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第二章 セドリックとの出会い
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神殿の図書館は、王都の喧騒から隔絶された、静謐な場所です。高いアーチ状の天井に届くほどそびえ立つ本棚が、まるで森の樹々のように並んでいます。
窓から差し込む光は、床に幾何学模様を描き、香の煙がほのかに漂います。けれどその日、わたしミモレの心臓は、そんな静けさとは裏腹に、図書館らしからぬ大音量で鳴り響いていました。
――だって、あの人が、わたしに声をかけてきたのですから。
「大丈夫ですか? 怪我はしていませんか」
差し出された本に視線を落とすと、しなやかで長い指が、それをしっかりと挟んでいました。その指の持ち主は、黒い髪をわずかに揺らす青年です。
「ひゃっ……! あ、ありがとうございます!」
わたしが慌てて返事をすると、彼はふっと唇の端を緩めました。
「別に慌てなくても大丈夫ですよ。……怪我はありませんね?」
穏やかな眼差し。低く、やさしい声。それはまるで、直接わたしの胸の奥に響いてくるようでした。
(な、なんですかこの人……! 顔が整いすぎていて、直視できません!)
思わず自分の頬を押さえるわたしを見て、彼は少し首を傾げました。
「……図書館で初めてお見かけしますね。ミモレさん、というのですか?」
「は、はい。えっと、巫女候補の……その……」
「ああ、なるほど。では君はこの王国を支える大切な候補なのですね」
「えっ!? いえいえ! そんな立派なものじゃなくて……補佐エンドで十分ですから!」
「……補佐エンド?」
しまった。思わず、転生者らしい言葉を口にしてしまいました。青年は不思議そうに片眉を上げましたが、それ以上は追及せず、「不思議な言葉ですね」とだけ笑いました。
その笑った顔が、あまりに柔らかくて――わたしは知ってしまったのです。
この人、笑顔がずるいです。
彼はセドリックと名乗りました。
「僕はセドリック。神殿の書庫で精霊魔術の研究を――まるで隠遁者みたいにですけどね」
「セドリック……様?」
「様はいりません。セドリックで十分です」
「で、でも……」
思わず言い返すと、彼が不意に身をかがめ、わたしの目を覗き込んできました。
「……じゃあ、僕もミモレさん、じゃなくてミモレ、と呼びますよ」
「えええ!? そ、それは困りますっ」
「困りますか?」
その茶目っ気たっぷりの笑顔に、わたしは顔を覆いたくなりました。
(この人、冗談を言ったかと思えば急に真剣な眼差しになるし……心臓に悪すぎます!)
けれど、セドリックは本当に精霊魔術に詳しくて、古代文字の解説も、呪文の構成も、とてもわかりやすく教えてくださいました。
わたしは彼の言葉に食い入るように聞き入り、気づけば正座してノートを取っていたほどです。
「ここ、結界文字の接続を一本飛ばしてますよ」
「ひゃっ……す、すみません!」
「大丈夫。これだけ覚えるのは大変ですから。君は本当に真面目なんですね」
そんな言葉だけで胸がいっぱいになる自分に愕然としました。
(違う違う! これは恋じゃありません。勉強が楽しいだけ! きっとそうですっ)
でも、わざとらしく重なりそうな指。ページをめくるときに、ちらりと触れるか触れないかの距離。
――心臓が早鐘を打つ音をごまかすために、わたしは無理やり咳払いを一つ。
「こ、コホン! ええと、この文献には……」
そんなわたしを、セドリックは面白そうに眺めていました。わたしの心は、全然落ち着いてはくれませんでした。
ある日のこと。わたしが図書館を出たところで、明らかに待ち伏せしていた風情の人影に声をかけられました。
「まあ。地味子のミモレさんではありませんか」
カナリア公爵令嬢。陽光を閉じ込めたような黄金の髪を輝かせ、華麗なドレスをまとった彼女は、いつも余裕の笑みを浮かべています。
「な、なんでわたしを……!」
「最近、神殿で妙に浮かれていると噂を耳にしましたわ。まさか、ご学友でも増えました?」
「べ、別に浮かれてなんか……」
「ふふ……顔、赤いですわよ?」
くっ……! どうしてこの人は、こんなに鋭いのでしょう。
しかも、最悪のタイミングで、後ろから声が聞こえました。
「やあ、ミモレ。今日も勉強を続けますか?」
セドリックでした。
カナリアさまは目を細め、唇を吊り上げました。
「まあ……セドリック様。あの方の補佐役候補が、こんなにもご熱心に指導を受けているとは。ご苦労なことですわ」
「いいえ。僕が助けられてばかりですよ。ミモレはとても優秀ですから」
「っ!」
その言葉に、わたしの顔は一気に熱くなりました。
(やめてください! わたしの心臓が破裂します!)
一方、カナリアさまは「ほほぅ」という表情で目を輝かせ、そのまま去っていきました。絶対に変な噂の種を蒔いていったに違いありません。怖すぎます。
その日の勉強の終わり、わたしはすっかり意気消沈していました。
「はぁ……」
思わずため息をつくと、セドリックに覗き込まれました。
「どうしました? ため息なんて似合いませんよ」
「……わたし、カナリアさまにからかわれてばかりで。人と比べられるのは慣れてますけど、やっぱりちょっと……」
言葉を詰まらせたわたしに、セドリックはそっと、わたしの髪を撫でました。
「君は君です。誰かと比べることはありません」
「……セドリック様」
優しく微笑んだ彼の顔を見て、思わず涙が浮かびました。彼がそっと、指の甲でわたしの頬を拭ってくれます。
「ほら、泣かないで。ミモレは努力してます。それだけで十分ですよ」
そのあまりの優しさに、わたしは堪らず、唇を震わせて――。
「ありがとう、ございます……」
そう呟くことしかできませんでした。
窓から差し込む光は、床に幾何学模様を描き、香の煙がほのかに漂います。けれどその日、わたしミモレの心臓は、そんな静けさとは裏腹に、図書館らしからぬ大音量で鳴り響いていました。
――だって、あの人が、わたしに声をかけてきたのですから。
「大丈夫ですか? 怪我はしていませんか」
差し出された本に視線を落とすと、しなやかで長い指が、それをしっかりと挟んでいました。その指の持ち主は、黒い髪をわずかに揺らす青年です。
「ひゃっ……! あ、ありがとうございます!」
わたしが慌てて返事をすると、彼はふっと唇の端を緩めました。
「別に慌てなくても大丈夫ですよ。……怪我はありませんね?」
穏やかな眼差し。低く、やさしい声。それはまるで、直接わたしの胸の奥に響いてくるようでした。
(な、なんですかこの人……! 顔が整いすぎていて、直視できません!)
思わず自分の頬を押さえるわたしを見て、彼は少し首を傾げました。
「……図書館で初めてお見かけしますね。ミモレさん、というのですか?」
「は、はい。えっと、巫女候補の……その……」
「ああ、なるほど。では君はこの王国を支える大切な候補なのですね」
「えっ!? いえいえ! そんな立派なものじゃなくて……補佐エンドで十分ですから!」
「……補佐エンド?」
しまった。思わず、転生者らしい言葉を口にしてしまいました。青年は不思議そうに片眉を上げましたが、それ以上は追及せず、「不思議な言葉ですね」とだけ笑いました。
その笑った顔が、あまりに柔らかくて――わたしは知ってしまったのです。
この人、笑顔がずるいです。
彼はセドリックと名乗りました。
「僕はセドリック。神殿の書庫で精霊魔術の研究を――まるで隠遁者みたいにですけどね」
「セドリック……様?」
「様はいりません。セドリックで十分です」
「で、でも……」
思わず言い返すと、彼が不意に身をかがめ、わたしの目を覗き込んできました。
「……じゃあ、僕もミモレさん、じゃなくてミモレ、と呼びますよ」
「えええ!? そ、それは困りますっ」
「困りますか?」
その茶目っ気たっぷりの笑顔に、わたしは顔を覆いたくなりました。
(この人、冗談を言ったかと思えば急に真剣な眼差しになるし……心臓に悪すぎます!)
けれど、セドリックは本当に精霊魔術に詳しくて、古代文字の解説も、呪文の構成も、とてもわかりやすく教えてくださいました。
わたしは彼の言葉に食い入るように聞き入り、気づけば正座してノートを取っていたほどです。
「ここ、結界文字の接続を一本飛ばしてますよ」
「ひゃっ……す、すみません!」
「大丈夫。これだけ覚えるのは大変ですから。君は本当に真面目なんですね」
そんな言葉だけで胸がいっぱいになる自分に愕然としました。
(違う違う! これは恋じゃありません。勉強が楽しいだけ! きっとそうですっ)
でも、わざとらしく重なりそうな指。ページをめくるときに、ちらりと触れるか触れないかの距離。
――心臓が早鐘を打つ音をごまかすために、わたしは無理やり咳払いを一つ。
「こ、コホン! ええと、この文献には……」
そんなわたしを、セドリックは面白そうに眺めていました。わたしの心は、全然落ち着いてはくれませんでした。
ある日のこと。わたしが図書館を出たところで、明らかに待ち伏せしていた風情の人影に声をかけられました。
「まあ。地味子のミモレさんではありませんか」
カナリア公爵令嬢。陽光を閉じ込めたような黄金の髪を輝かせ、華麗なドレスをまとった彼女は、いつも余裕の笑みを浮かべています。
「な、なんでわたしを……!」
「最近、神殿で妙に浮かれていると噂を耳にしましたわ。まさか、ご学友でも増えました?」
「べ、別に浮かれてなんか……」
「ふふ……顔、赤いですわよ?」
くっ……! どうしてこの人は、こんなに鋭いのでしょう。
しかも、最悪のタイミングで、後ろから声が聞こえました。
「やあ、ミモレ。今日も勉強を続けますか?」
セドリックでした。
カナリアさまは目を細め、唇を吊り上げました。
「まあ……セドリック様。あの方の補佐役候補が、こんなにもご熱心に指導を受けているとは。ご苦労なことですわ」
「いいえ。僕が助けられてばかりですよ。ミモレはとても優秀ですから」
「っ!」
その言葉に、わたしの顔は一気に熱くなりました。
(やめてください! わたしの心臓が破裂します!)
一方、カナリアさまは「ほほぅ」という表情で目を輝かせ、そのまま去っていきました。絶対に変な噂の種を蒔いていったに違いありません。怖すぎます。
その日の勉強の終わり、わたしはすっかり意気消沈していました。
「はぁ……」
思わずため息をつくと、セドリックに覗き込まれました。
「どうしました? ため息なんて似合いませんよ」
「……わたし、カナリアさまにからかわれてばかりで。人と比べられるのは慣れてますけど、やっぱりちょっと……」
言葉を詰まらせたわたしに、セドリックはそっと、わたしの髪を撫でました。
「君は君です。誰かと比べることはありません」
「……セドリック様」
優しく微笑んだ彼の顔を見て、思わず涙が浮かびました。彼がそっと、指の甲でわたしの頬を拭ってくれます。
「ほら、泣かないで。ミモレは努力してます。それだけで十分ですよ」
そのあまりの優しさに、わたしは堪らず、唇を震わせて――。
「ありがとう、ございます……」
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