張るし、成果だってあげてみせる。ハドリア教はそうしろって教えるもんなんだろ?」
「残念ながら私は無宗教者だよ。よくわからない」
リズは肩を竦める。いつもとは違って控えめな受け答えだった。
「うー。それにしても寒いな、ここ。俺は先に下りてるから気が向いたら来いよ?」
「気が向いたら、ね」
ふっと微笑むリズ。
今までに見ない彼女の透き通った表情に風見は一瞬ドキリとしたが、リズは気にもしないでまたぼうっと空を見上げ始めた。
もし彼女があんな表情を自然に見せられる子だったら惚れていたかもしれない。風見はしてやられた感を味わいながら珍しく気持ちを持て余し、逃げるように階段を下りるのだった。
その後、風見は暗くなっても何とか目を凝らして机で作業を続けていたが、疲れがピークに達してうたた寝をしてしまった。
ふと目を覚ましてみると、部屋はすでに真っ暗である。木製ブラインドの窓から注ぐ月の光が唯一の明かりだった。
「んー……、どのくらい寝てたんだ?」
腕時計を見るに、どうやら三時間ほど寝ていたらしい。
そういえばグール騒ぎで連日働き詰めであったし、昼にはヒュドラ退治もしたのでかなり疲れがたまっていたのかもしれない。二十代前半の頃はもっと元気だったんだけどなぁ、と微妙に歳を感じつつも彼は体を起こした。机にうつぶせて寝たために節々が痛い。
「しかしまた冷えたな……」
身にしみる冷気に風見は身震いし、毛布でもかけていればと後悔した。
寒いしこのままベッドに入って寝てしまおう――そう考えたとき、そういえばリズはどうしたのかが気になった。
「あれ、ご飯にも手をつけてないのか」
もう冷えきったスープはともかく、パンや酒も減ってない。
どこにいるかと三階だけでなく四階も見てみたが彼女の姿はなかった。
となると残るは屋上だけである。室内でさえこれほど寒いのに、未だにそんなところにいるなんて半ば信じられないのだが、心配もあって確かめにいく。
「おい、リズー?」
予想に違わず彼女はそこにいた。先ほどと変わらない様子で壁に背を預けたまま目を閉じ、寝ているように見える。
しかし、外気は吐いた息が白くなるほど冷たいのだ。そんな場所で寝ていたら凍えてしまう。いくら亜人でもこれはまずいのではなかろうかと駆け寄ってみると、その顔からは血の気が引いており、唇も真っ青だった。
案の定――なんて思っている場合ではない。
「リズ!? どうしてこうなるまで外にいたんだよ。おいっ、目を覚ませ!」
「……」
大きく揺さぶってみても変化がない。
もしかしたらドニにやられた傷のせいで意識を失ったのでは?
そう考えていると、彼女はかなり気怠そうに目を開け、またとろんと意識を失う反応を見せた。脳出血などで気を失ったのならこうはならないだろう。
試しに内ももを強くつねってみると、びくっと反応を返してくる。きっと軽度から中度の低体温症なのだろう。こういうときはとにかく温めればいい。欲を言うなら、できるだけ体の中心から温まるように脇や内股など静脈の大血管からゆっくりと温めるのが望ましい。
何故ゆっくりなのか、これには理由がある。
急に全身を温めると確かに血管が拡張して血液の循環がよくなるが、手足の先にあった冷たい血が一気に体の中心に流れ込み芯が冷えてしまって非常にマズイからだ。
「くそっ、このバカ! あとで説明してもらうからな!」
彼女の自己管理のずさんさに、風見は呆れた。これは、こってりと叱ってやるべきである。
苛立ちを呑み込むと、リズを背負いすぐに階段を下りた。あとは外の門番あたりに彼女を預け、毛布やお湯で温めてもらえば――
「しまった。こいつは外に出すなって言われてるし、俺が触っちゃったじゃないかよ……」
今さらだがグール化対策の面倒さに頭を抱えたくなる。外に任せるのは無理だった。とりあえず門番をしている隷属騎士に急いで湯を持ってきてくれるように頼み、彼女をベッドに寝かせると暖炉に向かった。
置いてあるのは大小のまきとおがくず、それに白っぽい石と金属塊だ。要するにこれで火打ちをしなければならないらしい。
「あーもう、ライターとかバーナーがあればいいのに……!」
くそっと何度目かわからない悪態をつき、石と金属を手に取った。
滑るように打ち合わせておがくずに火花を落とそうとするが、角度が良くないのか上手くいかない。焦りのあまり、一度ミスして金属で自分の手を打ってしまったくらいだ。
暖炉に火をくべられたのはそれからは十分ほどしてからである。
「リズ、具合はどうなんだ?」
頬を叩くと今までより反応が返ってきた。これならもう放っておいても大丈夫だろう。
そう判断すると気苦労から、疲れがどっと出てきた。
「……目を覚ましたら、こってり絞ってやるからな」
彼はぶつぶつとぼやきながらベッドの縁に寄りかかり、やがて睡魔にやられて目をつむってしまうのだった。
†
「う、んんぅ……?」
リズはぱちりと目を開ける。
暗い部屋を弱く照らす光があると思ったら、燻っているおき火だった。
「部屋、か」
どうやら屋上ではないらしい。そう判断すると同時に、リズは自分の手が誰かに握られているのを感じた。横を見ればベッドにもたれる風見がいた。寝入っている彼の顔には隠しきれない疲労が浮かんでいる。
確か自分は屋上にいたはず。だが今の自分は薄着で、傍には湯たんぽも落ちていて。
記憶を辿るとすぐにこの状況を理解できた。
まるで重病人の看病みたいにぎゅっと握られていた手。少し引いてみると離すまいという力が込められてきた。ぷいぷいと振ってみても離れない手に、リズはやれやれと口元を緩める。
「……なんだ、お前は私が必要なのかな?」
小さな問いかけ。
もちろん、寝ている彼から返答があるわけもなかった。
彼はリズが見ている限りいつもそうだった。家畜扱いの動物も魔物も、害獣のスライムも、そしてスラムの人間や隷属騎士だってしっかりと見つめ、一生懸命に触れ合おうとする。そんな扱いを一度だって受けたことのない輩にも分け隔てない。全くもって困った男なのだ。
「おい、シンゴ。おい。おーい?」
べちべちと強めに叩くと、彼はすぐに目を覚ます。
応援ありがとうございます!
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