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第19章 逃げなくてもいい世界
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王都の朝というのは、驚くほど静かなんです。
あんなに喧騒に包まれていた街が、夜明けにはまるで息をひそめたように穏やかになる。
――まるで、嵐を抜けたあとの海みたい。
開け放した窓から吹き抜ける風が、薄いカーテンを揺らします。
春の風は、甘くて、やさしくて、どこか懐かしい匂いがする気がしました。
わたし――リディア・ノワールは、その風を胸いっぱいに吸いこんでから、ふと机に視線を落としました。
広げたノートの上には、手書きのメモ。
「異能研究局:感情共鳴実験の倫理指針」
はい……。つい癖で真面目な報告書を書いちゃうんですけど。
どうやら“王立学院講師”という仕事を任されています。
「あの、あくまで“臨時”って言ったのに、すっかり正式採用扱いになってるじゃないですか……」
あの日の裁定から三か月。
国はゆっくりと変わっていきました。
異能を力としてでなく、「感情の形のひとつ」として考える人が増え、
昔は閉ざされていた研究や教育の門が少しずつ開かれていく。
そして、わたしも。
この国の片隅で、ようやく「誰にも利用されない場所」で生きているのです。
「……ふふ、なんて贅沢な悩み」
あんなに“自由になりたい”と願っていたのに、いざ静かな日々が訪れると、不安になるものですね。
“わたしは本当に、愛されるに値するのか”という呪いがまだ奥の方に眠っている。
カーテンを押し分けると、庭のアーチを通って歩いてくる影が見えました。
(あ、噂をすれば)
「ノワール講師、朝っぱらから物思いとは、らしくないな」
やってきたのは、わたしの恋人……いえ、婚約者、エリオット・ルシアン様です。
公爵家の跡取り、公務も忙しいはずなのに、なぜか毎朝こうして顔を出してくれるんです。
「おはようございます、ルシアン公爵補佐殿」
「やめてよ、“補佐殿”なんて呼ばないで。距離ができちゃう」
「じゃあ、“軽薄貴公子”ならどうですか?」
「うん、それも君限定ならちょっと嬉しい」
この人は、本当に朝から平常運転です。
部屋に入るなりカップを取り、わたしの隣に腰を下ろしました。
――距離を取るという概念を理解していない人です。
「どう? 新生活、慣れた?」
「まあ、なんとか。“講義中に寝る学生”を異能で色判定するのは禁止されました」
「そりゃそうだ。それをやったら一発退職だね」
「でも、学生たちの感情の色が本当に綺麗なんです。
恋の赤とか、期待の金とか、悩みの灰色とか。
見てると、昔のわたしを少し思い出してしまって」
「昔?」
「“愛されない自分”を探してばかりだった頃の、わたしです」
返すと、エリオット様の笑みが一瞬だけ小さく沈んだ。
「……君は、今も時々そんな顔をする」
「どんな顔です?」
「“信じる練習”をしている顔」
その言葉に、どきりと心臓が鳴りました。
「君は自由になって初めて、“逃げ場所がない”ことに気づいたんだね」
「え……?」
「人に愛されるってことは、隠れる場所を失うことでもある。
俺もそう。君に出会ってから、もう逃げられない」
そう言って、彼はわたしの手を取った。
いつもみたいに軽く仕掛けてきたのかと思ったら、違って。
その手は、すごく真剣で、静かに熱い。
「――リディア。君の“普通の生き方”を、俺にも共有させて?」
「共有って……仕事を手伝うんですか?」
「違う。道を並んで歩くってこと。
誰にも所有されない君を、“自分の足で一緒に歩く相手”として選んでいたい」
「……ずるい。そんな言葉を仕事前に言わないでください」
「じゃあ、出かける前のエネルギーにして?」
「朝から糖分過多ですよ」
と呆れたふうに返しながらも、手を振りほどけない。
彼の指がわたしの髪を撫でる感触が、こんなにも安心するなんて。
あの頃は“触れられること=脅威”だったのに。
今は、“触れられること=愛”そのもの。
「……エリオット様、わたし、本当にこの世界にいていいのかなって思う時があります」
「どういう意味?」
「戦う理由も、守られる理由も、ぜんぶなくなった気がして」
「それは、“ようやく君が生きはじめた”って意味だよ」
彼が少し真顔で笑いました。
「誰かのために泣くのは立派だけど、自分のために笑える方がずっと難しい。
君は、その練習をしてる最中なんだ」
「……練習、ですか」
「焦らなくていい。
人は誰でも、愛を“与えた側”から、“与えられる側”を覚えるんだ」
その言葉は、まるで光みたいでした。
穏やかで当たり前なのに、涙が出そうになるほど温かい。
「……ずるい」
「二回目だね」
「いえ、一生そう言い続けると思います」
二人で笑いながら、窓の外を見上げました。
校舎の中庭には、生徒たちが集まっていました。
魔術理論や心象力を測定する装置の前で、皆それぞれに笑っている。
あの笑顔が色になったら――きっと虹になるんだろうな。
「リディア?」
「はい」
「今、何色に見える?」
聞かれて、思わず笑ってしまいました。
「全部です」
「え?」
「あなたの隣にいる時は、世界が全部見える気がするんです。
どんな過去も、どんな色も、どんな痛みも。
全部“ここ”に収まってる気がして」
エリオット様は、一瞬だけ息を呑み、そして微笑みました。
「君は、やっぱり俺の人生そのものだね」
「その台詞、最初の頃に聞いた気がします」
「うん。あの時の俺は戦略で言ったけど、今は本音」
「戦略って自分で言っちゃうんですか」
「だからこそ信用できるでしょ?」
「……はい、信用します」
不思議と、照れや否定ではなく、ただ自然にその言葉を受け取れました。
風の音が強くなる。
広場の鐘が朝を知らせ、街の喧騒が少しずつ戻ってくる。
エリオット様が立ち上がり、わたしの髪を一度だけ撫でました。
「いってらっしゃい」
「言わせません」
「え?」
「今日は、あなたが一緒に講義に参加する番です」
「……なんの講義?」
「“恋愛心理と政治学”。実技つきですよ」
「え、実技!?」
「ええ。――愛の証明について、語ってもらいます」
「君それ、俺を倒す気だね?」
「最初からあなたが手本になる講師ですもの」
くすくす笑いながら、扉を開けて外へ向かう。
思えば、こうして“誰かと日常を歩ける”ことが、いちばんの奇跡なんだと思う。
自由って、孤独の裏返しじゃない。
誰かと笑い合える“選択の連続”なんだ。
「――ねぇ、リディア」
階段を降りながら、背後から彼が囁く。
「なんですか」
「今日くらい、君の言葉で甘やかして?」
「…………仕方ないですね」
振り返って、少しだけ微笑みました。
「“光の象徴”さん、だいすきです」
エリオット様が目を丸くしたあと、顔を覆って笑いました。
「……今、それ反則だよ。授業どころじゃなくなりそう」
「それも実技のうちです」
二人で笑い合いながら、王立学院の鐘の音を聴いた。
どこかで風が吹き、ひらりと空に舞う桜の花びら。
その色は、金でも紅でもなく――あの人と出会った時の春の色でした。
(逃げなくていい。
愛されていい。
生きていていい――)
そんな当たり前を、ようやく手に入れた世界。
あんなに喧騒に包まれていた街が、夜明けにはまるで息をひそめたように穏やかになる。
――まるで、嵐を抜けたあとの海みたい。
開け放した窓から吹き抜ける風が、薄いカーテンを揺らします。
春の風は、甘くて、やさしくて、どこか懐かしい匂いがする気がしました。
わたし――リディア・ノワールは、その風を胸いっぱいに吸いこんでから、ふと机に視線を落としました。
広げたノートの上には、手書きのメモ。
「異能研究局:感情共鳴実験の倫理指針」
はい……。つい癖で真面目な報告書を書いちゃうんですけど。
どうやら“王立学院講師”という仕事を任されています。
「あの、あくまで“臨時”って言ったのに、すっかり正式採用扱いになってるじゃないですか……」
あの日の裁定から三か月。
国はゆっくりと変わっていきました。
異能を力としてでなく、「感情の形のひとつ」として考える人が増え、
昔は閉ざされていた研究や教育の門が少しずつ開かれていく。
そして、わたしも。
この国の片隅で、ようやく「誰にも利用されない場所」で生きているのです。
「……ふふ、なんて贅沢な悩み」
あんなに“自由になりたい”と願っていたのに、いざ静かな日々が訪れると、不安になるものですね。
“わたしは本当に、愛されるに値するのか”という呪いがまだ奥の方に眠っている。
カーテンを押し分けると、庭のアーチを通って歩いてくる影が見えました。
(あ、噂をすれば)
「ノワール講師、朝っぱらから物思いとは、らしくないな」
やってきたのは、わたしの恋人……いえ、婚約者、エリオット・ルシアン様です。
公爵家の跡取り、公務も忙しいはずなのに、なぜか毎朝こうして顔を出してくれるんです。
「おはようございます、ルシアン公爵補佐殿」
「やめてよ、“補佐殿”なんて呼ばないで。距離ができちゃう」
「じゃあ、“軽薄貴公子”ならどうですか?」
「うん、それも君限定ならちょっと嬉しい」
この人は、本当に朝から平常運転です。
部屋に入るなりカップを取り、わたしの隣に腰を下ろしました。
――距離を取るという概念を理解していない人です。
「どう? 新生活、慣れた?」
「まあ、なんとか。“講義中に寝る学生”を異能で色判定するのは禁止されました」
「そりゃそうだ。それをやったら一発退職だね」
「でも、学生たちの感情の色が本当に綺麗なんです。
恋の赤とか、期待の金とか、悩みの灰色とか。
見てると、昔のわたしを少し思い出してしまって」
「昔?」
「“愛されない自分”を探してばかりだった頃の、わたしです」
返すと、エリオット様の笑みが一瞬だけ小さく沈んだ。
「……君は、今も時々そんな顔をする」
「どんな顔です?」
「“信じる練習”をしている顔」
その言葉に、どきりと心臓が鳴りました。
「君は自由になって初めて、“逃げ場所がない”ことに気づいたんだね」
「え……?」
「人に愛されるってことは、隠れる場所を失うことでもある。
俺もそう。君に出会ってから、もう逃げられない」
そう言って、彼はわたしの手を取った。
いつもみたいに軽く仕掛けてきたのかと思ったら、違って。
その手は、すごく真剣で、静かに熱い。
「――リディア。君の“普通の生き方”を、俺にも共有させて?」
「共有って……仕事を手伝うんですか?」
「違う。道を並んで歩くってこと。
誰にも所有されない君を、“自分の足で一緒に歩く相手”として選んでいたい」
「……ずるい。そんな言葉を仕事前に言わないでください」
「じゃあ、出かける前のエネルギーにして?」
「朝から糖分過多ですよ」
と呆れたふうに返しながらも、手を振りほどけない。
彼の指がわたしの髪を撫でる感触が、こんなにも安心するなんて。
あの頃は“触れられること=脅威”だったのに。
今は、“触れられること=愛”そのもの。
「……エリオット様、わたし、本当にこの世界にいていいのかなって思う時があります」
「どういう意味?」
「戦う理由も、守られる理由も、ぜんぶなくなった気がして」
「それは、“ようやく君が生きはじめた”って意味だよ」
彼が少し真顔で笑いました。
「誰かのために泣くのは立派だけど、自分のために笑える方がずっと難しい。
君は、その練習をしてる最中なんだ」
「……練習、ですか」
「焦らなくていい。
人は誰でも、愛を“与えた側”から、“与えられる側”を覚えるんだ」
その言葉は、まるで光みたいでした。
穏やかで当たり前なのに、涙が出そうになるほど温かい。
「……ずるい」
「二回目だね」
「いえ、一生そう言い続けると思います」
二人で笑いながら、窓の外を見上げました。
校舎の中庭には、生徒たちが集まっていました。
魔術理論や心象力を測定する装置の前で、皆それぞれに笑っている。
あの笑顔が色になったら――きっと虹になるんだろうな。
「リディア?」
「はい」
「今、何色に見える?」
聞かれて、思わず笑ってしまいました。
「全部です」
「え?」
「あなたの隣にいる時は、世界が全部見える気がするんです。
どんな過去も、どんな色も、どんな痛みも。
全部“ここ”に収まってる気がして」
エリオット様は、一瞬だけ息を呑み、そして微笑みました。
「君は、やっぱり俺の人生そのものだね」
「その台詞、最初の頃に聞いた気がします」
「うん。あの時の俺は戦略で言ったけど、今は本音」
「戦略って自分で言っちゃうんですか」
「だからこそ信用できるでしょ?」
「……はい、信用します」
不思議と、照れや否定ではなく、ただ自然にその言葉を受け取れました。
風の音が強くなる。
広場の鐘が朝を知らせ、街の喧騒が少しずつ戻ってくる。
エリオット様が立ち上がり、わたしの髪を一度だけ撫でました。
「いってらっしゃい」
「言わせません」
「え?」
「今日は、あなたが一緒に講義に参加する番です」
「……なんの講義?」
「“恋愛心理と政治学”。実技つきですよ」
「え、実技!?」
「ええ。――愛の証明について、語ってもらいます」
「君それ、俺を倒す気だね?」
「最初からあなたが手本になる講師ですもの」
くすくす笑いながら、扉を開けて外へ向かう。
思えば、こうして“誰かと日常を歩ける”ことが、いちばんの奇跡なんだと思う。
自由って、孤独の裏返しじゃない。
誰かと笑い合える“選択の連続”なんだ。
「――ねぇ、リディア」
階段を降りながら、背後から彼が囁く。
「なんですか」
「今日くらい、君の言葉で甘やかして?」
「…………仕方ないですね」
振り返って、少しだけ微笑みました。
「“光の象徴”さん、だいすきです」
エリオット様が目を丸くしたあと、顔を覆って笑いました。
「……今、それ反則だよ。授業どころじゃなくなりそう」
「それも実技のうちです」
二人で笑い合いながら、王立学院の鐘の音を聴いた。
どこかで風が吹き、ひらりと空に舞う桜の花びら。
その色は、金でも紅でもなく――あの人と出会った時の春の色でした。
(逃げなくていい。
愛されていい。
生きていていい――)
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